軋轢も戸惑いも、全部ひっくるめて。あるいは蒲公英のこと。
砂漠の遊牧民のような気持ちで、土安父を引き連れて居間に戻ると、最初に出迎えたのは二つの頓狂な叫び声だった。
「お父さん!」
「あなた! どうして――」
土安母の困惑は目に見えて明らかで、モゴモゴとくぐもるように呟いた。
「車で待ってなさい、って言ったのに――」
子供か。
夏場の車内で放置とか、子供だったらそれこそ一大事だけどな。
土安父は、ノンビリと間延びした口調で言った。
「モモ――母さん――帰るぞ」
「ハ?」
私は思わず声に出して言ってしまった。
女房放り込んどいて、自分もわざわざ上がっておいて、開口一番「帰るぞ」だぁ?
珍しく土安母も私と同じ気持ちのようで、噛み付くように耳障りな声を上げた。
「だけど、あなた――まだ話が――」
「話なんか要らないだろう?」
父はその訴えを、飄々とした口調のまま言下に退けた。
「モモが見つかって、モモはその家出先でヴァイオリンを弾いていた。それだけで充分じゃないか。他に何の話をする意味がある?」
「だけど――」
「実は、今車を表に路駐しているんだ。門の前に横付けにしてね。このままだと家の人に迷惑だし、切符を切られるかもしれない。そんなことになったら、コトだ――話は、家に帰ってからゆっくりとする。それでもいいだろう?」
のらりくらりとした様子だが、頑として譲る素振りも見せない夫に、流石の土安母も返す言葉を失って、
「――はい」
と大人しく言った。
すると、父はピアノの足元で戸惑った表情のまま小さくなっている娘に向かって、
「モモ、帰るぞ。すぐに荷物を纏めなさい」
「は、はい」
モモもなんだかよく判らない内にあたふたと立ち上がって、ピンクのスーツケースにお泊りセットを押し込める作業をしに廊下へ消えて行った。
ひとまず先に車へ向かった妻を見届けると、父親は私と黒江さんに向かってキリンが水飲みをするように首を下げ、
「うちの娘がご迷惑をお掛けしました。お礼は今度改めて致しますので、今日のところは帰ります」
私も黒江さんも呆気に取られていたまま、釣られてお辞儀をする。
「いえ、こちらこそ」
こうして、土安一家三人はバラバラにやってきて、三人仲良く怒涛の勢いで去って行ったのである。
残された者の脳裏には、ただただ大量のハテナマークが浮かぶばかりだったが、一つだけ判ったことがある。
あの父親がいてあの母親がいるからこそ、あの一家は絶妙なバランスで今まで持ってきたのだと言うことを。
軋轢も戸惑いも、全部ひっくるめて。
* * *
その夜、私はまたしても夜の街に繰り出した。
連日連夜とはいえ、別に急にアル中になった訳ではない。
今回ばかりは自主的にではなく、呼び出しが掛かっての受動的なものだった。
二十一世紀の今に相応しく、こんな街中の音楽教室にもホームページというものがある。そこにはメールフォームが備え付いており、用件を入れると私の受信トレイに送信される。
大抵は新規の受講希望者か、ちょっと様子見に探りを入れてくる人間だけの為なのだが、そのメールだけは少し毛色が違った。
件名は『土安です。』。
一体どの土安だよ、今日一日で三人は似ても似つかない土安に苛まされたぞ――と思って開くと、御大――パパ土安からだった。
内容は、少し話がしたいとのこと。時間があれば、夜八時に以下の住所で――とあった。
で、その住所をよく見てみると――驚いたことに、『スナック永久』の番地そのものだった。
落ち着かない夕食を早々に掻き込み、そわそわとしたままサンダルを履いて表に出る。
久方ぶりにモモの居ない家は静かだったが、それ以上に遠くでだけ賑やかな営みの木霊する夜の住宅街というのは、奇妙な物悲しさに包まれていた。
日曜日の夜。
それは週末の終末と呼ぶに相応しく、早番のある室井も、月曜日は整体に通っている爺さんも居ない、謂わば我が陣営の空白地帯だった。私も普段だったら、わざわざ日曜日の夜に飲みに行ったりする真似はしない。
八時ジャスト。
息を大きく吸い込んで、ようやく腹を決めてカランカランと音のする『スナック永久』の扉を開くと、相変わらず全てを知った風な顔の永久さんが、全てを知った口調で言った。
「いらっしゃい、平先生――お連れ様がお待ちです」
