関ケ原異聞
きったん
第1話 大一大吉大万
関ヶ原
慶長五年(西暦一六〇〇年)
「大一大吉大万」
大戦の必勝を祈願した紋章が、ゆらめく無数の軍旗に大書されている。一を「勝つ」と読み、万と吉を加え、万年の幸運を期し、それに大を付けて大勝を願う六字紋は、確かに天の加護を得るには最適な書であるかもしれない。栄光を祈願し、軍兵を鼓舞する数十の旗は、関ヶ原を一望できる笹尾山下に配置された石田三成の陣営を守るように取り囲んでいた。
「聞け。」
明瞭な一言に、嘉助が振り向くと、嘉助の所属する突撃部隊の頭(隊長)である田中長吉が引き締まった表情で立っていた。
「大谷隊、小西隊が崩れた。豊臣方で残るのは、三成と島津の部隊だけだ。これから、すぐに三成の陣営に攻撃を仕掛けるぞ。おそらくこれが最後の突撃になるだろう。」
長吉は声を荒げ、隊の全員に届くよう叫んだ。嘉助を含めて十人の隊員は長吉の言に頷く。皆戦況は把握している。巳の刻(午前八時頃)に徳川方の武将である井伊直政の抜け駆けによって開戦した合戦は、牛の刻(午後零時頃)に小早川秀秋の背反によって帰趨を決した。
一万五千の兵を加えた我が軍は、敵軍の倍の兵力を得て、一気呵成に相手を圧倒し始めた。合戦の結末は戦場に散らばる誰の目にも明らかとなった。唯一物語が完結していない場所がある。まさに、部隊の正面にそびえる三成の陣営だ。
「分かっているな。われわれの任務は、後方の本隊のために進軍路を確保することだ。矢来の撤去を最優先しろ。」
嘉助の所属する田中吉政配下の部隊は徳川方の軍の最前線に位置し、開戦から幾度となく石田三成の幕営への突撃を実行した。が、それらはすべて竹矢来と、その中から放たれる銃弾によって退けられている。嘉助の部隊には、戦場の最前線でこの即席の防壁を取り除くことが任務として課せられた。
部隊員は不平を唱えることなく神妙な面持ちで小頭の命令を聞いている。戦場の最前線で戦うことに恐れもあるが、一兵卒である嘉助達は従うしかない。
「正面左手の矢来だ。皆の者で一気に引き上げるぞ。」
落ち着いたが隣から聞こえる。声の主は、嘉助の部隊の小頭(小隊長)である正吉だった。作戦の確認をしたらしい。
現在、田中長吉の部隊で動ける人員は十二名しか残っていない。そこで、部隊を六名ずつの小隊にわけ、それぞれが正面口の左右にそびえる竹矢来を撤去することになった。
右側は田中長吉が指揮し、左側は正吉の小隊が担当する。そして、正吉の小隊には正吉、嘉助の他に年長の喜兵衛、それに彦蔵、孫蔵の兄弟、ただ一人人の背丈ほどの槍を担ぐ藤吉がいた。
「矢来を除けたら、すぐに正面の口から中に入る。とにかく、敵の身分の高そうな奴を手当たり次第に片付けるぞ。」
正吉の言葉を聞かなくとも、皆当然そのつもりだ。後方の部隊の道を開くのに時間を消費するのではなく、敵の首をあげて一つでも多くの手柄を立てたい。
「だが、絶対に俺の傍から離れるな。常に六人で行動する。標的は俺が決める。お前たちは互いに庇い合いながらついてくればいい。先日と同じだ。」
正吉は、最後の確認を行った。先の岐阜城攻略では、先発の軍勢に遅れをとり、手柄をあげる機会に恵まれなかった。そのときの雪辱を晴らそうと皆意気込む。
そこで、六人の中に流れる空気が変質した。各々の表情が引き締まり、視線は敵の陣地を正確に射抜く。それぞれが殺気を放ち、皆、当面の標的となる矢来に意識を集中させた。
