第90話 信じるしかない。今のところは。


 村上春樹の騎士団殺しを読み終わった。


 昔付き合っていた女性が産んだ子供は、自分の子供かもしれない。主人公は肖像画の依頼主からそう打ち明けられる。山奥で話し合うおじさんたちがシュールだ。


 それだけでも薄ら寒いが、谷の向かいにわざわざ家を買って双眼鏡で娘を監視しているというのだ。彼は女性に捨てられたことを受け入れられない。主人公も妻に離婚を迫られているので、二人はシンパシーを感じている。彼らの対比が、物語の一つの鍵になる。


 春樹の小説はやたらと性描写が出てくるが、そうした行為でしか女と繋がれない男の悲しさがある。女に捨てられる男というモチーフは映画ドライブマイカーにも出てきたが、性的関係性で終わらない連帯を示していたので、この作品にもそれを期待したが、うん、結局、射精かよ。


 最終的に他の男と浮気した妻が妊娠。主人公は「夢の中で君に射精したんだからそれはイデア的な恩寵で僕の子供でもあるよなあ(ニチャア)」とかわけのわからないことを言い出す。


 それに対して、妻は「それはなかなか素敵な仮説だと思う(原文ママ)」


 と、返しているのでなんだか読んでいる私がおかしくなったようなそんな気分になった。


 男のがわから、寛大に女の不貞を許して沽券を守った話と言えなくもない。もちろん、それだけの話というわけでもない。


 作中の騎士団長殺しは、架空の絵画を指しているが、そのモチーフは第二次大戦の闇とも関わっていた。時代に翻弄された画家の執念がメタファーの形になって蘇る。


『諸君は、邪悪なる父親を殺すのだ』


 現代のウクライナ侵攻を目の当たりにしているので、他人事では片付けられない。だが、騎士団長はメタファーであり、小さなおっさんであり、イマジナリーフレンドのような存在であるため、現実を動かす力はもっていない。だが、我々であるかもしれない。


 宮崎駿の映画、風立ちぬのラストは抽象的で、ふわっとしている。悪としての兵器を描けず、人間のエゴにも帰着せず、ラブストーリーに落とし所を見つけるしかなかったような矛盾した内容に思える。


 私はこの映画が好きな理由が最近までわからなかった。商業作品としても、個人の内面を表象化したものとしても中途半端だからだ。


 だが、その妥協とも挫折とも言えるところに妙に惹かれる。飛行機を愛しているが、兵器としての悪の部分に触れそうで触れない。決着すれば、個人が破綻する。芸術は本来、個人的な営みというのは騎士団長殺しに通じるものがある。


 触れれば壊れる。宮崎駿も村上春樹も巧妙にそれを回避し、逃げ切ったと思う。聞こえは悪いが、そうするしかなかったのだと思う。


 我々も少し離れた所から舞台を眺めていればいいのかもしれない。今のところはまだ。



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