消失《ディスパルゥ》と、不意の来客。
それから二時間後。
すっかり夜も更けて、張り巡らされた提灯に色とりどりの光が眩しくなった頃。
私は今になってどっと押し寄せた疲労感を負け、早めの帰宅をすることにした。
爺さんと戦士はもう完璧に出来上がって(戦士はそのもっと前からだったが)、私に相手をするよう頻りに言い募った。
ちょっと頭が痛むので、これでは美味い酒は呑めそうにないと断る私。
それでもなお引き留めようとする酔っぱらい二人を制したのは、不意に吹く冬の北風のような、永久さんの有無を言わさぬ一喝だった。
室井は心配そうに私と、そして黒江さんを気遣ってくれたものの、私は心配には及ばないと軽く礼を言い、あの始末の悪い酔っぱらい二人のおもりを頼んでたった一人の帰路に着いた。
モモが、両親が車で送ろうかと申し出てくれていることを伝えてくれたが、そんな距離じゃないから、とそれすらも断って。
商店街を、駅からとは九十度逆の方向で突っ切る私。
個人商店はどこも早く店仕舞いしていたが、バイトや雇われ店長を多分に含むチェーン店は変わらぬ営業をしていた。それに伴い、地元民のようで地元民の気がしない人々も、また変わらず道を行く。
〈船月庵〉と稲荷神社の間。
商店街の終着地を左に折れると、見慣れた住宅街。
――そして見慣れぬ車が一台、家の前に止まっていた。
いや、それは厳密には正しくない。
その車も、私の姿に気付き大地に降り立った男の顔も、私は見たことがあった。
――ただ、この大船の日常生活には溶け込んでおらず、これからもおよそ溶け込む気配が無いというだけで。
車は、以前からちらほら留守中の向かいの家の前に止まっていたもの。
そして男は――日に焼けて真っ黒で、まるでハリセンに絵を描いたように縦向きの皴が目立つ不遜な顔は、雑誌の上でよく見るものだった。
「アンタは――」
音楽学者にして評論家。
松黒誠司郎氏が、そこに居た。
* * *
「随分と年季の入ったお宅ですな」
松黒は言った。
ゴルフだかハワイ辺りのリゾート地だかで鉛色に日焼けした評論家の実物は、モノクロの誌面上で見るよりずっと不自然な色をしていた。戦士のような、天然の太陽と血ゆえにではない、飽くまで人工的な黒。その影絵のような顔写真に、私はてっきりどこかの漫画家のアシスタントがスクリーン処理でも施してしまったのかと思っていたが、それは誤解だった。バイクのグリースのような、あまり一般家屋が似つかわしくない色が、まるで掛け軸に垂らした染みのように我が城を練り歩いている。
「すみませんね、ボロ屋で」
松黒は大仰に手を振った。
「いや、そういう意味で言ったのではないんだ。気を悪くしたら謝るよ」
けれどその口調に、謝罪の色は一片たりともあり得なかった。
私は鈍痛に痛む頭をさすりながら、私はのそのそと台所へ向かった。そしてついぞ自分で淹れたことのない緑茶を用意する。たかがお茶を一杯淹れるのに、軽く十五分はその場を離れていた。
ようやく戻ってきた私は、一層険しい顔をして、一番使ったことのない来客用の湯呑みをドンと音を立てて突き出した。
「大変遅くなって申し訳ない――どうにも慣れていなくって。お茶をどうぞ。今、生憎お茶菓子は切らしているモンで――ご勘弁を」
「そんなに気を遣ってくれなくても構わんよ。第一、私は長くお邪魔する心算はないんだ。表で立ち話でも構わなかったのに」
私は一口自分のお茶を啜った。どう考えても出涸らしだった。
「それはこっちが困るんですよ。私は疲れているし、何よりあなたはこの商店街に相応しくない。いかにも立派そうな方が、いとも何食わぬ顔で門の前で立ち話をしていたら、近所の人間が委縮します」
「そんなまた――私はそんなに偉くないよ」
だろうな。
ただ、エラそうなんだよな。
頭の天辺から爪先までブランド物一色。どれもこれもロゴがやたらと目立って、素人目にもそれと判る金満趣味がする。どこか黒塗りのスポーツカーのようで――時速制限百キロの日本に置いておくには、そぐわない何かがある。
「そんなまたご謙遜を。確かにクラシック音楽という一般の人には縁遠いものを専門にされている以上、大臣のような知名度は無いでしょう。けれど音楽界で松黒誠司郎と言えば、知らぬ者のいない著名人。数々の音楽雑誌に寄稿し、その文章は時に一般の週刊誌や新聞においても取り上げられる。テレビ出演にも精力的で、音楽番組のみならず、ふた月に一度ほどのペースで企画されるバラエティ番組のクラシック音楽特集では、名だたる演奏家と並んで出演されている。その影響力は留まることを知らず、音楽産業のプロデューサーたちとも深い縁があり、数々の音楽家の後ろ盾としてその才能を遺憾なく発揮してこられた――私のような一介の町の音楽教室からすれば、雲の上のまた上の存在ですよ。どうしてそんな方が、私に?」
