第9話 叛乱劇

 尚侍ないしのかみは王の公の執務室である紫宸殿ししんでんや日常生活の中心地である清涼殿せいりょうでんに、何かあればいつでも馳せ参じられるように、どちらからも近い承香殿しょうこうでんの内に部屋を持っている。


「はい?」

 部下から来た報告における実際の上奏文の数と、帳簿に記載されている上奏文の数をにらめっこして比べていたアリスディアは、扉をノックされたような気がして顔を上げた。だが扉の向こうからいらえはない。扉にも何の変化もみられない。


 コンコン。


 空耳か、と再び書類整理を始めようとしたアリスディアの耳に今度は確かに間違いなく、この部屋の扉をノックする音が届いた。

「どうぞ」

 だが扉は依然として開かない。両手が塞がっていて開けられないのだろうか?

 アリスディアは立ち上がって扉に手を掛け開ける。

 だが、開け放した扉の向こうには誰もいなかった。気のせいかな、と首を捻り部屋に戻ろうとしたアリスディアの視界に、小さなひとつの物体が違和感として飛び込んでくる。それは小さな紙片だった。ぴかぴかに磨かれた廊下に落ちている折りたたまれた紙片。

「・・・これは?」

 中に毒物だとか刃物だとか危険物が包まれているかもしれない。アリスディアはその紙片を慎重に開けた。

 どうやら紙包みの中には何もないらしい。そのかわりに裏面に文字が書かれていた。

 投書か。尚侍は後宮の総取締役、同僚との人間関係によるトラブルから職務への不満までこの手の投書は別段珍しいことではなかった。

 またどうせそういう下からの不満の突き上げででもあろうと、部屋に戻りながらその文章を読む。

 だが読み進むにつれアリスディアの顔はひきつるように固まった。

「・・・!」

 アリスディアは紙片を元通り小さく畳むや胸元に挟み込み、すそひざまでたくし上げるという尚侍にあるまじき姿で走りだした。


 昨夜のけだるさの中にまどろんでいると、突然ノックされることもなく、部屋の扉が開いた。

 有斗とセルノアは飛び上がらんばかりに驚く。確かに早朝に有斗を起すために女官達がその日着る服と共に毎日来ることにはなっているけど、まだその時間ではない。それに一応礼儀としてノックして、有斗の許しを願ってから扉を開くものだ。

 しかもセルノアとあんなことがあったその朝にだ。驚くなと言うほうが難しい。

 セルノアは慌てて服をかき抱いて集めると、顔を伏せるようにして素早く布団の中に潜り込む。

 一方の有斗は何が起こったのかわからず呆然としていた。

 この事態をなんて説明すればいいんだ?

 いや、不倫とかと違ってやましいことはないんだから堂々としていればいいのか?

 でも有斗はどこか後ろめたい気分で一杯だった。

「・・・・・・・・・」

 無言で入ってきたのは、普段は扉の向こう側に警護として立っている羽林うりんの兵だ。扉の左右に立っているので二人一組だが、入ってきたのは一人だけだった。

 と、何も言わずに近づいてくる、その男の右手に持っているものを見て有斗は思わずぎょっとする。

 さやから抜かれた剣は血で染まっており、開かれた扉の向こうでは血溜りと共に甲冑かっちゅうを来た兵士がうつ伏せに倒れていた。おそらくこの男が音も立てないように一刀の下に殺したのだろう。

