祭りの終わりと、消失《ディスパルゥ》。




「イヤー、終わったァ!」


銀蔵爺さんが、屋台のコップ酒を掻っ込みながらプハァと盛大な声を上げた。


あれから一時間、されど一時間。


壇上に昇って降りるのを含めても十五分に満たない私らの演奏は、長い長い祭りの段取りからいうと実に呆気なく通り過ぎて行った。


という訳で、私らは早々にお勤め終了。


結論から言うと、私らの発表は大成功。


尤も、マジモンのレコーディングをするようなレベルからしたら、ヘソで茶を沸かすどころか沸騰して屋根まで飛んできそうなお粗末なものだったが、それでも今の私たちの実力からしたらこれ以上の成果はないと言えた。


まず、出だしが合った。


これだけでも大きな収穫で、『終わり良ければ総て良し』じゃないが、始まりからトチって出鼻を挫かれることだけは何としてでも避けたかった。第一、客ってのは概ね最初と最後と見せ場だけを聴いて演奏の善し悪しを判断するところがあるのだ。取り返しの付かない一過性の時間芸術だから出来る裏技で、これだけでも三分の一をクリアした勘定になる。


次に、皆が曲を理解していた。この場合の理解とは、単に進行を掴むというだけではなく、適切な歌い方などを心得ているかという課題も含む。練習を本番への通り道とするならば、山場や落とし穴の位置を綿密に調べ上げ、万が一に嵌った時の対処法を準備しておく作業に他ならない。つまりゲームで例えるならば、なるべく多くのセーブデータを用意しておき、躓いたらなるべくすんなり復帰することなのだ。どうしたら、最良の歌い方が出来るか。どうしたら、最も効率よく盛り上げられるか。その意味では、四人はいずれもしっかりと宿題をこなしていた。日々の積み重ねが、きちんと実を結んだと言える。


勿論、みんなミスをした。


私は指がこんがらがって素人目にも違和感のある妙な音を押したし、モモも弓の返しを間違った。室井は緊張で音が裏返り、戦士も音程が不確かな個所が、爺さんに至ってはここぞという場面で一拍前にズレた。黒江さんですら、爺さんに釣られて音が引き摺られてしまった箇所がある。


それでも、全員弾き直したり止まったりすることなしに、元の位置に入れた。次の小節からは、何食わぬ顔をして演奏を継続することが出来た。これは一朝一夕では出来ぬ芸当だった。


そして何よりも――


全員が互いを尊重していた。


アンサンブルの最も基本的且つ難解なところは、人と合わせるということにある。


一人が目立てば他の皆が引き立て役に回り、それぞれの歌い方に合わせて臨機応変にタイミングを前後させることが重要になる。一人がミスをすれば、その人物が帰って来やすいように、次のセクションで仕切り直すことが必要だ。


貶めあったり、一人が目立とうとしゃかりきになったりするのではなく、全員が一丸となって一つの音楽を奏でる。その精神が、何よりも不可欠だった。


全員が全員を気に掛けていた。


全員が全員の、紡ごうとするメロディに耳を傾けていた。


それはうちで和気藹々と語らう面々と重なって――それでいてなあなあにならない音楽に対する真摯な姿勢は、まさにプロに通ずるそれと言えた。


そして十二分後。


あっという間の十二分。


永遠にすら感じられた十二分。


近年まれに見る濃密さの十二分を過ごした私たちは、皆一様に汗だくだった。


最も代謝の悪そうな黒江さんですら、額をびっしょりと濡らしていた。


単に、昼間の日差しの残る夕暮れの屋外だからか?


いや、私はそうは思わなかった。



その汗は、水よりも濃い、私らの熱意から滴った何かだった。




楽器から手を、口を離した時。


暫くしてから私たちを包み込んだのは、公園中に溢れ返る熱烈な拍手だった。


ある者は口笛を吹き、ある者は「アンコール!」と叫んだ。


そんな本場欧米のコンサートホールでしかおよそ受け得ない歓迎に、私らはこの大船の地でしかと二本足で立っていた。


特設ステージ(といっても、アスファルトの敷かれた水飲み場をそのまま流用した出来合いの物)から降りると、観客からの熱烈なラブコールが息も整え切らない私たちを襲った。


町内会長は真っ先に私に歩み寄り、最大限の賛辞をくれた。私が彼の援助なしにはこのステージは存在することすら適わなかったと、素直に感謝の意を伝えると、そんな礼は良いから次は自分たちとも共演してくれと懇願した。この場合の『自分たち』とは、会長がボーカルを務める素人オッサンフォークバンド『タイタニックス』(大船を『大きい船』と解釈し、発展させた、本人曰く気の利いている名前)のことで、私はその申し出を引きつった笑みと共に快諾した。今不用意なことを言っても、来年の夏までには忘れているだろうと踏んでのことだった。


