中編
見た目の麗しい、しかし素性の怪しい同居人は、あっという間にスノウの日常になじんだ。そもそもスノウはこの町の守護を担当する騎士のうちの一人だ。朝は早くに家を出て、夜は遅くに帰ってくる。ローズと過ごすことになる時間は必然、それほど多くはないのだ。
しかし想定外はそこかしこに転がっていた。
たとえば。
「……あの、料理を作ってみたんですけども。」
ある日の夜、家に戻ると妙にいい匂いがした。懐かしいような香りだ。驚いたスノウがテーブルを見ると、そこには随分と豪勢な夕食が並んでいる。
「これは……?」
「勝手に食材を使わせてもらってしまって申し訳ありません。夜、何も食べずにお戻りになっている様子だったので、少しは足しになればいいかなと思って。」
まじまじと見ればそれは、ここらの土地の郷土料理だった。干し肉を酒で煮込み戻したもの。保存してあった根菜を鍋に入れて煮込んだもの。どれもこれも生前母親が作ってくれた料理とそっくり同じだった。
「……この料理は……。」
「えっと……昔、食べたことがあって。その時のことを思い出して作ったんですけど。スノウ、もしかして怒ってますか……?」
勝手に食材を使ったことを怒られると思ったのか、伺うような上目遣いで見上げられて、スノウは思わずたじろいだ。本当にやめてほしい。恐ろしくきれいな女にこんな顔をされてしまうと、心臓が変になる。
「いや、そんなことはない。有難く頂く。」
「ほんとですか!」
飛び跳ねんばかりにローズが喜んだ。その様子にまたしてもスノウの心臓は変な音を立てはじめ、誤魔化すためにスノウは頭をボリボリと掻く羽目になった。
どうしてこんなものが作れるのか、という疑問は一口匙を含んだ瞬間に吹き飛んだ。料理はまるで亡き母親が作ったもののように美味かった。
ある時、ローズが屯所にまでやってきた。
目立つ髪や耳をフードで隠し、全身モコモコになるほど衣服を着込んではいるが、僅かに見える顔だけでも明らかに目立ちすぎている。いや、どうしてお前外に出てるんだよ、頼むからおとなしくしててくれよと悲鳴を上げそうになったスノウの背中に、同僚がニヤニヤ笑いでのしかかってくる。
「オイッ、スノウ・スプリング! 隅に置けないなあ、お前いつこんな彼女が出来たんだよ!」
「いや、そういうんじゃないって……あだだだ!」
「彼女さん、お名前は? この町の子じゃないよねえ? それにどうしてこんなむさくるしい所へ?」
「あの……私、ローズと言います。スノウが家にこの袋を忘れていたようなので。」
とおずおずと差し出された白い手に載せられていたのは、スノウが日頃肌身離さず持っているお守りが入った革袋だった。慌てて懐を探れば――案の定、ない。
おそらく他人から見ればたいしたものではないのだろうが、その中には両親の遺品とともに、スノウの名前を彫りつけた木の板が収められているのだ。辺境とはいえ騎士は騎士。何か事があれば死ぬこともある。それが領内であれば良いが、たとえば遺体を持ち帰ることが難しい場所だった時。遺体のかわりに仲間に持ち帰ってもらうための、いわば名札のようなものだった。
「済まない……! まさかこれを忘れるとは。」
今まで一度もそんなことはなかったのに、とスノウは己の気のゆるみを恥じた。礼を言って受け取ると、一瞬きょとんと眼を見開いたローズが、ぱあっと満面の笑みを浮かべる。
「いいんです。」
ローズが笑った。それだけで男臭さでむせ返りそうな屯所が、花でも撒いたように明るくなった気がした。恐るべき威力だ。その笑顔だけで何人もの騎士が心臓を押さえる羽目になっている。
「お役に立ててよかったです。」
スノウはと言えば、最初の一撃こそなんとか躱したものの、ひっそりと伏せられたほの赤い瞼にとうとう心臓をやられた。ぐえ、と妙な声を上げたスノウの背中を、部隊長が「この野郎」と言って容赦なくぶっ叩いた。
またある日、スノウはこの日、休暇を得ていた。……と言っても特別やることもない。目が覚めた後もベッドの中でゴロゴロとし、ようやくそれにも飽きて起き上がった頃には昼を回っていた。
今日は随分冷え込んでいるようだ。ストーブの消えた部屋の中、窓の辺りはびっしりと結露に覆われている。布団を押しのけたスノウは、裸のままだった体に手早く下着と衣服を身に着けた。
なんとなく肌寒い腕をさすりながら自室の扉を開け、リビングにたどり着いた時。ふとその向こう、台所に立つローズの背中に目を奪われた。彼女はふんふんとよく分からない鼻歌を歌いながら、実に楽し気に鍋を掻き混ぜているところだった。ストーブの上ではやかんがカタカタと音を立てている。テーブルの中央には、あの訳の分からない植木鉢が鎮座している。おそらくスノウが知らないだけで、いつも通りの光景なのだろう。
