同じ穴のムジカ。




平音楽教室の主、平ミノルは勝手気ままである。


金が足りなくなればどんどん仕事を増やそうとするし、辛くなったら僅かな貯えを当てに最低限に削ろうとする。


そしてその日から暫くは、四人の何とも言い難いデコボコな生徒たちと戯れる為に、予定が合う日の仕事は全部カットした。


年がら年中暇な腰痛の爺さんを除いた野郎二人は務め人、モモも学業が本分の学生で、全員の予定が合うことはそうそう無いが、それでも彼らは暇を見てはうちに入り浸り、時にガムランのレクリエーションを、時に楽譜の読み方を、時にあの奇妙なベートーヴェンの予習にせっせと精を出した。


音楽の練習光景なんて、それこそ単純なルーチン作業の繰り返しで面白くもおかしくもないので、この間の描写は同時期に仕入れた個々のエピソードの数々でお茶を濁すこととする。




まずは倉内銀蔵爺さんから。


ある日、私が商店街を買い物していると(今度は八百屋の前で大玉スイカを買うか否か、冷蔵庫の空き具合と相談中)、背後からドンと叩かれてつんのめりそうになった。


なんだ新手の暴漢か、と身構えて振り向くと、杖を突くのも程々に義理の娘(八千円)の腕にしがみ付いた爺さんが、張り手のフォームで立っていた。


「ジジイ――殺す気か?」


すると爺さんは、ニマッと好戦的な笑みを浮かべて言った。


「馬鹿野郎。どこの世の中に爺に突き飛ばされておっ死ぬ若者がいるんだよ。小魚食え、小魚」


チッ、都合がいい時ばかり年寄り面しくさって――小魚に食われちまえ。


「で? 何の用ですか。お二人揃ってなんて珍しい」


「なァに、ただの買いモンだ。横浜の楽器店まで、マイバチを買いに行ってたんだよ」


マイバチ? 和太鼓叩かないのに、バチ?


そう言って嬉しそうに爺さんが袋から取り出したのは、円柱の細長い棒に丸々としたゴムの付いたマレット――木琴やら鉄琴やらを叩くアレだった。


「いいバチだろう? 結構したんだぜ」


自慢気に見せびらかす爺さんには悪いんだが、確かに厳密に言えばそれもバチなんだけれども、私が銀蔵爺さんとの取り合わせとして相応しいと思っているものとは何かが違う。


そして爺さんはふと思い出したように、


「あ、そうそう。お前さんに伝えなきゃならんことがあるんだが、来月半ばの土曜――確保したぞ」


「確保? なにをです。『どよう』って――ウナギですか?」


「馬鹿、魚から離れろ。『土用のウナギ』の土用じゃない、月火水木金ときての『土曜』だよ。確保って言ったら演奏の場所の話に決まってるじゃないか。もう既に忙しそうな嬢ちゃんと室井、戦士には確認済みだ。ほら、うちの町内会でいつもやってる夏祭り、な。アレの余興として弾かせてもらえるよう、町内会長に直談判してきた」


私はあんぐりと口を開けた。


独断即決。異様な行動力の爺さんである。


町内会長は私も知っているが、この個性豊かな大船商店街の面々を取り纏めるだけあって、中庸さを蒸留させたかのような、一言で言うと押しに弱い聞き役だった。年齢も五十代半ばで、一世代の上のお歴々には頭の上がらないところがある。そこにかこつけて強引に推し進めるとは――いやはや気の毒な話、まったく。


「ピアノは? 流石にキーボードじゃあの曲は弾けないぜ?」


「ヘッ、この儂を誰だと思っている。そこら辺も抜かりはないわ」


そして、爺さんは思い入れたっぷりに秘策を披露した。


なんでも、町内会長の姪夫婦が今度府中の方に引っ越すらしい。家具屋を営む別の親族の伝手で、アップライトピアノ程度なら専門技能が無くとも運べるだろうと言うことで、内々に人員を確保した。そしてそこまで大型のトラックじゃない為、何度かに分けて引っ越しをせざるを得ないらしく、その最終便が丁度夏祭りの頃なそうな。


「調律師も確保したぜ。会長のまた別の甥っ子が昔から道具弄りが好きで、今は趣味の自転車に精を出す傍ら調律の仕事もやってるらしいんだが、そいつにはるばる小石川からチャリで来させることにした」


最近は地域の繋がりが希薄になっている所為か、どこの自治体の夏祭りもどんどんしょぼくれたものになりつつある。町内会長はそこら辺夢多き人なのか、町興しブームに乗っかって精力的に催し物を企画していた。ゆえに、コスト削減と人員確保のために親戚総出が不文律となっているらしい。


「ま、ともかく町内会長も、『お、面白そうじゃん』って感じだった訳だ。目玉の一つとして、こりゃ気張ってやらんとな」


そう呵々と笑い、杖を突きながら商店街を闊歩していく爺さん。


取り残された嫁(八千円――いや、八千代)が、小声で言う。


「すみませんねェ、お義父さん強引で。でも、ちょっと前に比べてだいぶ調子が良くなったんですよ」


「そりゃ何よりです。まあ、免疫力が残っている限りは、怪我は得てしてそうやって治るモンですからね」


「そうじゃありませんよ――中身の方です」


中身?


そう私が不思議に思っていると、倉内八千代は履物のような堅そうな顔を、やんわりと綻ばせて言った。


「ほら、前に申しましたでしょう? 腰を痛めて以来、塞ぎがちで前にも増して家族に辛く当たるようになり、頭もその――ちょっとボケかけていたって。でも思えば、あれは単にストレスだったんですねェ――先生の所に良くお邪魔するようになって、駅前交番の室井さんや、あのなんという名前か忘れましたけど、東南アジアの若いお友達がちょくちょく遊びに来て下さるようになって、見違えるほどに元気になったんですよ。まあ腰はまだ無理できないようで、杖こそ突いていますけどね。で、『どこでお知り合いになったお友達ですか?』って訊いたら、言ったんですよ――『みーんな、平の若造のところの関係だ』って。先生、うちのお義父さんを気遣って、色々手を尽くして下さったんですねェ――本当に、ありがとうございます」


深々と礼をする八千代に対し、私は滅相もないという風にブンブン手を振った。


「それは違いますよ。確かに切っ掛けこそは私だったかもしれませんがね。私は単に、偶々うちに居合わせた連中を引き合わせただけなんです。親切にしよう、気遣ってやろうなんて善意は全く思いつきもしませんでした。そういういい結果になったのは――偏に銀蔵さんのお人柄の所為でしょうな」


並外れたバイタリティ。


義に厚く、口こそ悪いが一本筋の通ったところ。


それでいて驕らない、気さくな人柄。


そんな倉内銀蔵爺さんだから、孫のような世代の室井も、日本という国に恐怖すら抱きかけていた戦士も垣根を感じることなく接せられたのだろう。


名実ともに、優れたリーダーだよ、アンタは。


「そんなご謙遜を」


八千代は頑としてその賛辞を受け入れなかった。


「でも、重ね重ね、本当にありがとうございます。先生がいて下されば、この商店街も安泰ですわ」



商店は営んでないのにな――私はそう思いながら、小恥ずかしくなって頬を掻いた。




駅前の交番の前を通りかかると、小さな箱をまるで観音堂のようにして収まる、大きな大きな姿がある。室井緑巡査部長は、何やらせっせと事務仕事をしていた。


「よォ……ヒマそうだな」


私がのっそりと声を掛けると、郵便ポストのように四角い顔がグイと持ち上がる。


「あ、先生――こと警察に限っては、ヒマが何よりッスよ。世の中が平和だって証拠ッスから」


「そうか。いい商売だな。俺みたいな自営業がヒマだと、野垂れ死にへのカウントダウンみたいな気がして、どうにも落ち着かねェ」


「そうらしいッスね」


室井は穏やかな苦笑を浮かべて、


「じゃあ先生、今はヒマなんスか?」


「誰が? この俺が? ヒマかって?」


私は欧州育ち譲りの大仰な仕草で天を仰いだ。


「ヒマな訳あるか、大忙しだよ。黒江さんが家でせっせと教えている間、俺は家事雑用を全部こなしているんだ。まあ要は、女の細腕じゃ重すぎる飲み物の類を買い出したりだな」


そう言って、ポンと愛車代わりのゴロゴロを叩く。中には今の時期必需品の、二リットル入りのペットボトルのお茶が六本、それに個人的なオレンジジュースやアイスコーヒー等がパンパンに詰まっている。


「そうッスか――黒江さんは、お忙しいんですね」


ちょっぴり寂しそうな面の室井に、私はニンマリと笑って、


「お、気になるかい? でも案ずるな、携帯電話は手元に置いてあるからメールだったらいつでも出来るぞ。モモなんか、相手の都合も考えずのべつ幕なしに、実にくだらない内容の文面をよこしてきやがる。お前も、それに倣ったらどうだ? 撃ち殺されはしないだろうよ」


室井は手元のスマートフォンを弄り、連絡先一覧を開くと『黒江さん』と書かれた欄でふと手を止めた。けれど次の瞬間、思い直したように画面を切って、


「いや、止めておきますよ。第一、彼女にはあんなに良くお互いのことを判っている相手がいるんですから。自分なんかの入る隙間なんか、ありゃしません」


「ん? 何の話だ?」


「先生には判らない話ですよ」


変なヤツ。


女心はよく判らんと言うが、男も時に充分訳が判らない。


じっと携帯電話を見つめたままだった室井が、不意に口を開く。


「ところで、一つ質問いいッスか?」


「ん? なんだ?」


「黒江さんって――下の名前なんて言うんスか?」


へ? 下の名前?


そう言えば私らは皆「黒江さん、黒江さん」とばかり呼んで、姓名の名の方には恐ろしく無頓着だった。今までその呼称で困ったことはなかったし、気に留める切っ掛けすらなかった。


「……はて、なんだったかな?」


そもそも、聞いた覚えあったかな?


「エ――でも、最初に雇い入れるときに履歴書とか契約書とか書いてもらいませんでしたか? そこには絶対書いてあると思うんですが」


「あー、履歴書に関しては急に押しかけられてきた所為で、貰ってないんだよ。最初は従業員雇う気もなかったしな。契約書は――そういや飯食わせてる最中に、簡単なものをコピー紙の裏かなんかに書いてもらった記憶はあるんだが――はて、どこにやったかな」


我ながら言葉を失うレベルの杜撰な管理体制に、室井はもっと目を白黒とさせて、


「先生――ホントに、経営者ッスか?」


そう言われると返す言葉もない。


いや、マジで名前なんだったかな――


あれだけ謎の多い黒江さんのことだ。今更名前の一つや二つ、なんだって言うんだ――そう自分に言い聞かせて、その疑問は再び蝉が鳴く大船の雲一つない青空に、跡形もなく消えて行った。




所変わって永久さんとこ。


偶には水入らず、オッサンたちのちょっかいが入らない環境で、永久さんとマニアックな文化談議に花を咲かせたって、良いじゃない。


私と永久さんだけだと、本当に歯止めが利かない。とは言っても対等な話し相手というにはほど遠く、私は彼女のブリタニカの百科事典を丸々脳裏に叩き込んだような文明の叡智の集大成に、ただただ耳を傾けるばかりの場合が多い。そんな至らない私だがこの大船商店街ではそれでも筆頭の話し相手らしく、普段は氷の彫像のような永久さんの生気の無い頬に熱っぽい色が浮かぶのをボーッと見ては、女性が他の人には見せない表情を見せるという微かな優越感に酔いしれていた。嗚呼、哀しき男の性。我が乾き切った人生においては、それすらも希少な潤いとなる。


そろそろ宴もたけなわ。最後の東京発の列車も大船に到着した頃だし、ゆっくりと夜風に吹かれて帰るかね――と思って、勘定を懐でまさぐっていると、扉の方からカランコロンと音がした。


ん、なんだ? そろそろここも店仕舞いだろう――と思って振り向くと、そこには宵闇を切り取って絵本に出てくる真ん丸おめめを貼り付けたような、見知った浅黒い顔があった。


「戦士!」


私はガタンと音を立てて立ち上がった。


人懐っこい小動物のような顔をした五児のパパ、日中は決して幸せなからぬ生活を職場で送っているインドネシア人は、見るからに酔っぱらっていた。土色の肌にそれと判る赤味が差し、フラフラと上機嫌に右へ左へと揺れている。


「なんだってこんなところに――」


「こんなところとは、ご挨拶ですね」


間髪入れずに飛んでくる永久さんの厳しい言葉もかわして、私は見たままの疑問をぶつけた。


「それ以前に、なんでお前酔っぱらってんだ?」


それを聞き、戦士はケラケラと笑い出した。


「そりゃ、おしゃけをのんだかりゃですよぅ」


文字に書き起こすと、まったくもって意味不明な発音で返す戦士。


「『はしご』ですよ『はしご』。ちばで呑んで、そのあととうきょうで呑んで、さいごにおおふなで呑んだって、いーでしょーがぁ」


いや、悪かないけどさ。


ん、千葉で呑んだって? 仕事の為だけに行ってる場所じゃなかったのか? 自棄起こして、一人で寂しく呑んで――ここまで酔いつぶれたってのか?


そんな悲しい妄想に頭を働かせていると、戦士が「ノンノン」と指を振る。その拍子にフラリとバランスを崩し、私は慌ててその肩を支える。


うわっ、酒臭ェ。マジでどんだけ呑んだんだよ、コイツ。


「そんなさびしいことしませんよぉ。せんせじゃないんだからぁ」


ほっとけ。


「しょくばですよ。しょくばのひとたちとのみにいったんですよぅ」


これ以上酔っぱらいの言葉をそのまま写していると、文字まで呑んだくれてミミズがのたくったような文字になりそうなので、要約しておく。


要は戦士さん、私が東京駅で拾った以降もしばらくは陰湿な嫌がらせを受け続けていたのだが、短気な私や銀蔵爺さんとつるみ始め、ビシリと言い返す術を人知れず会得していたらしい。


ある日、堪り兼ねて半ば発狂気味に面と向かって文句を言ったのだが、肝心なところで日本語力不足を曝け出したのか、とにかく噛んでしまい、舌足らずでおよそ凄みの利かないモノになってしまった。はっと間違いに気付き、しどろもどろになる戦士。それよりも驚いたのは相手の方で、あまりもの滑稽な様子に思わずゲラゲラと笑い転げたらしい。そして一頻り笑い終えたあと、なんの琴線に触れたのか、そのイジメの首謀者は戦士のことを甚く気に入り、以来職場での交友関係も随分と広がったそうだ。


つまりそいつらが嫌っていたのは当初の戦士の、謂わばインテリという自負と決定的な語学のハンディキャップという落差ゆえの卑屈さで、それがどんどんエスカレートしてああした形になっていたのだ。どっちかと言うとイジリであるものだったらしく、本当の意味での悪気は当人たちにはなかった。単に限度を知らないアホだったという訳である。


尤も、いじめを肯定する気は私にはさらさらない。でも、こうした形で丸く収まってくれるのなら、それに越したこともないのだ。


要は、揃って東京方面から通っていた戦士たちご一行は、職場近くの千葉でまず呑み、電車に揺られて東京に場所を移し、そこで浴びるように呑んで大騒ぎをして別れてきた。戦士はよく判っていなかったが、なんでもそいつらはその足で女遊びに繰り出そうとしていて、そこは流石に妻帯者の戦士に気を使って(あるいはそうした店は外国人お断りを掲げていることが多いのを見越して)早めのお開きにしたそうな。でも午後五時から飲み続けていただけあって――うん、ベロンベロン。


レロレロとおよそはっきりしない口調でようやくそこまでを語り終え、トイレに立とうとする戦士。その際、足を椅子に引っ掛け、その上体が大きく傾いた。


またしても咄嗟に支え、体中から立ち上る異様な汗臭さとアルコールに顔を背ける私。


私の肩の上で、戦士がムニャムニャと言葉を発する。


「ぜーんぶ、せんせーのおかげですよぅ」


いや、酔い潰れてるのはお前の自己責任だ。


いいから立て、立って一人でトイレへ行け、死んでも介助はしてやらんぞ――と、半ば蹴っ飛ばすようにしてトイレへ追いやると、私は大きく息を吐いてカウンターに身を沈めた。


「あー、最後の最後に疲れたァ」


その間、効率良く表の灯を落とし、店仕舞いの準備をしていた永久さんが、微笑ましげに言う。


「お疲れさま。でも流石ですね、『全部先生のお陰』ですものね」


「馬鹿なことを。アイツは馬鹿みたいに能天気だから、ほっといても遅かれ早かれああなっていましたよ。アイツが勝手にそう思い込んでるだけです」


「――ご存知ですか」


永久さんが、微かな間を置いてゆっくりと話し始める。


「鳥類の雛は、卵から孵ったとき最初に見たものを親だと思い、付き従うのです。要は赤の他人であっても、最初にその場に居合わせさえすれば良い――タイミングってのは、それほどまでに重要なんですよ。先生が然るべき時に然るべき場所に居合わせた。それこそが彼に取っては何よりもの大きな意味を持って、純然たる事実として受け継がれて行くのです――まあ何が言いたいのかって言うと」


