第110話 朱唇(あかいくちびる)

 さてこうなると残る懸案は鼓関こかんの接収ばかりである。

 軍事的にも経済的にも関西を治めるということは、鼓関を接収するというのと同じであるとさえいえる。あそこを塞がれたままでは関西と関東とは容易く往来が出来ない。だがいまだ鼓関には二万に近い無傷の軍隊が不気味に鎮座していた。その軍の存在も不気味だ。

 やっかいなことに関東側だけでなく関西側から攻めても、あの関は難攻不落の要害だという。

 将軍たちは力ずくでも直ぐに攻め取るべしと鼻息も荒いが、攻略は一筋縄ではいかないだろう。失敗するリスクも高い。

「関東と関西両方から攻めればどうだろう?」

 有斗はそう言ってみた。一度に腹背に敵を受けてはさしものバルカとやらも混乱をきたし、攻め落とすチャンスが訪れるのではないだろうか?

「鼓関は東西共に前面に同時に展開できる兵は一万もありません。防備は東西合わせても六千も必要はありますまい。関には二万もの大軍がいるのです。ちょっとやそっとでは難しいでしょうね。できるとしたら兵糧攻めくらいですが・・・」

「それも難しい?」

 有斗がアエティウスに尋ね返すと否定的な文言が返ってきた。

「接収した文書によると、あそこには常時一年分の兵糧が蓄えられているようですよ」

 実際はバアルがなんとか買い戻してやっと半年分揃えただけであったのだが、そのことは西京に伝わっておらず、当然アリアボネ以下ここにいるものは書類と同じく一年分あると信じきっていた。

「一年もあったらさすがのカヒ家も東京を陥落させていますな」

 エテオクロスはその策はとても取れないといいたいらしい。でも確かにそうだ。カヒの動向は気になるところだ。

「もう出兵しているかもしれません。なるべく早く帰還したいところです」

「特に河東に接している南部諸侯は気が気でないだろうな・・・」

 出兵した南部諸侯は本拠地をほとんど空にしている。目的を達したと思っているであろう諸侯は、今すぐにでも帰りたいところであろう。

「ええ。となると、一刻もはやく手に入れる算段をつけるべきです」

 アリアボネはそう提案する。攻め落とすでなく、算段をつけるって言ったことを考えると他の手段を考えているのだろうか。

「それなら私にいい考えが」

 手を上げたのはアリアボネでなくアエティウスだった。

「バルカ卿は王女に親愛の情を抱いているとか。あのお姫様から開城を呼びかけてもらいましょう。たとえ断られても構いません。関西の忠臣だというのなら、あのお姫様の命令を拒否するなど道理が立たない。配下の将士に動揺を与えることが出来ます。ここはせっかく助けた命、有効活用させてもらうとしましょう。戦うのはそれからでも遅くはない」

 アエティウスが出した提案に有斗は一も二もなく同意を示した。

 その意を侍女を通じて伝えるとセルウィリアから代わりに条件を告げられた。

「バアルが多くの関東の兵を殺したのは事実です。それを恨みに思う関東将士がいるのもわかってはいます。だがそれは全て関西の軍人としての責務を全うしたに過ぎません。わたくしに対して忠であっただけなのです。是非バアルを助命し、世に隠れる忠勤の士を励ましていただけるのであらば、その提案を受け入れましょう。代わりにその責はわたくしが負いますから」

 と頭を下げてまで頼まれた。

 それに対して当然王師の中から冗談ではないとの声があがった。多くの仲間が殺されたのだ無理もない。

「どうするべきかな」

 迷う有斗をアエティウスのほうにぐいっと追いやったのはアリアボネだった。

「是非そうなさいませ」とアリアボネはアエティウスの意見に賛意を表した。

 世間は王が取った行動を繋ぎ合わせてその人となりを知る。万を超える関東兵を葬ったバルカ卿を許したとなれば、それは巷間に広く流布するに違いない。セルウィリアの降伏以上に世間の人をあっと言わせ、関西の士大夫層の心を掴むことになるだろう。

 当然関東の将士は少しは不満も持つだろうが、幾度もの戦いで共に戦ったことで関東の将士と有斗は大きな一体感を持っている。大事にはなるまい。ならばここは関西の人民の心を掌握することを優先すべきだ。

「それに、あれだけの将器は古今を探してもなかなか見られぬものです。殺すのは天下の損失。もし味方にすることが出来ましたら、アエティウス殿と並ぶ武の柱となることでしょう」

「うん。そうだね」

 リュケネやエテオクロスの例もある。強力な敵も味方となれば頼りになる存在に変わるのだ。

 有斗はあくまでまだ中央部を押さえたに過ぎない。しばらくは戦乱は続く。有益な味方は一人でも多いほうが良い。

「わかった、その条件を飲もう。もちろん王女の身の安全は変わらずに保障する。王女から直筆の書簡で降伏を勧めてもらうことにしよう」

「御意」

 にこやかに微笑んで礼をするアリアボネ。本当に何度見ても美人だ。あの関西の王女様も美人だったけど、その横に立っても一切、遜色そんしょくないもんな。

 その顔は見慣れている有斗でもたまにどきっとすることがあるほどだ。こんな美人が王として僕を敬ってくれるだけでも王様になってよかったと言えるだろう。男として好きになってくれたりしたらもっと最高なんだけど、そこまでは贅沢は言えない。

