とかげのしっぽ

神山はる

とかげのしっぽ

 とかげの部屋に、夜がしのびこんできた。

 どのくらい見つめていたのだろう。最後にとかげの冷たい額にそっと唇を落として、ゆっくりと立ち上がる。右手には、生ぬるくなった銀色の携帯電話。

 ひとつだけ登録された番号を呼び出して、機体を耳に押し付ける。

 ねえ、聞こえてますか。

「もしもし」

 それでもおれは、あなたを待ってる。



 ヘッドフォンの奥から、ハスキーな歌声が流れ込んでくる。最近よく聞いている洋楽。歌詞の内容は知らない。たぶん、別れた恋人に対する恨みつらみでも叫んでいるんだろう。世の中の歌なんて、みんなそんなものだ。静司は心地よい声とリズムだけを享受しながら、錆びついた鉄の階段を上っていく。カンカン、と一歩ごとに全体が共鳴するのは、階段が古いせいなのか、はたまたこのアパート特有のものなのか。おかげで誰がいつ帰ってきても、他の住人たちには筒抜けである。

 階段を上りきった静司は、パーカーのポケットに乱暴に右手を突っ込む。左手でヘッドフォンを外すと、世界はすっと静寂に包まれた。右手の指先に当たった部屋の鍵を握りこみ、取り出そうとしたときだった。

「……え?」

 視線を上げた静司は、廊下を見つめてしばし動きを止めた。

 もしかしたら、と思って何度か瞬きをしてみる。しかし、目の前の光景が変わることはない。今にも消えそうな蛍光灯。洒落っ気のないコンクリートの廊下に並ぶのは、群青色のドアが数枚。

 そして、

 うつぶせに倒れている人の身体。

 ……えーっと、これはいったい。

「あの、大丈夫ですか?」

 状況を理解できないまま、倒れた人影に向かって声をかけてみる。

 ……動かない。

 今度は少しだけ近づいてみる。倒れているのは、若い女性のようだった。七分丈のスキニージーンズに、重たげなトレンチコート。ミントグリーンのパンプスが片足、脱げかかっている。

「もしかして、死んでますかー?」

 なんちゃって。ほら、あはは、やっぱりねえ、まさかね。

 倒れた人影は、ぴくりとも動かない。

 背中を冷たいものが流れる。一昨日見たサスペンスドラマを思い出す。あれはたしか、マンションの一室に監禁された女が殺されて、それを機に同じマンションの中で連続殺人事件が……いや、落ち着け落ち着け。ほら、こういうときはどうするんだっけ。警察か、救急車か? いや、それよりやっぱり生きてるんじゃないか?

 倒れている女性は、まるで測ったように正確に、静司の住む部屋の真ん前を陣取っていた。

 おそるおそる近寄って顔を覗き込んでみるが、肩まで伸びた茶色の髪に隠れてよく見えない。埃っぽい廊下に無造作に放られた白い手。何気なく触ってみると

「つめ、たい」

 絶望が頭に押し寄せる。ぼんやりと彼女に触れた指先を眺め……気がついた。待てよ、もしかしておれ、指紋つけちゃった?

「え、あ、違うおれは犯人じゃない、いや、大丈夫、おれは無罪だ。いくら第一発見者だからってそう簡単に疑われたり……」

 そういえば、あのサスペンスドラマの犯人って、第一発見者だったよな。

 頭に浮かんできたドラマのラストシーンを、ぶんぶんと振り払う。

 そんなことより誰か、誰か呼ばなきゃ。慌てて携帯電話を取り出す。誰に言えばいいんだよこういうの警察か救急車か不動産屋なのか!?

 そのときだった。

 トレンチコートの肩がびくり、と動いた。

「んん」

 くぐもった声とともに、女性が身じろぎする。

「生きてる!」

 喜びのあまり思わず叫んでいた。駆け寄って、顔を覗き込む。不機嫌そうに眉根を寄せた顔は、随分と青白い。女性の口から、細い声が漏れた。

「ここ、かたい」

「大丈夫ですか。そりゃこんな所に倒れてたら硬いですよ。二日酔いですか、どこか気分悪いですか、救急車呼びますか?」

「ねむい」

「へ?」

「眠くて、動けない……さんまるよん」

「さんまるよん?」

「かぎ、右のポケット」

 そういったきり、女性はまた黙ってしまった。

 微かな呼吸の気配。

 まさか、本当に寝ているのだろうか。

「さんまるよんって、304号室?」

 静司は顔を上げ、自分の住む305号室の奥隣にあるドアを見つめる。この女性が304号室の住人だとしたら、自分たちは隣人どうしだということになる。今まで、こんな人とすれ違ったことなんてあっただろうか。

 女性の言っていた通りに、トレンチコートの右ポケットに手を入れる。キーホルダーひとつついてない、そっけない鍵が入っていた。

「これか……ねえ、お願いだから起きてくださいよ」

 肩に手をかけて軽く揺すってみる。おだやかな寝息を立てる女性は、まったく目を覚ます気配がなかった。

 なんでこんなところで寝るんだよ。意味わかんねえ。

「見知らぬ男に、家の鍵のありか教えないですよ、普通」

 ぼやいてみるも、もちろん反応はない。女性は相変わらず、ざらついたコンクリートの上に横たわっている。どうしようかなあ。誰か帰ってきてくれないかなあ。そう期待してみるも、アパートの周辺はしんと静まり返っていた。

