かじかむ心と、ポット脇のVerite《真実》。




同時刻。


溜池山王。


大手飲料メーカーが所有する巨大ホールの楽屋の個室で、一人の女が椅子に沈み込んでいた。


ふんわりとした色素の薄い髪を、緩やかに後ろで引っ詰めて。時間がなかったからプロのスタイリストの厄介にはなれなかったが、それでも充分なほどには纏まっていると自負していた。音楽界において、芸能人が洋画の試写イベントに登場するようなバッチリとしたメークを施すのは、日本ぐらいのものだと言っても良い。あるいは拝金趣味に塗れてしまったアメリカか。


服は簡素な黒のドレス。胸元や背中が無駄に開いていたり、スパンコールがギラギラ眩しいものは好かない。レースやフリルは持っての外だ。ついでにいうと、やたらミニのスカートをはいて大股開きでチェロを弾く趣味も、女には無かった。


女の名前はクロエ・エドゥアール。


あるいは『黒江さん』。


いや、今はクロエ・エドゥアール以外の何物でもない。あの大々的にばら撒かれてしまったコンサート告知にもそう記してあったし、第一『黒江さん』は年がら年中、時代錯誤の和服を着ているのだ。洋服を着た『黒江さん』なんて――周囲の人たちはおろか、自分自身だって想像が付かない。


その日、女は立て続けにコンサートを二個こなした。


曲目は若干被っていたが、結果は一長一短だった。


最初のは、共演者たちの技術こそガタガタで、冷や汗を掻きっ放しだったが、みんな真面目に取り組んでおり楽しそうで――何より、温もりを感じた。


対して、後者はコンサートのセッティングや共演者の技術レベルも充分プロレベルに達していたが、その想いはバラバラで――死んだタラのように冷え切っていた。


冷えていると言えばこの楽屋もそうだ。


天井ばかりが高く、四角四面に切り立った壁が寒々としていて、共演者たちもまた同様だった。


――いや、冷たいと感じているのは自分一人だけなのかもしれない。


ピアニストとヴァイオリニストは、共に配偶者がありながら、不倫関係にあった。で、残ったヴィオラ奏者はゲイで――コンサートが終わった瞬間、つい最近知り合ったばかりの彼氏の腕の下に、早々に飛び込んで行ってしまった。


クロエは、ホール付きのメイク係が静止を振り切って顔面に塗りたくったファンデーションとマスカラの所為で、パンダのようになってしまった自分の顔を鏡で見つめた。


水を掛けられてしまった線香花火のようで、しょぼくれた見すぼらしい女の顔がそこにはあった。


耐え切れずに眼を逸らし、再び固い背もたれの椅子に身を預けながら、生け花と違い、形骸的な美しさだけを追求したフラワーアレンジメントの花束にそっと目をやる。


氷室のような控室で、その想いは書き残していった文面――あの古く痛んでいても、脈々と受け継がれてきた人の温もりが感じられる、あの一年来の懐かしの古巣――その台所のポットの脇に、半ば隠れるようにして置いていった手紙へと馳せていった――




『拝啓、平ミノル様



突然のお手紙をお許し下さい。そしてこの文章を読まれている際は、十中八九私は貴方様の傍に居ないことをお許しください。


まず、私は貴方様にお伝えしなければならないことがあります。それは決して秘密でもなんでもなく、答えろと言われればすぐにでもお答えした事実だということを、予めお断りしておきます。貴方様を騙すようなことは、決して私の本意ではありませんでした。ただ機会を失っていたというだけのことで、でも結果的にそのような結末となってしまい、誠に申し訳ありません。心よりお詫び申し上げます。


私は、戸籍上は「黒江」というのではありません。本名はクロエ・エドゥアール。モモちゃんが熱中したあのベートーヴェンの五重奏の録音の件でご存知のこととは思いますが、十年程前にオーケストラとの共演デビューを果たした、フランスと日本の二重国籍保持者のチェリストです。更に詳しく言えば、出生名はクロエ・エドゥアール=松黒。母はフランスの日本文化研究者アリス・エドゥアール。父は音楽学者で評論家の松黒誠司郎でした。