松黒はその不自然に片方だけ捻じ上がった唇で、私の淹れた出涸らしに口を付けると、即座に顔をしかめた。
「君とは初対面だが、ここは別に私にとって縁遠い土地ではない」
彼はこれまたブランドのロゴが大々的に記されたハンカチで、口を拭いながら言った。その仕草は、あまり上品とは言えなかった。
「私はこの市の出身なのだ。西御門だがね」
西御門とは、鶴岡八幡宮の裏手にある町名である。鎌倉幕府の西門があったことに由来し、歴史あるお屋敷街の風格が残っている。
私はフッと鼻で嗤った。
「そりゃコインの表と裏みたいに、ピッタリと引っ付いていながらも果てしなく遠い、交わることのそうそうない地名ですよ。そこを真っ先に出されちゃ、あまり同郷という気がしませんね」
そんな馬の尻尾のような私の態度に、松黒は不快感を隠そうともしなかった。
「君は中々にトゲがあるな。それでいて文学的だ。君は初対面の人間に対しても常にこうなのかね? それとも――私がなぜここに来たか、判っているのかね?」
私は再度不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「その二つの質問には、一遍でお答えしましょう――答えは『イエス』です」
「ほう? それはまたなぜ?」
「なんで初対面の人間にもこうかってことですか? それは、私が世間一般の人たちよりももっと即物的な物の見方をするからですよ。要は、第一印象で好きなら自ずと態度が良くなる。嫌いだったら悪くなる。尤も、ホントに何も知らない相手だったら、ちょっとは遠慮して愛想良くしますがね。あるいはお金を落としてくれそうな匂いがするか。そして二つ目の質問ですが、まさか私を演奏家あるいは学者としてプロモートしに来た訳ではないんでしょう? 私は演奏家業を退いて久しいし、まずその意味でデビューすらしていない。楽理の方面でも学士止まりで、論文なんぞは学会に発表していないんですから、あなたの目に留まるはずもない。となったら、残された可能性はただ一つじゃないですか――黒江さんのことでしょ」
「黒江?」
松黒は、ちょっと驚いたように薄情そうな目を大きくして言った。
「君は、フランスに居たらしいのに随分と奇妙な発音をするね――で? その『黒江さん』から何か聞いているのか? 私との関係性を含めて」
「いえ、何も」
私は正直に言った。
「彼女はアンタのことなんか何一つ言ってなかったし、彼女自身についても驚くほど語ったことが無い――と言うか、わざわざ語ってもらう必要もなかったというところかな。彼女は優れた音楽家で、良い人柄を持ち、私の気に入った。それだけですよ」
「ほう、それだけ? 君は雇い入れる時、他に何も訊かなかったのかね――住み込ませてもいるのに?」
「それだけですよ。そうしてこの一年間、時に取り留めのない話をして、時に音楽談議に花を咲かせ、従業員――いや、共同経営者として然るべき信頼関係を培ってきただけです。自分が見て感じたもの――あるいは、相手の方から率先して開示する気になった情報以外に、一体何が必要だと言うんでしょう」
松黒は、全身を舐めまわすようにして私を見つめた。どこか空港の身体検査で、スキャンついでに丸裸の写真を撮られているような、得も知れぬ不快感が禁じ得ない。
「君は――杜撰だな」
「まあね。良く言われますよ。ただ、それを含めて私――この平音楽教室の主ですから。短所を消すのではなく、短所を長所に変えるぐらいの意気込みでやってるモンで。杜撰さも、また私の武器の一つと心得てます」
「うーむ、どうにも合いそうにないな」
その瞳は、一言で私のことを『キライ』だと言っていた。そして私の信ずる限り、この男の『キライ』は、社会的抹殺のスイッチにも匹敵する。
「珍しく気が合いましたね。私も同感です――さあ、じゃあようやく意見が合いついでに、さっさと白状したらどうですか。何しにここに来たんです。黒江さんに一体何の用で、わざわざ彼女がどこかに雲隠れしてしまった隙を狙ってやってきたんですか。知っているんですよ、アンタがうちの前にちょくちょく車を横付けにして、中の様子を探っていたってこと。警察官もしょっちゅう出入りしてたって言うのに、まあ図々しい」
思っていた以上にストレートに物を言ってしまった所為で、松黒の甲虫のような額に、ピクリと筋が立った。
「君は失礼な男だな。でも、それでなんとなくあの娘が君のところに入り浸っていたのか、判った気がするよ――アレも、相当に恩知らずな性質だったから」
松黒は乾いた喉を潤そうして一瞬湯呑みに手を掛け、ふと思い出したように思い留まってから、思い入れたっぷりな口調でこう言った。
「単刀直入に言おう。私は、私の娘――クロエ・エドゥアールを、買い戻したい」
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