窓の外は一面の吹雪だ。出勤していてもおそらく警邏などやりようがないほどの。――だが、部屋の中は暖かい。彼女が、ローズがいるから。彼女が家に火をともしてくれているから。
誰かと暮らすって、こんな風だったのかとスノウは思った。両親が生きていた頃は確かにこんな風だったかもしれない。両親の不在に慣れ、一人に慣れた――そう思っていたけれど。
いや、しかし。
彼女は、いずれここを出て行くのだ。――そう思った瞬間の心もとなさよ。
出会ってから一月も経っていないのに。スノウは、文字通り愕然とした。
「あら、」
とローズが振り返った。適当にまとめられた金の髪がふわりと揺れて、緑色の瞳がいとおしげに細められる。そんな顔をされると困る。勘違いをしそうになるじゃないか。
(会いたい人がいるんだろうに……。)
そしてそれは俺ではない。スノウは静かに己の心臓に語り掛ける。静かにしていてくれよ、と。
「おはよう、スノウ。よく眠れました?」
「……ああ。」
「お昼に間に合うようにスープを作っていたんです。よかった、もうすぐ食べられるから丁度いいわね!」
絵本の中のお姫様もかくやというほどに美しいくせに、ローズの笑顔はいつだって子供のもののように屈託ない。似つかわしくなさそうなそのアンバランスさに、しかしどうしようもなく惹かれてしまう自分がいることを、最早スノウは否定しきれなかった。
※ ※ ※
「雪があまり降らなくなりましたね。」
「そう言えば三日降っていないな……そろそろ雪が明ける時期かな。」
ある日の夜の会話だ。帰宅したスノウは、ローズの質問にそんなふうに答えた。この辺りの地方では、雪が降らない日が一週間続くようになると、冬の明けはじめに差し掛かる。長く続いた冬が明け――その先に待つのは、短くもうららかな春。涙が出るほど待ち遠しい、愛おしい季節だ。
「冬の間はなんにもない場所だが、春になれば祭りがある。花を撒いて祝うんだ。」
花籠を作り、町中に花を撒いて春を祝うお祭りだ。都会の祭りに比べればささやかなものだが、その日は文字通り、町中すべてで春を祝うことになる。かつて両親が存命の頃は、母親も花籠を手に町を練り歩いていた。父は広場に設けられた祭壇で、若衆と一緒に踊っていた。花を撒くのは女の役目。踊りを奉納するのは男の役目。
きっとローズには似合いの季節だろう。花に囲まれて立つ彼女を想像すると、スノウの胸はシクリと痛んだ。彼女には目的地がある。この町を、遠からず旅立つことになるだろうから、そんな姿を見ることはできないわけだ。
(最初は、さっさと春が来ればいいと思ってたはずなんだがなあ……。)
冬は人に寂しさを突きつける。冷たい冷気とともに押し寄せる雪が死を匂わせるのがいけないのだろうか。雪の中倒れ伏していた彼女を助けたあの日から、思えば遠くに来てしまったものである。
「まあ、あとひと月はかかるだろうが……春になればあんたも探し人のところに行けるな。」
「そう、ですか……。」
スノウの言葉に、なぜか彼女が打ちひしがれたような顔をした。
それからというもの、彼女の様子が変わった。
あれほど浮かべていた弾けるような笑顔は失せて、代わりに痛々しい、悲しみの混じった泣き出しそうな笑顔を浮かべることが増えた。いったい何が彼女を悲しませているのか。あるいは苦しませているのか。この家からほとんど外に出ることのない彼女に何かした相手がいるとしたら、それは十中八九スノウしかありえず、しかし思い当たりがまったくないためにスノウは頭を抱える羽目になった。
一度、なけなしの勇気を振り絞ってローズに尋ねた。
「俺はあんたに何かしちまったのか?」
「は……?」
ぽかん、と目を見開いたローズは、しかしややあってから悲しげに瞼を伏せた。冬の日、同じように伏せられた瞼に心臓をやられたスノウだが、悲しげな様には胸をえぐられる心地だった。
それでも何とか沈黙に耐えきったスノウに、ローズが静かにこう言った。
「……あなたは、何も。」
「何もないわけないだろう。」
「いいえ。」
「嘘なんかつかなくていい。お前、基本的に外に出てないんだから、俺が何かやったか言ったかしかありえないだろうが。」
スノウの言葉に困ったように視線をうろつかせたローズは、やがて諦めたようにため息を吐き出した。
「本当に何もないんです。ただ……そうね、もう春が来るんだなって……。」
「春が来るのが嫌なのか?」