 生まれて初めて見た死体に呆然ぼうぜんとしている有斗に、その男はゆっくりと近づいてきた。

「なるほどな。こういうことになっていたのか。道理で王に上奏するのに典侍ないしのすけの許可が要るわけだ。王は典侍と新法派に丸め込まれていたというわけですか」

「な、何が狙いだ!」

「陛下の身柄です」

 兵士はうやうやしく、だけれどもわざとらしさが多分に含まれているのが見え見えなほど大きくお辞儀をした。

「これで陛下は虜囚りょしゅうの身、恨むのなら典侍と新法派をお恨みください、陛下」

 と布団の中に潜り込んでいたセルノアがふとんから身を乗り出し、突然その男に枕を投げつけた。

 だが男は冷静に何事でもないかのように飛んでくる枕を叩き落す。

「抵抗なさるか」

 兵士は険しい表情を有斗達に向ける。

「やむを得ぬ場合は陛下であっても切り殺してよいと言われております。おとなしく従ったほうが身のためだとおもいますがッ・・・!?」


 ガシャンという鋭い音と共に男の脳天に花瓶が叩きつけられた。


 セルノアが枕を投げている間に、背後の扉の向こうから忍び寄ったアリスディアが、渾身こんしんの力を込めて花瓶をその男の頭に叩きつけたのだ。

 そうとう丈夫な花瓶だったようで、金属で作られている兜に叩きつけたのに割れるどころかヒビ一つ入っていなかった。

 かわりに後ろから後頭部への一撃を受けた兵士は昏倒こんとうした。

 さすが王宮に納められているような花瓶は百均の脆い花瓶とは一味違うな、などと有斗は妙なところに感心した。


 アリスディアは大の男に大きな壷を後ろから叩きつけるという、彼女に似つかわしくない暴力的なことをしたことに、自分自身でも驚いたのか伸びた兵士を呆然とながめていた。

「あ、ありがとうアリスディア」

 有斗の言葉でようやくアリスディアは我に返る。

「ご無事でなによりでした・・・!」と、有斗の無事に喜んだアリスディアだったが、有斗達の有様をしげしげ見ると、頭を抱えてしまった。

「まさかこんなことにまでなっているとは・・・・・・全てはわたくしの管理不行き届きです・・・!」

 有斗とセルノアが半裸で一緒にいるという事態にアリスディアは何があったかを全てを理解したようだった。

 誤魔化しようもないし、誤解しようもないよな。

「気を取り直してよ・・・その、セルノアが悪いわけでもないんだよ。成り行きでこうなっちゃったんだ」

 有斗の弁解も、がっくりと肩を落としたアリスディアには聞こえない。

 しかしアリスディアはどうしてこんな時間に有斗の部屋に来たのだろう。朝、有斗を起こす役目はアリスディアでは無いのである。それにこの時間、このタイミングでだ。

 まぁ、そのおかげで助かったんだけど。

「アリスディア?・・・僕に何か用があって来たんじゃないの?」

 有斗がそう突っ込むと、

「そうです! こんなことをしている場合じゃない!」と顔を上げて大声で叫んだ。

「とりあえず、服をお着になられてください、話はそれからです」

 といい終わるや、有斗を立たせて服を素早く着せにかかる。

 王は正装して朝議に出るので、普段は三人がかりで着させてもらうのだが、それでも十分はかかる代物だ。

 ところがわずか三分ほどでアリスディアが一人で有斗に着せた服は、王の正装ではなかった。もっと軽くて動きやすい服。見たことはあるな。下級官僚とかが着る官服じゃないのか・・・? これ?

 何故、いつもと違う服を着ているのか理由が分からずに目を白黒させる有斗に、

「これで一目では陛下だとはばれません」とアリスディアが無理に笑みを作って笑いかけた。

 その隙にセルノアも布団の中で服を着たらしく、布団からモゾモゾと這い出してきた。

 恥ずかしそうに顔を出したセルノアにアリスディアは、

「セルノア、貴女にも言いたいことはあります。けれども今はその時ではありません」

 と言い、有斗の手を引いて廊下に連れ出す。

「今すぐここを出ましょう。詳しいことは道々お話いたします」

「何が起こったの?」

「謀反です」

「謀反!?」

 有斗とセルノアは『まさか!』と顔を見合わせた。

「誰が謀反を?」

「わたくしのところに入った情報では昨日王都に配置されたばかりの廷尉ていいが中心になって起こしたとか。気付きませんでしたが、廷尉は王師の、中でもブラシオスに近い者で固められていたようです。これは周到に練られた反乱と思われます」