 あーもう、おれ、無罪だからな。

 心の中で言い訳をすると、静司は意を決して眠る彼女の体を持ち上げた。



「お邪魔しまーす」

 誰もいない部屋に告げて、壁をあちこち適当に叩く。そのうちカチ、と何かがあたる気配がして、ぱっと視界が明るくなった。

「うわあ……」

 思わず声が漏れる。

 静司の部屋とほぼ同じ間取りの、決して広くないワンルーム。

 その床一面を覆い隠すように、大量のクッションとぬいぐるみが積み重なっていた。大小さまざまなクッション、抱き枕、テディベアにうさぎに犬。

「どうやって生活してるんだ、これ」

 これだけの量のクッションとぬいぐるみなんて、お店でもなかなかお目にかからない。とりあえず足でそれらをかき分けて、部屋の真ん中あたりに背負っていた女性をおろす。静かな寝息のまま眠りこけている彼女の両脇は、うずたかいクッションの山になった。

 大量のもふもふとした物体以外には、大したインテリアもない部屋(あるのは埋もれかけのベッドと、壁際の引き出しだけだった)を見回す。端に寄せられていた布団らしきものをかけてやる。この季節なら、これで風邪をひくことはないだろう。

「あの、おれ隣の部屋に住んでるので、なんか気分悪くなったら呼んでくださいね」

 って、聞いてないか。

 返事をしない女性をひととおり眺めて、背を向ける。

「お邪魔しましたー」

「ストップ」

 突然聞こえた声は、落ち着いたメゾソプラノだった。

 振り向くと、部屋の中央で女性が気だるげに身を起こしていた。ずっと閉じていた瞳が、開いている。しばし、彼女は無言で静司を見上げていた。顎のとがった鋭利な輪郭、うすい唇、眠たげに潤んだ黒目がちの目。

「名前」

 ようやく開いた口から、そっけない言葉が投げられた。

「はい?」

「名前、教えて」

「あ、ああ。305号室の青田です」

「青田……アオくん」

「アオくん?」

「青田だからアオくん。ナイスネーミングでしょ」

 ふふん、と小さく笑った彼女の印象が少し幼くなる。

「ね、いま何時」

「えーっと、午後5時20分ですけど」

「ふーん、じゃあ割と時間経ってるのかあ。あたしの記憶では、4時過ぎにマンションについたんだけど」

 驚いた様子もなく、女性はつぶやく。むしろ驚くのは静司のほうだ。この女性の言うことが本当なら、彼女は1時間以上もあの廊下に倒れていたということになる。

 この人、大丈夫なんだろうか。

「さっきはごめんなさい。ありがとうございました、アオくん」

 彼女はひとつあくびをすると、静司に向かってぺこりと頭を下げた。

「はあ、もう眠くないんですか」

「うーん、ちょっと良くなった気がする」

「そうですか」

「せっかくだから、もう少しゆっくりしていきなよ」

 にこりと笑って、彼女は部屋の入口に立ち尽くす静司に手招きをする。

「いや、お構いな……」

「じゃあさっそく自己紹介ね。あたしは美次加奈。女で、大学4年で、この部屋の主。はい、次は君どうぞ」

「あの」

「ほら、はやくこっち来て座ってよ」

 静司の様子などお構いなしに、この家の主、美次加奈はそばに落ちているクッションをぱたぱたと叩いている。その音に急かされるように、静司はまた部屋の中央へと戻る羽目になった。

「青田、静司です。ツキ大の2年で、日本史専攻です。お隣に住んでます」

「ふうん、じゃあ後輩なんだ」

「美次さんもツキ大なんですか」

「カナでいいよ」

「いや、それはちょっと」

「何でよ、あたしも君のことアオくんって呼ぶから、君も呼んでよ」

「それはおれが決めたあだ名じゃないし」

 当然のことを言ったはずだったのに、目の前の女性はみるみるうちに唇を尖らせた。うろんげな目線でこちらを見つめてくる。なんだか自分が悪いような気がしてくる。

「……じゃあ、カナさん」

「はい、アオくん」

「カナさんは、どうしてあんなところに倒れていたんですか」

 そうだ、そこが一番の問題だ。危うく死体の犯人、いや、第一発見者になるところだったのだ。

「アオくんこそ、あんなところで何してたの」

「あんなところって。大学の授業終わって帰ってきたら、自分の部屋の前にあなたが倒れてたんですよ」

「なるほどねえ」

 カナさんはなぜか一人で納得する。そして、あのね、と続けた。

「あのね、行き倒れてたの」

「行き、倒れ?」

「そう。自分の部屋に帰るつもりだったんだけど、あと少し届かなくて」

「はあ、なんというかすごいですね」

「そう?」

 彼女の言語感覚は、どうやら少しばかり世間とズレているらしい。

 この部屋だって、と静司は小さくつぶやく。

「結構すごいと思いますよ」

「あたしのアジト。素敵でしょ」

「趣味ですか?」

 何気なく尋ねてみる。人はいろいろな趣味があるし、時にはそれがちょっと行き過ぎることだってあるだろう。

 カナさんは否定も肯定もしなかった。

 にやり、と小さく唇の端を持ち上げる。そして次の瞬間、すっ、と静司に顔を寄せた。よける暇もなかった。まつげが触れそうなほどの距離。黒目がちの瞳が静司を見上げる。彼女の吐いた息が、喉元にあたる。