なぜ「でした」と過去形なのかと申しますと、私がまだ幼い頃に両親は離婚しているからです。私は母方に引き取られ、松黒姓を棄て、純然たるフランス人らしいクロエ・エドゥアールと言う名になりました。


ドイツとの国境沿いのストラスブールという街で育った私は、未だに一般への音楽教育が浸透している国柄に相応しく、早くから本格的な音楽教育を音楽院で受けておりました。そしてヴァイオリンとチェロの才を見出され、十一の時にはパリ国立音楽院から入学を打診され、母と二人でパリの古アパートの移住し、チェロ科の生徒として通うようになったのです。そして翌年、同市で行われたコンサートにて、プロデビューを果たしました。


アマチュアのヴァイオリニストでもあった母は、日本文化と音楽の双方に深い造詣を持っており、私は音楽のみならず日本文化の手解きをも受けました。いかに両親が離縁していようと、自身のルーツは尊重し理解すべしという、フランス人らしい気質の現れでしょうか。とにかく私はフランスに居ながらにして、日本の子供たちが学ぶのと同等――あるいはそれ以上の日本語の勉強をさせられたのです。


故に、私は父が日本人であることは知っていましたが、どこの誰かまでは存じませんでした。それが判ったのは、私がプロデビューを果たした僅か一ヶ月後。私たちの元に突如として現れた、傲岸不遜な顔をした男が「私がお前の父親だ。お前を引き取りに来た」と言ったことからでした。


無論、母は猛然と反対しました。父との離縁の理由が芳しからぬものであった母は(原因は妊娠中から端を発する、父の過剰な女性関係でした)、フランス人らしい気性の激しさで、隣人たちの迷惑も顧みず父を追い返そうとしました。その時の記憶は、朧げなものですが未だに私の中に眠っています。けれど終いには母は折れたのです。決め手は、「彼女を音楽家として成功させるのは、お前には無理だ。畑違いの素人だからだ。俺にはそのノウハウも伝手も実績もある」と言う一言でした。


こうしてパリ国立音楽院の課程を二年で終わらせた私は、父に連れられて日本へ舞い戻りました。ただ、十代の娘に束縛される気が父には毛頭無かったのか、私は父の実家である鎌倉市西御門へと預けられました。


思えば、それは不幸中の幸いでした。父の実母は、あの傲慢な人を人とも思わない人間を産んだとは思えぬほど、良心的で温かい人でした。祖父はもう既に他界していて、他に子供も居なかったため、大きすぎる家に一人で住んでいました。彼女は私の母との仲を引き裂かれた不幸な経緯を心から詫び、その上で私を実の娘のように可愛がってくれたのです。


父は青山の高級住宅地に住み、私との接点は父娘のそれと言うよりも、マネージャーのそれに限定されていました。コンサートや共演先、レコーディング会社と契約を交わしては弾丸的に鎌倉へやってきて、私を半ば無理矢理車に押し込んでどこへでも連れて行きました。その行き先は国内に留まらず、時にアメリカ、時にヨーロッパで断続的に行われました。当時私は鎌倉の女子高(モモちゃんの学校です)に通っていたのですが、こんな風に突発的にあちこちへ連れ回されていたのでは、友達すらも満足に出来るはずがありませんでした。ちなみにこの頃、母は乳ガンに罹り、発見が遅れたのもあって、余命一ヶ月を宣告されていました。けれど私は母の臨終の床にはついぞ見えることが出来ませんでした。その一ヶ月は特に父が前々から温めていたカルテットのアメリカツアーの期間で、例え親の死に目――父にとっては嘗ての配偶者の死に目にも、私は赴くことを許されなかったのです。訃報を聞いたのはロサンゼルスのホテルに着いたその瞬間で、私はただ一人、部屋でひっそりと枕を濡らしたことを覚えています。同行していた父は、肉体関係を結んでいた去る実業家の未亡人宅に、私をホテルに落としたその足で向かいました。


