第59話 包囲網を破れ!(Ⅰ)

 エザウ以外でも幾人かがその赤い旗を見つけたようだ。

「おい、あれは・・・?」

「まさか・・・カヒか!?」

 エザウの動揺が兵に伝わり、エザウ隊の兵の動揺が王師の兵へと伝わる形で、軍全体に動揺が広がった。河東きっての大族であるカヒ家の豪勇ぶりは、直接の接点はない河北の武人や王師の兵卒にも知れ渡っているのだ。

 その木々のざわめきのような僅かな動揺が消え去るより早く、敵はまるで強風にあおられた火の粉のごとくエザウたちに襲い掛かる。

 攻撃にも防衛にも十分に耐えうるだけの陣形を敷いたつもりだったが、エザウの陣は瞬く間に敵部隊に食いちぎられた。

 賊は相変わらず横との連携など考えてない軍としては稚拙な攻撃であったが、見るからに賊とは違う、刀傷のいくつも残る鎧を着、隊列を組んで襲い掛かってくる屈強な一部の兵の、一糸乱れぬ攻勢に耐え切れなかったのだ。

 だがエザウにはその差異は見抜くだけの眼力と余裕などなく、ただただ急に敵が強くなったとだけ感じただけだった。

 エザウは陣が寸断され、敵兵の一部が後方に回り込んだところで一切に見切りをつけ、馬に鞭をくれて逃げ出した。指揮するものが居なくなったのだ。兵士たちも己の指揮官を見習って、武器を放り投げて遁走する。

 波に洗われる砂の城のようにあっけないエザウ隊の壊滅は、傍にて交戦中の王師の二旅隊にも悪影響を与えた。

 同じように動揺したところを敵に突かれ、はかばかしい戦いもできずにあっけなく壊乱する。

 これが青野ヶ原で数倍の王師の兵相手に粘り強く戦った下軍の兵かと疑うほどの弱兵ぶりだった。

 というわけで、姑息こそくにも王師の二旅を盾にする形で真っ先に逃げ出すことに成功したエザウだったが、望みどおりに一息つく間も与えられなかった。執拗な敵兵の追撃の足音を聞くこととなった。

 逃げ出すのは早かったが、肥満気味の巨躯が足を引っ張り、逃げ足そのものは速くなかったとのである。

「しつこいやつらだ」

 エザウは背後を振り返って舌打ちする。

 エザウはある時は味方を背負う形で盾に使って逃げ、またある時は向き直って戦い、敵を追い散らすなど、戦いの時よりも巧緻な進退を見せ、戦において何よりも困難と言われる撤退戦をこなしてみせた。不格好ではあるが、ともかくも殿をそつなくこなしたのである。実に大したものだ。

 もっともそれはエザウに対して買い被りすぎというもので、単に本人が生き延びようとして行動している結果として、殿しんがりを務める形になったに過ぎないという穿った見方もできるかもしれない。

 だがエザウは運動不足がたたって、同じ巨躯でも疲れ知らずのベルビオと違って息がすぐに上がる。 

 このままでは追い付かれ、首を上げられるのは時間の問題だった。

 死ぬのはまっぴらごめんである。エザウは馬を走らせながらも、逃げ延びる方策を探して、キョロキョロと周囲を見回した。

 「ちょうどいいところに・・・! 助かった!!」

 そこにはエザウからの敵兵発見の報を受け、近づきつつあったバルブラの部隊があった。

 焦りと恐怖で首筋にべっとりと汗をかいたエザウの目に映ったバルブラの軍は救世主に映ったに相違ない。

 これを盾にすれば、また少し時間が稼げる。もちろんバルブラの掌握する兵は大兵力ではないので勝つことはないであろうが、そのうち日も暮れるだろうし、カヒも諦めてくれるかもしれないと計算したのだ。