素朴な疑問だった。何の疑問も持たず口にしたその言葉で、まさかローズの瞳から大粒の涙が零れ落ちるなんて夢にも思わなかったのだ。みるみる緑の瞳が水に沈んだように潤み、眦から頬までが真っ赤に染まる。
「出て行けって……そういうこと、ですよね……。」
ドクン! と今まで感じたこともないほど心臓が音を立て。だからこそスノウの反応が遅れた。
慌てて彼女の腕を掴もうとしたがもう遅い。思いもかけぬ素早さで身を翻したローズが、宛がわれている部屋に飛び込んでいくのを、スノウはただただ茫然と見送ることしかできなかった。
ガチャリ、と鍵の音が響く。薄い扉の向こう、彼女が泣いていることは分かったが、この扉を蹴破るような真似は出来なかった。
(拒否されたのか。俺は。)
一気にしんと静まり返ったリビングで、スノウはよろけながら椅子に座り込んだ。酷い気分だ。女を泣かせた――それも、大切にしてやりたいと思うようになってしまった相手を。心臓がじくじくと痛みを訴え、背筋には冷たい汗が伝い落ちる。ああ、死んでしまいたい。辛い。泣きたい。それでも涙は出ない。両親が流行病で立て続けに息を引き取った時もスノウは涙を流さなかった。涙なんて枯れたものだと――だが、それが尚更に、今は辛い。
しばらくの間、そうしてスノウは心臓の上を抑えたまま、ひそやかに息をしていた。ゆっくりと意識的に呼吸を深め、時間をかけ、ようやく、顔を上げられるまでにかなりの時間を要した。
気が付けば日が傾きはじめていた。いつもならばローズが食事の下ごしらえを始める時間だ。だが今日は無理だろう。後でパンでも買ってこなければ。
ふと持ち上げた視線の先に鉢植えが見えた。テーブルの中央に鎮座する鉢植えは、相も変わらず何の変化も見せないまま、静かにそこにいる。春が迫っているとはいえ、まだまだこの辺りは寒い。暖かくなれば何か芽を出すのかもしれないが、今のところその兆しは欠片も見えない。
手慰みに素焼きの縁を人差し指でなぞりながら、スノウはため息を吐き出した。
「……ローズ。」
それは一度たりとも口に出して呼べたためしのない、彼女の名前だった。忘れたわけではない。だが、呼んでしまったらもう自分の気持ちが抑えられなくなる気がして、呼べないままでいたのだ、
こうして口にしてみると、触れがたいほどの美人のくせして、子供のように無邪気な彼女に、花の名前は酷く似つかわしいように思えた。だが彼女の名前を呼んでしまったら、きっとスノウは戻れなくなる。
いや、もう手遅れなのだろうか。だって心臓がこんなに痛い。彼女の不在を想像するだけで、こんなにも。
「ローズ……俺は、」
※ ※ ※
雪の降る日はみるみる減っていった。
間が三日開き、五日開き……ある時、とうとう雪が一週間ピタリとやんだ。まだ空気は冷たいが、吹く風はかすかに柔らかくなっている。雪に閉ざされ凍り付いていた大地がほどけ始めて、雪の下からは土の色がのぞくようになった。
そんなある日。
「春だねえ。」
「春だ、春。」
「祭りの支度もそろそろ始まるし……なあ、スノウ。ローズちゃん、どうすんの?」
「どうするって……。」
屯所でのいつもの世間話の折、仲間から投げかけられた疑問にスノウはぎくりと背筋を凍らせた。
「だってよお、結婚式やるんだったら断然春だろ? この辺り、春を過ぎたらあっという間にまた冬に逆戻りだしよぉ。」
「俺とあいつは別にそんなんじゃねえよ……。」
結婚なんて。とてもじゃないがありえないことだとスノウは自嘲した。
あれから半月ほど、ローズとは気まずい状態が続いている。会話の数は減り、明らかにローズはふさぎ込んでいる。まったく事情が分からないが、ローズを泣かせたのはスノウだった。
「はあ?」
男どもが一様に呆れた顔をした。
「……唐変木もここまで来ると罪深いな。」
「え? 何? まさかお前、スノウのくせにローズちゃんは遊びだったとか?」
「家に置いてやってるんだろ? まさかなんとも思ってない、なんてことは……。」
「あいつは、」
ああでもないこうでもないと騒ぎ始めた面々に、スノウはぴしゃりと言った。
「あいつはな、どうしても会いたい奴がいて、わざわざ故郷を出てきたんだ。変な噂立てるんじゃねえよ。」
珍しく不機嫌なスノウの言葉に、さえずりはピタリとやんだ。しかしそのうちの一人が納得いかないという表情で首を傾げる。
「……いや、なんかお前勘違いしてるみたいだから言うけど。確かローズちゃん、お前に会いに来たんだって言ってたよ?」
まさか何も聞いてないの?
スノウの頭の中が真っ白になった。
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