結論。
「買い戻す?」
私――平ミノルは、いつもはついぞ発することのない、静かな口調で言った。
冷たく温度の無い――霊峰の万年雪のような口調。
松黒誠司郎は、悪びれる風もなく威圧的に返す。あたかも、それが王の勅命のように。
「そう、『買い戻す』。彼女は今、お宅の従業員なのだろう? ヘッドハンティングと言っても良い。社会人らしい、真っ当で公正な取引だ」
『ヘッドハンティング』。その言葉を、松黒は『頭を狩る』と直訳した絵面を想像したかのように、軽く舌なめずりをした。
「そうは仰られてもねェ」
私は頭をガリガリと掻いた。
「『買い戻す』ってのは些か不適当な日本語じゃないのかな。俺はアンタから――いや、その意味では誰からも黒江さんを買った憶えが無いし、戻す義理も無い。第一、役所への手続き上、面倒臭いから共同経営者って形にしちゃった気がしててねェ。従業員ですらないんだよ。いくらなんでも経営者をヘッドハンティングってのは、あまり聞いたことがない」
のらりくらりとかわそうとする私に、松黒は目に見えて苛立っていった。
「君も随分と細かい言葉尻に拘る男だな。良いだろう、『買い戻す』と言ったのは私の間違いだ、素直に訂正しよう。共同経営者と言うことは、つまり君たちは対等な関係と言いたい訳だな? だったらもう片方の身の振り方を、君個人がどうこう言える筈も無いって訳か――ならば、取るべき手段はただ一つ」
松黒は私と同程度の上背だったが、がたいの良さでは私を遥かに上回る。そのマリンスポーツか何かで培った強靭な胸板をグイと膨らませて、轟くような凄みのある声でゆっくりと言った。
「この教室の買収を提案する」
ほう?
買収?
私は顎に手を当て、考え考え言った。
「幾らぐらいで?」
意外な発言に虚を突かれた形の松黒が、目を大きく見開く。
「ほう、乗り気かね。そうだな――幾らでも。五百万、六百万――いや、一千万。何もこの家ごと乗っ取ろうって訳じゃない、君は変わらずここで暮らしていれば良い。ただ単に経営権を私に譲渡するということで――君が望むなら、もっと沢山払おう。尤も、限度というものはあるがね」
ニンマリと勝ち誇った余裕を見せる松黒に、私はあっさりと言う。
「いや、ぶっちゃけ乗り気もクソもないんだわ。単に幾らぐらい提示してくるのか、興味があっただけ」
「なんだと!」
バンと座卓を叩いたので、出涸らしに飛沫が立った。
私は室井に語り掛けるような口調で、ポンポンと悪態混じりにいなした。
「座れよオッサン。ただでさえアンタを家に上げて――まあ上がれって言ったのは俺なんだが――胸糞悪いってのに、これ以上ドンドン暴れられて床に穴でも開けられたら、それこそ反吐が出る。アンタのヘッドをハントして、その生首を吐瀉物塗れにしてやりたい程にはね」
鈍色の松黒にとって、顔を真っ赤にするというのは難しい芸当であるはずなのだが、その発言にカッと頭に血が上った彼は、火山から流れたてほやほやの火山岩のような、およそ非人間的な色合いになった。
「貴様、こっちが下手にでりゃ良い気になりおって――」
「『したて』? 『ヘタ』の間違いじゃねェのか。とんだ猿芝居打ちやがって。あのな、今から順を追って、その分厚い頭蓋骨でもきちんと通り抜けて行くよう判り易く説明してやるから、大人しく――」
「いい加減にしろ! これ以上愚弄するとただじゃ――」
「座れと言っただろ!」
吠える松黒に対し、私は大昔に音楽院の発声練習で養った腹から響く怒号を以って応戦した。
「キャンキャン喚くな、この腐れ悪党が。さっきな、俺がアンタの為にその特製出涸らしを淹れにいった時、必要以上に時間が掛かったのはなぜだと思う? 流石に自炊を十年以上やってたんだ、茶を沸かすことぐらいもっと滞りなく出来るさ。俺はな、見つけたんだよ――ポットを退けなきゃ見えないような妙な位置に隠された、全てを明らかにする告白書をな。神様のお告げってやつかね。神様は何でも見ているモンだな、アンタの悪行がズラーッと並んでたよ。俺がネットで仕入れたもっと週刊誌向けの内容と併せたら、そりゃ完璧な悪行全集が出来上がるって程度には、な」
「それがどうした」
松黒はうなるようにして言った。
「そんなものいくらあったところで、問題の本質は変わらんぞ。私は単に娘を、元あるべき自分の下に引き戻したいだけだ」
「いや、だからその発想自体がオカしいって言ってんだよ。頭にウジ沸いた、善悪の区別もつかない音楽家の世界じゃそれが罷り通ったかも知れんがね。三十近くになっても親のスネ齧って留学させてもらって、がんじがらめになってるのは音楽家ぐらいのものだってことを、いい加減理解したらどうだ。法律上二十歳で成人、それ以降は法的観点で言えば子供は子供じゃないんだよ。第一、アンタ、離婚して親権は奥さんの方にやったんだろう? じゃあアンタ、親ですら無かったんだよ――二十年以上、ずっと」