 食われる。

 直感的に、そんなことを思った。

「あたし、変温動物なの」

 それ、どういう意味ですか。聞き返した声が、情けなくかすれた。

「そのまんまの意味」

「さすがに文系のおれでも、哺乳類が恒温動物だって知ってますよ」

「それはどうかな」

 問題の答えを知っている教師のような返事。カナさんの顔がようやく離れる。息を吐いて初めて、心臓が大きく脈打っているのがわかった。

「じゃあカナさんは寒くなると体温まで下がるっていうんですか」

「そうだよ。ほら」

 当たり前のように返して、静司の手をつかむ。そしてそのまま、自分の首元へと持っていった。

「冷たい」

「ほら、言ったでしょ」

 冷えた陶器のように、すべらかで血の気のない首だった。脈すらも感じなかった。

「だから、冬は眠いんだ」

「冬眠ってわけですか」

「この子達はあたしの睡眠ライフを快適に過ごすための、大切なコレクション」

 手元にあった大きなテディベアを抱きしめて、カナさんは得意げに笑う。

「まだ9月ですけど」

「……君、ほんとにみんなと同じこと考えてるの」

 途端、カナさんの声の温度が数度下がった、気がした。

「みんなって」

「学校の人とか、この町に住んでる人とか、みんな。季節なんて本当は誰にも決められないのにさ、つまんないの」

 吐き捨てるように言う。つまんないの。

 そこにあるのは冷徹な嫌悪と、侮蔑。

 すっと、頭から血の気が引いた。そしてじわじわと眉間の奥から熱いものがこみあげる。少し落ち着いたはずの心臓が、また暴れだす。何だよ、それ。何してるんだ、おれ。

「……おれ、帰ります」

「あれ、怒ったの?」

「行き倒れたところを家まで運ばせといて、無理矢理自己紹介したあげく、つまんない人だって言われて怒らないほうがおかしいと思いませんか」

「また来てね」

 懸命に冷静さを保とうとする静司に、カナさんは平然と手を振る。

「結構です、お邪魔しました!」

 踵を返し、玄関で乱暴に靴をひっかける。背中の向こうで、携帯電話がピリピリと鳴っている。飛び出したドアが閉まる直前、

「もしもし、先生……」

 というカナさんの声が隙間から響いてきた。



 群青色のドアの前で、日に焼けたインターフォンのボタンを押す。

 しばらく待ってみるが、反応はない。

 少し迷ってから、右ポケットの中のものを取り出して、もう一度押す。

「どうぞー、鍵なら開いてます」

 ドアの向こうから、メゾソプラノの声が微かに聞こえてきた。

 静司はひとつため息をついて、ドアを開ける。昨日と同じ場所、同じ様子で、彼女はクッションを抱き寄せて寝転んでいた。重たげだったトレンチコートだけは脱いだのか、巨大なテディベアの頭にかぶさっている。静司を見ても、カナは無防備に仰向けになったままだ。

