春待ちの恋

@chieri

前編


歯の根が合わなくなるほど寒い夜。



一人の男が降りしきる雪をザクザクと踏みつけるようにしながら、家路を急いでいた。口から吐き出す吐息は葉巻をふかしたときと同じく真っ白で、息を吸い込めば喉の奥が凍り付いてしまいそうにひりついた。


先ほどから外套の下、騎士服のポケットに突っ込んだ両手の感覚も曖昧になっている。このまま朝まで立っていたらその先に待つのは凍死だ。


こんな日に警邏を任されなくて良かったとは思うが、逆にこのまま屯所で詰めている方が余程楽だったのではないかという気もしてくる。



一時間から二時間交代での警邏に出る必要はあるが、少なくとも屯所には熱い酒と、ストーブの火がある。気のいい仲間と愚痴りあいながら夜を過ごすのも、まあそれなりに楽しい。警邏担当用にと油を塗りこんだ特別製の雪靴もあるし、外套も特別のやつを貸してもらえる。平の身ではひっくり返ったって買えないような高級品だ。



そこまで考え、いやいや、と男は首を振った。誰がこんな雪の日に仕事をしたいものか。ただでさえ独り身で寂しいというのに、夜の町を警邏して歩くともなれば、窓に浮かぶ明りの先に暖かな家庭やら恋人やらを目の当たりにする羽目になる。そんなの御免こうむりたい。


年の瀬を間近に控えた冬の町では、どの家にも明かりが灯されて酷く暖かそうに見えるのだ。だがこれから帰る我が家には男を待つような者は一人もいない。自分で暖炉に火をくべて、温まるしかないのだ。



(頑張れ俺。もうちょっとで家につく。)



ガチガチと音を立てる歯を食いしばり、雪のせいで妙に明るい夜空を一睨み。



さあさっさと家に帰ろうと歩く速度を速めた男の視線が、不自然なものを見つけた。――こんな田舎の国であっても、騎士になるにはそれなりの素質を要求される。男の目はかなりいい。闇夜にあっても敵の矢じりを見つけるくらい造作もないほどである。だが視界に映ったものは、この場にあってよいものではありえず――ごしごし、と何度も目を擦り、それが間違いでないことを悟った瞬間、本気で男の顔から血の気が引いた。



男の家の目と鼻の先辺りに、女が倒れていたのだ――それも、ほとんど素っ裸に近い恰好で。



慌てて駆けだして、男は女を揺すった。反応がない。



「おいっ、おい! 大丈夫か!」



顔面から雪に倒れ込んだままの女を抱き起す。じっとりと濡れた金の髪が女の顔半分を隠していた。それを片手で払いのけ、ぐいと顔を覗き込めば、もう唇は青ざめていた。慌てて首筋の脈を確かめる――良かった。弱弱しくもまだ反応がある。



ああ死んでいない、生きている。一刻を争う状況であることに変わりはないが。しかしそうなると気になるのは、どうしてこんなところに倒れているんだろうか、ということだ。まさか怪我でも――とひっくり返した全身を検めようとした瞬間、視界一杯に肌色が飛び込んできた。そこで相手があられもない恰好をしているのだとようやく思い出した男は、きつく目を閉じ、音がするほどに顔を反らした。



いかんいかん。ドキドキしている場合ではない。



正体不明、あまりにも奇怪な状況だが、家の目と鼻の先で行き倒れた相手を見捨てるという選択肢は男にはなかった。



慌てて外套を脱ぎ、女の全身に巻き付ける。とにかくまずは家に連れ帰って体を温めてやるしかない。命にかかわる怪我はなさそうだし、だとすればまずは体温を上げてやらなければ。医者にかかるにしたってその後だ。



外套でぐるぐる巻きにした女を抱き上げようとしたとき、ふる、と女の瞼が震えるのが見えた。ようやく上がった白い瞼の下からは、宝玉のような見事な緑の瞳がのぞく。だがその美しさに気を取られることもなく、男は大慌てで女に問いかけた。