 エザウはバルブラの陣に馬を乗り入れた。

「敵は流賊ではなくカヒですぞ。とてもとても・・・我々のかなう相手ではありませぬ。御老体も早くお逃げなされ」

 とバルブラに向かって忠告したのは、さすがのエザウにも相手を目の前にして、タダで盾として利用するのは、多少は遠慮というものがあったのであろう。

 それだけを言うと返答も聞かずにエザウは馬に鞭をくれ走り出した。

 バルブラは逃げるエザウには目もくれず、カヒと聞いて浮足立った将兵を一喝する。

「落ち着け。あのエザウの言うことごときを、いちいち真に受けてはならぬ」

「しかしカヒの兵は羚羊カモシカのように地を飛び、山犬のように敵を喰らいつくすと申すではありませんか。本当だとすれば恐ろしゅうてなりませぬ」

「例え、本当にカヒの兵であろうとも戦うのみだ。相手は化け物ではない。手が二本、足が二本の我らと同じ人であるぞ」

 バルブラはエザウがろくに戦いをした様子が見られないことや、兵を置いて無様に逃げだしたことも、自分と指揮下の将兵を盾として逃げたことも別段、怒ってはいなかった。

 バルブラの度量が格別に広かったわけではない。所詮はその程度の男に過ぎないと、もはやエザウに対する評価はそれらを期待せぬほどまでに低かったのである。

 むしろ老人扱いされたことに、いたく傷つくと同時に腹も立てていた。

 自分は天下にその名を知られた男である。カヒが河東の辺地でいかほど名を上げたかは知らぬが、河北での泥沼のような厳しい戦いを生き抜いてきた自分に敵うはずはない。まだまだ老け込むような年ではないとバルブラは思っていた。

 だからこそ、味方の兵を救うためだけでもなく、エザウに見せつけるためでなく、己の名誉のためにも、例え敵がカヒの兵であっても戦わねばならぬと深く心に決めていた。

「天下に嵩山すうざんと並ぶものなし。このバルブラと並ぶものもまたなし。カヒなど恐れるものか」

 バルブラはアメイジアに生きる者ならば知らぬものなどない、河北東端最高峰の霊岳に己をなぞらえて大語してみた。

「さあ迎撃の陣を組むぞ。エザウを追ってきた敵兵どもを一捻りしてやろうではないか」

 バルブラの落ち着き払った言葉に、兵士たちは平静を取り戻して、敵を迎え撃つべく陣形を組みなおした。


 流賊たちはエザウの兵をさしたる抵抗もなく撃砕してきただけに、目の前に新たに現れた敵兵にもさして注意を払おうとはしなかった。

「また新しいカモがやってきやがった」

 顔を見合わせほくそ笑むと、功を立てようと我先にバルブラ隊に襲い掛かった。

 だが流賊たちは相手を軽んじた愚を、その身をもって思い知り、悔やむことになる。いや、悔やむ時間も与えられなかったかもしれない。バルブラは兵力の差を初戦の勢いの差で埋めようとしたため、その苛烈で組織だった攻勢の前に、流賊の先陣の兵の多くは瞬く間に命を落とすことになったのだ。

「それ、足をとどめてはならぬ。前進しろ。敵兵に立ち直る隙を与えてはならぬぞ」

 バルブラは敵兵を追い散らしたに満足せず、二度三度と続けて攻勢をかける。

 流賊たちはその度に右に左に逃げ惑った。今度は狩り立てられるのは流賊たちの番だった。

 流賊と違いバルブラは兵たちの士気が十分に高まると同時に、息が上がりだしたのを見届けるや否や、思い切りよく撤退を命じた。

 当初の目的は果たした。味方は寡兵である。長々と戦場に留まってもいいことは一つもない。

 バルブラは敵兵を前に悠々と後拒こうきょを行う。こっぴどくやられた流賊たちはその様子を遠巻きに見守るしかなかった。


「王師にも少しはマシな輩がいる」

 流賊を束ねるためにカヒから派遣されていた将軍、デウカリオは味方の不甲斐ない敗戦で落ち込んだ空気を敵を褒めることで打ち消すため半分、バルブラの用兵に心よりの感心が半分でそうつぶやいた。

「だがこれで王師のほどが知れたといってよい。御屋形様の敵ではないな」

 似たような口調ではあったが、こちらは口先だけの先ほどの言葉と違い、デウカリオの実感が多分に込められていた。

 確かに最初のやつに比べたら多少の歯ごたえはある相手ではあるようだが、それでもしたことといえば、勝利に浮かれて隊伍を乱した敵兵の横っ面をはたいて尻ごませて、その隙にただ逃げただけである。デウカリオにしてみれば将としてあたりまえのことをしたに過ぎない。