 やっぱりこの人は、ちょっと普通じゃないと思う。

「あのですねぇ、誰かも確認しないで『どうぞー』って。知らない人だったらどうするんですか」

「やっぱりアオくんだと思った」

 足元から静司を見上げて笑う彼女には、どうやら用心とか防犯という概念がないらしい。

「そんなのわからないじゃないですか」

「だって、うちに訪ねてくる人なんて他にいないし」

「友達とか宅配便とかいろいろいるでしょう」

「友達なんていないよ」

「変わってますね」

「よく言われる」

 静司は立ったまま、カナさんに右手を差し出した。

「これ、部屋の鍵です。昨日返し忘れたので」

「どうも。まだ怒ってる?」

 まったく怒られていない態度で、カナさんは尋ねてくる。

「一晩寝たくらいで人の機嫌が直ると思いますか」

「私はすぐ直るけど。アオくんはこれから大学?」

 ため息をもう一度。

「逆です。いま帰ってきたところです」

「あれ、もうそんな時間かあ」

「その調子じゃずっと寝てたんですか」

「目が覚めなかったんだからしょうがないじゃない」

 当の本人は悪びれた様子もない。

「カナさんって、よく4年生になれましたね」

「気づいたらなってた」

 単位足りてるんですか、という静司の問いに、うーんとねえ、と単位数を数え始めるも、両手を使わない時点で何となく察した。

「卒業できるんですか」

 なぜか親のような気分になってくる。カナさんは「さあねえ」とはぐらかし、クッションの山から身を起こした。

「そんなことよりさ、アオくん」

「はい」

「お腹すいた」

 静司のズボンの端をくい、と引いて可愛らしい笑みを浮かべる。どこで覚えたのか、完璧な角度の上目遣い。

「それ、おれに作れって言ってますか」

「冷蔵庫ならそこだよ」

「…………」

 何度目だったかのため息をついて、静司は無駄な抵抗をあきらめた。肩にかけていた鞄を下ろし、指さした先に置かれた冷蔵庫のドアを開ける。

「あたし、オムライスが食べたいな」

「……卵どころか、ほとんど食材ないんですけど。ちゃんとごはん食べてるんですか」

 冷蔵庫の中には、ペットボトルのお茶が1本、それから賞味期限切れの豆腐が1パック。まさかのそれだけだ。

「思い出したときはちゃんと食べてるよ」

「だからそんなに体が冷たいんじゃないですか」

「まさか」

 文字通りからっぽの冷蔵庫を眺めてみるが、いっこうに食材が生えてくる気配はない。

「うーん、おれの部屋から何か持ってきましょうか」

「いいね、手料理?」

「まさか」

 カナさんの口調を真似て、静司は一度自分の部屋に戻ると、食材置き場で一番目についた袋を掴んで304号室へと戻った。

「カナさん」

 携帯電話をチェックしていたカナさんがぱっと顔を上げる。画面をクッションに押し付けるようにして伏せ、おかえり、と静司を振り向いた。ちらりと見えた画面には、「先生」の2文字と電話番号が並んでいた。

「はい、どうぞ」

「えーロールパン?」

「文句言わないでくださいよ、おれの食料なのに」

 オムライスが食べたかったけどまあいいや、とつまらなそうにロールパンの袋を眺めると、いただきます、とひとつ取り出してかじり始める。カナが袋を差し出してくるので、静司も隣に座り込んでひとつ手に取った。スーパーで一番安かったロールパンはぱさぱさと乾いていて、お世辞にも美味しい食事とは言えなかった。あとでちゃんとした夜ご飯が必要だな、と静司は心の中でつぶやく。

 しばらく黙って口を動かしていたカナさんが、突然「ねえ」とつぶやいた。

「ねえ、君は何のために生きてる?」

「いきなり何ですか」

「美味しいものを食べると、『生きててよかった』ってよく言うじゃない。テレビとかで」

 頭の中で、数日前に観たグルメ番組を思い出す。女性タレントが高級なステーキを頬張りながら、確かにそんなことを言っていた。

「その人たちにとって美味しいものを食べることは、生きてる目的のひとつなんだよ、きっと」

「まあ、そうかもしれないですね」

「でも、あたしはそうじゃない」

 きっぱりとした口調だった。

「息を吸って、吐いて、酸素が体中を循環する。ただそれだけが生きるってこと」

 窓を閉めたままなのに、視界の端でカーテンの裾がひらりと揺れた。

「ねえ、アオくんはどう?」

 君は何のために生きてる?

 大きな黒目だけをこちらに向けて、カナさんは尋ねてくる。

「そんなの、急に聞かれても」

 言葉がつまった。

 何のために生きているのか。自分の人生をどう意義あるものにするのか。生きる目的は、意味は?

 世間はいつも問うてくる。キャリアデザインをしろ、と大学の先生は声高に説く。けれど、それを追いかけた先に何があるんだろう。誰が正解を教えてくれるんだろう。意義のなかった人生は、意義を見つけた誰かが買い取ってくれるんだろうか。

 息を吸って、吐いて、酸素が体中を循環して。目的があろうがなかろうが、静司は生きていなければならない。何のため、なんて考えるだけ無駄だ。本当は心のどこかで、ずっとそう思っていた。カナさんは、そんな静司の心を見透かして、こんなことを聞いてくるのだろうか。

「カナさんは、はっきりわかるんですか。自分は何のためにも生きてないって」

「わかるよ。あたし、ひとりが好きなの。だからひとりでずうっと考えるの。人間のこととか、この世界のこととか、自分のこととか、いろいろ。そうしたら、何もないところにたどり着くんだよ」

「そんなもんですか」

「うん、そんなもん」

 平然と、淡々と、カナさんは頷く。

「ひとりが好きなわりに、おれは随分と引き止められてるんですけど」

「だって、君は世界の外にいるにおいがする」

 ふふ、と楽しそうな微笑。言われたことの意味が理解できずに、思わず眉をひそめる。

「……なんですか、それ」

「あたしたちを囲んでるこの世界の、外側にいる人間。みんなが生きている平和な毎日に入り込めなくて、じっと外から見つめてる。そういう人間のにおいがするんだ、アオくんは。昨日からずっと感じるの。だから、あたしはアオくんが面白い」

「おれは普通の人間ですよ。どこにでもいる大学生です」

「ううん、君はそんな目をしてる。あたしと同じものが見える目をしてる」

 カナさんの目が、まっすぐに静司を見た。

 食われる。

 またそう思った。

 感情のない深い黒色の目。その目に、何もかも覗かれて吸い取られてしまう。

「……おれとカナさんは、全然似てないと思いますよ」

 無理やり目線をそらして、ようやくそれだけ言い返した。さて、どうだろうね。メゾソプラノのつぶやきが、俯いた左耳に届いてきた。

 ピリピリ、ピリリ。静かになった部屋に、くぐもった音が響いた。クッションに伏せられていた携帯電話が、震えている。カナさんが小さなため息をついて、一瞬の逡巡ののち通話ボタンを押した。