その袖に隠れた手の先には、昼間のあの男――草を食んでいるような顔をした、土安父がいた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
私は気のない口調で返し、黙ってその隣に腰を下ろす。すると意を汲んだ永久さんが、お通しと決まった酒を注いで無言で差し出した。
「よく来られるんですか?」と、土安父。
私は壁に掛かった、なんだか薄気味悪い中部アフリカの呪術用の仮面のようなものを見据えながら答えた。
「アンタよりはね。少なくとも、俺はここで居合わせたことがない」
ぶっきらぼうな発言に、永久さんが代わって補足する。
「土安さんはここの常連ですよ。尤も、いらっしゃる時は決まって日曜日のこの時間で、それ以外の曜日にお見えになったことはありません。先生は先生で、金曜日の晩はほぼ毎週、その他の曜日もちょくちょくいらっしゃいますが、どうしてか日曜日だけは避けてらっしゃいますね。曜日が産んだすれ違いの悲劇、とでも申しましょうか。どちらかの習慣が揺らいだ時、初めてこうして一堂に会せるという訳ですね」
一堂にだったら、昼間会しただけどな。
それにしても、なんで俺、日曜日はけっしてここに来なかったんだろう。
理由を考えてみると、その答えはすぐに見つかった。日曜六時半から八時半まで、毎週欠かさずお気に入りの紀行バラエティ番組を見ていた所為だ。スケジュールに融通が利き過ぎると、テレビとゴミ出しの日でぐらいしか曜日の概念が無くなる。
「まあともかく、共通の知り合いは数多くとも、今まで決して見えることのなかった二人がようやく出会えたんです。その出会いに――乾杯」
そっとグラスを持ち上げる土安父。中身は意外にもバーボンだった。
私も短く「乾杯」と言って、二人の男のグラスが音を立てる。
暫くは、チビチビと無言で酒を舐める二人。
カウンター脇の古い蓄音機から、早くも店主が味を占めたガムランが鳴っていた。
最初に沈黙を破ったのは、相手の方だった。
「今回は――色々とありがとうございました」
私は、しばし待ってからゆっくりと口を開いた。
「なににです?」
「――全部です。妻のこと、娘のこと。土安家に纏わる、全て」
私は更なる説明を、無言を以って催促する。
長い顔の父親は、ポツリポツリと語り始めた。
「私は、恐らくご存知の通り、無頓着な人間です。本業の会計士の仕事以外は自分のことばかりにかまけ、家のことは全て妻に任せっきりにしてきました。私はボーッとした人間ですが、妻はテキパキとしています。私はそんな彼女に惚れ込み、結婚した訳ですが、本質的に彼女を理解した訳ではなかった。それどころか、自分の血を受け継いだ娘のことさえも、どこか良く判らないところから湧き出てきたもののように、一歩引いた立場から接し続けてきたのです――性別の違い故と、自分に言い聞かせながら」
私はグラスの淵を指でなぞりながら、何の気なしに言った。
「それで良いと思いますよ。男は所詮男、女のことは何一つ判りません。更に、『親であるということは、永遠に大きな謎である』という言葉もあります。父親に取っての娘ともなれば、謎は二乗でしょう。気に病むことはありません――そんなモンです」
「ハハハ……流石良く判ってらっしゃる」
父親は苦笑して、
「でも、少し違うんです。本当に判らない、気付かないのだったら良かったんだと思います。でも私は、なんとなく気付いていた――それでも敢えて、気付かないフリをしていた。そこに自分の過ちがある気がします」
モヤモヤとした物言いに、私は若干短気な素振りを見せて、
「アンタもじれったい人だね。何が言いたい?」
「妻のことです」
会計士は即答した。
「私が趣味人ということは、モモからお聞き及びのことと思いますが、はたしてそれが何の趣味かまではご存じないとお見受けします。実は、私の趣味は――音楽なのです」
鰻の寝床の店内は、一歩間違えれば蒸し風呂になりやすい。それを永久さんは、時代掛かったシーリングファンで免れている。微かなプロペラの駆動音と、その場に生きる者たちの鼓動がシンクロする。
「とは言っても、先生がやられているような職業的活動に比べれば、ほんのお遊びのようなものですがね。私はアナログレコードの収集家で、オーディオマニアなのです」
なるほどね?