 廷尉といえば、有斗がこのあいだ承認したやつである。あれにそんな意図があっただなんて、と有斗は深く考えずに許可を与えた己の軽率さを悔やんだ。

「それに羽林うりんが関与していることは間違いないかと・・・だけれども、もう少し大規模であるやも。参加している者たちを察するに、最低でも羽林大将軍ネストールと武部尚書ブラシオスが関与していることは疑いありません。この二人は新法に反対する急先鋒と言ってよいでしょう。これは・・・旧法派の謀反かと!」

「そう言えばさっきの兵士も新法派に対する恨み言を言っていた・・・」

 アリスディアは血だまりに沈み込んでいる羽林の死体をチラと見やると、血をまたぐように慎重に避けて通った。

「ここで同士討ちしているところを見るに、羽林全てが反乱に加わっているのではないようですね。かと言ってどの羽林が味方かそうでないかということを判別できない以上、どの羽林も敵と考えて行動したほうが賢明かと思われます」

金吾きんご武衛ぶえいはどうなのでしょう? 彼等が味方になるのなら、王城を脱出さえすれば逆徒どもを討つこともできるやも」

「・・・それもどうでしょうね・・・反乱に加担していないとは言いきれません。うかつに近づくのは危険かもしれません」

「そんな!」

 有斗は事があまりにも大きくなっていることに顔が青ざめる思いだった。


「詳しいことは分かっておりませんが、既に王城の主な門は反乱を起こしたものに制圧されているようです。通常の脱出経路は塞がれたとお考えください。とはいえまだツキはわたくしたちにございます。王の宿直をしていた羽林が二人揃って謀反に関与していたのでは無かったことは不幸中の幸いと申せましょう。武装した兵士二人相手になると、わたくしでは陛下を助けることなどできなかったでしょうから」

 まったくだ。ひとりだったからこそセルノアが気を引いている間に、後ろからアリスディアが襲いかかれる余地があったのだから・・・!

「とりあえず話し込んでいる場合じゃありません。この者が目覚めてもやっかいです。さ、こちらへ」

 アリスディアに促されるままに有斗はセルノアの手をいて部屋を後にした。

 先導するアリスディアは迷うことなく角を曲がり扉を開き、後宮の最深部へと向かう。有斗が一度も歩いたことのない道だった。

「尚侍様・・・そちらは後宮の奥側です! 外に出られるのならの紫宸殿のほうへ向かうべきです。奥には外への出口はありません!」

 不審に思ったセルノアがアリスディアに訊ねる。

「出るとはどの門から? 門の警備を担当する金吾が裏切ってない保障は?」

 アリスディアはセルノアに振り向きもせずに前へと早足で歩きながら問い返した。

「それは・・・」

「幸い内侍司に裏切り者はいない様子。王の部屋を出てしまえば叛徒には王がどこへ逃げたか掴めぬでしょう。時間が稼げます」

「でも、しらみつぶしに探していけば、いずれは捕まります!」

「それくらい考えております。わたくしは尚侍ですよ。後宮が騒がしくなっていないところを見るに、金吾も全員裏切ったわけではない様子です。もしも後宮内に兵が入り込んでいるとすれば、今頃後宮は女官の悲鳴が響き渡っているはずですからね。つまり今の王城の中では内裏の外よりも後宮のほうが安全というわけです」

 なるほど。でも・・・それは「今は」ってことだよね?

 アリスディアの言葉はこれからも安全と言うわけでは無さそうな口ぶりだった。

「これからどうしたらいい?」

「とりあえず逃げることです。とはいえ王城から外へ出る門は封鎖されていると考えるのが道理です。それに謀反に誰が組みしているか分からない以上、むやみに姿を表すのは危険なことかと。下手をすると・・・新法派以外全員が叛旗を翻したのかも」

「そんな!」

「こんな時に一番安全で謀反に組みしていないと確実に言える味方は・・・」

 そこまで言うとアリスディアは考え込んでしまった。

「プリクソス・・・そうだプリクソスのところへは?」

 彼は新法派の要、彼なら最後まで裏切ることなく有斗を援けてくれるに違いない・・・!