「もしもし、先生? うん、うん……ちゃんとしてる。後でかけ直すから。うん、じゃあね」

 短いやりとりだけをして、電話を切る。そして何もなかったかのように、安っぽいロールパンをまたひとつ取り出した。

「大学の先生ですか?」

「違うよ」

「じゃあ、高校の?」

 カナさんはただ黙ってロールパンをかじっている。

「でも、ちょっと安心しました。電話してくる人がいて。さっき友達はいないなんて言うから」

「先生は友達じゃないよ。あたしよりずっと年上だし、男だし、子持ちだし」

「そうじゃなくて。そういう仲の人がいるってことです」

「たしかに、先生はあたしにとって一番重要な人かな」

 一番重要。なぜかその言葉が、引っかかった。小石を飲み込んだみたいに、肺の入口が重たい。どうしてだろう、唇が乾く。

「一番重要、ですか」

「うん」

「友達でも家族でもないのに?」

「うん」

「……そうですか」

 カナさんはふたつめのロールパンを食べ終わると、ごちそうさま、と手を合わせた。膝にかかっていた布団をかき寄せ、薄い肩がきゅっと縮こまる。

「今日は寒いね」

「そうですか? むしろこの部屋は暖かいと思いますけど」

「ごはん食べたら眠い」

「カナさんって、いつでも眠いんですね」

「眠り姫って呼んでもいいよ」

「呼びませんよ」

 じゃあおれそろそろ帰りますね、と立ち上がる。冷蔵庫のそばに放りっぱなしだった鞄を拾い上げる。視界の端でカナさんが立ち上がろうとして、なぜかもう一度座りこんだ。

「アオくん」

 座ったままのカナさんが、静司を呼んだ。

「はい」

「とかげって好き?」

「とかげですか。まあ、嫌いではないですけど」

「そう。あたしは大っ嫌い」

 感情の読み取れない顔だった。

 薄茶の髪の下で、カナさんの目がゆっくりと瞬きする。そして、次の瞬間にはもう静司などいなかったかのように、携帯電話の通話ボタンを押した。

「先生、遅くなってごめん……うん……」

 ぴんと、何かがふたりの間に張り詰めた。透明で、隙間のない何か。

 静司はしばらく丸まったカナさんの背中を見つめ、黙ったまま部屋をあとにした。



 授業が終わったあとの教室には、学生たちのおしゃべりが響いていた。

 静司は窓の外へと目を向けながら、さっきまで使っていたノートで体にまとわりつく残暑をぱたぱたと追い払う。

 カナさんは、今日も眠っているのだろうか。

 廊下で行き倒れていたカナさんを拾ったあの日から、2週間が経っていた。あれ以来、彼女の姿はみかけない。

 あの奇妙な隣人と出会ったからといって、別に世界が変わったわけではなかった。静司は今日も大学で講義を受け、友人とたわいもないおしゃべりで時間を潰している。けれど、彼女の言葉と目が、あれからずっと静司の内側に居座っている。居座って、常に静司の隠された本音を見透かしてくる。

「なあ、聞いてる?」

「あ、ごめん、何だっけ」

「だからさあ」

 静司の隣に腰掛けた友人が、話の続きを始める。話題の中心は最近付き合い始めたという友人の彼女だった。

「ほんとに超可愛いんだって」

「ふうん」

「おれ、あの子に会うために生まれてきたのかも。あの子もそう言うんだ」

「バカらしい」

 思わず笑っていた。

「はあ? バカらしいって何だよ」

「その子、お前のことわかってないんじゃない」

「どういう意味だよ」

「だって、他人のために生まれてくる人なんていないよ」

 あたしたち、出会うために生まれてきたのね。そんなことを言う人間は、きっと生きる目的に悩んだことなどないだろう。お手軽な人生だ。少なくともカナさんなら、絶対に言わない言葉だ。

「おれたちのこと、見下してんの」

 いつの間にか、友人の顔が険しくなっていた。明らかに機嫌が悪い。

「別にそういうわけじゃ」

「じゃあ嫉妬してるわけ」

「だから違うって。簡単に決めつけるのはおかしいってことだよ」

 ため息と舌打ちを同時にしたい気分だった。

 友人の表情が変わることはない。

 だめだ、全然伝わってない。

 いつもなら流して「惚気るなよ」と笑えたはずの話題なのに、どうしてこんなに言い返してしまったのだろう。今まで何度も経験したような会話なのに。今はこの男の俗っぽい盲目さが我慢できない。

「お前さ」

 苛立ちを含んだ彼の目元に、一瞬未知のものを見るような嫌悪が混ざった。

「たぶん一生人のこと好きにならないな」

 投げつけられた言葉は、意外なほど深く静司の心臓に刺さった。

 伝わらないんだ。おれたちは違う。

「もういいよ」

 ため息でも舌打ちでもなく、出てきたのはその一言だった。

 鞄を掴んで立ち上がる。おい、と声がかかるのを無視して教室を出た。吸い込んだ空気が重い。どうしてか、カナさんの顔が浮かんだ。



 心臓がどす黒く濁っている。そんな気がしていた。

 そんな自分をどこか他人のように感じながら、静司はカンカン、とアパートの階段を上る。右のポケットに手を入れ、しかし、足はいつの間にか自分の部屋を通り過ぎていた。

 304号室。気まぐれで、眠たげで、どこか孤独な彼女の部屋。

 群青色のドアを見つめる。 

「何してんの、アオくん」

「カナさん」

 驚いて、いつもより声が大きくなった。

 大きな封筒を抱えたカナさんが、すぐそばに立っていたのだ。

 初めて会ったときに着ていたトレンチコートに加え、カナさんの首には厚手のマフラーが巻きつけられていた。ミントグリーンのパンプスは、赤茶色のショートブーツに変わっている。いくらなんでも、季節を先取りしすぎていると思う。