 俺ならば敵兵をさらに追撃し、敵陣に逃げ込ませて敵の本軍の陣形を乱させ、そこを痛撃して勝利を拾おうとするだろう。兵が足らないというかもしれぬが、寡兵であってもそうする。そうしなかったのは敵将が怯懦であるからだ。

 御屋形様どころか俺の敵ですらもないと、デウカリオは王師を舐めた。

 カヒの主力部隊は芳野よしのや河東の各地でカトレウスの戦略に従って戦っている。今のデウカリオの手にはその攻略の合間に割くことができた僅かな手勢と流賊しかない。

 もしこの場に自分の指揮下の黒色旗一千がありさえすれば、明日にでもこの河北を手に入れて見せると、デウカリオは驕慢にも思った。

 だがデウカリオはカヒの名だたる四天王の一人である。驕慢ではあるが、現実を冷静に見極める目を持っている。今の自分の戦力ではそれが不可能なことも、河北攻略に費やす物資がないことも、河北の後背にあたる芳野攻略途上であるカヒには河北を手に入れても保持するだけの力はないことも、そして自分の役割が王の目を一時、関西や河東から離させるのが目的であることも十分に理解していた。

 天下を狙うカトレウスの目には先の先のことまで見ている。ここでカヒと関東の朝廷が戦って喜ぶのは誰か? 例え大勝利を得、関東の軍を大きく損じても関西の朝廷をよろこばすばかりである。それどころか、カトレウスが畿内に兵を入れる前に関西が関東を併呑すれば、カトレウスの天下奪取は一気に遠のくのである。

 今は関東と関西とで泥沼の消耗戦を繰り広げてくれるほうが、カトレウスにとっては後で得るものが大きい。

「ま、今日は敵将に花を持たせてやるとするか」

 デウカリオは今になって追撃のそぶりを見せる流賊たちを一喝し、兵を収めると悠々とその場を後にした。


 夜になっても逃げに逃げ続けるエザウたちと、遅れながらも秩序だって戦場を退いてきたバルブラたちを回収したのは、ニケーア伯に向けて十分に威嚇の役目を果たしたのち、河東東部へと向けられたリュケネ率いる王師下軍の本隊である。

 リュケネは退いてくる将兵を回収すると同時にその場に堅陣を敷いて敵襲に備え、一晩だけでなくその翌日もその場を動こうとはしなかった。

 敗兵の一部から敵は再び東へと逃げ去ったという方向を受けていたにもかかわらずだ。

 まずは敗兵を救うことを優先したという意味もあろうが、それにしても動きが遅い。

「何故、追撃をいたしませぬか」

 これだけの兵力があれば有利なのはこちら側である。王師の将軍ともあろうものが、カヒの名に怯えて動けぬのであろうかと思い、バルブラはリュケネに問うた。

「我らは諸卿らを救うために昼夜を問わぬ強行軍でここまで来たのだ。もう追撃する余裕はない」

 それは事実だ。

 先鋒隊を派兵して二週間後、リュケネの元に王都から勅命が届いた。

 四方の敵が一斉に動き出したとのこと。背後には関西やカヒがいるらしい。故に火種が燃え移らないうちに、リュケネに一刻も早く河北鎮圧をするよう命じたのだ。

 位置関係を考えると、賊の後ろにはカヒがいることになる。カヒがどれほどの兵を河北に割り振ったかはリュケネにも分からなかったが、軽く見るわけにも行かない。

 少ない兵かもしれないし、多いのかもしれない。

 唯一つ言えることは、長びかせたらカヒの大軍が援軍としてやってくるやもしれないということだ。それは是非避けたい。

 そこで、このままニケーア伯の相手ばかりをして、いつまでも先遣隊を放置していたら不味かろうと、リュケネが河北の諸侯に働きかけ、バルブラやエザウを支援させようと兵を急行させたのだった。

 カヒが相手では先遣隊だけでは苦戦する、との配慮だけではない。

 一刻も早く、河北の敵を殲滅して、王師下軍をどこにでも出兵できるようにフリーハンドにしておきたいのだ。

 その為に昼夜兼行で駆けて来たのだ。軍はここに辿り着くだけで疲労困憊ひろうこんぱいだったのだ。

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