永久さんは、薄灰色の瞳で覗き込んで、



「ご自分の影響力を、どうかご考慮のほど」




最後に、主演女優たるモモのこと。


あの一件以来、用が無くても大手を振ってうちに居付くようになったモモ。母親からは遠慮がちに邪魔なようだったら即座に追い出してくれ、と言われているものの、うちはただでさえ人が出たり入ったりしている。今更一人地縛霊のようなのが増えたところで、どうってことはない。モモ相手だったら余計な気を使わなくても済むし、室井ほどかさばりもしない。それを良いことに、ヤツはうちを自習室化させている。


別の生徒が来るまでの束の間、今の定位置でゴロゴロと雑誌を読んでいたモモは、その一ページを突き出しながら私の注意を促した。


「ねえねえ、これ見て」


「ん?」


私がチラリと見ると、それは例の音楽雑誌だった。律儀なモモはなるべく多くの項を読もうとする傍ら、きちんと検閲を私に依頼してくる。果たしてそれが自分に相応しい情報か、予め判断してくれと言うのだ。正直面倒くさいが、私は永年の読書癖からか速読に優れている。ちょっと目を通して「オッケー」か「ゴミ」と言うだけでモモが納得するのだから、それこそ楽な話だった。


私はページの右側で、白黒の印刷だとほぼほぼ真っ黒な松黒誠司郎の日焼けした顔を見て、


「そいつのは紙屑だから読みたくなきゃ読まんでもいいって、先生前に言ったでしょう」


と、ちょっとオカンのような口調で言う。


するとモモは、「ちがうちがう、そっちじゃない――こっち」と言って、見開きの反対側を指さす。それは至って変わったところのない、ただのコンサートの宣伝だった。


「それがどうした。俺があまりライブに興味ないということ、お前も知っているだろう」


「いいからちゃんと見て」


頑とした口調で譲らないモモに、私は鬱陶しく思いながらも折れて、ジッと目を細める。


「何々――『あの伝説のカルテット、復活』? ベートーヴェンの五重奏――あ、俺たちがやってるヤツじゃん。『あの一世を風靡した天才チェロ少女が、一夜限りの復活』――クロエ・エドゥアール!」


写真こそ大昔のそのままだったが、大々的に載せられたその顔は、カルテットでもあまり目立たないポジションであるチェリストとしては破格の扱いを受けていた。


モモは、一種憧れの人とひょんなところで巡り合ったように興奮して、


「いいなあ、行きたいなあ――でもこれ、夏祭りの発表の日なんだよね。時間的には私たちが五時半、コンサートは八時半だから間に合うっちゃ間に合うけど――厳しいよなあ」


場所は溜池山王か。確かに一時間ちょっとあれば行けない距離でもないが、流石に慌ただし過ぎるだろう。


「やめとけやめとけ。本番の日に他の用事も入れると、大抵ロクなことにならないんだ。それに『一夜限りの復活』ったって、そんなモンは客を呼び寄せる売り文句に過ぎないよ。要は金に困ったから、復帰しようって気になったってことだろ? 味を占めたらどうせまたリバイバル公演をやるし、そんな集客力を望めるヤツだったら音楽界のお歴々が放っておきゃしないよ」


「んー、そっかぁ。判った、行かない!」


そう元気に言い放つモモに、コイツ随分と素直に私の言うことを聞くようになったな、これも一種の刷り込みか? と思っていると、玄関から静かに入ってきた黒江さんの淑やかな声に注意を惹き付けられる。


最近、黒江さんは教室外での個人の仕事が多いのか、良く出払っている。今も背中にはチェロが戦車の砲身のように括り付けられていた。


「ただいま帰りました――今〈船月庵〉の前を通りかかったら、女将さんに金つばを三つ頂いたんですよ。食べません?」


私は〈船月庵〉の金つばに目が無いのだ。断る理由もなく、二つ返事で承諾した。


モモもそれに倣い、大きく頷く。


菓子にいとも簡単に釣られる二人を、黒江さんはやれやれといった目で見つめて、


「じゃあ、お茶の準備をしますから、ちょっと待っていて下さいな――先に食べたらダメですよ、絶対に。私の分まで食べたら、本気で怒りますよ」



得も知れぬ迫力を見せつける黒江さんに、食い意地が張っているという意味では同じ穴のムジナだな、とそっと微笑む私であった。



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