「ごめんね。関西の後始末から遠征軍に関わる諸々の雑事までやってもらっているのに、この上また仕事を増やしちゃって」

 有斗の言葉にかえってアリアボネは恐縮する。

「私ごときにもったいない仰せ・・・ご不便をかけておりますことを謝意いたします。朝廷は東京にあり、関東に帰るその時まで、このアリアボネ一人を朝廷と思い、なんでも仰せ付け下さいませ」

「うん。ありがとう」

「それではさっそく進めて参ります」

「よろしく頼むよ」

 とりあえず西京の官吏は元の官職のまま宮廷に戻したけど、関西の宮廷で行っていた仕事も東京で一本化する予定である。その際に官職を再任することになっている。だって今、関東の朝廷には亜相しかいないのに、関西には左府以下大臣がずらりといるのだ。さすがに関西の臣を関東の上にすえたら反乱ものだろう。

 それに彼らは関西でやってきたことを関東に移すために書類をまとめたり、引越しの準備で手一杯だった。

 そもそも元関西の官吏はまだ信用は置けない。となると何かするにもアリアボネに頼るしかないのが現状だ。中書や尚書の役人でも何人か連れて来ればよかったな。そうすればアリアボネも少しは楽できたろうに。今更ながらそう悔やむ。

 頭を下げて退出するアリアボネを見送ると有斗は自分の仕事に向かう。

 手に入れた所領や宝物の一覧と、軍監から提出された武功帳を元に、そろそろ王師や諸侯に褒美を与える準備に入らないといけない。少なくとも始めるふりだけでもしておかないと、文句を言ってきていろいろうるさいですよ、とはアリアボネの談。

 みんなそれを期待して参戦したのだから当然って言えば当然。有斗のいた世界で言うと給料を貰うようなものなのだろう。

 たしかにバイトした後、もし給料を貰えなかったら、温厚な僕だって殴りたくなるだろうな、などと有斗は考えた。

 アリアボネの意見としては、ある程度大きな所領を与える代わりに南部か河北からいくつか諸侯を関西に移したいらしい。そうしておけば、諸侯の監視役にもなるし、いざ関西で反乱騒ぎが起こっても対処しやすくなるとの理由だった。

 とりあえず、その素案は有斗が練ることになっている。まさに王様っぽい仕事といえば仕事だ。有斗はじつに立派な王様になった気分だった。

 まぁ後でアエティウスとアリアボネには確認のため見てもらうことにはなるんだろうけど。

 退出するアリアボネとすれ違いにアエティウスが来たらしい。勇ましい声が廊下から響いた。

「やあアリアボネ。陛下のご機嫌は如何いかがかな?」

 凛とした涼やかな声がそれに応える。

「とてもよろしいですよ」

「それはたいへん結構なことだ」

 軽やかな笑い声が響いた。アエティウスは相手がどんな女性であろうと近い距離感ですぐに打ち解ける。それをうらやましいと有斗などは思う。いいよな、アエティウスは。気楽に人の心のうちにずけっと入り込めるから。

 もうさすがに慣れたけど、有斗などは最初の頃はアリアボネの美女ぶりに押されて、まともに目を見ることすらできなかったものだ。

 それに対してアエティウスはここでも生来の魅力を発揮し、官女から小間使いまで、女と言う女の心をすっかり掴んでいるらしい。アエネアスがいたら嫉妬のあまり発狂すること間違いなしだ。

 どうやったら自然にあんな風にできるのだろうと嘆息しながら羨んでみたり。

 でも、それができたとしても有斗とアエティウスの間には顔という相違点が依然として存在する。ただしイケメンに限るっていうやつが、巨大な壁としてそびえたって立ちはだかるに違いない。

 信仰心篤いアメイジアの人々の前では口に出せないが、神様というやつは不公平すぎる、と何度頭の中で思ったことか。

 それにしてもそろそろ入ってきてもおかしくないのにな、と有斗はアエティウスの遅さにちょっといぶかった

 耳を澄ますとかすかに咳のような音、遠くに行ったのだろうか、かすかに何かを話しているアエティウスの声が聞こえる。

 と、そこで突然何かが倒れる激しい音、そして今度ははっきり聞こえるアエティウスの声。

「大丈夫か!? アリアボネ!」

 有斗はアエティウスのその声に尋常でないものを感じ、慌てて椅子から立ち上がって廊下へ向かう。

 そこには人だかりができていた。倒れているアリアボネとそれを囲んでアエティウス、羽林の代わりとして有斗の警護をするダルタロス出身の王師中軍の兵四人、そして女官数名が集まっていた。

 その真ん中で必死にたもとで口を塞いで、音のしないように咳をし続けるアリアボネの姿があった。

 やけに赤い唇が有斗の目を奪った。いや赤いのは唇だけではない。

 口からあごにかけて血が幾条も流れていた。口を覆う袂は鮮血に彩られて真紅に染まっていた。廊下には真っ赤で大きな血溜りがいくつもできていた。


 アリアボネは喀血かっけつしていた。


 アエティウスが大声を出したにも関わらず、アリアボネはいまだ咳の音を少しでも漏らさないように、袂で必死に押さえながら咳をし続ける。王にそのことを知らせないように、不安にさせないようにしたのだろうか。

 有斗はそばにかけよるとひざまずいてアリアボネの両肩に手を置いて顔をのぞき込もうとした。

「アリアボネ・・・」

 有斗の声に驚き、顔を上げたアリアボネは、目の前に有斗の顔を見出すと全てがあらわになったことを悟り、その瞳に絶望の色をにじませた。

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