「あ、わかった。あたしに会いにきたんでしょ」

「ちょっと気になっただけですよ」

 なぜかほっとする。カナさんもちゃんと、普通の人と同じように誰かと会話をしたり、外を歩いたり、買い物をしたりするんだ。

「ちゃんと外に出てるんですね、郵便ですか」

 抱えた封筒に視線を向けると、カナさんはなぜかさっとそれを後ろ手に回した。

「今日はたまたま。先生とデートだったから」

 その答えに、ぐるり、と心臓がうごめいた。どす黒い心臓。

「……すごく仲がいいんですね」

「そりゃあもう何年も一緒だから」

 「先生」は彼女を外に出すことができる。何年も一緒で、たぶん、この不思議な女性と連絡を取っている唯一の人。静司は、違う。

「じゃあ、おれはこれで」

 濁った心臓がコールタールのように、ねっとりと溶け出しそうな気がした。気持ち悪い。吐きそうだ。軽く頭を下げて、自分の部屋に戻ろうとする。

「何かあったでしょ」

 通り過ぎる直前、メゾソプラノの声がそれを遮った。

「え」

「今日は一段とにおうよ。あたしと、同じにおい」

 いたずらっぽい口調で、カナさんが微笑む。まるで予言の当たった占い師みたいに。

「におうなんて大袈裟ですよ。ちょっと学校で友人ともめただけで」

「それで?」

「それだけです。よくあることでしょ」

「それでアオくんは、諦めている」

「何をですか?」

「人間であることを。その人と同じ目線で世界を見ることを」

 もういいよ、と吐き捨てた自分の声を思い出す。もういいよ、おれはお前の世界から出て行くよ。確かに、あのとき自分はそう思ったんじゃないか。

 ねえ、君は何のために生きてる?

 君は世界の外にいるにおいがする。

 君はそんな目をしてる。

 カナさんに言われた言葉が、いくつもリフレインする。

 この人は、だから、君はこちら側の人間だよと言いたいのだろうか。あたしと君は似た者どうしだよ、と。そのくせ、この人はときどきおれを締め出してしまうじゃないか。

「そんな、カナさんじゃあるまいし」

「ふうん、そっか」

 カナさんの黒目が、静司をとらえる。また見透かされる。このどす黒い心臓を覗かれる。

 嫌だ、と思った。それは嫌だ。

「失礼します」

 視線を振り切るように立ち去る。背中の向こうで、ふらふらとカナさんが揺れる気配がしたが、無視をする。乱暴にドアの中に飛びこんで、そのまま玄関先に座りこんだ。背中に金属製のドアの、冷えた温度が伝わってくる。

 首にかけられていたヘッドフォンを耳に押し当てる。世界の音が消える。

 音楽プレイヤーのボタンを押せば、最近買ったばかりの静かな洋楽が流れ出す。Lizardという名前の歌手だった。

 固くまぶたを閉じる。浅い息をして、吐き気をこらえる。

 あの人に、どす黒い自分の本性を見透かされるのは嫌だった。

 それは、「ほら、似た者どうしでしょ」と暴かれてしまう恐怖であり、同時に「あたしたち、似てないね」と言われるかもしれない恐怖でもあった。だってたぶん、あの人にはこんな黒々とした感情なんて存在しない。彼女はいつだって、静かで透明な世界に生きている。

 似た者どうしなのか、違う生き物なのか。

 カナさん、あなたのいる世界は、おれの立っている場所と同じですか。あなたには何が見えているんですか。

「おれには、教えてくれますか」

 つぶやいた声は、ヘッドフォンの音楽にかき消されて、静司自身の耳には届かなかった。



 インターフォンに手を伸ばし、迷ってまた戻す。この作業を繰り返して、もう10分以上は経っている。いい加減、左手の荷物が重たくなってきて、静司は目を閉じると一息にボタンを押した。間の抜けた音が響く。

「どうぞー」

 ドアの向こうから漏れてくる声に少し安堵する。

「カナさん、あの」

 玄関から声をかけると、廊下の向こうでひらりと白い手が手招きをする。あいかわらず防犯意識の低い人だ。招かれるまま部屋に入ると、いつもと変わらぬ様子のカナさんはクッションに埋もれて座り込んでいた。