「そんなもの関係あるか。私は単に取引を――」
「ああ、もう、取引取引ウッセェなァ。ビジネスごっこしたがるのも悪い癖だ。やれコネだやれ枕営業だ。それも結構だが、それは飽くまでこっちにも取引する意志があって初めて成り立つモンだろう。一方的にがなられたんじゃ、それこそ押し売りだ」
ムゥ、理屈の通じない御仁だなあ。
音楽家ってこういうのは多いが、ここまで全部が万事『天上天下唯我独尊』って旗上げてるようなヤツも珍しい。
ところがそこは仮にも実力者。押して押して押し切るばかりではなく、ちょっと引くという高等テクニックも熟知していた。
いきなり人が代わったかのように鷹揚な理解のありそうな口調になって、私はギョッとした。
「確かに、双方が納得しないと取引は成立しないな。怒鳴ったりして悪かった。ところで平ミノル君――いや、平先生」
急に下手に出るコイツは心底気持ちが悪い。ってか、さっき『下手に出れば』って言った時、全然下手じゃなかったよな。
「君は何でもピアニストらしいな。それもちょっと変わった分野を得意とする。それに見る限り、君には論理的思考や分析力がある。音楽学者としても、優れた評論を書けると思うんだ。どうだろう――私なら、良いように取り計らえると思うんだが――」
確かに、明らかに毒の振ってあるエサとはいえ、松黒誠司郎なら本当に『良いように取り計らえる』だけのバックボーンを持っている。小さなコンサートホールの手配ぐらいだったらお茶の子さいさい。集客も一人でやるとなったら色々コトだが、こうした後ろ盾がいると実に心強く、自分一人でやるのがバカバカしくなるほど成果も段違いだ。そして、そうした関係は自ずと交友関係を広げる。一定ラインを越えると実力よりもコネと運が物をいう音楽界においては、人脈はまさに宝だ。私の実力からいって実技一本では厳しくとも、評論の方も含めれば、確かに暫く食うには困らないほどの仕事が来るには違いない。音楽なんて誰でも耳さえあれば聴ける。文章も、文字さえ読めれば書ける。それがこの二つの素晴らしく平等なところであり、故にそれだけで食べて行くのは何よりも難しいのだから――
――でも。
私は言った。
「お言葉ですが、辞退しておきますよ」
「なぜだ!」
松黒は激高した。
思えば、この男のいかがわしい人間性は天性のものだとしても、その交渉術には滅茶苦茶なようで意外と技巧性がある。
例えば、最初に自分の立場を遺憾なく発揮し、相手を委縮させる。
尊大で、粗暴な様子を見せて、相手を縮み上がらせる。
それでも利かない相手には、急に態度を軟化させる。
最初からヌラヌラと足元を掬うような柔らかい物腰だと胡散臭いが、逆に印象が悪いところから百八十度変えられると、譲歩してくれているんだろうか、という気にさせる。
内容に関してもそうだ。
音楽にまったく頓着の無い、ただの生活の手段としての人には大金をちらつかせ。
未練がある人間には、リアリティを帯びたドリームプランを提示する。
こっちが冷静で打算的なら打算的なほど、最終的にその口車に乗りやすい。早い話が他人を一人売ることで、自分の積年の夢が叶うのだ。まともな思考回路の人間だったら、どっちが得かを鑑みて――自分を優先することを選ぶだろう。
でも、こうした両極に位置する人間ばかりを想定するのは、第一級の音楽界に長く行き過ぎた証だ。身に染み付いて取れない、現実との垣根が大きくなるばかりの悪癖だ。
私はおどけたように、思わせぶりの口調で言う。
「だって――」
だって。
『音楽家たる前に人間たれ』
その金言に従うならば。
「私は単なる町の音楽教室の先生で、そんなもの、身に余ります」
そう。
私は町の先生。
地域の人と生き、地域の音楽を、自分だけのテンポでやって行く。
見知った生徒と、勝手知ったる仲間と。
自分たちだけの『アンダンティーノ』で進んで行くのだ。
芸術的信念を持ち続けるのは大事である。けれどそれも人として成り立ったプラスアルファのこと。それすらも満足に出来ないで――何が芸術か。
突然べらんめぇ口調になったり丁寧語になったりで、だいぶ調子を狂わされている松黒が、素のあたふたとした調子で言う。
「だったらなおの事――」
「金を受け取っておくべきだ、ですか? さもなくば、こんなちっぽけな教室、赤子の手を捻るように容易く取り潰してやる、ですか? お生憎様!」
私は飛び切り明るく締めくくった。
「そんな音楽界の権力闘争なんて雲の上また上のこと! うちの講師も生徒たちも、そんなところとはまったく無縁の世界に生きてます!」
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