第2話 間章

駿河国君沢郡内浦村

 天正一八年 (西暦一五九〇年) 夏


 開けた視界の中心に一本の線が延びる。上部の澄み渡った薄い青と下部に広がる濃密な青とを区切る線だ。遥か彼方を直進する水平線は、夏の渇くような直射日光によってその姿態を揺らめかせている。

徐々に景色が変わる。下部の深青の面積が広がり、距離が接近してくる。刹那、表面で乱反射した日光が、嘉助の眼球に入り、視界全体が一時的に白く発光した。冷たい感触が指先を捉え、そのまま手、腕、頭と順番に身体が液体の中に没入する。熱く渇ききった空気によって火照った身体が、すぐさま冷却され、身体を包む液体と同化していく。


身体が海水に馴染んだところで、嘉助は微かに目を開く。差し込む日光が辺りを白く照らし、水面付近は明るいが、下を見遣ると、水面とは違い海本来の色である青が段階的に深くなり、人の視界を遮る。

嘉助は頭部を海底方向に向かって落とし、両手と両足を上手く使って水中を進んだ。右手に持った銛が邪魔になるが、右腕と水平にして最大限水の抵抗を抑える。突然の侵入者に驚いた小魚が、嘉助の進行方向を避けるように散らばり道を作ってくれる。

水面から底まで半分の距離を泳いだあたりで、再び視界が白く染まった。嘉助は泳ぐのを止めて、周囲を見渡す。無数の白い小さな光が、嘉助の周りをぐるぐると旋回しているようだ。一瞬、何が起こったのかわからず、呆けていたが、すぐにその小さな白光の正体が判明した。

鰯だ。鰯の身体を覆う小さな鱗が、僅かな光を反射して輝いているのだ。そして、それぞれの小さな光が無数に集まり、海中に光の渦を形成している。

鰯たちは人間を全く警戒していないようだ。それどころか人を侮るように、嘉助の周りを旋回し続ける。

鰯の群れは見たことがあるが、これほどの規模のものは初めてだ。見たことのない光景にしばらく圧倒され、呼吸を忘れる。口中に溜めた空気が淀み、必然、息が苦しくなったところで、嘉助ははっとする。まだ海に潜った目的を達成していない。鰯の遊泳に見とれている場合ではなかった。

幸いまだ息はもちそうだった。嘉助は、鰯の群れの中を強引に掻き進む。侮っていた陸の生き物の反撃に、鰯たちは驚き一部が四散して、離れた場所で再び群れを形成した。嘉助は、それを無視して海底に向かって進む。


さらに進み、暗い海底付近まで到達した。早速、幾つも転がる大きな岩石の隙間を覗き込む。

水面付近に比べれば暗いが、快晴のため普段よりは隙間の奥まで見通せる。嘉助は目を細め、精神を集中して、獲物の気配を探す。が、残念ながら目ぼしい獲物はいなかった。貝類の幼生体はいるが、食用になるほどの大きさのものはいない。建切網漁の組から外されてからは、暇があれば海に潜っていた。そのために、採りすぎたのかもしれない。

今回は運が悪かったようだ。鰯に邪魔された分、もう息が長くはもたない。嘉助は息継ぎをするため、海面に上がる。


一度海面に上がった嘉助は、さきほどより少し浅めの岩礁まで泳ぐ。小さな岩が集まり、小高い岩礁となっている場所だ。

嘉助は早速獲物が潜み易い穴を覗こうと、暗い岩の隙間に顔を差し入れる。すると、突然黒い物体が嘉助の顔に向かって直進してきた。嘉助は慌てて顔を背ける。黒い影は顔があった場所を何の躊躇いもなく、悠々と泳ぎ隙間から外に出た。海中を照らす光が、その正体を暴いた。口黒(石鯛)だ。口黒は、嘉助を気にすることなく堂々と岩礁の近辺を泳いだ。

