第8話 陰謀

 新法が施行しこうされて一月が経っていた。

 制置新法司では続々と新法やそれに付随ふずいする役所の設置の為に必要とされる諸法を日々考案していた。

「塩の専売の件はどうなっている? 新法にとってはこれが一番大事だ。要と言ってもよい。成果がすぐに目に見えるからな。一日でも早く軌道に乗せ、新法の良さを万民に示すのだ」

 プリクソスは集まった同志たちの顔を見回した。

「塩政官なら長官を何位相当の位にするか、また誰を持ってそれに充てるかで揉めて止まっている」

吏部りぶで止まっているのか?」

「そうだ」

 一斉に溜め息がもれる。文官の人事考査は吏部省が決め、王の裁可をもって任命とする。

 吏部省から人事案が上奏なされなければ一歩も進めない。だが新法派には吏部の高官の者も、彼らに顔の利く者もいなかった。

「陛下にお願いして、勅令でもって進めていただくわけには?」

「勅令を出してもらうには、せめて人事案だけでも出さねばなるまい。だが誰を持って長官にあてるかは我等のうちでも決まっておらぬ。重要な役職だからな」

 それに問題がある、とプリクソスは苦りきった表情で頭をかいた。

「それに、さすがにそう何度も勅令を出していただくわけにはいくまい」

 今でさえ王は勅命で無理を押し通していると朝臣からは不評なのだ。自分たちを支持していただいている王の立場を悪くしない為にも、これ以上無駄に朝臣を刺激することは避けねばならないということはプリクソスらも感じていた。

「とすれば吏部省に力を持つ誰かを味方に引き込むしかないのだが・・・吏部省の長である吏部尚省は内府の腰巾着だ。簡単には味方になるまい」

少沙しょうさ黄門こうもん殿はどうだろう?改革に一定の良い評価を下しておられるし、吏部上がりで顔も利く」

 一人が提案したその案に皆が賛同の声をあげた。

「それはいい。見事な考えです」

「そうするべきだ」「そうしよう」

 いたってお気楽なその意見にプリクソスは危ういものを感じていた。少沙黄門は一見、好々爺こうこうやに見えるが、政界をあの年まで無事に生きてきたのだ。並大抵の人物ではない。そう上手くことが運ぶとは思えなかった。


 とは砂である。少沙とは京郊外にある巨池の岸に広がる砂岸の一角を指す。

 そこに屋敷を持つことから少沙黄門と呼ばれる、見栄えのしない、細面の、その中年の小男は権勢争いを避け、数を集めて党を組むこともない温厚で実直な人物で知られていた。

「無茶を言う。確かに私は吏部尚省を勤めたこともあるが、通り一辺のものさ。ワシがどんなに頭を下げても、誰も後難を恐れて、内府殿に逆らってまで新法派に組みしたりはすまいよ」

 少沙黄門はプリクソスの頼みを婉曲に断った。

「そこをなんとか」

「なんとかと言われてもの」

 困ったとばかりに白いものが混じる眉を指先で掻いた。

 やがてこれは無理かもしれないが、と前置きを言うと

「・・・吏部侍郎りぶじろうのミルタイウならば気骨もあるゆえ、力になってくれるやもしれん」

「是非に・・・!」

「だが条件がある。内府殿に逆らうのだ、ミルタイウは吏部におられまい。塩政官の長官か副官の席をミルタイウに用意してやって欲しい」

 プリクソスは迷った。新法内で塩政官に誰を当てるか決めかねているのは、巨大な権限が与えられるからだ。当然使い方によっては巨大な利権を生み出すこととなろう。生臭い連中は血走った目を向けてその官を欲し、水面下で工作を続けている。ミルタイウはとかく悪い噂の絶えない男だ。そのような人物に強権を与えてよいものだろうか?

「・・・」

「それくらいの条件を出さねば奴とて承知せぬだろう。もしそれが嫌ならば、ワシではなく他の者をあたるのだな。そんな酔狂な高官が他にいればの話だが」

「・・・わかりました」

 副官くらいならば長官に謹直きんちょくな人物を据えれば歯止めも利くことだろう、プリクソスはそう思い、不安な思いを振り解いて、少沙黄門の申し出を引き受けることにした。


 朝議が終ると、今日も新法派に属さない臣下達は、大極殿だいこくでんの隅だとか、廊下の行き止まりだとか、建礼門けんれいもん脇のからたちの前だとかに何人かで集まると、愚痴とも情報交換ともつかぬ話をする。

「聞いたか?」

「はい」

「少沙黄門殿に続いて、頭宰相とうのさいしょうも新法派に鞍替えしたそうだ」

 朝議に参加する有資格者の中から少しづつ新法派に傾くものが増えてきたことに彼等は焦りを感じていた。

「頭宰相は御名を持つサキノーフ様にゆかりある名門の出だと言うのに、なんとまぁ恥知らずなことよ」

「冗官の整理という名目で職を失った官の中には、官職欲しさに新法派に寝返ったものも多いと聞く」

「新法派は第三極として日々存在感を増している」

「左府殿も内府殿も相手が新法派に加担するのではないかと疑心暗鬼となって何もできない」

 こう口にする彼等だが、内心では目の前の者が実は新法派になっているのではないかと互いに疑心暗鬼になっていた。果てはなんとか新法派に鞍替えして美味い密にありつくことはできないものかと考える者もいるのである。