興奮しすぎた爺さんを宥めにやってきた八千代は、爺さんの達成感のある笑顔を見て大人しく引き下がった。そして「マグロやサメと一緒で、動いてなきゃ死んじゃう人なんだから」と、私に苦笑交じりに語った。


戦士の同僚の一人もわざわざ鶴見から来ていて、貧弱な語彙力を発揮して単純な賛辞の言葉をオウムのように繰り返していた。聞けば件のイジメ事件の犯人の一員らしく、見るからにおだてりゃ木どころかエヴェレストまで登りそうな面をしていた。私にも馴れ馴れしく駆け寄ってきたので、ちょっと釘を刺した後、温かく接してやった。


室井の両親も来ていた。まあ大男と大女の夫婦で、『ガリバー旅行記』の巨人一族を思わせた。共に気立ては良さそうで、特に母親は「緑がこんなにしっかりとここ一番をこなせたことはない」とうっすらと涙を浮かべて喜んだ。


他にも室井や私の同年代の友人知人もちらほらと来ていた。彼らは口々に「スゲー」だの「上手!」だの言って、私らを良い気にさせた。


そして土安夫妻――長い流れた顔を成すがままに弛緩させた会計士の父親と、丸顔に複雑そうな表情を浮かべた元演歌歌手の母親も、娘をねぎらった後に揃って私の元へやってきた。


そして単刀直入に言った――


「もう少し、モモの夢を見届けてやることにします」


グイと好戦的に顎を突き出しながら言う母親の口調には、タンポポどころではない、燦々としたヒマワリの匂いが立ち込めていた。


最後に歩み寄ってきたのは永久さんだった。


店の外で永久さんと出会うことはまずない。吸血鬼宜しく、日中は趣味という名の棺桶に納まってすやすやと安らかな眠りに就いているからだ。


彼女は開口一番、私にしか聞こえない声で言った。


「答えが、きちんと出たようですね」


私は頷いた。


永久さんがあの日、私に強いたこと。


それは自分を見つめ直すということだった。


教育者としての自分、音楽学者としての自分、単なる愛好家としての自分、平ミノル個人としての自分。


そして、演奏家としての自分。


私は、音楽院を卒業して以来ついぞ真剣に取り組むことのなかった自身の演奏に、今回初めて熱心に打ち込んだ。移動の電車の中でも座れれば楽譜を取り出してよく読み、ラッシュの時でも鞄に指を這わせ運指の練習をした。お陰で痴漢に間違われかけたりもしたけれど――今となっては、良い想い出だ。


けれど、今回のこの経験に関しては想い出として終わらせる心算はない。終わらせるべきでもなかった。


これは今までの私への決別であると同時に、新たなステップへのプロローグ――今一度、細々とでも演奏家として成り立つようにやり直そうという、復活の賛歌だった。


――そして今。


無人の平音楽教室の、父親由来のベーゼンドルファーのグランドピアノの譜面台の上には、一冊の古びた楽譜が乗っている。私が、最後にフランスの師匠と始めた曲。そして帰国間際のドタバタと、新たな環境への順応期間ゆえに、決して日の目を浴びることの無かった名曲――フレデリック・ショパン作曲『幻想曲』作品番号四十九が、五年の月日を経て再び蘇ろうと、主をそっと待っていた。



――それから。


湧き出てくる聴衆の挨拶もようやく一段落付いた頃。


皆で酒を片手に乾杯(モモは勿論ジュース)し、後は盆踊りでも眺めながらゆったりとした打ち上げを楽しもうとしていたのだが――


全員が揃うことはなかった。


私服姿にも拘らず、ママとはぐれたとピーピー泣いていた子供を連れて然るべき場所に連れて行った室井が、フランクフルトを三本も携えながら言った。


「やっぱりどこにも見当たりませんねえ。どこへ行ったんでしょう――黒江さん」


「くろえさん、いないのー?」


呂律が回らない状態で、既に四本目のビールに取り掛かろうとしている戦士が妙な声を出す。


ってかお前呑み過ぎだろ、この短時間で。


まさかここまで常習的に酒癖が悪いヤツだとは、夢にも思わなかった。今度禁酒令敷いてやるからな。


モモも、携帯電話片手に不安そうに言う。


「チャットでも出ないよ。既読も付かない」




――そう。


コンサートが終わって、壇上でお辞儀をしたその直後から。


黒江さん――平音楽教室の和服の弦楽講師黒江さんの姿は、この公園のどこにもなく、またその行き先を知る人も誰一人としていなかった。


忽然と煙のように消え失せたのである。




――Kuroé disparue(クロエ・ディスパルゥ――〈消え失せた黒江さん〉)。


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