怒れる母親と、民衆を導く自由の女神。




「モモ――こんなところで何しているの」



気まずい静寂を最初に破ったのは、勿論怒れる母親だった。


「連絡も寄こさないで、家から勝手に出て行って――」


「お母さん、それは――」


余りもの展開に、しどろもどろになるモモを見兼ねて、ここは主らしく毅然と立ち上がる私。


「これはこれは土安さん。庭先から直接とはなんとも珍しい。すみませんねェ、玄関の呼び鈴を鳴らしてくだされば、お出迎え致しましたのに。あ、ひょっとして、インターフォンを押しても鳴らなかった? 申し訳ありません、なにぶんボロ屋な――」


「平先生!」


「ハ、ハイッ!」


突然発せられた金切り声に、私は竦み上がった。


すると、土安母が敵意も丸出しの悍ましい一瞥をくれて、


「ようやく判りましたわ。おかしいと思ってたんですよ。モモの学校は、そんな風に家出した同級生を匿うようなお家の子はいないのに、どうやって学校と習い事だけ器用に通えるんだろうって。なんのことはなかったんですね、いなくなった日に向かった習い事の先に、そのままいたんですから。それを、よくもいけしゃあしゃあと――マッ!」


そこでようやく私以外の標的が目に入ったのか、土安母は更に膨れ上がって絶句した。


その先には――女性恐怖症の度合いでいったら、私とどっこいの室井。


「警察官まで一枚噛んでいたなんて! これは犯罪ですよ、不祥事ですよっ、判っているんですか?」


真っ青になってチビりそうになっている室井。


お前、なんだ、声だけじゃなく顔まで知られてたのかよ。


まあこのオバチャンのことだから、電話だけでは飽き足らず、面と向かって質問攻めにしようとする展開も判らなくはない。


そこで、モモが勇気を振り絞って口を開く。


「待って、お母さん。先生たちは悪くないの。私が頼んだことで――」


「アンタは黙ってなさい!」


光より速く、凄まじい勢いで言葉を断ち切られ、モモはビクッと飛び上がって口を噤んだ。



土安母。


完璧におヒスモード全開である。


ただでさえ会話は一方通行、まともな意思の疎通が難しい人なのに、今はナイアガラかヴィクトリアの滝を泳いで遡れと言わんばかり。言葉が土石流のように溢れ出てくる。


実の娘の話でさえ、全く聞く耳を持たない。


そこにすべての悲劇の根源を見た気がして、何とも居た堪れない気持ちになっていると――



「ちょっとよろしいですか?」


と、静かな声が辺りを制した。


黒江さんだった。



突然の発言者に、土安母も虚を突かれた様子で、その隙に黒江さんがスッと歩み寄る。


「改めてご挨拶をさせていただきます、土安様――私、平音楽教室の講師を務めております、黒江と申します。萌々香さんを直接受け持っている訳ではありませんが、お嬢さんとは世代を超えて、個人的な話をするなど親しくさせていただいております――以後、お見知りおきを」


淀み無い動作でお辞儀をする黒江さんに、土安母も釣られて少しばかり頭を下げる。瞬時にして主導権を掌握する、黒江さんの交渉術。音楽で培った拍感や間の取り方を、現実世界にも取り入れている。恐るべき、音楽家の鑑。


「まず申し上げておかなければならないのは、責任の所在についてです。萌々香さんを唆し、こちらへ暫くの間宿泊することを勧め、許したのは平先生ではなくこの私です。ご存知の通り、先生は良く言えば大らか悪く言えば大雑把なお人柄です。一介の従業員に過ぎぬこの私に、ご自宅を自由に使って良いと仰って下さいました。故に現在、ここは先生のお宅であると同時に、私の現住所でもあります。私は萌々香さんとお友達同士としてお話しする内に、彼女があることで思い悩んでいることを知りました。そして彼女が親元を離れたい――そう聞いた時、私は自分がいい歳をした大人であるということも忘れ、その後押しをしてしまいました。そして萌々香さんは私がこの家にお招きし、土安様には事実を伏せておいて頂くよう、先生や室井緑巡査部長にお頼みしたのです。つまり、未成年の萌々香さんを親御さんの承諾無しに匿った点において、確かにお二方も同罪のそしりは免れないかもしれません。ただ、主犯は飽くまでこの私だと言うことをお忘れなく」


きちんとした弁明もある誠意ある謝罪のはずなのに、どこか黒江さんは威風堂々としていた。まるでドラクロワのあの有名な『民衆を導く自由の女神』のように、彼女の後に続けば良い結果が訪れると私たちに思わせる何かがあった。そして私は気付いた――そうだ、黒江さんは装いこそ純然たる和服美女なのに、どこかフランス的なエスプリがあることを。よく見れば欧米人らしい肌の白さや時折見せるバタ臭い反応からも、それは漂っていた。