ドイツに未だ居るうちの親父と同じ人種だ。どうしても実技に走る私たちとは、アプローチが天と地ほどに異なる別世界の住民だ。
「で、こうした収集家は多かれ少なかれ、自分の得意ジャンルを持っているものなんですが――私の専門は、演歌なのです。そして妻とも、それを通して知り合いました」
私はふと弄んでいた指を止め、顔を上げる。
土安萌々香の母親と、音楽。それだけでも充分違和感があるのに、演歌とは。実に奇妙な取り合わせだ。
「公認会計士として早めの軌道に乗った私は、ある意味ずっと数字と共に生きてきた男です。金も暇も同世代の人間以上にはあったが、いまいちその使い道を知らなかった。女性のことなんて、それこそからっきしです。そこで昔から好きだった演歌を『聴く』ことに、仕事以外の全精力を注ぎ込むということで気を紛らわすことにしたのです」
土安父は語った。
彼は、仕事が終わったらその足で電車に乗り、東京二十三区へ、時には正反対の伊豆行きの特急や、小田原などへ夜な夜な出向いたのである。そして、同年代の若者たちが集うディスコとは真逆の、うらぶれた場末の呑み屋やキャバレーへと入り浸った。どこか植物的な彼は、しなを作った女たちには目もくれず、酒も程々に、ひたすら歌声を探して回った。当時は、ドサ回りの歌手が繁華街の至る所で、野良犬の小便を引っ掛けられたタンポポのようにひっそりと花を咲かせていたのである。
三十三歳の夏。
同級生の殆どが結婚し、その腕に一子や二子を抱えて行く中、彼はようやく巡り合った。
場所は藤沢。近場故にあまり出向かなかった場所で、山梨から上京してきて早八年。レコードは出すものの鳴かず飛ばず。ラストチャンスを待ち侘びながら、消え行く最後の一年を精一杯喉を振り絞って歌う女に。
それが土安萌々香の母だった。
「妻は妾の子で、そういう意味で田舎では随分肩身の狭い思いをしてきたようです。父が早くに他界すると、遺族たちは寄ってたかって彼女から今まで肖ってきた名誉や財産を剥奪しようとした。妾の子の分際で、良い教育を受けようなんて烏滸がましい――妾の子の分際で、本妻の子たちより良い生活を送るなんてまかりならん。そうした苦痛の中、彼女の母親が親切な別の名士の男鰥夫と再婚した為に、糾弾を余計に激しいものとしてしまいました」
母は大船、父は名古屋。そういう意味で、私は本当の意味での田舎というものを知らない。自分自身、世界という広すぎる舞台に生きていたから、一昔前の閉鎖的な空間というものは本やテレビで見聞きする以外に知る術がない。それでも大体想像が付く程度には、ステレオティピカルな土壌らしかった。
肩身は狭くとも、田舎に居ればそこそこに裕福な暮らしが出来る。それでも、土安萌々香の母はそれに甘んじることが出来なかった。高校卒業と同時に、身一つで上京。以来、唯一の心の拠り所だった歌で一花咲かせる為、皿洗いなどをしながら生きてきたらしい。
「彼女の歌声には力があった。演歌を多く知っていた私には、彼女の至らない点も良く判りましたが、それを上回る魅力を感じていた。でもそれは飽くまで主観で、個人の好き嫌いの範疇を越えるものではなかったのです――」
そこで何やらカウンターの裏でゴソゴソとしていた永久さんが、一枚のレコードを取り出して私に手渡した。
「これは私が個人的に入手した、土安さんの奥様が土安さんとお知り合いになった頃に出された、当の昔に絶版のレコードです。タイトルは――」
『開けや
うん、だっせェ。
永久さんが慣れた手付きでレコードを取り換えると、テンテケテンとリズミカルな前奏と共に歌が流れ始める。確かにエネルギーがあることは認めるが、その声に奥行きはなく――演歌に求められる慕情とか色気といったものとは、およそ無縁のものだった。道に咲くタンポポのように、ちっぽけでも逞しく生きる女の姿を歌ったもので、恐らくは自身の境遇に当て嵌めたものなのであろう。
私は冷静に分析しながら、手元のジャケットに目をやる。鮮やかな黄色の着物に身を包んでほほ笑む女は――少々出っぱらかったモモといった風だった。その下には芸名か本名か定かではないが――桃井やす葉。
「こぶしがヘタクソだな」