 だがその伝手つてもなければ、正面切って宮中の大部分を占める新法派以外の者、旧法派と呼ばれる者たちと戦う勇気もない連中が彼等であった。

「なんとかせねば」

「しかし如何いかにせん?」

 お互いに顔を見回す。が、一向に納得できる答えを誰も言い出すことはできなかった。

「新法派が鼻息荒く宮廷を闊歩かっぽしているのも、陛下の後援あってこそだ」

「なんとか陛下に新法が正気の沙汰ではないことに気付いていただなくては!」

 奏上しかない、という声があがる。

「とは言っても、奏上はあの典侍が差し止めて、陛下に言上する機会すらない」

「あの雌狐めが! 君側のかんとはああいうやつのことを言うのだ」

「朝議で申し上げては?」

「それはできぬ。朝議とは陛下に諮問しもんあれば答えを差し上げる場で、陛下に裁可をいただく場である。新法派がいくら先例無視の輩といって、我々まで先例を無視することなどあってはご先祖様に合わす顔がない」

 朝議とは新しい法律を決めたり、国家の方針を決める場所であって、個別の法令の問題点についてとやかく論じる場ではない。そういう慣例になっていた。こっけいに思えるが、先例を重んじる彼等にとっては、それは越えてはいけない則であった。


 今日も新法を巡って激論が交わされる朝議が終れば、有斗に残されたものは認可を求めて上がってきた書類にハンコを押すだけの簡単な仕事だ。

 ぺったんぺったんぺったん。

 有斗は快調にハンコを押していく。

 新法派は新法を通そうとし、旧法派はそれを阻止せんとお互いに全力を尽くしているらしく、新法に関わらない書類は本当にギリギリまで有斗のところに書類が来ないのだ。自然、来た書類はもうハンコを押すしかない状態になっている。

 おかげで午後は早々にやることがなくなって、たまに来る奏上の相手をする以外はアリスディアとのおしゃべりで過ごしたりなんかする。

 これもセルノアが奏上を判別して、無意味で重複したものを却下してくれるおかげだ。

 それでも・・・と有斗は思う。奏上に来る人数がだんだん減っている気がする。

 きっとそれは良い傾向に違いない。もう新法が布告されて2ヶ月は経つ。みんな新法の有効性に気付き始めたからだろう。

 そうはいっても来る人は来るわけで・・・扉の向こうでは今日も言い争いが聞こえたりするわけだが。

「まってください」

「下がりなさい、典侍ないしのすけ。私は左府ぞ」

 押しどけようとする手をかいくぐって、左府と扉の間の狭いスペースにセルノアは身体を滑り込ませる。

「左府様といえども、陛下への取次ぎは私を通していただきます」

 眉毛を逆立ててセルノアは立ちはだかった。

「国政のことだ。典侍、そなたごときが関わる話ではない。陛下と直々に話をする」

「ですから用件をおっしゃってください。用件の内容を吟味したうえで、私が陛下に奏上すべきかどうか判断いたします」

 大きく溜め息をつくと、左府は朝廷の高官である自分の前に立ち塞がった僭上者せんじょうしゃを大声で怒鳴りつけた。

「思い上がりもいい加減にしないか! 典侍のやっていることは太政官の上に立つという越権行為だぞ!! 後宮と太政官は互いに不可侵なればこそ、社稷しゃしょくが保たれるのだ!」

 我慢に我慢を重ねてきたが、もうこれ以上は我慢がならん、そういう怒りが現れていた。

 とはいえセルノアも一歩も引かない。

「陛下のご命令でこの役目を承っているのです。用件をお聞きして判断する前に通すわけには参りません!」

 魑魅魍魎ちみもうりょううごめく泥沼の宮廷を失脚することなく泳ぎきってきた男だ。その初老の域にある男の宮廷を牛耳ってきたという誇りや威厳といったものにセルノアはややもすれば押しつぶされそうになるが、王の厚恩を頼りにして厳しい視線を跳ね返して扉の前から動こうとはしなかった。

 結局、左府はセルノアを押しのけて王の執務室に入ることまではしなかった。王の権威の前に屈したのだ。左府もまた、古式に縛られた常識人だったのである。


 八省を統括する最高機関である太政官の長官は相国である。とはいえ相国はそれにふさわしい人物がなければ空席とされる、いわゆる『則闕そっけつの官』である。だから今の朝廷の主導者はそれに次ぐ官位の者、すなわち左府であった。

 王というものはいかなる主義や党派にも一方的に肩入れしないことが求められる。いわゆる不偏不党の存在であるべきなのだ。左府から見ると王は新法派に入れあげるだけでなく朝議すら軽んじ、朝臣の意見をほとんど聞かない独善的な君主に見える。左府はそのことを心中では苦々しく思っていた。

「左府様」

 うやうやしく左府に頭を下げるその小さな影は中書の次官、見慣れた顔だった。

「そなたは中書侍郎ちゅうしょじろうではないか。こんなところで何用かね?」

「新法のことで少しお話したき議がございまして」

 大きく溜め息をつくと「わかった。だがこうなったのは、中書がもう少し粘ってくれなかったということも原因のひとつであるのだぞ」と、愚痴をつぶやく。どうやら王に言うことができない新法に対する文句を、臣下の最上位である自分にぶつけに来たのであるものとでも左府は思ったようだった。