「大丈夫か!」


「……はち、を……。」


「はち?」



冗談を言っているようには思えない。震える唇が何かを必死で伝えようとしている。もしや何か大切なものでも――と雪の上を確認した男は、そこに植木鉢が倒れているのを見つけた。小さなものだ。男の片手に収まりそうな、素焼きの鉢植え。雪の上に落ちたためか、幸いにも鉢は割れていない。かすかに土が零れているが、それだけだ。



「おねがいします、その花も……。」



花、と女が繰り返す。だが何度確認しても植木鉢には花は咲いていないようだった。だがどうやらこれは、女にとってとても大切なものであるらしい。それきりまた気を失ってしまったらしい女を片腕に抱えたまま、男は植木鉢を拾い上げた。そして、足早に家へと向かって歩き出した。



※ ※ ※



「助けていただき、誠にありがとうございました……。」



ベッドに半身を起こした状態で、深々と女が頭を下げている。男は照れ隠しに頭を掻き、彼女から目をそらした。



あれから三日が経っている。風が吹けば吹き飛んでしまいそうないかにもはかなげな風貌の女は、なんと人間ではなかった。



――この世界には沢山の種族が住んでいる。一番多いのは人間。次に多いのは獣人。さらにその次に多いのが妖精族。それぞれの種族の中にはさらに細かな分類があるらしいが、男はそういう知識に疎い。ともかく、彼女はその三番目に属する人であった。


しかし本来妖精族は他の種族と交わることを嫌い、遠く空を泳ぐ浮遊大陸や、閉ざされた土地を住処にしている。間違っても田舎とはいえ人の住む町にやってくるなんてありえない。それがいったいなぜ。



「どうしてこんなところに?」



当然のように男は疑問を口にした。だが女は困ったように眉を下げ、下を向くばかり。



「質問を変えるぞ。あんたはどうして……その、素っ裸でぶっ倒れてたんだ?」



素っ裸、という単語を口にした途端、枯れるには早すぎる男の脳裡には不可抗力で焼き付いた女のあられもない姿が舞い戻りそうになる。いかんいかんと頭を振って、男は妄想を追い払った。



「私、浮遊大陸に住んでおりました。」


「それで?」


「お会いしたい方がいて……どうしても諦められなくて、定期船に紛れて地上に降りたんです。」



そこで女の緑色の瞳が悲し気に曇る。



「ですが街についた途端、人さらいにつかまってしまって……。」


「街って、まさかここか!?」



だとしたらそいつをとっちめてやるとばかりに意気込む男に気圧されたか、女があわあわと手を振った。



「いえ、違います。もっと大きな場所でした。ここじゃありません。すぐに身ぐるみ剥がされて馬車に詰め込まれて……どのぐらい時間が経ったのか分かりません。この町の傍の峠でなんとか逃げ出して……雪がいっぱい降っていて、とても寒くて……。」



そりゃあそうだろう。三日前はここ最近でも一番多く雪が降った日だ。そんな中、あんな――ほとんど下着姿みたいなもので道端に転がっていたら、そりゃあ寒くもなる。



「……同情はするが、なんて無茶な。一歩間違えれば凍え死んでいたろうし……。」



いや、それ以上に陰惨な結果を招いた可能性だってあると男は口にせず考えた。これだけ美しい生き物だ。変な奴に捕まったらどんな目に遭わされたことか。最初に人さらいに捕まったというのも、なるほどうなずける話だった。


それにしても。


朝日が差し込む家の中で見る彼女は、とにかくこれまで男が出会ったどんな女性よりも美しかった。柔らかそうな金色の髪に緑の瞳。鋭くとがった長い耳。雪でしもやけになってしまったがそれでも柔らかそうな丸い頬。真っ青だった唇は、今はまるで紅を掃いたように赤い。じっと見ていると変な気分になりそうだ、と男はツイと目をそらす。


その先には女が執心していた植木鉢があった。こぼれた土を整え直し、テーブルの上にちょこんと置いた、何の変哲もない植木鉢。あんな状態になっても大事に抱えていたのだ、何かしらそこにも理由があるのだろうなあと男は考えた。