私が率直に言うと、土安父も苦笑する。
「私もそう思います。ちなみに、それは妻の旧姓です――尤も、下の名前はきちんと全部漢字ですが。『安泰』の『タイ』に、葉っぱで泰葉。結婚したら安々しくなってしまいました」
ツチヤスヤスハ。
ホントだ。スゲェ言い難い。カメハメハ大王みたい。
土安父は、遠い日を懐かしむような眼をして続けた。
「私はそれから、ほぼ毎週のようにその店に通い詰め、泰葉を口説きました。口下手で、女性経験も乏しい私のことでしたから、とても滑稽だったものに違い無い筈なのですが――半年ほど経ったある日、晴れて私たちは交際をスタートさせることになったのです。私の両親は無頓着な性質でしたから、別に大学に行っていない女性と結婚しようと一向に構わない風でした。けれど、私の家や仕事のことなど、全て包み隠さず知った泰葉は――自分から率先して、自分の過去も現在も封印することにしたのです」
要は、夫に相応しい立派な妻になる。夫の血を受け継いだ子供に相応しい母親になる。過去の苦境へのアンチテーゼとして、土安泰葉は新たな目標を完璧に遂行しようとしゃかりきになったのだった。まあ確かに意志の強そうな女だ。タンポポどころかアスファルトを突き破るタケノコのように、ゴールへ向けて一直線に伸びて行った。
私は納得した。
だから――ジャンルは違えど、音楽家だったからこそ、土安母はモモの演奏のクセを耳聡く察知し、乗り込んできたのである。過去の自分と決別した為に、その名残ともいえるモモが本当にのめり込みそうなヴァイオリンに対しては、さっさと遠ざけるように立ち回っていたのである。
まったく、不器用なババアだよ――そのお陰で、私らがどんなに振り回されたことか。
私は盛大な溜め息を吐いて言った。
「そこまで判ってンならさ――家のことはきちんと家で収めてくれよ。アンタのカミさん、パワーがあり過ぎて、アンタみたいな被虐体質じゃなかったら身が持たねェんだよ」
ん? 被虐体質?
室井に丁度いいかも。
「ハハハ……面目ない」
父親は、染み入る声を上げて笑った。
私は、ようやく満足に息を吸える気がして、煙草を一本取り出した。今度はライターもすんなり出た。
「で、どうする? アンタんとこの過去のことは良く判った。問題はこれからだろう? モモをどうする。やりたいことをダメモトでやらせてみるのか、ダメそうなものは早くに諦めさせるのか」
「そのことなんですがね――妻はね、売れないまま、八年間も巡業に精を出したんです。本人も、ダメかもしれないって常々思い続けながらね。それでもやり通してしまう意志の強さがあった。私も妻も、今回のモモの家出は同じ性質に起因していると考えています。つまり、頭ごなしに否定したところで、彼女はまた家出する。そうでなくとも、遅かれ早かれ、もう一回ムラムラとその気が湧き出てくる――」
私は頷いた。
アイツはなんだかんだで思い切りが良い。私も女性に関して詳しいことは良く判らないが、大胆なヤツほど怖いものはない。下手にぶっ飛んでいく前に、ガス抜きをさせてやる必要がある。
「ひとまず、ヴァイオリンの道を進むことを第一志望にさせることで同意しました。レッスンは黒江さんと、先生にお願いする。先生なら、遠慮なく現実を突き付けてくれるだろう、と。そうして心が折れて諦めるのならそれまでで、それは納得の行く諦めだろうから――と」
私は盛大に息を吐き出し、立ち上った紫煙がシーリングファンに掻き消されて行く様を見つめていた。
そして、おもむろに口を開いた。
「よし判った、引き受けた。ただ、俺のレッスンは厳しいぞ。モモがピィピィ泣く羽目になっても、悪しからず。あと頼まれついでに言っておくと、後生だからもうちょっとまともにカミさんに縄掛けといてくれ。正論言ってモモを泣かす度に乗り込んでこられたんじゃ、体がいくつあっても足りない」
変わり者の演歌愛好家――秘めたる激情を胸に持つ浮世離れした会計士は、プッと噴き出した。
「判りました。自分の体が持つ範囲で」
いや、そこは壊れても押さえつけろよ。
私は明るく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます