第111話 開城

 血溜まりは有斗がびっくりするほど広く赤かった。

 急いで人を呼び、アリアボネを休めるところまで担いで運ぶ。

 アリアボネは喀血かっけつを有斗に見られたのが、よほどショックだったのか、「すみません」とか「申し訳ない」とか「陛下に知られてしまった」とか「私の身体ではお役に立てない」とか、そういった繰言くりごとを運ばれている間も、うわ言のように何度も話していた。

 横に付き添う有斗は気が気でない。

 侍女に命じて関西の侍医を呼び、急ぎ診てもらう。

 同じ宮廷内にいるのに医者が来るのがやけに遅く感じられた。一刻を争う事態だというのに、と有斗はイライラする。

 やっと来た医者はアリアボネを診ると、労咳ろうがいですな、とわかりきっていることを言う。

「症状は!? 具合は!? また血を吐くのか!? 治す方法は!?」

 有斗は立て続けに質問を繰り出し、侍医を困らせた。

 しばらく安静にしているのが一番、とにかく養生なさることですと言い、薬を処方する。その医師の落ち着いた様子がようやく有斗の心を落ち着かせた。

 よかった。手遅れとかではないようだ。完全に打つ手がないわけではないのか。

「いつからこんな状態に・・・?」

 有斗はアエティウスなら何か知っているかもと思って問いかける。

「わかりません。南部に戻った頃は確かに喀血が酷く、よく血を吐いておりましたが、最近は収まっているものとばかり・・・」

 毎日アリアボネに会い、付き合いも長いのに、こんなことすら気付かぬ自分にアエティウスは猛烈に腹を立てた。

「最近、様子がおかしかったことには気付いていたのですが・・・」

 アエティウスはその時にもっと問い詰めておけばよかったと悔やんだ。

「僕のせいだ」

 有斗は下唇をかんでアリアボネに甘えすぎていたおのれを責めた。アリアボネに負担をかけ過ぎていたのだ。

 労咳ろうがいの彼女に、健康な人でも処理するのが難しいほどの仕事量を、有能だからといって背負わせてしまった。

 アリアボネが何も言わないことに甘えて、そうしてしまった。こんなことになるまで気付かないとは、僕はなんて馬鹿で無能な人間なんだろう・・・!

「陛下のせいではございませぬ」

 病室では上半身を起こしたアリアボネがにこやかに微笑んでいた。

「でも、僕がこの戦いに連れ出したから・・・」

「少し・・・この身体に無理をさせただけです・・・」

 アリアボネは病床から起き上がった。

「どうせ長くは持たぬ身。それにこの従軍は私自身が言い出したこと。それだけこの戦の成否は陛下の未来に関わる重要な局面でした。だけど陛下は見事西征を成功なされた。これで私の寿命が縮んだとしても、むしろ本望でございますよ」

 アリアボネはにこりと有斗に微笑みかけた。

「さぁ、やるべきことは山ほど積まれております。いつまでも病床にいるわけには参りません」

 立ち上がろうとするアリアボネを僕は慌てて両肩を掴んで押し留めた。

 細い。驚くほど細い。あまりにも細く華奢きゃしゃな肩だった。

「アリアボネ、今日は休もう。休まないと心配でしかたがないよ」

「まぁ、有難い思し召しですこと。このアリアボネ一生のほまれとなりましょう。大丈夫です。それに先程アエティウス殿もおっしゃっていたではありませんか、南部に戻った頃はよく喀血していたと」

 度々あることだから気にしないで欲しいとアリアボネは、あくまで特別なことではないかのように話す。

 ・・・でも、だとしたら有斗に隠していたことと辻褄つじつまがあわない。もしそれが何でもないことなら、隠したりはしないはずだ。

「長旅で疲れただけです。すぐに元に戻りますから、陛下にはどうか心配なきようお願いいたします」

 アリアボネは笑いながら立ち上がった。


 王女からの直々の降伏を勧める書簡をもらったバアルは、ついに鼓関を明け渡すことを決意した。

 将士たちからは降伏すべきでない、最後の一兵まで断固戦うべきとの声が上がったが、バアルは説得に回った。

「兵糧があと半年ももたないのだ」

 理を説いても兵士たちは感情論で納得してくれない。

「たとえ敵わずとも一戦し、関西の意地を関東に見せ付けるべきです!」

「諸侯も王師もいまや我らの味方ではない。後詰が期待できない篭城など愚の骨頂。それに肝心の王女殿下は既に敵の手で捕らえられているのだ。我々が迂闊うかつに動けば、お命に関わる」

 女王の名まで持ち出されては将士たちもそれ以上の語句は告げられない。最後にはしぶしぶ納得した。

 それでもできるだけのことはした。

 関東に接収されるのはしゃくなので、新品の武器や鎧、そして軍用金を搬出し、信頼できる者と共に他日を期して隠した。何の役にも立たないかもしれないが、もしバアルが期待する何かが起これば役に立つかもしれない。

 文章類も全て焼き捨てる。これで隠したこともわかるまい。

 兵糧も残してしまっても関東政府を利するだけなので、兵たち一人一人に分け与えた。降伏してからは給金も払われぬかもしれない。金のあるうちに給金も払っておいた。

 彼らはその措置に大いに感激した。彼らから感謝が捧げられるのをバアルはこそばゆげに受け入れていた。

 何も彼らの働きに感謝したからだとか、境遇に同情したから、バアルはそれらのことを行ったわけではないのだ。そこには大いなる打算がある。

 王師の兵で望む者には、後日関東が編成する王師の新軍団に採用するとの触れが出ている。

 おそらくここにいる王師の大半はそれに加わろうとして西京に集まることになろう。兵士以外に生きていく術を持たぬものばかりなのだ。

 もし、西京で何かが起これば、その予感はバアルには確信的なまでにあったが、彼らは大いにバアルの力になるだろう。


 そして引渡しの当日が訪れる。その日がバアルは少しだけ楽しみだった。

 自身に煮え湯を飲ませた関東の鹿沢城執事に会えるかもしれないと思ったのだ。

 噂によるとその者はかつては宮廷の要職にあり、今の王に反旗を翻した乱の首謀者の一人であり、それにも関わらず許され、この難局のときに鹿沢城の執事についたという不可解な経歴を持つ人物だという。

 鹿沢城を落とせなかったのは、兵糧を横流した者がいたせいで撤退しなければならなかったことが第一の原因であることは紛れもない事実だが、それでもバアルが攻城に打った手をことごとく跳ね返したのもそれもまた事実なのである。是非とも、どんな人物なのか顔を拝んでみたい。

 それに・・・もしその者が、未だに王に叛意を抱いているとするならば、駒として使えるかもしれないではないか。

 だがその望みは満たされなかった。

 門の前で待ち受けるバアルの前に一旅を引き連れて来たのは文官でなく武将だった。

 やってきたのは中年の、頭のハゲかかった、武将と言うよりは真昼間から居酒屋でくだでも巻いているのが遥かに似合いそうな、冴えない親父だった。薄くなった頭髪を側頭部や後頭部から集めた髪で苦労して隠そうと試みたのだろう、見るからに不自然な髪型をしていた。

 その無駄な努力を想像するだけでバアルの顔には笑みが浮かんできそうになった。

 もちろんそんな失礼なことはしなかったが。

「いやはや関西の名将たるバルカ卿に会えるなど、望外の喜びです」

 いたって気楽な様子で話し出すその男には敵軍あふれる要塞内に入るというのに、緊張感をまったく見せなかった。

「たんなる敗将です。名将などと言われては気恥ずかしいばかりで」

「いやいや、数々の戦で見せた鮮やかな手並みは、関東将士の間でも評判になったものです。わたしなんぞはそのうちの一つも戦場で再現できそうにない」

 それができるのなら出世できるのですが、とその男は笑った。

「貴官のお名前は」

「鹿沢城守将の補佐をしておりますガニメデと申す。以降お見知りおきを」

 武将と言うより商売人のような軽さだな。それもあまり成功しない型の。バアルはガニメデの第一印象をそう結論づけた。

 ガニメデを城主の部屋に案内し、関西の兵符を渡すその一瞬だけバアルはせつないものを感じた。

 そして鎧を脱ぎ、官服に着替え、馬に乗って退城する。

 自分たちの城に関東の軍旗が掲げられるのを悔しげに見ていた旅長はバアルにやる瀬のない言をぶつけた。

「我らが城に東夷あずまえびすの旗が立つのを見ることになろうとは・・・! 実に残念です」

「そうでもないさ。なにせこれで大手を振って西京へ行くことができる」

 バアルは関西の諸侯である。関東の王に会いに行く、もしくは女王へのご機嫌伺いという名目で西京に行くにはなんの問題もない。

 もし何か行動を起こすにしても、王女殿下と会ってその意思を確かめてから。そう、全てはそこから始まる。

 それに関西の戦力は西京と鼓関とに二分されているのが現状だ。もし関東とあくまで抗戦するというのなら全戦力を集結せねばならないだろう。

 だが鼓関は監視されている。無事に西京に辿り着けるわけがない。それにこの状況で軍の移動などしたら王女も殺されるかもしれない。その手は諦めるしかない。

 しかし鼓関を引き渡し、兵たちが王師から一般人になったとしたら・・・どうだ?

 西京に向かっている一般人を止めることなどできぬ。やがてその者たちは西京に集まることとなる。

 そのとき、西京と鼓関に分散されていた関西王師がこつぜんと一体になって西京の中に現れることになるだろう。

 朝臣や西京の民とて関東の意に諾々と従ってばかりの者ばかりではあるまい。おもしろいことがおきそうだった。


 いや、俺が必ず起こしてみせる。

 関西は負けたかも知れぬ。だが、バアルが負けたわけではない。

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