 ラヴィーニアは一切表情を変えずに後ろに一歩下がると「こちらへどうぞ」とばかりに無言のまま右手で奥の扉を指し示した。

 芝居がかったその仕草は馬鹿にされたようなものだ。左府は不快な表情をラヴィーニアに向ける。がラヴィーニアは左府の凍てつくような視線をも受け流し扉を開けた。

 そこは中書省の裏手の一室、古来からの中書が書いた法令の写しが保管されている部屋だった。

 その薄暗い部屋にずらりと太政官の高官が朝議でもないのに顔を集めていた。

「・・・内府! それに羽林大将軍に武部尚書まで!!」

 どれもこれも左府とは距離を置くグループの旗頭だ。これは偉いところに来てしまった、と左府は苦虫を噛み殺した表情を浮かべた。

「私は帰らせてもらったほうがよさそうだな」

 きびすを返した左府の袖口そでぐちをラヴィーニアは掴む。

「お待ちを左府様。新法派のやりくち、左府様は口惜しくないので?」

「・・・言いたいことがないわけではない」

 ここに集まった連中がどういう立場でいるのかわからぬ以上、心底を見せることなどできぬと、抜け目なく政敵たちの表所を観察しつつ、左府はどちらともとれるような曖昧あいまいな表現を使って生臭い話題を避けた。

「だがどうしようもあるまい。相手は新法派と言うより陛下なのだからな。御気の済むまでは我慢するほかあるまい」

「新法が施行されて世界はどうなりました? 実情をご存知なら、抜け穴だらけの法案をお認めにならぬはず」

「もう布告してしまったのだ。もう誰にもどうしようもあるまい」

「それでは新法派にいいようにやられてしまいますよ。すでに冗官の整理で多数の官が首を切られました。新しく設置した官には新法派の息のかかった者ばかり。公卿すら何人かは新法派に寝返り、朝議での発言力も増しております。このままでは朝廷を牛耳るのは新法派ということになりましょう」

 そうなったらいずれは新法派が高位に登ることになる。その時彼等が欲するのは必ずや朝廷の首座、左府の衣冠だ。いずれは失脚させられる、それでよろしいのか、とラヴィーニアは暗に言っていた。

「しかし陛下を新法派から切り離さぬことにはどうすることもできまい! できるのかね、中書侍郎!?」

「それは私にとっても難事です」

「だろうな」

「だけど他の方法があります。もっと容易い、我等だけでできることが」

「聞こうか」

 ラヴィーニアは食事後に茶を頼むかのような軽い口調で恐るべき言葉を吐き出した。

「陛下を廃位すればよい」

「・・・・・・!」

 あまりのことに左府は絶句する。

「馬鹿な・・・! そんなことが許されると思ってか!? 陛下は召喚の儀がもたらした天与の人ぞ! 天に向かって唾するようなものだ! 気が狂ったか!?」

「ならばひとつ聞きます。・・・召喚の儀で呼び出したあの気弱そうな少年は果たして『本物の王』なのですか?」

「当然だ。召喚の儀で呼び出されたのだ、只の人であるわけがない」

「いいえ、只の人間ですよ。それも頭のよろしくない普通以下の少年」

「何を言う! 神帝サキノーフ様をこの世界に呼び出した太古の秘術、それが召喚の儀だぞ!」

「召喚の儀・・・ねぇ」

「たまたま最初に呼び出したのがサキノーフ様であったがために、古人を勘違いさせ『召喚の儀』と呼ばれるようになったそれが、実はたんなる異世界とこの世界を結びつけ、人間を移動させるだけの術だとしたら・・・?」

「そんな・・・そんな馬鹿な・・・!」

「私は神代文字や魔術の研究もやっておりますが、あれはおそらくそういった儀式です」

「・・・しかし!」

「すでにここに集まった者たちは覚悟を決めております」

 左府がひとりひとりを見回すと、全員が無言で頷いた。

「左府殿の返答やいかに」

 返答を促すかのようにラヴィーニアはツンと尖ったあごを左府に向けた。

「これは謀反だ! 陛下を強硬に廃位させるなど正気の沙汰とは思えん! やはり帰らしてもらう!」

 出て行こうとする左府の手首を、羽林大将軍ネストールの太い左手が強い力で掴んだ。左府はぎょっとした表情を浮かべる。それはそうだ。ネストールの右手は剣の柄に指をかけていたのだから。

「・・・ここまで教えたのです。今更自分だけ抜けようなどと許されるとお思いか?」

 ネストールは刀の柄から手を離さずにゆっくりと低い声で言った。

「・・・はめおったなラヴィーニア! この雌狐めが!」

「ここまで来て頂いた以上、選択肢はもうありませんよ」

 ラヴィーニアはにっこりと口の端を上げると、左府を馬鹿にするかのように目を細めてゆっくりと拝礼する。

「それでは始めましょうか♪」

 ラヴィーニアは実に楽しそうに笑みを浮かべた。


「左府殿を帰したのは、少しやりすぎじゃない?」

 セルノアを廊下でそう言って呼び止めたのは、後宮の掃除を掌る掃司そうしの二人だった。

「それはどういう意味ですか?」

 セルノアとはあまり近しくない二人だった。

 違うグループに所属し、めったに話すことなどない二人から話しかけられた意図が分からず首を傾げる。

「だって左府様よ」

「ねぇ?」

「左府様は陛下に告ぐ位のかた、そんな高官が陛下に会うのに典侍の許可が要るなんていくらなんでもおかしいわ」

「実際、本当に陛下が典侍様にそんな権限を与えたのかしら」

「どなたかが人のいい陛下をたぶらかしてらっしゃるのでは? 色仕掛けで」

 女官達はセルノアを見てクスクスと笑った。

 なるほど、とセルノアは二人の意図を悟った。やっかみの一種か。

 セルノアが王の近くに近侍していることや、王の信頼を得て仕事を任されていることに良い感情を持っていない者がいるのは気付いていた。アリスディアのように、自分の頭ごなしにセルノアと王とで物事を進めても一切文句も言わず、嫉妬も表さないという鷹揚おうような女性のほうが珍しい。