不意に、物音が消える。乾いた銃声と悲鳴が充満する関ヶ原で、嘉助の周囲だけが静寂に支配される。肌の感触も変わる。薄ら寒い秋の空気が、日の届かない場所で冷やされた身体の芯を凍えさせるものに変わった。海で獲物を狙う感覚。嘉助は懐かしい感覚に身を任せながら、そのときを待った。
衝撃は唐突に訪れた。
黒田長政の部隊の発砲音が連発する。それが連鎖反応を起こして、鬨の声が上がる。前線に配置された歩兵部隊が一斉に進撃を開始する。
一瞬だけ反応が遅れた。進撃の合図は陣太鼓のはずだった。鉄砲隊が待ちきれずに発砲したらしい。
まず、正吉が飛び出す。それに、嘉助達五人が続く。足の速い頭に遅れまいと嘉助は懸命に走った。五人は何とか正吉についていく。すぐに、目の前の陣営が拡大していく。
全速力の疾走により、小隊は三成の陣営に近づく。田中吉政配下の軍勢の中では、最も先行しているようだ。まず、誰よりも早く矢来を撤去して後方の部隊の進路を開かなければならない。
さらに接近した時点で、三成の陣地からの発砲が急激に増えた。火縄銃の射程に充分過ぎるほどに近づいた嘉助達に、狙い済ました一発一発が襲い掛かる。
「屈め!」
正吉が鋭く叫ぶ。皆、正吉の命令に従い、全速力で走りながら前傾姿勢をとる。
刹那、右前方を走っている喜兵衛の陣笠が飛んだ。宙を舞う円錐型の陣笠は、その原型を留めていない。銃弾に弾かれたのだ。突然の事態に直面して、喜兵衛は咄嗟に頭に手をやるが、すぐさま事態を理解し、走り始める。
とめどない銃弾によって進軍が止まりはじめたときだった。陣地の側面に位置する岩手山からけたたましい銃声が聞こえた。それと同時に、敵の陣地からの発砲の勢いが衰える。黒田長政の別働隊がやっと攻撃位置に到着したらしい。小高い丘から、下方の陣地に向かって一斉に射撃を続ける。
最前線を走る嘉助の部隊は、既に正面入り口の手前まで到達していた。最前線を行く正吉と嘉助は、弱まった弾幕の間を潜り抜け、矢来が設置されている斜面を駆け上がった。嘉助と正吉は、互いに三間ほど(およそ六メートル)の距離をとり竹矢来にしがみつく。三間余り毎に縄で結わえられた部分を切り取る必要があるのだ。
だが、矢来にしがみつく二人はすぐに発見された。嘉助も陣内の殺気が集中して自らに向けられているのを感じ、瞬時にしゃがみ込んだ。屈んだ嘉助の頭上を無数の銃弾が大気を切り裂きながら飛ぶ。
連続した銃声が一端やむと、嘉助は機敏な動作で再び縄を切っていく。視線の隅で正吉を見ると、すでに縄を切断し終わり、さらに隣の部位に移っている。嘉助も負けじと、しゃがんだ体勢で必死に手を動かす。
ふと顔を上げると、矢来の奥から切り掛かる一人の兵に迫っていた。槍の切っ先を水平に繰り出してくる。小刀では防げない。嘉助は反射的に身体を捻るが間に合わない。敵の穂先が身体を捉えようとする正にそのときだ。嘉助の背後から凄まじい速度の一撃が放たれる。
その一撃は、竹矢来の隙間を抜けて内部の敵の身体を捉え、鉄片が貼り付けられた胸板貫いて、胸にまで至った。胸を深く貫かれた敵は、苦悶の表情を浮べる間もなく絶命する。
背後を見上げると、藤吉が大きな身体を揺すり、槍を抜くところだった。その横では、喜兵衛、彦蔵、孫蔵の三人が矢来に取り付こうとしゃがみこんでいる。すでに小隊の全員が到着したようだ。嘉助は目で藤吉に礼を述べると、最後の縄を切断した。
嘉助が合図を送るまでもなく、他の五人は竹矢来に手をかけている。
「いくぞ!」
正吉の掛け声に呼吸を合わせ、六人が力をこめる。比較的軽い竹と土との結合を断ち切るのは難しくない。竹矢来はすぐに地面に倒れた。