私はその時、誓いました。今後如何なることがあろうと、決して情に絆されたり、彼の巧妙な口車に乗せられたりすることなく、高校を卒業したら行方を眩まそうと。そして学費の安いフランスに戻り、ひっそりと音楽の講師等をしつつ生計を立てて、大学へ通おうと。


ただ一つこの計画に関する妨げとなっていたのは、そんな父の親でありながら似たところの一切ない、二人目にして最後の肉親とも呼べる祖母の存在でした。祖母は高齢で体の調子を崩しており、如何に裕福だから孤独死の心配はないだろうと言え、心細いのは目に見えていました。そして私は何より、突然家族を消え失せさせてしまうような真似はしたくなかった。それをしてしまったらそれこそいよいよあの男と同じ穴の貉であると自分に言い聞かせ、高校最後の誕生日の際、意を決して祖母に自分の想いを伝えたのです。


すると、祖母はちょっぴり哀しそうな顔をして、こう言いました。


――そうかい、寂しくなるねえ。


引き留めようともしない祖母に、私は自分が言い出した事実も棚に上げて縋りました。なぜ引き留めようとしない、なぜ行かないでと言ってくれない――私は年甲斐もなく、泣きじゃくりました。思えば、あれが私の最初で最後の、人に向けて感情を露わにした瞬間だったのかもしれません。


祖母は、そんな私の肩を優しく撫でながら言いました。


――寂しいよ。寂しいけど、それだけだ。でもいくら遠くで離れて暮らしていようとクロエはクロエで、お祖母ちゃんはお祖母ちゃんなんだから、家族だってことに変わりはないだろう? それに今、私が我儘でお前を引き留めてしまったり、あるいはお前が私を気遣って自分の人生をないがしろにするようなことがあったら、それこそあの男――私にとっては胎を痛めて産んだ息子で、お前の父親と同じ穴の貉だろう? だって、あの男は自分の利益の為に人の人生をメチャメチャにして楽しんでいるところがあるのだから。お祖母ちゃんは、あんなのでも自分の息子だから無下に出来ない反面、心底憎む気持ちも判る。私や死んだお父さんにも、あの馬鹿息子は不義理なことばかりしてきた。勘当こそしていないが、当の昔に心は離れているんだ。あの馬鹿息子がやった唯一の親孝行は、お前のような出来の良い孫を作ってくれたことだよ。それだから――それだからこそ、クロエ、お前は自立しなきゃならない。あの男の膝下で一生暮らすようなことがあってはならない。だからお前が故郷へ帰るのは、お前の意志であり、私の本意なんだよ。


ちなみに、その際の条件にはある特異なことが一つありました。


それは、何が何でも連絡を取り合わないこと。


と言うのも、突然自分が宣伝している稼ぎ頭がいなくなったら、父は半狂乱になって探すことが目に見えていたからです。彼の執拗さを侮ってはいけませんでした。母の居場所すらも、他人の郵便受けを人を雇って漁らせるという非合法的手段で探し当てた程の男です。祖母の家の郵便受けに、フランスからの私名義の手紙が届いたともなれば、電光石火の勢いで文字通り飛んでくることは必然でした。