 もともと後宮に集まる女官は選び抜かれた者たちだ。容姿端麗ようしたんれい頭脳明晰ずのうめいせきであると自他共に認め、それを誇る。自尊心ばかりが肥大したそんな女性が何十人と集まっている場所が後宮なのである。嫉妬や不満、嫌がらせなどは日常茶飯事。セルノアもその後宮の一員、これくらいでめげたりも、負けたりもしない。

 だが反撃の言葉を言おうとした矢先、横から声がかかる。

「それはどういうことかな?」

 それ以上は我慢して聞いていられないと顔を出したのは有斗だった。

「こ、これは陛下」

 どこから聞かれていたのだろうと女官たちの顔は青ざめる。

「どうした? 言ってくれないかな」

 王の声には不快の色が含まれている。それが掃司の二人にもわかるくらいだ。

「そ・・・その・・・」

「セルノアには無理を言ってその役目をやってもらっているんだ。もしそれで何か間違いがあるとすれば、その責任は僕にある。僕が聞かなければいけない」

「いえ・・・その・・・ありません」

「そうか」

「では失礼いたします!」

「待って」

 すそひるがえして、すばやく王の目の前から逃げ出そうとする掃司たちに釘を刺した。

「もし今後セルノアがやっている取次ぎで何か問題があると思ったのなら、僕に直接言ってくれ。いいね」

「・・・は、はいっ!」


「大丈夫だった?」

「・・・こんなことなんでもありません。よくあることです」

 え? よくあることだって?

「ひょっとして・・・僕が気がつかないだけで、セルノアにいっぱい迷惑かけていたりするのかな?」

 セルノアはその質問に直接は答えず曖昧な笑みを浮かべる。

「ごめん・・・そうだったんだ」

「陛下! 謝られる事ではございません!」

「でも・・・僕のせいで迷惑かけちゃってるのなら謝らないと」

「いいえ、陛下。このセルノア、陛下の偉業を少しなりとはいえ、お手伝いできていることに誇りこそすれ、迷惑などとは思ったことは一度たりともございません」

「そうは言っても同僚からも嫌味を言われるなんて・・・官吏からはセルノアを外すように進言してくる者もいるのでひょっとしたら・・・と心配してたんだけど」

「ここは後宮です。才長さいた容姿端麗ようしたんれいであると思い込んでいる才媛の花園。これくらいよくあることです」

「ごめん」

 気付いてやれなくて。

「本当にごめん」

 セルノアにこんなに負担をかけていただなんて。

 有斗はセルノアに頭を下げる。すまないという気持ちでいっぱいで自然と深く深く叩頭する。

「陛下! ・・・・・・なんともったいない・・・!」

 セルノアはその姿に感激で目を丸くし、両手で口を覆った。

「本当に陛下は天与の人です」

「なぜ?」

 なぜ、セルノアは僕をそんなに持ち上げるのだろう。僕は普通のどこにでもいる学生にしか過ぎないのに。有斗は不思議に思った。

「凡百の王は、臣下に命じるひとつひとつのこと、臣下一人一人に気をかけたりなどすることはありません。なぜなら王は国全体を見回さなければならない、やるべきことは山ほどあるのですから。しかし陛下は違います。私のようなものにもこのように労わりの言葉をかけてくださる。そんな王など古話でも聞いたことすらありません」

「そんなことないよ。僕の為にこんなにセルノアが頑張っているのだもの気にかけて当然だよ」

「またそんな・・・セルノアが舞い上がるようなことをおっしゃる」

 セルノアはこちらも釣り込まれて微笑んでしまうような優しい微笑みを浮かべた。

「本当に陛下は天与の人です・・・」


 早朝、有斗は廊下を大極殿に向かって早足で歩いていた。

 官服を着るのに手間取って少し時間が押し気味だったのだ。

「あ、あの・・・陛下!」

 突然脇から有斗に声がかかる。移動中に有斗が声をかけられることなんてまず無いのだが、珍しいことだ。顔を声のした方向に向けると目線の下に小さな少女の頭を発見した。

 ・・・どこかで見たことのある小間使いだな、と有斗は思った。思ったが、それ以上、深くは考えなかった。

「お尋ねしたき議がございます!」

「え・・・な、何?」

 すると先導していたはずのアリスディアが有斗がついてこないことに不審を持ち、一旦戻ってきた。

「陛下、お急ぎを!」

 おっと、朝議に急がなければ。

「ごめんね。また今度聞くよ」

 少女の頭をぽんと撫でると有斗は大極殿へと急いだ。

「・・・」

 少女は恨めしげな目で有斗を眺めていた。その顔に、悪い、いつか埋め合わせはするから、と有斗は心の中で声をかける。

 少女は王が角を曲がり姿を消すまで眺めていたが、王が一度も後ろを振り替えらないのを確認すると、大きく肩を落として溜め息をつき呟いた。

「やはり暗君だったか」

 もう一度大きく溜め息をつくと、少女はきびすを返し、足音高く廊下を歩いた。


 午後の執務はあっという間に終った。アリスディアは尚侍の仕事がごたついているとかで今日はまだ顔すら見ていない。

 幸いにも今日は奏上にあがる朝臣がいなかったので、同じように手持ちぶたさのセルノアと会話をして過ごした。

「セルノア」

「はい」

「セルノアって好きな人いるの?」

 有斗のその言葉はセルノアにとって慮外のことだったようで、目に見えてわかるほどの狼狽を示した。

「も、ももももも・・・もう! な、なんなのですか陛下。突然そのようなことをお聞きになられて。前も一回そういうことお聞きになりましたよね?」

「なんとなく聞きたいから」

 セルノアは顔を真っ赤にして目を閉じると、

「・・・・・・いませんよ。募集中ですね」と嫌そうに答えた。

 よかった。というよりやっぱりか。毎日ほとんど後宮勤めだもんな。

 有斗が彼氏だったら気が気でないと思う。この世界では携帯電話とかもないから毎日連絡も取れないのだ。不安で仕方がないだろう。

「募集中・・・ということは、作ろうとしていたりするんだ?」

 セルノアは頬を染めながらも、頭を振ると苦笑いを浮かべた。

「でもなかなか・・・後宮に入ってからは出会いも少ないですし」

「じゃあ、僕なんかどう?」

 とんでもない、とセルノアは両手を振って

「陛下にそのような気持ちを抱くなど・・・不敬にもほどがあります」

「僕が王じゃなかったら、セルノアは僕をどう思う?」

「陛下は陛下です。陛下以外の存在になるなど考えられません」

 うまくはぐらかされたような、婉曲えんきょくに否定しているような答えだ。

「じゃあ王命でセルノアに命じる。一人の男として見た場合、セルノアは僕のことをどう思う?」

 大仰おおぎょうな言い方と話す内容のチグハグさにセルノアはくすりと笑う。

「王命ですか」

 それでは答えないわけにはいきませんね、と冗談めかして、

「はい。好きです」と言った。

 そして真面目な顔に戻ると、

「もしも陛下が普通の方であったならば、私にも望みがあったのかも・・・と、そう思います」

 と言った。

「やだ、私ったら何をいってるのでしょう? すみませんちょっと頭を冷やしてきます」

 セルノアはやっぱり僕のこと・・・好きだよね?

 僕の勘違いじゃないよね?

 勇気をだすのはここだ。ここで出さないと、きっともう二度と機会チャンスは来ない。

 有斗はなけなしの勇気を振り絞って、部屋を出ようとするセルノアの手首を掴んだ。

「好きだ。セルノア」

 振り返ったセルノアに真摯しんしな表情でそう告げた。

「僕も君のことが好きだ」

 セルノアはすぐに真っ赤になると、おろおろと狼狽した。

「そ、そんな・・・陛下ほどのおかたなら、もっともっと素敵な女性をお選びに・・・例えばアリスディア様とかみたいな才知に満ち溢れ、賢慮で、美貌の女性など。私などでは不釣合いです・・・なんと、もったいない仰せを」

 そっとセルノアと手を重ねると握り返してきた。細くて小さくて柔らかい。

「あの・・・おからかいになられているのではないですよね?」

 これは・・・キスぐらいしても、大丈夫な空気だよな?

 有斗がキスしようと顔を近づけるとセルノアは上目遣いに瞳を覗き込んでいたが、近づく有斗の唇に人差し指をつけて、それ以上の接近を防いだ。

「・・・駄目?」

「本当に信頼してよろしいので? 一時の気の迷いとかではありませんか?」

 セルノアは真面目な顔で有斗を見つめていた。まだからかっていると思っているのだろう。

「うん」

「・・・わかりました。王の御心をお信じ致します」

 セルノアはゆっくり近づくと柔らかな唇を有斗の唇に重ねた。


 最近は徹夜することや、深夜まで起きなければならない仕事が減ったとはいえ、王の朝は早い。

 なかなか起きられるものではない。

 目覚まし時計のないこの世界では、王を定時に起すのも後宮の女官の大事な仕事の一つだった。

 今日の番はセルノアだった。それがために昨夜は早くに王の御前から退出したのだ。朝起きてお手水で顔と手を洗い、軽く化粧をするとまだ寝ている同僚を起さぬよう、静かに自室の扉を閉める。