「いけません! 旧法派の恨みを一番買っているのは彼です。捕まっているか殺されているか・・・どちらにせよ、おそらくは、もう・・・」

 そう云って目を伏せ首を横に振った。

 そんな・・・だとすると・・・だめだ。そんな人はどこにもいない。せめて敵に回らない可能性が少ない人・・・

 必死に考えるが、誰一人思い当たる節が無かった。

 有斗は呆然とし、目の前が暗くなっていくような感覚に襲われた。

「陛下、南部はいかがでしょう?」

 そんな有斗にアリスディアは言った。

「南部・・・南部って・・・朝廷の威光が届かない、半分、独立独歩だって話じゃなかったかな?」

 確か初日にセルノアからそういったことを聞いた記憶がかすかにだがある。朝廷と仲が悪く、その支配下には無いとか。そんなところに有斗に味方してくれる侠気おとこぎのある人物がいるかと考えれば、実に疑わしい。

「でも、だからこそです」

 アリスディアはよくご存知で、と有斗を褒めるついでに理由を述べる。

「この反乱が少数派の起した自暴自棄な、すぐに鎮圧できるものだったらいいのですが、我々の予想を超えて大規模だったときのことも考えるべきです。もし新法派以外が全て敵に回ったなら王都は敵の巣になり、どこへ行っても陛下は囚われの身となるでしょう。だけれども南部なら王を援けてくれる、いや少なくとも陛下を叛徒に突き渡すようなことはないはずです。南部諸侯は朝廷を嫌っておりますから。南部へ行って、しかるべき諸侯に頼られてみてはどうでしょうか?」

「そうか・・・! それですよ。それがいいですよ陛下!」

 その意見にセルノアも賛同する。まだまだアメイジアのことを知らない有斗はこの二人の味方がそう言うのならば、それが正しいことのように思えてきた。

 会話しながら後宮の深部に向かうと、ここは廃墟か? と勘違いしそうになるくらいの場所に辿り着いた。壁はひびが入るだけでなく穴まである。

 いつのころから放置されているのだろう?

 ただメンテナンスはしているのか、床板だけは腐っていず、また穴が開いてもいずに一定の強度を今でも保っていた。

「ここは桐壺ですね。私もこちらのほうには来たことがござません。でもこのあたりはもう百年は使われてなかったのでは?」

 典侍のセルノアでもこのあたりは始めて来たようで、物珍しさに視線を動かしていた。

「ええ、そうです」

 アリスディアはあたりを何回も見回して人気がないことを確認してから扉を開け

「どうぞこちらへ」と有斗をいざなう。

 そこは倉庫だった。それも完全に何年も使われてない様に思える。倉庫独特の埃とカビの匂いが満ち溢れていた。

 あちこちに何かが積み重ねてあるが、その上に何層ものほこりが積もっていて、それが何であるかももはやわからないほどだ。


 そこにはすでに一人の女官が待ち受けていて有斗を認めるや伏礼する。

 なぜこんなところに女官が? と一瞬驚く。

 見たことがある顔だ。衣装を着たり脱いだりするときによく見かける。たしか・・・掌侍ないしのじょうだったけな。この世界の女性にしては身長があるほうで、有斗と並ぶと同じくらいの身長がある。高い身長と落ち着いた冷静なイメージからか威厳を感じさせる女官である。

 事情を知らない人から見ると、きっと彼女のほうがセルノアやアリスディアの上司に見えるだろう。しかし何より驚いたのは掌侍が男物の衣装を来ていたことだ。

 しかもそれは・・・有斗がいつも着ている王の服だった。

「なんで男の格好なんてしてるの?」

「遠目で見れば、これでも陛下に見えるはず。みがわりですよ」

 話をしながらもアリスディアは、埃が厚く積もった床に両手を滑らしながら何かを探していた。

「あった・・・」

 手を差し込むと床板が一部分だけ剥がれた。それをゆっくり持ち上げると、その下には地下へと続く石段が現れた。

「これは・・・?」

「城外へと続く秘密の抜け穴です。こんなこともあろうかと、代々の尚侍にだけ受け継がれてきました」

 アリスディアは懐から鍵を取り出し、セルノアに渡した。

「セルノア。ここから先は貴女が陛下をお守りいたすのですよ。私は掌侍を連れて戻ります」

「!」

「掌侍とわたくしとで逃げ回って、敵の目を惹き付けることで時間を稼ぎます。常識を考えると、陛下は尚侍であるわたくしと行動を共にしていると叛徒は考えるはずです。その間に一歩でも遠くへ、王都の外へ逃げ出すのです」

「そんな・・・! 危険じゃないのか!?」

 囮となるって言っても後宮に逃げ道はない。いずれ捕まってしまうだろう。

 その時・・・捕まえたものが王じゃないと知ったら、大変なことになるんじゃないのか・・・?

「彼等の狙いは新法派と陛下です。反乱を起こしたといっても叛徒は曲がりなりにも王師ですよ。陛下でないと分かったら手を出すことなどありません。大丈夫ですよ」

 王師、国軍であるなら規律は守られる・・・か。

「あ・・・そうか。それならばいいんだけど」

「さ、お早く」

「いいですか。とりあえず何をおいても城外へ逃げること。陛下がいないとやつらに知れたら王都の城門も封鎖されるでしょう。その前に必ず逃げ出してください」

「わかった」

「ではこれを」

 アリスディアは明かりの点った提灯をセルノアに渡した。

「幸運をお祈り申し上げます。サキノーフ様のご加護がありますように」

「君たちも気をつけて」

「ありがとうございます」

 有斗の言葉に頭を下げると、アリスディアは出入り口をゆっくりふさいだ。

 周囲から暗闇が有斗たちに襲い掛かるように迫った。

 セルノアの手にある提灯はわずかばかりの範囲を照らすのが精一杯だった。


 アリスディアは入り口を塞いだ後、たもとで埃を均し足跡を消して桐壺から出る。

「さてと」

「これでとりあえずは一安心ですね。尚侍様」

「城外に出れば陛下の顔を知る者も少ない。それに王が一人しか供を連れずに逃げるとは叛徒も思いますまい。おそらく容易く逃げられましょう」

「そうですね」

「ごめんなさいね。貴女にこんな役割を押し付けてしまって」

 アリスディアは王服を着た掌侍に深く深く頭を下げる。

 叛徒も王師だから大丈夫などと言っては見たが、それを信じるのはあの人のいい純粋な少年ぐらいのものだ。

 何より云った当人がまるっきり己の言を信じてはいなかった。

 誰が首謀者か知らないが、どこまで手綱を握っているものやら。

 王師だといっても所詮しょせんは兵士、若い血の気の多い男である。無抵抗な若い女を目にして襲い掛からないなどと誰が言えようか。それにだまされたと知ったら彼等は激高し、だました者たちを、つまりアリスディアたちを殺すことがないとも限らないのである。

 だがそれは掌侍とて分かっているのだ。

「何をおっしゃいます尚侍様。われわれ内侍司ないしのつかさは宮中では他のどの職よりも王に近侍する誇りある職。王の危機に当たって命を差し出すのは当然のことです。光栄だと思いこそすれ、尚侍様に謝られる覚えはございません」

 掌侍のその言葉にアリスディアは微笑む。

「ほんとうにありがとう」

 両掌を叩きつけるとパンと高く鳴らした。

「さてと!」

 そして出来る限りの陽気さで声を出した。この先に自分たちに訪れる暗い未来を吹き払うかのように。

「我々にできることをいたしましょうか」

 そう、一秒でも長く逃げ隠れし敵の目を欺き、王が既に城にいないことを気付かせないことが彼女たちに課せられた使命なのだ。


 セルノアと有斗は提灯あかりに照らされた地下通路を真っ直ぐに進む。

 抜け穴はかねてより有事があればいつでも使用できるように石積みで作られた本格的な横穴であった。高さは二メートル幅は一メートルくらいで人が通るには十分な広さだ。二度三度と角を曲がり出口を目指す。分岐する道がなく迷う必要がないのがありがたかった。やがて眼前に現れたのは鋼鉄製の扉、行き止まりだ。提灯の光を手に二人で調べること十五分、ようやく鍵穴を見つけ出す。

 そっとセルノアが鍵穴に鍵を入れる。そしてカチリと音がしたので手で押してみる。

「あれ? 開きませんね」

 まず引いてみた。まったく動こうとしない。

 有斗とセルノアは顔を見合わせ、右に左にとあらゆる角度から力を加えてみるも、錆付さびついているのか一向にびくともしない。

 全体重を乗せて肩をぶつけると少しだけ扉が向こう側に開いた。よほど使われてなかったのか、二人がかりでようやく人が一人通れるだけのスペースを作り出して、有斗達は地下通路から抜け出ることに成功した。扉の向こうは同じような石積みの通路であったが、階段が上へと伸びていて、その先から光が差し込んでいた。

 階段を登っていくとそこは何らかの教会の地下にある倉庫の一角であった。

 幸いなことに教会には誰もおらず、誰にも怪しまれずに有斗たちは教会の扉から外へと出ることができた。

「どうやらここは王都の一角、南西のほうですね」

 と、セルノアがあたりの建物から現在位置を推定する。

「尚侍様のお言葉通りに、まずは街から出ることが先決です」

 と、有斗の手を曳いて大通りへと向かう。

 大通りを見た有斗は唖然あぜんとした。

 早朝だというのに王都は既に混乱の極致だった。城外から隊列で入ってくる王師で大通りは砂塵さじんが巻き上げられ、視界が極端に悪化していた。

 何が起こってるかはわからないが、既に何かが起こっている、市民たちはそれを感じていた。

 市民は財産を荷車に積み込み逃げようとしていた。いや荷車で運んでいるのはまだいい方で、ほとんどの市民は抱えられるだけの荷物を持って逃げ出していた。だがその人々に紛れることによって、城外への脱出はスムーズに行くことができた。城門にはおそらくは反乱を起こした側と思われる兵士達が怪しい者を逃さぬように配置されてはいるのだが、彼等もこの目の前で起こっている逃げ惑う市民の大津波に対しては対処するすべを知らず、ただただポカンと口を空けて眺めるのが関の山だった。

 市民の荷車の後ろに顔を隠すようにして城門を出た有斗はセルノアに、「とにかく南部へ行こう」と言った。

 セルノアは無言でそれにうなずく。

 これで目前の危機は去った。

 だがまだ油断は禁物だ。有斗が逃げたことに気付いたら、きっと叛徒は有斗に追っ手を差し向けるだろう。

 とにかく今は一刻でも早く叛徒の手の届く範囲から逃れることだ。

 それまでは本当に安心することはできない。


 後宮で女官の悲鳴が上がる。

 ラヴィーニアは悲鳴の上がった方向を向いて、顔をひそめる。

「ちっ。誰か行灯あんどんを蹴倒したな」

 東雲の空に赤い光が広がっていた。後宮の一角が炎に包まれているのだ。

 王の身柄を確保するために後宮に送った兵士が裏目に出たか。

「武部尚書様! 火が!」

「わかっておる」

「信頼のできる兵士を除いて内宮に入った兵を排除するべきです! あやつらは王を探さずに金目のものを物色し、女官を襲っているのですよ!」

 武部尚書は眉を吊り上げ怒るラヴィーニアに視線すら向けなかった。

「だがな、戦場では略奪や暴行は当たり前のことだ。それが楽しみの兵だっている。戦場で暴走する兵士を止めるのは至難の業ぞ。それにそれを制止して我等に剣を向けたらいかにする? なんなら説得してみるかね、中書侍郎?」

 どうやら武部尚書には兵士を止める気はないようだった。

 とはいえここで諦めるラヴィーニアではない。

「兵士の望むがまま、蛮行を許しては大切な記録が散逸してしまうやも」

 一旦そこで言葉を止めて武部尚書の反応を見る。だがラヴィーニアの言葉に感銘を受けたようには見られなかった。

「財物はまた作るなり買うなりすればなんとかなりますが、貴重な文献や記録は失えば二度と取り戻すことはできないのですよ」

「む」

 戸籍や租税や法令といった重要書類を一時に失ったら国家機関として明日からやっていくことはできない。王師だって無関係ではない。武器や糧秣、昇進、給与、勲功の記録、それらを全部無くしたらいったいどうやって明日から軍を運営していけばいいというのだ。

 ようやく武部尚書にも事態の重要性を少しは認識できたようだった。

「それに女官たちに襲い掛かるなど言語道断です」

「別に戦場では珍しいことではあるまい」

「これは尋常の戦ではありません。王を排除するという大義なき戦。であるからこそ他者から責められることは少しでも避けるべきです。我々がこの蛮行を認めてしまえば、兵をあげた我々の正当性すら諸侯は疑いの眼で見ることでしょう。そこを関西につけこまれたらいかにします!」

 武部尚書はここまできてやっとラヴィーニアの顔を見た。

「む」

「それに女官たちも官吏です。それを理非なくかくなる仕打ちにさらせば、そのことが今様子見している中立の官吏たちに悪影響を及ぼさないとは言いかねます」

 確かにそうだな、とやっと武部尚書もラヴィーニアの言わんとしていることを理解する。女官に思いを寄せている官僚などは珍しくもない。そういった者達にこの蛮行が良い影響を与えるなどとは、さすがの武部尚書も思うわけにはいかなかった。

「わかった。なんとかしよう。下軍以外を下がらせる」

 下軍ならワシが言い聞かせればなんとかなろうと、武部尚書は他の王師をひとまず城外へ出すことに決めた。

 とそこで羽林大将軍から横車が入る。

「下軍を下がらせないのは王の身柄を確保し、印璽いんじを手にし権力を手中にするためか?」

「そういうことを言ってる場合ではないでしょう! 羽林大将様!」

中書侍郎ちゅうしょじろうにはだまっているがよい。これは高度に政治的な問題なのだ」

 何が高度に政治的な問題なのだ、だ。

 抜け駆けされるのを恐れているだけではないか。

「中書侍郎の話を聞いていなかったのか?」

「聞いていたよ。確かに重要書類を失うわけには行かない。しかし下軍は武部尚書の言うことを素直に聞くか? 王師全てを下がらせるべきだろう」

「下軍は私が長年将軍として掌握してきた軍。将から一兵卒にいたるまで我が命令に服さぬはずがない!」

「ああ、だからか。やはり王と印璽を手に入れて、お一人で権力を握るおつもりか」

「なんだと!」

 武部尚書と羽林大将軍はしばしにらみ合った。

 はやくも内輪もめか。この反乱劇が終ったわけでもないというのに。

 せめて王の身柄を押さえるまで我慢も出来ないというのか、とラヴィーニアは愛想を尽かしたい思いでいっぱいだった。

「ここで言い争いをしている場合ではございますまい!」

「・・・まあよい。羽林の兵もその中に入れさせてもらうぞ」

「勝手にするがよい。せいぜい足を引っ張らぬようにな」

 ラヴィーニアはそう言って武部尚書と羽林大将軍が不快そうに互いをにらみつけながら、立ち去るのを確認して肩をすくめた。

「自分一人で王に立ち向かう勇気もない腰抜けのくせして」

 王を廃した後の朝廷の枠組みは、もう左府、内府、羽林大将軍、武部尚書の了解を得て作成してはあるが、それも一時しのぎだな、とラヴィーニアは思った。あとにはお決まりの権力闘争がくるだろう。もっともラヴィーニアはその四人の誰にも加担する気はない。勝手に好きなだけ戦えばいい、と高みの見物を洒落しゃれこもうとしていた。

 あの王と同様、この四人も見識実力ともにラヴィーニアが仕えるに値しない程度の人物である。ただ新法に反対しており、なおかつ権勢を持つがゆえにラヴィーニアに選ばれただけなのだ。

 とにかく目的は達した。これで新法はなくなる。それで彼女は満足だった。

「・・・あとは王の身柄の確保だな」

 はたして生きている王に再会するのか、死んでいる王に再会するのか、どちらになることだろう?

 生きていれば始末せねばならないが・・・こいつらが権を競って大きな争いが起きるようならば、あの暗愚な王を担ぎ上げるという手もあるな、とラヴィーニアはふと考えた。


 下軍と羽林以外の兵を王城から出しようやく、混乱を押さえ火事を沈下し事態を収拾することができた。

 武部尚書は清涼殿前に仮の陣屋を築き、そこを拠点に後宮の探索を再開した。

 せっかく清涼殿があるのだから、それを使えばいいとラヴィーニアなどは思うのだが、王以外の者が由来なく使用してはならぬ、などと武部尚書は遠慮した。その王を退位させるための挙兵だというのに、いやはや変なところで義理堅いものだ。

 しかし何はさておき、これで略奪や収奪から文献や女官を守ることができる、と一安心したラヴィーニアだったが、王の身柄確保の報がいつまでたっても入ってこないことに苛立ちはじめた。

「王がいないだと? 門は全てこちらの手の者が封鎖したのではなかったのか?」

「それはもう確実に! ・・・ですがどこにもいないのです」

「いちど王服を着た怪しい人物を発見し捕まえたのですが・・・」

「どうした?」

「女官が扮装していただけでした」

「囮か・・! 小癪こしゃくなまねを!!」

 報告に来るたびに要領を得ない返答をするだけの兵士に武部尚書も苛立いらだち気味だった。

 だが囮を作ったということは、当然王が後宮にいたということをも表している。もとより不在ならば囮を使って時間を稼ぐ必要などないのだから。

「どこかに隠された部屋か通路があるのでは?」

 ラヴィーニアは思いついたことをふと口にしてみる。

 だがラヴィーニアの思いつきは武部尚書に言下に否定された。

「そんなものがあったとしても・・・王は来たばかりだ、それを知っているとは思えない」

 王は確かに知らないだろう・・・だが後宮の主ならどうだろうか・・・?

 後宮の主・・・? そういえば尚侍ないしのかみはどうしたのだろう・・・? ラヴィーニアは大事な人物がもう一人いたことをその時になって思い出した。

「・・・尚侍はどうしました?」

「尚侍・・・?」

 武部尚書はその言葉にようやく自分が重要人物である尚侍の存在を無視していたことに気付いた。

「そうか・・・尚侍なら王の行方を知っているはず・・・!」

「もしかしたら隠された部屋や通路も知っているやも!」

「尚侍を探せ! 急げ!」

 しかし太陽が中天に昇っても、王どころか尚侍も発見したという報告が入らなかった。

玉璽ぎょくじは全て確保したのですが・・・」

 疲労を顔に浮かべ報告に訪れた兵に武部尚書は檄を飛ばした。

「もう一度、しらみ潰しに探し出せ!」

 事態が動いたのは夕刻だった。桐壺きりつぼの奥にて地下通路発見との報が入ってきたのだ。

「桐壺の奥に脱出用の通路が存在する・・・だと?」

「見つかったか?」

「いえ・・・しかし明らかに最近使われたかと思われる形跡があります!」

「・・・逃げられたか」

「至急王都の門を全て閉めよ、追っ手を差し向ける!」

 武部尚書は急いで捜索の範囲を広げた。

 遅かったな、とラヴィーニアは思う。それは少なくとも午前中にやっておかねばならぬことだ。それもこれも全ては王城に規律を持って行動させられない兵士を入れてしまったことだ。それがその後の混乱を引き起こし、王の探索以前に時間を費やしてしまったという結果をもたらしたのだ。

 一旦、野に逃げられては、王の顔を知る者が少ない以上、特徴のある顔立ちでもなく、また王の威厳を感じさせる顔立ちでもないあのえない少年を発見できるとはとても思えなかった。

 十全じゅうぜんの計画を練ったのに王の身柄を確保できなかったことには画竜点睛がりょうてんせいを欠く思いだったが、「ま、いいか」と思い直した。

 この世界に寄って立つ足場のない王は、宮廷を出れば、飲み食い一つ満足にできぬはず。

「そのうちどこぞで野たれ死ぬことだろう」

 ラヴィーニアは難問を一つ片付けたとばかりに腕を広げると背伸びをし、大きな欠伸あくびをした。そして書庫で失われた書類が無いか確認しに、中書省に足を向ける。気楽に鼻歌を歌いながら。

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