「久しぶり、アオくん」

「玄関の鍵、また閉めてないんですか」

「アオくんがいつでも来られるように開けてるの」

 冗談なのか本気なのかわからない口調も、いつも通りだった。

「実家から野菜が送られてきたので、おすそわけしようかと」

 抱えてきたビニール袋を、少し持ち上げる。

「あら、素敵なお隣さん」

 笑顔を横目に、冷蔵庫を開いて野菜を並べる。この人が果たして野菜を料理して食べるかどうかは別の問題だけれど、どうせ口実だった。

「……この間は、すみませんでした」

「え、何が?」

「態度、悪かったなって」

 あの日以来、気づいたら彼女に会うための口実を探していた。そのくせ勇気が出ないまま、今日までずるずると先延ばしにしていたのだ。

「そうだった?」

「いえ、覚えてないならいいんです」

 冷蔵庫をぱたんと閉めると、それよりもアオくん、と背中側から声がかかった。

「あたし、喉かわいたな」

 いつかと同じ上目遣い。静司が断るなんて思ってもいない態度に、思わず笑っていた。まったく、この人はどうしてこうも無防備で自由なんだろうか。

 わかりました、と苦笑いをして、冷蔵庫の隣にある戸棚からコップを手に取る。

「アオくんはいいお嫁さんになれるね」

「おれ、女じゃないですよ」

「あたしはほしいけどなぁ。こんな面白いお嫁さん」

「面白い?」

「うん、普通の人間のふりをして、実は全然違う。すごく面白い」

 当たり前のように言うカナさんに、静司は黙って水の入ったコップを差し出した。受け取る瞬間、触れ合ったカナさんの指は水と同じ温度だった。

「あいかわらず手が冷たいですね」

「アオくんが熱出したら助けてあげる」

「その前にカナさんが死んじゃいそうな気がします」

「死なないよ、あたしは。ただ眠いだけ」

 コップを包む自分の手を眺めながら、淡々とした口調でカナさんは言う。それに、と言葉が続いた。

「アオくん、人はひとりでは死ねないんだ」

「はい?」

「でも、あたしはひとりで死ねるよ。誰にも看取ってもらわなくていい。だからあたしは、自分は人間じゃないと思ってる」

 これ、あたしの持論、とカナさんはそばにいたぬいぐるみの鼻をいじっている。

「人間じゃないとしたら、カナさんは何なんですか」

「何だと思う?」

 意地悪な質問。その横顔を眺めながら、静司は、ふ、と口を開いた。

「でも、カナさんの目ってとかげに似てますよね」

 カナさんが、驚いたように顔を上げた。

 見開いた目でひとつ瞬きをして、それからなぜかゆったりと微笑む。優しくて、あやしい笑みだった。

「そう?」

「目力の強さとか、ちょっと冷たい感じとか。似てる気がして」

「ふうん。じゃああたしの尻尾ってなんだろうな。とかげは自分のために自分の体を捨てるけど」

「……人ですよ、カナさんの尻尾は」

 静司は、思わずつぶやく。誰も訪ねてこない部屋で、世界の外側のにおいを嗅いで。外敵から身を守るために尻尾を捨ててしまうとかげのように、カナさんは、人間をいっぱい切り捨てて生きてる。

 カナさんは、じゃあ世の中はあたしの尻尾だらけだ、とゆるりと微笑んだまま言った。

 話が終わるのを待っていたように、カナさんの携帯電話がふるふると震えた。手早く通話ボタンを押したカナさんは、もしもし、うん、明日には必ず、と言葉少なに対応して、すぐに電話を切った。

「また『先生』ですか?」

「そう、最近は毎日電話かかってくるんだ」

「……よかったですね」

「さあ、どうだろうね」

 はぐらかすような声に、静司は返す言葉がなくて目をそらす。

 そのとき、あっとカナさんが小さく叫んだ。

 顔を上げると、カナさんの足元にコップが転がっていた。こぼれた水が膝から下を濡らしている。何が起きたのかわからない、という顔で、彼女はぼうっと自分の足元を見つめていた。

「ちょっと、大丈夫ですか」

「あ、うん」

 驚いて声をかけると、やっと我に返ったように小さく頷く。

「……あたしの手、変かな」

「何言ってるんですか、誰だって水くらいこぼしますよ」

「そう、かな」

「拭くもの持ってきますね」

「……別にいいよ。もともと冷たいんだから、濡れたって変わらない」

「余計ダメですよ。この辺り探してもいいですか」

 静司は立ち上がって、引き出しを開く。その中を探りながら、カナさんは、とつぶやいた。

「カナさんは、怖いと思わないんですか」

「何が?」

「自分がひとりでいることとか、生きる目的がないこととか、他の人と違うこととか」

「アオくんは怖いんだね」

「ときどき怖い。おれは普通の大学生のはずなのに、ふとした瞬間に全部が遠くに行ってしまって、ひどく冷めた目でそれを見ているのに気がつくんです」

「ほら、あたしの言ったとおり」

「カナさんはそんなおれを見透かしてしまうから、一番怖い」

「じゃあ今日はどうして来たの」

 二段目の引き出しに手をかけながら、どうしてでしょうね、と少し笑う。

「すべてを見透かしているカナさんの隣は、実は一番楽なのかもしれません。何をごまかしても無駄だから」

「すごい、告白みたい」

「からかわないでください」

「あたしも、アオくんなら隣にいていいよ」

「何言ってるんですか。カナさんには先生がいるでしょう」

 自分で言ったくせに、その瞬間だけ息がつまった。

「先生は比べる相手じゃないよ」

 三段目の引き出しを引き開ける。大きな茶封筒が、乱暴に突っ込まれていた。きちんとしまわれずにのぞいた書類の文字に、静司はぴくり、と動きを止めた。

 取り出してみる。

 書かれた文面を目が追う。

 手が震えていく。

「……カナさん、これ」

「あった?」

 ゆったりと振り向いたカナさんが、静司の持っている書類を見て、息を飲んだ。

「なんですか、これ」

「それは」

「カナさんは、病気なんですか」

 病状を記した医師の診断書、入院のための契約書、問診票。硬く難しい言葉が並べ立てられた、無機質な書類の束。

 しばし、息を飲んだまま固まっていたカナさんは、やがて拗ねたように笑った。

「あーあ、ばれちゃったか。つまんないの」

「カナさん」

「あのね、あたし冬眠するの。夏が過ぎるとだんだん体温が下がって、眠ってしまう病気。最近、動けなくなる前に早く入院しろってうるさく言われてて。もうそろそろだなーとは思ってたんだけど」

 まるでとかげみたいでしょ。小さなつぶやきが、俯いたカナさんの口元で小さく溶けていく。

 意味がわからなかった。いや、意味はわかった。彼女は本当に変温動物で、とかげで、冬には眠ってしまうのだ。普通の人とちょっと雰囲気が違うのも、いつも眠たげなのも、静司とカナさんが出会ったのも、全部それが理由なのだ。いま、全部わかった。

 あは、と息が漏れるように笑ってしまった。笑うしかなかった。

「あは、あはは。なんですか、それ」

「アオくん、怒ってる?」

「怒ってますよ!」

 叫んでいた。脳の奥がギリギリと締め付けられる。熱い。苦しい。

「すごく怒ってます。どうして、どうして隠してたんですか」

 話したって何も変わらないでしょ。そっけなく答えるカナさんの表情は変化がなくて、感情が読めない。

「おれはカナさんにすべてを見透かされてて、でもおれはカナさんのこと何も知らなかったんですね。似た者同士だなんて、バカみたいだ。カナさんはおれを少しも信じてなんかいなかった」

「違うよ」

 やっとカナさんが顔をあげる。黒目がちの目が、うるんでいる。それでも、溢れてくる言葉を止められなかった。

「隣にいていいよ、なんて気まぐれなこと言わないでください。どうせおれには何も言わずにいなくなるつもりだったのに。おれは、カナさんにとってとかげの尻尾でしかなかったんでしょ!!」

 あたしと同じものが見える目をしてる。この人はそう言った。孤独で気まぐれな彼女の世界に、静司は入ることを許されたと思った。普通のふりをしながら、どこか心の奥でくすぶっていたものを見破られて、それでも、彼女が同じ場所にいてくれると思っていた。けれど、そんなものはすべて幻想だったのだ。大事なことは全部隠して、カナさんはそのうち黙って消えてしまうつもりだった。他のたくさんの人と同じように、静司は彼女の捨ててしまうものの一部だったのだ。

 静司の言葉を真正面から受け止めていたカナさんは、力なくクッションの上へと横たわる。そうなのかもしれない、と唇が小さく動いた。

「あたしは、結局誰の隣にいることもできない、とかげなのかもしれない。アオくんさえも、尻尾なのかもしれない」

 小さく息を吸う。そして、噛み締めるように言葉を繋いだ。

「でも、アオくんはあたしにとって初めて会った同類だったんだ。うれしかったんだ。本当だよ」

 ああ、眠いなあ。独り言のようにつぶやいて、カナさんのまぶたが重たげに上下する。

「……カナさん?」

「あたしが眠っちゃったら、アオくんは悲しんでくれる?」

「どういうことですか」

 すうっと、頭に上った血が引いていく。嫌な予感がした。

「もう、当分目が覚めない気がするから」

「そんな、だってまだ秋でしょ」

「季節は決められないって、前に言ったじゃん。ね、アオくんは悲しんでくれる?」

 首を動かすのすら億劫な様子で、カナさんは静司を見上げる。

 人形みたいに倒れていたこの人を拾ってから、静司はずっと見透かされて、かき回されて、舞い上がって、裏切られて、それでもそばに来てしまった。彼女のいる場所に、ずっと、ずっといたくて、だから。

「……たとえとかげのしっぽでも、おれはカナさんの隣にいたいです」

「よかった。なら、そんな泣きそうな顔しないで」

「してないですよ」

 ふわり、と安心したようにカナさんが笑う。静司もせいいっぱいに口角を上げてみる。上手く顔が動かない。

 カナさんが力のない手で、携帯電話を差し出した。

「もしあたしが寝ちゃったら、先生に、電話して」

「先生って、もしかして」

「説明したら、すぐわかってくれるはずだから。あーあ、あたしが、とかげじゃなければよかったな……そしたら……君に、怒られなくてすんだ」

 黒目がちの目が、ゆっくりと閉じていく。

「カナさん、待ってくださいよ」

「あたし……アオくんのこと、結構……気に入ってたんだ……」

 細い指先が静司へと伸びてくる。そっと、その手を取る。ふふ、といたずらっこの声でカナさんが笑う。

「あたたかい」

「カナさん、おれは」

「アオくん、ばいばい。おやすみ」

「……おやすみ、カナさん」

 たくさんのクッションとぬいぐるみの中で、とかげは眠る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とかげのしっぽ 神山はる @tayuta_hr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