そして私の決心は揺らぎないものとなりました。私の意志、そして祖母の意向を汲む為に、私は高校を卒業と同時にストラスブールへと舞い戻ったのです。


ただ、祖母はある一点において間違ったことを言っていました。


私は、やんわりとそこを否定しました。


――お祖母ちゃん。一個だけ違うことがあるよ。私はお母さんと居たフランスも故郷だけど、お祖母ちゃんと居た鎌倉もまた故郷なんだよ――と。


そして四年の月日が流れました。


私はストラスブール音楽院でチェロを学ぶ傍ら、大学で日本文学を専攻し、その双方の学費を捻出する為に翻訳やヴァイオリン、チェロのレッスンを行いました。


フランスに戻った最初の年の春のことです。


ふと街中のとある教会の前で、ソロ・リサイタルの張り紙を見て、何の気なしに入ってみる気になったことが、思えば運命の分かれ道だったのかもしれません。その時の演奏者は私と同じ日本出身のピアニストで、リストの楽曲を中心とした一風変わったプログラムを組んでいました。オーケストラ曲のピアノ編曲版――それもドイツ物ばかりを一時間ぶっ通しで弾く――ありそうで意外と類を見ない試みに、私は興味を惹かれました。


正直に申しまして、技術一辺倒の日本からの留学生にしては技術がお粗末、本番慣れもあまりしていない印象でした。それでも、彼にはそれを上回る魅力がありました。とにかく理屈っぽく、それでいて感情的。一言で言うとド派手。ピアノ一機で、大規模オーケストラに匹敵する迫力と音色の豊かさを醸し出す。八十八鍵が紡ぎだす小宇宙が、こんなに壮大で無限の可能性に溢れているものだったとは、まさに目から鱗でした。


そして何より心を惹かれたのは、コンサートの直後、どこの本番にもいる意地悪な質問ばかりをしてくる聴衆にこう訊かれた時のことです。


――どうしてあなたは、フランスに居るのにドイツ物ばかり弾くのですか? なぜ、ピアノなのにオケの編曲物ばかりを弾くのですか? それに解釈があまりフランス的ともドイツ的とも言えない気がしましたが。


彼はカッと喧嘩っ早そうな目を見開いて、噛み付くようにこう返したのです。


――じゃああなたは、東洋の一介の島国に過ぎない日本からやってきた人間が、あたかもフランス音楽を理解しましたぁという面をして、フランス人を気取って得意気に齧っただけのフランス音楽を演奏したらどう思いますか? 音楽ってのは飽くまで文化です。あなたはフランス人だからフランス語で物を考え、フランス語で喋る。それと同じように私は日本人なんですよ。寝言も日本語だし、パッと無意識に考える内容も日本語なんです。だから私は、飽くまで自分らしい音楽しか血肉が通っていないと思ってやらないし、出来ないんですよ。文化ってのは、イヤリングと違って簡単に付けたり外したり変えたり出来ないモンなんでね。


もうお判りですね? 五年前、ストラスブール、風変わりな日本人ピアニスト。理屈っぽく、それでいて感情的で、誰よりも深く文化のことを判ろうとして、同時にあるがままにしておこうとする。


そう、そのピアニストの名前は『平ミノル』。


そしてプロフィールから、彼がヨーロッパで長く暮らした人間であることを知り、その特異な物の考え方に合点が行った私は、同時に私と同じ鎌倉市出身であることを知りました。このコンサートの直後、十五年ぶりに日本に帰国し、新たな一歩を踏み出し始める予定だということも。以来、その名前はコンサートの想い出と共に、私の胸にしっかりと刻み込まれたのでした。


それからまた四年の月日が流れました。先生もご存知の通り、フランスでは日本以上に修士の必要性が高く、私は職業音楽家として成り立てられるよう大学院へと進みました。そこで二年、そして国家音楽教授資格に二年。そこまで会得したらこの厳しい音楽界においてどこの国でも通用するものと考え、当初の自立の目標を達成したとして、祖母に会って報告しようと考えたのです。誇らしげに胸を張って、ただいまと言いながら。


けれどそれもまた叶わぬ夢でした。


祖母は二年前に既に他界しており、家にはあろうことか父の内縁の妻を名乗る女性が住んでいました。ただ彼女と話をする内に、父は決して彼女を本当の妻とは思っていないこと、空き家となって朽ちて行く家を放ったらかしておくのも建設的ではないという打算的な考えに基づいて、彼女を単なる管理人として留守番させていることに、私は気付きました。自分が血を受け継いだ娘だからこそ判る、意地悪な確信でした。