獲物としての価値は充分だ。この岩場は浅いし、足が届く。口黒の身体も大きい。しっかりと重心を安定させた一撃を放てば仕留めることができそうだった。

全身が鈍い銀色と口周辺の黒の対比が著しいこの魚は、磯に巣くう魚の中でも美味として知られている。自分で食べてもいいし、村の富者に売ればある程度の金になる。


嘉助は息継ぎをしながら、淡々と機会を窺った。口黒は相変わらず緩慢な様子で付近を泳いでいる。しかし、油断はできない。口黒の危険を察知した時の動きは素早い。闇雲に狙っても仕留めることはできない。

嘉助は長期戦を覚悟したが、機会は意外にも、すぐに来た。口黒が岩礁の小さな穴に入り込んだのだ。その穴は、先に抜ける通路のない穴で、入口を塞いでしまえば逃げ場はなくなる。

嘉助が急いで穴の正面に回り込むと、案の定、巨大な口黒は小さな穴の中で右往左往している。これならば、未熟な嘉助でも仕留めることができそうだ。

焦っては仕損じる。精神を統一して、来るべき時を待つ。すると、嘉助の思いが海神に通じたのか、口黒が横を向き、絶好の機会が訪れた。囲が広がったところに、嘉助は落ち着いて右手に持った銛を突き出す。柔らかな感触がして、先端の刃が口黒の身体を貫いた。口黒は必死に暴れるが、返しのついた刃は簡単には抜けない。

嘉助は勝利を確信する。しかし、相手はその気を抜いた一瞬の隙を見逃さなかった。嘉助が銛を海面に上げようと斜めにした瞬間、口黒は身体をくねらせ強引に傷口から銛を外し、瞬く間に沖に向かって泳ぎだしたのだ。早くも勝利に酔っていた嘉助は突然の事態に対処することができない。ただどうしようもなく、茫然と獲物の後姿を見送るだけだ。


余りにも唐突だったため、嘉助は数秒間静止したが、それからすぐに悔しさと自分に対する怒りが湧き上がってきた。自分の不甲斐なさが憎らしい。嘉助は拳を握りしめ、銛を海底に突き刺す。息を吐き出し、海中で思い切り叫んだ。そうすると、ほんの少しではあるが、胸が落ち着いた。

そうやって、感情を吐き出すと、胸が一気に苦しくなった。肺から空気を吐き出してしまったために、もうもたない。嘉助は、全速力で海面に向かう。海水の浮力も手伝って、凄まじい速度で海面が近づいてくる。

白い日光が目に入るが、嘉助は気にもせずそのままの勢いで海面に飛び出した。口を大きく開け、できる限りの空気を身体内部に送り込む。また、急激に明るい海面に出たため、視界が真っ白になる。目をきつく閉じ、無我夢中で息をしていると、次第に呼吸が落ち着いてきて、思考も正常になってきた。とりあえず、失神せずに済んだ。

明るさに慣れてきた目をゆっくりと開けると、海中で見た青とは違った薄く白がかった青が視界に広がった。遥か上空には照りつける太陽が見える。強い日差しは早くも嘉助の皮膚にまとわりついた海水を乾かしている。

嘉助は少し泳ぎ、先ほど飛び込んだ猿岩にもたれかかった。岩の形が、猿が屈んだ姿に似ているので、村でそう呼ばれている。その猿岩のごつごつとした岩礁に背を寄せ、心地よい波の感覚に身を委ねながら、嘉助は気を抜いてただ遠くを眺めた。村に帰る前に少し休憩したかった。


村はずれにある波穏やかな小さな湾内を泳いだ。湾には小さな浜辺があり、人目に付かないその浜から陸に上がるつもりだ。海に入ったことはあまり村の皆に知られたくなかった。

長さにして十間ほどの小さな浜には、流れ着いた海藻や打ち捨てられた船の残骸などがあるだけで、人影はない。嘉助は柔らかな砂の地面に足をつき、浜から陸へと上がった。乾いた砂が足に纏わりつく。


「嘉助。」

 浜にしゃがんで、僅かに貝などの獲物が入った網を見ていると、背後から呼びかける声が聞こえた。嘉助はびくりとして後ろを振り返る。見ると、一人の女性がそこに立っていた。幼馴染の静だ。

「何が獲れたの?見せて。」

 静が網を覗きこむため、日に焼けた顔を近づけてくる。これでも漁村の女にしては白い方だ。特に村の海女は驚くほどに肌が黒い。静は内浦村の網元の娘で、家が裕福なため、海に潜ることがなく、肌も白く滑らかだった。

「おい。勝手に見るなよ。」

 嘉助は網を隠そうとする。

「なんで?別に構わないでしょう。村の皆には嘉助が海に潜っていることは言わないから。」

 静は構わずに網を見ようとする。嘉助が海に潜っていることを知っているのは、家族を除けば静だけだった。村の漁組には海に近づくなと言われていたため、村の皆には言っていない。

嘉助は手で遮って覗かせないようにしたが、静は構わず網を見る。そして、案の定、嘉助を馬鹿にした表情を浮かべた。網を見られたくなかったのは、大した獲物が入っていないからだ。

「…何しに来たんだよ?」

嘉助はにやにやと笑っている静に向かって、仏頂面で言った。

「様子を見に来ただけよ。なにを怒っているの?組を外されたことをまだ気にしているとか?」

 無言で押し黙るしかなかった。図星だったからだ。さすがに幼い頃から共に過ごしてきただけあって、静に内心を隠すのは無理だった。

「それは、気にしなくても大丈夫。父さんが一時的に外しただけだって言ってたから。しばらくすれば、また漁に復帰させるつもりだそうよ。」

静は、黙り込む嘉助に向かって明るく言い放つが、その言葉に嘉助は更に表情を硬くする。漁で何度も失敗を繰り返す嘉助を網元がそう簡単に許すとは思えなかったからだ。静が自分のことを慮っていることはわかるが、こうも簡単に言い切ってしまう静の態度に、どうしても苛立ってしまう。

「…勝手なことを言うなよ。組のことはお前には関係ないだろう。それに、もうここには来るなと言った筈だ。」

嘉助の冷たい言葉に、静の表情が途端に曇る。嘉助を見つめる瞳に影が宿る。その暗い顔に、嘉助の心も痛むが、仕方がない。これも彼女のためを思っての発言だった。組を外されるような人間と関わっていても何も得することはない。網元の娘とあらば尚更だ。


「…今度の祭りはどうするの?」

しばらくの沈黙の後、静は重い口を開いた。

「…ああ、祭りには行くつもりだ。」

 嘉助はそう返答した。静の言う祭りとは、数日後に近づいている貴船祭のことだ。村の者が総出で祝う一年に一度の賑やかな祭り。海の神に対して感謝の意を表明し、日々の憂さを払うために毎年決まった日に行われている。嘉助からすれば、あまり楽しいものではないだろうが、さすがに参加しないわけにはいかなかった。内浦村のような相互扶助によって成り立っている村では集団に関与しなければ生きていくことができないからだ。

「そう、良かった。」

 静は嘉助の答えに満足したのか、一転して顔をほころばせた。

だが、嘉助は険しい顔を崩さない。これまでの貴船祭では、幼馴染である静と一緒に祭りを見て周るのが恒例だったが、今年は止した方がいいだろう。やはり、一緒にいるところを村の者たちに見られるのも良くない。嘉助はそう伝えようとするが、先に口を開いたのは静だった。

「じゃあ、また祭りでね。」

 静はそう言って走り出す。嘉助が呼び止める声も聞こえないようだった。祭りの日、静は嘉助と行動を共にするつもりだろうか。もうし、そうであれば自分はどうすべきだろう。嘉助は嘆息して家路に着いた。


静と別れた嘉助は、魚を手に自らの家に戻ってきた。貧相な戸を開け、中に入る。奥の土間を見渡すが、人影はない。疲労を感じた嘉助はそのまま土間に大の字になって倒れた。静寂の中、黙って身体を休める。時折、海風が吹くと脆弱な戸がかたかたと鳴った。嘉助の家は粗末な平屋建ての民家で、屋根の茅葺も朽ちかけている。木の壁も所々に穴があき海からの激しい寒風を防ぐこともできない。

 この時間帯ならば、母のフミが家にいるはずだが、どこに行ったのだろう。山の林で木を切り出す父を手伝いに行ったのだろうか。嘉助の一家の収入は兄の太助が内浦湾で漁獲する魚によって成り立っていたが、それだけでは四人が食べていくことはできず、高齢で漁を引退した父が海岸沿いに屹立する山の雑木から薪を切り出して、それを江戸などの都市を行き来する商人に売ることで、なんとか一家の家計を維持してきた。


「あら、貝を採ってきたの?」

 不意に入口から声がした。見ると、嘉助が置いた網を持ちあげた母がいた。

「ああ、たったそれだけだけど。」

「少しでも助かるわ。最近は太助の漁組でも獲物が少なくなってきているそうだから。」

 兄は数年前から村の漁組に所属して、順調に仕事をこなしている。父も嘉助もまともに稼げない今、一家の収入の殆どは兄に依存していた。母は嬉しそうに貝の下ごしらえを始めるが、網に入った獲物では、今日の分のおかずぐらいにしかならないだろう。

「何をしているのだ?」

 そこで入口から別の声がした。横目で見ると、父である嘉次郎が厳しい目でこちらを見ていた。

「…。」

 嘉助の身体に緊張が走る。普段から父とは上手くいっていない。以前から会話をすることはあまりなかったが、漁組に入り、失敗を繰り返すようになってからは更に関係は悪化している。

「…何もすることがないのなら、少しは身体を鍛えたらどうだ。また漁で網を引き揚げられなかったそうじゃないか。」

 嘉助が黙っていると、父はまたいつものように小言を始めた。それが、また嘉助を苛立たせる。漁で網を引き揚げられなかったのは事実だ。腕力が足りないというのもまたその通りだろう。だが、今回嘉助が網を引き揚げられなかったのは、網に入った鰹の量がいつもより多かったせいだ。事情を知らない父に何もかもわかったような顔をされるのが嫌だった。

「いつまでも足手まといでいるわけにはいかんだろう。少しは漁に貢献できるように、努力したらどうなんだ。」

「まあ、それくらいにして。見て、嘉助が貝を採ってきてくれたのよ。」

 二人の間に流れる険悪な空気を感じ取ったのか、母がそこに割って入る。だが、嘉助は仲裁に入る母の姿も気に入らなかった。母の行動は、問題を先延ばしにするだけだからだ。

「だが、一人ではそれぐらいの獲物を捕るが限度だろう。もう少し、漁組の者と協力することを覚えたらどうだ…。」

 父は母の制止も意に介さず、嘉助に苦言を呈してくる。


 最初は無視していたが、延々と説教を続ける父を敬遠して、嘉助は家を飛び出した。

「…おい!待て!」

 背後で嘉助を叱責する父の叫び声が聞こえるが、嘉助はそれが耳に入らないようにする。そのまま海まで疾駆した。

 無心で走っていると、すぐに白い砂浜と青い海原が眼前に広がる。嘉助は走る勢いのまま、海に飛び込んだ。そして、無我夢中で腕を掻く。何も考えないためだ。

父の言い分は正論だ。嘉助も漁組にいる以上、皆に迷惑をかけないようにして、漁を成功させるという義務を負っている。

だが、実際に行動に移すのは、言うほど易しくはない。嘉助は自分なりに努力はしているつもりだ。船の扱いも兄から学んでいるし、網を上げる作業も繰り返している。しかし、なかなか漁の本番になると上手くはいかないのだ。それで、努力が足りないというならば、どうしようもないではないか。

そのような不満を抱えながら、嘉助は遠く沖合まで泳いで行った。陸上で経験した嫌なものを振り払うため、ただ身体を動かし続けた。

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