「それで? どこか行く当てはあるのか。会いたい人がいるんだろう? つってもな、冬の間はこの辺りは外の町にすら出られないくらい雪がふるしなあ……。」



困ったなと頭を掻く男に、女は「あの、」と控えめに切りだした。



「あなたがお嫌でなければその……。しばらく私を、こちらにおいていただきたいのですが……。」



「……は!?」



あまりにも予想外のことを言われて、男は面食らってしまった。



「いや、いくらなんでもそりゃマズイ! 俺はまあ、別に好いた女もいないし、気楽な独り身ではあるが、あんたみたいな若い女が男の家に転がり込んでるなんて後でバレたらお互いにいいことないしな!?」



何も疚しいことはないが、かといって誤解されるようなことをするのもどうなのか。外聞が悪すぎる。こんな小さな町では、噂はあっという間に広がってしまうだろう。男には現時点で女をどうこうしようなんて気はまったくない、だが危険は回避するに限る。



「ですが私、本当に行く当てが……。」


「教会でもなんでもあんたが行けそうな場所を紹介してやるから! な!?」



だが女は泣きそうな顔で「お嫌なんですね」としょげ返るばかり。


挙げ句の果てには、


「……でしたら私、出て行きますから……。」


とまだおぼつかぬ足でベッドを降りようとする始末。慌てて男は彼女を止めた。そもそも、医者からもしばらくは安静にと言われているのだ。この状態で外に放り出したらいったいどうなることか。



(少なくとも町中の男どもが片っ端から悩殺されるだけだ!)



格別豊かでもない辺鄙な国の、そのまた辺鄙なド田舎だ。皆気のいい奴ばかり。だから、男どもをしてひとからげに狼の群れ……とまでは言うつもりはないが。それでも彼女をそこらに放り出すのは危険な気がしてならない。



うう、と唸りつつも男は白旗を上げた。元来お人よしの気があるこの男、困った人を放っておけるような性格ではないのだった。昔からそれでトラブルに巻き込まれるのが常なのだが――。



「分かった! 分かったから!!」


「……よろしいんですか?」



よろしいも何も。まさに脅迫に等しい言葉でこの家に居つこうとしているのはこの女の方だ。げんなりと息を吐き出しながら、男は最大限の譲歩をすることにした。



「……冬が明けるまでの間であれば、だが……。」


「! ありがとうございます!」



ぱっと女の顔が輝いた――それこそ、春先に咲く花のように。間近で咲いた笑顔に当てられ、男の心臓が音を立てる。いやいや待て待て。落ち着くんだ俺。いくら女日照りだからといっても、単純すぎやしないか。



バクバクと変な音を立てる心臓をなだめながら、男は名を明かすことにした。しばらくの間同居することになるのだったら、お互い呼び名が分かっていたほうがいい。



「笑うなよ。俺の名前はスノウだ。スノウ・スプリング。……おい。言ったそばから笑うな!」



言ったとたん女が軽やかに笑い始めた。とてつもない美女のくせに、その笑い方はまるで幼い子供のようだ。なぜだろう、不思議とどこかで見たことがあるような……。


男の胸の奥がぽっと熱を持つ。彼女はと言えばスノウの様子に気が付いた様子もなく、実に楽しげに笑っている。



「面白いお名前ですね! 雪と春……ふふっ。」


「はぁ。今までだって散々からかわれてるからもうなんとも思わねえけどよお……。」



がしがしと頭を掻きながら、男は「それで? あんたの名前は?」と問いかけた。女は僅かに姿勢を正し、ニコリと微笑んだ。



「私の名前はローズです。よろしくお願いします、スノウ。」



本名なのか偽名なのか分からない。まあいいか、とスノウは考え、「よろしく」と手を差し出し――すぐに汗ばんでいることに気が付いて慌ててズボンで拭う仕草を、ローズが優しげな瞳で見ていたことなど、緊張に緊張を強いられていたスノウはついぞ気が付かないままだった。



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