父との確執のことは伏せ、祖母のことだけを大まかに伝えると、良心的な女性は気の毒だから、形見の品等で欲しいものがあれば持って行って良いと言ってくれました。そこで私は、予てから興味があり、自分で着付けも習った程の普段使いの着物を一切合切頂戴し、逃げるようにして屋敷を去ったのです。


ただ、祖母の元に帰れると端から思い込んでいた私には、行き先がありませんでした。フランスの家は引き払ってしまいましたし、ホテル住まいをするほどに満足な路銀も持ち合わせていませんでした。ともなれば、もう少し物価の安い街でアパートを借りつつ、仕事を探す外にありませんでした。


近隣の町の名前を手当たり次第検索に掛け、併記して「アパート」や「音楽」と言ったキーワードを入力していたその時。


大船の『平音楽教室』の文字が目に飛び込んできたのです。


それから先はあっという間でした。


一夜を鎌倉の駅近くのベンチでスマートフォンと睨めっこした私は、深く考えることなく、寝不足であることすらも忘れて、明朝始発と共に大船へと向かいました。流石にずっと同じ洋服は気持ちが悪かったので、心機一転させる意味でも入手したての祖母の着物に袖を通して。生憎傘が無く、着物が濡れないように雨合羽だけを羽織り、どう話を切り出したら良いものやら、それ以前に何を頼めばいいのやら、そもそも何か頼む必要性があるのやらと考えあぐねながら、稲荷神社と教室の前を行ったり来たりしていると――やがて、扉が開いたのです。


それから先は、先生もご存知の通りです。


ただ、お喋りな父の愛人が漏らしてしまったのでしょうか、娘の存在がこの日本にあり、祖母の着物を沢山持って行方を晦ましたという情報が父の耳に入ってしまったようです。


父はそれから一年、周到な捜査活動を行って私の居場所を探し出し、知略を張り巡らし、嘗てフランスで組んでいたカルテットの一員からの個人的な私信という形で、私をコンサートの表舞台に引き摺り出すことに成功しました(ちなみにその手紙の殆どは私が内密に処理しましたが、ただ一通――最後の手紙だけは、先生が先に入手してしまっていました。あの時程、肝を冷やしたことはありません)。一回限りのリバイバル公演という建前ですが、当人にその心算がまったくないことは重々承知の上です。けれど、半ば恐喝気味に先生の教室のことを触れられると、私は受けざるを得なかった。そして同時に、それを先生にご相談出来なかったことが、私の身勝手で独善的な精神の現れとも言えます。


私からの告白は以上です。


モモちゃんや戦士さん、銀蔵さんや室井さんとの思い出など、書き始めれば切りがありませんが、私の犯した過ちを肯定するいかなる理由にもならないと考え、割愛します。


ただこれだけは言わせて下さい――平音楽教室で過ごした一年間は、私の人生において最も充実し、自分が自分として生きられた最良の日々でした。願わくば、その心温まる日々が永遠たらんことを。


けれど、その絵に私は入るべきではないのかもしれません。父を、松黒誠司郎を遠ざける為に、私は自分の足でこの場所を去ります。


永らくお世話になりました。お身体にはお気をつけて。モモちゃん、銀蔵さん、室井さん、戦士さん――そして他の生徒さん、その保護者の方々や商店街の皆様にも、宜しくお伝えください。


そして、黙っていて本当にごめんなさい。




今まで、大変ありがとうございました。




――黒江』




あの男はコンサートホールに姿を見せなかった。


いつもならば、真っ先に飛んできておべっかを有力者たちに振りまくところなのに。


ともなれば、やりそうなことは限られている。




最低最悪の結末に対する嫌な予感が、クロエのかじかむ心を蝕んでいった。



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