得も知れぬ迫力に圧倒され、言葉を失ったままの土安母。


黒江さんの独壇場は続く。


「そしてそれらを全て踏まえた上で、私は土安様に一つ、お伺いしたいことがあります。そのたった一つの質問にさえお答えいただければ、私はいかなる罰も甘んじてお受けします――」


そこで彼女は少し言葉を切って、深く息を吸ってから再び口を開いた。



「なぜ、土安様は萌々香さんがここにいるとお判りになられたのですか? 呼び鈴を押されることもなしに」


そうなのだ。


そこが私も気になっていた。


この家は四六時中人が出入りしているが、居間は決して表から見えない作りになっている。隣の神社からも、庭の木々が邪魔ですこぶる視界が悪い。最初からモモが居間いると見当を付けて、直接庭に乗り込むと決めないと出来ない芸当なのだ。音に関しても、人の常識的な話し声までも通りへ抜けて行くとは考え難い。


予想外の質問に面食らったのか、土安母は目を白黒させていたが、やがてゆっくりと答え始めた。その声には、幾分かの落ち着きが戻っていた。


「――ヴァイオリンよ」


ヴァイオリン?


「モモのヴァイオリンが聴こえたんですよ。あの子がいつも夜遅くに、部屋でミュートを掛けて触っているメロディが、あの子の音で」


その答えに対し、誰よりも驚いた反応を見せたのは、当のモモだった。


「お母さん、知ってたんだ――私のヴァイオリンのこと」


土安母は感情の死んだ声で答えた。


「知ってるに決まってるじゃない。どんなに音を小さくしてドアを閉め切っていたって、廊下を歩いていれば聴こえるわ」


大人しく頷いていた黒江さんが、更なる質問を発する。


「なるほど――判りました。と言うことは、土安様が耳にしていらしたのは、モモちゃんが普段使っている楽器――エレクトリック・ヴァイオリンと呼ばれる、共鳴胴を持たない振動をピックアップで電気信号に変える式の楽器ということですね。でもさっき彼女が弾いていたのは、私の楽器――正真正銘のクラシカルなヴァイオリンでした。仕組みも違えば音も違う。それなのに、土安様はそれが娘さんの演奏だと即座にお判りになり、庭へ上がられて来たのですか?」


「それは……」


ヒュー。


私はこっそり、音にならない口笛を吹いた。


そうか、そこを明らかにしないと、土安母は根拠薄弱のまま住居不法侵入の実行犯としてレッテルを貼られる弱みがある訳か。ぶっちゃけそんなものは詭弁で、私らが犯したある種の誘拐罪に比べれば屁の突っ張りみたいなものだが、型から入り世間体を気にするところのある土安母にはこれでも効果がある。


即座にそこまで計算し、自分のペースに巻き込んで行く黒江さん、マジ策士。


そして土安母は、見事に乗せられていた。


彼女は、低く忌々しげに言った。


「……そうよ。判っていたわよ。当たり前じゃない、自分の娘の弾き方ぐらい、楽器が変わったところで判るわよ」


ん? 何かが妙だ。


私は疑念の霧を晴らすがべく、おずおずと手を挙げた。


「あの……ちょっといいか?」


「はい、どうぞ」


黒江さんがまるで小学校の先生のように私を指す。先程まで建前とはいえ、謝罪していた人間とは思えない堂の入りっぷり。


「いや、本題から外れておいてなんだが、どうしても気になるんだ。俺が知っている限り、土安萌々香は自分が弾くヴァイオリンに関して以外で、音楽的な耳聡さを見せることはまずなかったし、その母上――あなたは、特に音楽に関して無理解というか、単に形式上認めているに過ぎないという印象を受けていた。そのあなたが、コッソリ隠れて弾いていた娘の音楽的特徴までもを理解して、表通りからこの居場所を探り当てたという事実に、どうしても違和感を禁じ得ない。経験上、音楽に本当に興味が無い人というのは、何を聞いても同じに聴こえて、記憶に残らないものなんだ」


ウンウンと頷く爺さん。


いや、確かにアンタ、リズム感以外はこれっぽっちの才能も興味もないからね。全部『軍艦マーチ』か演歌だと思ってるだろ。




土安母が言葉に詰まり、その顔が困惑に歪み始めていると、今度は確かに『ピンポーン』と呼び鈴が鳴った。


誰だこんな時に――と思って、私が足早に向かうと、そこには細面の五十絡みの男が立っていた。そこはかとなくラクダを思わせる。その理知的な目はどこか上の空で、明らかに一芸に秀でた天才タイプだと私は見て取った。


男は呑気な口調で言った。



「ごめんください――申し訳ありません、突然お邪魔して。うちの家内と、多分娘がお邪魔していると思うんですが――」


その挨拶で判り切っていたものの、私は敢えて訊き返した。


「どちらさま?」




「あ、申し遅れました。私、土安と申します。お宅でピアノを教わっている、土安萌々香の父です」


そこで言葉を区切って、土安父は遠慮がちに尋ねた。



「で、確かに萌々香と家内が、お邪魔しています――よね?」


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