三成の陣営を保護する防壁の一角が崩れた。それまで唯一の侵入口であった陣の正門で三成の軍と交戦していた味方の軍勢は、一斉にそこに殺到する。正門に兵力を集中していた三成の軍勢は、対応に遅れ、易々と内部への侵入を許してしまう。
喧騒の中で、嘉助達は矢来の破壊活動を続けた。反対側を担当する田中長吉の小隊も順調に矢来を取り除いているようだ。
「もう充分だろう!」
二十間ほどの長さの竹矢来を撤去したところで、正吉は破壊を止めるよう命令した。破壊した箇所からは、すでに百人以上の兵士が内部に入り、刃をかち合わせて交戦している。
「陣形を組め!常に互いに援護しろ!行くぞ!」
正吉は合図するや否や陣奥に向かって走り出す。嘉助ら五人も瞬時に従う。と同時に、走りながら正吉を先頭にした六角形の守備方陣を形づくった。
小隊員は、先頭の正吉の軌道を読みながら追いすがる。正吉は、戦線から前に出て孤立した敵を標的に定めたようだ。体格は大きく、六尺七寸ほどはあるだろうか。粗末な胴当てには「大一大吉大万」の吉兆文字が塗られている。
正吉は喚声を上げながら、相手に襲い掛かる。刀を敵の咽喉笛めがけて袈裟懸けに切り下ろすが、相手も一撃を受け止めた。互いの太刀を合わせたまま、鍔迫り合いが始まる。押し合いでは、体格に劣る正吉は分が悪い。
しかし、その頃には、正吉の左右の点を形成する嘉助と喜兵衛が追いついている。嘉助が敵の背後に回りこもうとする。警戒した相手も、それに対処しようとするが、組み合った正吉がそれを許さない。嘉助は無防備となった敵の背後に回りこみ、具足から露出した肩口を切りつけた。
嘉助の一撃は正確に肩を捉え、傷からは血が噴出する。左肩を負傷した相手の膝がたまらず落ちる。正吉は敵の力が抜けた隙を見逃さず、力任せに一気に相手を押し倒した。
地面に倒れた敵に襲い掛かったのは、喜兵衛だ。容赦なく刀を突き立てる。尖端が薄手の鉄片と練皮を合わせただけの桶側胴を突き抜け、腹に突き刺さり、悲鳴にもならないかすれた叫びが響く。相手は苦悶の表情を浮かべ、右手に握った刀を振り回すが、喜兵衛は気にも留めず、刀を深く押し込んだ。
敵の身体が痙攣し始める。眼球が飛び出すほどに見開かれる。まだ死には至ってないが、おそらくもう動けないだろう。瀕死の敵が地面に横たわっている。気の早い孫蔵がすぐさま首を落としにかかる。
「待て!」
正吉から鋭い声が発せられる。声の貰い手である孫蔵は、一瞬気の抜けた表情をして正吉を見つめたが、すぐに苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「なんでだよ!?」
「それは放っておけ!それは雑兵だ!奥に行くぞ!もっと身分の高い者を狙う!」
間髪入れずに、正吉が答える。
「だけど、ぐずぐずしてると横取りされちまう!」
孫蔵も譲らない。手柄を前にして気がせっている。
「証人がいる。後の首実検でわかることだ。今は一人でも多くの手柄をあげるのが先決だ!」
正吉は叱責するように孫蔵に言った。確かに、吉政の軍では、横取りを防ぐために、首実検において証人を伴い、敵を討ち取った人物を正確に割り出しており、横取りの危険性はそれほどない。
だが、それでも孫蔵は渋った。正吉を見ながらも、首に刃をかけ、落とす作業に入る。
「おい!やめろ!」
嘉助が止めに入った直後、正吉を見る孫蔵の肩に強烈な蹴りが入った。不意をつかれた孫蔵の巨体がもんどりうって地面を転がる。
「何度言ったらわかる!頭の命令には従えと言っただろうが!」
声の主は、兄である彦蔵だ。憤怒の表情で転がった弟を睨みつける。兄に叱りつけられた弟は、さっと地面に視線をはずし、苛立ちを覚えながらも兄に従う。同じ部隊に配属されてから度々みる光景だ。孫蔵は負けん気の強く、正吉の命令に従わないことが何度かあった。
「よし!あの山を登って本陣に行くぞ!気合を入れろ!」
孫蔵が諦めたのを確認してから、正吉は指示した。石田三成の居所は笹尾山の斜面を少し登った所にある開けた野原にあった。手柄を前にし、欲望を刺激された隊員達は意気を合わせ一気に斜面を駆け上る。
六人は瞬く間に斜面を登りきり、敵の本陣に入り込む。と同時に、正面の豪華な金縁の具足を身につけた人物が視界に入る。銀色に光る鉄製の兜が眩しい。明らかに足軽の粗末な甲冑とは一線を画す。
名のある武将に間違いない。興奮した六人は一斉に躍りかかった。
まさにそのとき、大気を振動させるほどの轟音が鳴り響いた。それと同時に、嘉助の身体が風圧で後方へ押し飛ばされる。
何が起こったのか。地面に転がった嘉助は身体を起こそうとする。あたりは巻き上げられた粉塵で満たされ、状況を判別できない。喜兵衛や藤吉も、同じく地面に転がっている。土埃にまみれた顔を上げ、きょろきょろと周りを見渡している。
すぐ前方に巨大な穴が掘り下げられている。先ほどまではなかったものだ。そこで、何が起こったのか理解した。嘉助の小隊は、大砲の直撃を受けたのだ。三成は本陣である笹尾山に五門の大砲を備え付けていた。戦闘中はその発射音が聞こえるのみであったが、今まさにその一撃が嘉助たちに襲い掛かったのだ。
嘉助は小隊員の無事を確かめるため、立ち上がって周囲を見回す。耳をつんざく轟音と大地を揺るがす衝撃によって萎縮した敵兵は、唖然として着弾点に近づけないでいる。
嘉助が周囲を見渡したところ、喜兵衛に藤吉、彦蔵と孫蔵の兄弟はすぐちかくで倒れているのを発見できたが、正吉の姿が見当たらない。
そのとき、前方の穴の近くから呻き声がした。粉塵を掻き分けて、穴に近づくと、その脇に倒れている正吉の姿が確認できた。
「大丈夫か!?」
嘉助の叫びに返事はない。しゃがみ込んで顔を近づけると、違和感が嘉助をとらえた。左右対称であるはずの正吉の身体は奇妙にその均整を崩している。正吉の右肩から先にはあるべきはずの物が見えない。右肩から上腕、手に至るまで、すべての部位がなくなっているのだ。砲弾が正吉の身体に直撃したらしい。
「おい!正吉!答えろ!」
嘉助は何度も呼びかけるが、答えはない。完全に意識を失った正吉は、ただ無意識に低い声で呻いている。
「どうした!?」
背後から喜兵衛の声がした。様子を確認した喜兵衛が息を飲む。喜兵衛に続いて駆けつけた三人も同様に声を失った。砲弾は正吉の身体から腕と肩をもぎ取り、皮膚を破ってあばら骨を露出させていた。
正吉に呼びかける嘉助の声だけが響く。指揮官を失った小隊は次にどうすべきか判断できず、しばらく押し黙った。
「正吉を運ぶぞ!」
呆然とする皆に、嘉助が指示を出す。
「だがよ、これは助からねえんじゃ…。」
孫蔵が恐る恐る言う。
「黙れ!今すぐ陣地まで運ぶ!夫丸(軍の雑用)に預けるぞ!」
嘉助は叫ぶ。こうしている一刻が惜しい。だが、隊兵たちは逡巡する。戦闘中に生存の可能性がない者を助けるべきか迷っているのだ。
「もういい!俺一人で運ぶ!」
たまらず、嘉助は一人で正吉の身体を持ち上げようとするが、体格差があるため、簡単には持ち上がらない。
「おい!嘉助!諦めろ。正吉はもう助からない。」
正吉を必死に抱えようとする嘉助に呼びかけたのは、小頭である田中長吉だった。砲弾に襲われた小隊に駆けつけてきたようだ。
「気持ちはわかるが、正吉は置いておけ!まずはこの陣を占領するのが先だ!」
田中長吉は言った。小頭としては、当然の指示だ。だが、嘉助は、友を助けるためその命令に従うわけにはいかなかった。
「その命令は聞けません!俺が一人で運びます!」
長吉の命令を無視して、嘉助は歩きだす。
「おい!待て!」
長吉は小頭の命令に背く嘉助の腕を掴む。だが、嘉助はそれ以上の力で、長吉の手を振り払い、相手の目を睨みつけた。小頭の命令に背くのは軍規違反だ。処罰の対象となりうるが、そんなことに構っていられない。その視線に嘉助の決意を感じ取ったのか、長吉はそれ以上何も言わなかった。
嘉助は正吉を前に抱え、布を二人の身体に結びつけ、正吉が落ちないようにした。そして、時折飛び交う流れ弾が正吉に当たらないように、背中を敵の方に向けつつ走った。もっとも、大柄な男を抱えながらのものだから、速度はたかが知れている。関ヶ原の東方にある本陣までは十町ほどあり、かなりの時間を要する。
運ぶ間に、嘉助は何度も正吉に話しかけたが、まったく返答はなかった。また、体温が下がっていくのが感じられ、それが嘉助を焦らせた。それでも、まだ嘉助は生存の可能性はまだあると自身に信じこませ、懸命に走った。
十町の距離を走り、嘉助は正吉を抱え、吉政公の陣地に走りこむ。幸いにも、避難の途中で攻撃を受けることはなく、二人ともそれ以上の傷を受けることはなかった。
陣地に入った嘉助は、すぐさま小荷駄隊(輸送部隊)がたむろする場所へ向かった。
「古六はいるか!?古六はどこにいる!?」
嘉助は小荷駄隊にいる知り合いの古六の姿を探した。
「嘉助か、どうした?」
嘉助の叫びを聞き、後方で待機していた古六が馬の群れの中から現れる。
「正吉が撃たれた!早く診てやってくれ!」
そう言って、嘉助は正吉を地面に下ろす。古六は、嘉助たちと同様に傭兵として軍に雇用されている。嘉助たち二人とは、大坂で働いていた頃からの知り合いで、旧知の仲だった。嘉助たちと共に軍に雇用されたが、町で医者の真似事をしていたため、薬に詳しく、多少の医療技術があったことから、軍では後方の医療班に属していた。
「正吉が…。…なんとかしてくれ!」
正吉の身体を診て、古六は絶句する。
「残念だが、これは助からんぞ。」
ぱっと見ただけで、古六は断言する。
「おい、ふざけるな!ちゃんと診ろ!いつも、どんな怪我でも病気でも治せるって自慢してただろ!」
嘉助は激昂する。ある程度予想していただけに尚更頭にきた。嘉助の言葉に、古六はしゃがんで正吉の傷を覗き込む。
「そんなこと言っても、無理なもんは無理だ。」
「お前も正吉に色々と助けてもらっただろう!今度はお前が恩を返す番だ!」
八つ当たりとはわかっていながらも、嘉助は古六を責めずにはいられなかった。
「俺も助けたいが、どうしようもない。今は、辛うじて息があるが、もう目を覚ますことはないだろう。俺たちにできるのは看取ってやるだけだ。」
「くそ!」
嘉助は絶叫し、地面に拳を叩きつけた。
そのとき、戦場の喚声が一時止み、微かな声が嘉助の耳に入った。
「…嘉助。」
声の発した方向を見遣ると、正吉が目を僅かに開いて嘉助に対して呼びかけていた。
「おい!正吉、大丈夫か!古六、生きてるぞ!お前撃たれて気を失っていたんだよ。でも大丈夫だ。助かる。」
嘉助は即座に顔を近づけ、正吉に呼びかける。
「わかるか、正吉。」
古六は嘉助とは対照的に冷静に話しかけた。正吉はその問いかけに黙って視線で応える。そして、再び嘉助に目を向け、口を開いた。
「…嘉助、話がある。」
「今は話さなくていい。傷が癒えてから聞いてやる。今は黙って休め。」
「話があるんだ…。聞いてくれ…ぐふっ!」
正吉は構わず話し続けるが、途中で咳き込んで血を吐いた。
「喋るな!」
もはや、嘉助にも助からないことはわかったが、そう言わずにはいられない。
「もう腕が動かない。嘉助、胸から文をとってくれないか?」
言われたとおりに、嘉助は正吉の懐を探る。すると、土と血で汚れた一枚の紙が出てきた。
「これは?」
「それは文だ。長屋の皆への…。」
正吉の言うとおり、生地の荒い紙には長い文章が書かれている。
「…血で汚れちまってるな。それを大坂に届けて…ほし…。」
徐々に声が小さくなっていく。後半はほとんど聞き取れなかったが、それでも、言いたいことはわかる。
「届ける。絶対に届ける。わかったからもう喋らないでくれ。」
「そうか。よかった…。」
正吉は満足そうに呟きながら、再び話し始める。
「古六、ありがとう。家族を大切にしろよ。…喜兵衛はいないのか。あいつにもよろしく頼む…。」
古六は、涙目で何度も頷いた。
「それから、嘉助、大坂の皆にもよろしく伝えといてくれ。本当に感謝してる。身寄りのない俺にとっては、お前たちは家族みたいなもんだ。」
「そんな。俺の方が頼りっぱなしだったのに。まだ借りも返してないだろ。」
正吉は満足そうに言うと、天を見上げる。もはや嘉助の言葉は届いていないようだった。
「…まだ死にたくな…い。大坂に帰りたい…。あんな場所でも俺にとっては故郷みたいなもんだから…な。どうせならあの長屋で死にた…い。」
正吉が、最後の力を振り絞って手を上空に伸ばそうとするが、手はわずかに地面から上がるだけだ。嘉助がその手をしっかりと握る。急速に生気を失った手は驚くほどに冷たかった。
「…なあ、嘉助。お前は…この戦いが終わったらどうするんだ…?」
自分が死に直面しているというのに何を訊いてくるんだ。そんなことはどうでもいい。今は自分の命のことを考えてくれればいい。嘉助はその問いには答えず、手をしっかりと握っていた。
「…お前も…。」
再び正吉は嘉助の顔を必死に見つめ、呟いた。そこで、正吉の手から力がふっと抜けた。顔の緊張も解けて、自然に目蓋が閉じる。嘉助はその様子を見守るしかなかった。力の抜けた正吉の手をずっと強く握る。だが、どれだけ強く握っても反応はない。
さきほど目覚めたように、また息を吹き返すのではないかと嘉助はその後も正吉の手を握ったままだ。そこに、古六が横に座り、無表情の嘉助の肩に手を乗せる。
「逝ったな。ちゃんと弔って……。」
古六が何か話している。だが、それは嘉助の耳には届かない。轟音によってかき消された。石田三成の陣営で大きな掛け声が上がったのだ。調子を合わせた歓声が遠く離れた東軍の陣にまで届いた。敵の本陣が陥落したのか。
それに合わせて、嘉助の周りも騒々しくなった。勝利を祝う男たちの声が嘉助の耳にこだまする。身分の高い武将も、一般の侍も、今日のために雇われた浪人たちも、前線の戦闘部隊も後方の小荷駄隊も、無事な者も負傷者も、誰もがわけへだてなく勝利に歓喜する。
その歓喜に加わっていないのは、この場の三人だけなのではないかと、嘉助には感じられた。兵士同士抱き合う仕草も、喜びの表情も、ただ空虚に映る。
石田三成の陣で轟音が響く。攻撃のためではない。戦勝を祝って、奪った大砲を発射したのだ。だが、それも嘉助には虚しく、ただの乾いた音にしか聞こえなかった。
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