「セルノア」

 廊下で声をかけられた。相手はアリスディアだった。

「あ、はい! 尚侍様!」

「少し話がしたいの。よろしくって?」

 王を起しに行くにはまだ少し早い。時間がないわけではない。

「手短にお願いいたしますね」

「セルノア、陛下との距離が近づきすぎませんか?」

「え? そうですか? 気付きませんでしたけど」

「近侍しているとき、おしゃべりが過ぎますし、言葉遣いもなれなれしいですよ」

「すみません! 以後気をつけます!」

 深々と頭を下げる。

 王とのことを気付かれぬよう慎重に行動していたつもりだったが、アリスディアには看破かんぱされていたようだ。

「・・・やだ、自然と出ちゃってたのかな・・・?」

 そう言って両手で頬を覆うセルノアにアリスディアは不審の眼差しを向ける。

「セルノア、もう一つ質問があります」

「はい?」

「貴女、まさか陛下と・・・何かあったわけではありませんよね?」

 アリスディアが話したその言葉の意味を理解できず、首を傾げる。

「何かとは?」

「王と女官との垣根を越えるようなことです」

 セルノアは言葉では答えずに、顔を真っ赤にしてうつむいただけだった。

「・・・・・・」

「セルノア!!!」

 アリスディアの言葉にはとがめるような響きが含まれていた。めったに見せることのない尚侍としての顔。だが典侍としての職務上のことなら尚侍であるアリスディアの言うことを、いちいちごもっともと聞かなければならないだろうが、これは私事のことだ。

「尚侍様といえども個人的な部分に立ち入られる筋合いはないと思いますけれども?」

 反駁はんばくする時間も与えぬようにすぐさまお辞儀をすると、「失礼します!」と足早に駆け去っていった。

 呆然と立ち尽くすアリスディア。やがて頭を二度三度と横に振って溜め息をつく。

「・・・典侍が女御になった事例はないわけではないですけれども・・・あまり感心できることではありませんよ?」

 王の配偶者というものは何分、政治的な要素が絡むものだ。政治的な背骨を持たないセルノアでは、例え両想いであっても、難しい問題が生涯付きまとうことになるだろう。

 聞こえないとわかっていても、アリスディアは後姿で去っていくセルノアに、そう声をかけずにはいられなかった。


 午後の早い時間に有斗の執務室を訪れたのは武部尚書だった。

 三日ぶりの奏上だな・・・

 セルノアのチェックを抜けたということは、新法関係の上奏ではないのだろう。

 最近は新法のことでとかく廷臣たちとギクシャクしてるから、自然と身構えてしまう。それに新法派はともかく他の官吏は暗い顔をして僕に目も合わせやしない。さすがにちょっと気まずい。

 だがそれは杞憂きゆうなのかもしれない。目の前の武部尚書ぶぶしょうしょは以前と変わらず、有斗にうやうやしく接してくれている。

「陛下」

「うん」

「以前から問題になっていた賊の追討の為に令外官りょうげのかんを新設する事案についてですが」

 ああ、そういえばあったな。新法にかまけてどうなったのかすっかり忘れていたけれど。

 確かプリクソスが原案を既に出していた気がする・・・その後どうなったんだっけ?

「新宰相の提案にそって、司法をつかさどる官で冗官じょうかんとなっている者を中心に集め、廷尉ていいとして官を定めることにあいなりました。で、これが長官以下の人事案です。ご覧ください」

 プリクソスの提案どおりか。なら問題はなさそうだ。

「うん。いいよ。でもこれくらいのことなら上書で済ませばよかったのに」

 わざわざ武部尚書が来るまでのことじゃないと思うけどな、と有斗はその書類をざっと眺めた。本当のところは読めないので、読んだふりと言うやつだ。

 そしてさぞわかったかのように大きく頷いてみせる。

「それでは、これにそって人事異動を行いますので許可を頂けますか?」

「ああ、うん。わかった。どこに書けばいい?」

「ここにお願いいたします」

 有斗は武部尚書に指差されるままに名前を書いて御璽ぎょじを押した。


 王の元を退出した武部尚書は武部には立ち戻らずに中書省に向かった。

 左府、内府、羽林大将軍、そして中書侍郎ちゅうしょじろうが王城の地図を広げて細部を詰めていた。

 ラヴィーニアは地図から目を上げて入ってきた武部尚書を見る。

「うまく行きましたか?」

「ああ」

 武部尚書は皆の前で、先ほど王から印璽いんじを貰ってきたばかりの書類をひらひらと振って見せた。

「王はまったく疑うことなく印璽を押されたよ」

 当然だ、と内府が胸を張る。

「それは私が命じて吏部に作らせた正式な書類。たとえ誰が見ても不審な点は見当たらぬさ」

「そもそもあの王は文字も読めなくて、尚侍ないしのかみが代わりに読み上げるとか」

 男たちの口から馬鹿にしたような笑いがざわめく。

「だからこそ、尚侍のいないときを狙って王の認可を受けたのです。ここに書かれている名前の多くが王師の兵士であることに気付かれないように」

 おおげさなと武部尚書は失笑する。気苦労が過ぎるではないのかと指摘した。

「尚侍など気にする必要があるのかね?」

「なんといっても、伊達にあの年で尚侍を勤めているわけじゃない。この名簿に含まれることの危うさに気付くやもしれん」

 左府はたしなめるように言った。

「あれは抜けてるようでいて鼻が利くからな。宮中で起きたことで尚侍に知らぬことはないとまで言われるくらいだ」

「ええ」

「だがこれで第一段階は成功した。大手を振って国軍の兵を城内に入れることが出来る」

 胸を張る武部尚省にラヴィーニアは尋ねた。

「お一つお尋ねしたい。武部尚省様、兵符へいふはまだお持ちで?」

 兵符とは軍隊を出動させる時に用いた割り符である。すなわち兵符のある命令書があれば軍は思いのまま操れる。王の命令がなくてもだ。これがあるのとないのではこの後の計画に大きな違いがでる。

「本来なら王がいる以上、兵符は陛下に返すのが筋なのだが、新法のゴタゴタ騒ぎで宮廷の儀式も止まっておったゆえ、まだ私の手元にある」

 内府が武部尚省に訊ねた。

「私は兵事に詳しくないのだが、金吾、武衛の兵も兵符で動かせるのか?」

 金吾きんご武衛ぶえい羽林うりんは王の直属の近衛隊である。細かく言うと王城と王都の門を管轄かんかつするものが金吾、王城の外郭がいかくの警護と王都の巡検をするものが武衛、王城内部の内郭ないかくの警護と王や高官の身辺警護をつかさどるものが羽林というふうに職域は別けられている。

「王のいないときは太政官の裁可と兵符があれば動かせたのだが、王がいる以上はおそらく無理だ、動かない。王自らが命令するか王の勅命に中書の書類がなければ動く法的根拠がない。羽林でさえ命令に従わぬ者もでることを考えたほうがいい」

 羽林大将軍は部下から信望のある人物と見られていると自負はしているが、結局のところ味方につくかつかないかは五分と五分だろう。そう考えていた。王の名はそれほど重いのだ。

「金吾だけでも味方にできないか? 宮廷の門を抑えられるか抑えられないかで、この作戦の難易度は変わる」

「そこはやってみないとなんとも言えないが、王と彼等の間に信頼関係や思い入れなどはまだないだろう。有利と見るや我等につくのでは?」

「やってみるまでわからない。さいの目次第ってわけですか。敵に回った時のことも考えて計は練るべきですね」

「当然ですな」

「そうだな」

 ラヴィーニアの言葉に他の四人は一斉に頷いた。

「ではもう一度手順を確認しましょう」

 ラヴィーニアは目の前に広げられた城内見取り図の上に小さな文鎮を五、六個取り出した。

「この書類で宮城内に入れられる兵は少ない。二、三百といったところだ。そこでまず宮城の門を抑える」

 王都の門、王城の門、そして後宮への出入り口へと文鎮を兵に見立てて武部尚省が並べるように置いた。

「兵符をもって王師四軍を王都に入れ、この最短経路を使って兵を入れる」

「兵を別けて同時に他の門を抑えたほうがよくないか? 逃げられるやもしれん」

 左府は王宮の後ろにある門を指差し指摘をした。

「当然ですね。だけれども信頼できる将に心当たりは? 裏切って王を担いで我等に立ち向かってこられると困る。我々は所詮、ぞく軍。時間が経てば経つほど立場は悪くなる」

「そこは私に任せてもらおう。伊達に武部畑を渡り歩いて来たのではない」

 武部尚省はもう一度胸を張った。

「この間の時間が勝負だな」

「ええ。だが混乱はするはず、金吾、武衛がまとまって抵抗を始める前に、出来うる限り素早く王師を王城に入れることができるかどうかが勝負の分かれ目になるでしょう」

「わかった」

「ここで問題がある。王の身柄はどうする?」

囚虜ほりょにするか、傀儡かざりものにするか・・・」

 それとも殺すのか。だが一度は王として担いだのだ。さすがにそこまで踏み込んで発言するほどの度胸は彼等になく、顔を見合わせるばかりで口を開こうとしなかった。

「殺しましょう」

 その沈黙を破ったのは低い抑揚のない女の声。

「生きておいては誰かに担ぎ出されて旗印に使われるやも。後顧こうこうれいを残さぬように殺すべきです」

 ラヴィーニアは顔色ひとつ変えず、まるで卓上のゴミを屑篭くずかごに入れるくらいの小事であるかのようにさらっと言った。

「だが・・・」

「それは・・・」

 男たちはお互いにちらちら目を合わせながら口ごもる。

 狼狽を見せる男たちにチラと目線を送りラヴィーニアはあっさりとした口調で言い放つ。

「何か問題でも?」

 祭り上げたとはいえ、今日まで王と崇めていたのだ。それを殺すなどとは彼等とて多少の遠慮はあった。

 だがラヴィーニアの精神は彼等が間誤付まごついている、その良心と言う名のハードルをいとも容易く飛び越して、楽々と前に歩んでいるようだった。どうやら彼女にとっては王など、もうその程度の存在でしかないのだろう。

 ラヴィーニアのその知恵と度胸に彼等は感心する一方、その酷薄なまでの精神に薄気味悪さも同時に感じていた。


 午後の奏上や上書がひと段落つくと、執務室の前に立っているセルノアを呼び、茶と茶菓子を運んでもらって一緒に一服する。

 それが有斗の毎日の日課になっていた。

 昼間に上奏の取次ぎをしなければならないセルノアが、早番や遅番になるとそのぶん負担がかかるからと、僕がアリスディアに頼んでなるべく早番や遅番といった変則勤務から外してもらったのだ。

 本当は一秒でもセルノアと一緒にいたいからということの口実なんだけど。

 そんな有斗の心底を見透かしているのかいないのか、アリスディアはちらと眉をひそめはしたものの、最終的には有斗の希望どおりにしてくれた。

 この時間は早番や遅番の女官は、非番の時間か休憩している時間なので、他の女官も室内におらず、セルノアと二人きりになれるのだ。有斗は王の仕事があるし、セルノアはセルノアで典侍の仕事が忙しくて、なかなか二人っきりになれない有斗たちにとっては貴重な時間だった。

 だが初日にキスをしたものの、そんなこんなでそこから一歩も進展していなかった。

 こうやって午後の一時を他愛無いおしゃべりで過ごすのも初々しいって言えば初々しいし、その初々しさも含めてセルノアが大好きだし、会話しているだけで幸せに包まれる。

 だけど有斗としてはこの先のステージに進みたいというもどかしさも感じてもいた。

「それでは陛下、そろそろ・・・」

 窓の外の夕日が傾いている。退出の時間だ。

 でもここでセルノアが出て行くことはまずない。

「もうちょっと話していこうよ」

 と有斗が駄々っ子のようにセルノアの袖を引っ張ると

「わかりました」と少し笑ってはまた椅子に座るというやりとりを何回も繰り返すのも毎日のことだった。

 おもちゃ屋の中で親に「何か一つ買ってあげる」と言われた時のおもちゃを選ぶ子供のように、放課後、教室で友達と話しこんでいる学生のように、だらだらと話を続けるのが常だった。


「セルノア」

「はい、陛下。なんでしょうか?」

「キスしていい?」

 有斗の言葉にセルノアはうろたえる。

「と、突然何なのですか?」

「だって最初にキスしたけど・・・人目が気になるから、その時以外一回もしてないし・・・だから今ここなら人目も気にならないからセルノアとキスしたいんだけど、いいかな?」

 セルノアは黙って可愛らしく小さくコクリと頷いた。

 有斗はセルノアの腕を掴んで引き寄せた。近くによるといい匂いに包まれる。なんで女の子っていい匂いがするんだろう? 香水でもつけているんだろうか。

 抱きしめるようにキスすると、セルノアと密着することになり、柔らかな肢体からだを体中で感じることが出来る。


 ゆっくりと唇だけを離した。

「恥ずかしいです。陛下」

 身長で有斗より十センチは小さいセルノアはうつむくと顔の表情が見えない。

 でもいやがってるそぶりはないから大丈夫だよね?

「それ以上も・・・ダメ?」

「それ以上って・・・・・・」

 そこまで言ってセルノアは突然口を塞いだ。その言葉の意味に気付いたらしく恥ずかしそうに頬を染める。

「へ、陛下がお望みであるのなら、わ、私はかまいませんけれども」

 動揺を隠し切れない様子だったけれども、嫌がっているようには見えなかった。

「本当に?」

「・・・はい」

 有斗はセルノアの手を引いて奥の部屋に誘う。

 セルノアはその夜、有斗の部屋から出てこなかった。


 目を開けると窓から差し込んでくる東雲しののめの薄明かりに寝台に座るようにして髪を梳いているセルノアの姿が目に入る。

「おはようございます。陛下」

「おはよう・・・セルノア」

 事後とか朝チュンて呼ばれるやつだな。まぁ朝日はまだ昇ってないし、鳥もさえずってはいないけど。でもいいよな、こういうの。男になったってかんじだ。

「もう起きていたの?」

「はい」

「起してくれればよかったのに」

「・・・無邪気に眠る陛下の顔を見つめていたかったのです」

 ぐわっ! 可愛い!!

 セルノアにそんなことを言われてしまったら、例え敏腕ホストでもころっと参っちゃうんじゃないか?

 それとも僕が女性経験が少ないから、そう思うだけなのか!?

「へ、陛下? なんです? どうしました!?」

 突然、有斗に抱きしめられたセルノアは混乱したようだった。

「その・・・セルノアが可愛いから、つい」

「・・・」

 そのセリフにセルノアは目を真ん丸に見開いて有斗を見る。感激したようだった。

「光栄です・・・陛下」


 ふと有斗の目に違和感が飛び込んできた。

「・・・なんだろうこれ?」

 セルノアの右手の下あたりになにか色が見える。シミ・・・かな?

 もう少し見ようと布団をめくってみた。

「あ・・・それは!」

 慌ててシーツの血のついたところをセルノアは手のひらで覆って隠した。

「初めてだったんだ」

 そういえば・・・セルノアも少しぎこちない感じがした。

 もっとも有斗も初めてのことなのでセルノアに気を回す余裕がなく、自分のことでいっぱいになってしまっていたから気がつかなかったのだ。

「ご・・ごめん。まさか初めてだとは・・・」

 初めてだと知っていれば、その・・・自分の欲望をぶつけるようなやりかたではなく、もうちょっと色々考えたんだけれども有斗は反省する。

 悪いことをしたのではないかという罪悪感が湧き出してきた。

 しょげる有斗を見たセルノアは何を勘違いしたものか、

「どうして謝るのですか!? 私の身体に何か満足できないような落ち度がございましたか!?」と食って掛かる。

 セルノアの身体に不満などとんでもないことだ!

「い、いや、まさか・・・ただセルノアだって初めての人は僕なんかじゃないほうが・・・」

 問い詰められるとオタオタする有斗にセルノアはぐいっと顔を近づけて怒った風に

「私、初めての方が陛下であったことを心から誇りに思います!」と、萌えるセリフを言った。

 それにしても何だろう? ここまで持ち上げられると返って不安になるな。

 セルノアは有斗の何をそんなに気に入ったというのだろうか。

 とりあえずセルノアが有斗の反応を待ってじっと見つめているので

「そ、そう。ぼ、僕も初めてだったから、おあいこだね」

 と、狼狽しつつ、言い訳とも謝罪ともとれない微妙な答弁をして、有斗はその場を誤魔化した。

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