午前十時のオレンジジュース。




二日後。


生活の為の仕事も程々に、寝る間も惜しんで打ち込んだ甲斐あって、世にも奇妙な『ベートーヴェン、ピアノ五重奏作品番号十六、第一楽章――平ミノル編曲六重奏版』は驚異的な速度を以って完成した。パート譜がクリック一つで出来る時代になって、ホントに良かったと痛感していた。


最後の表象記号を打ち込み終えたのは午前四時のことだったのだが、私は一種独特な躁状態に任せて、明日朝一番に集合するようにメールをばら撒いた。銀蔵爺さんも、ボタンのおっきなお年寄り用携帯を持っているが、果たしてメールの読み方を、いやそれ以前にメールが何かを知っているものなのか心配しながらも――ポチッとな。


二日ぶりに寝床に戻って寝た私が次に目覚めたのは、モモに足蹴にされた時だった。


寝起きの悪い私が、天変地異かなにかかと慌てて身構えていると、ぼやけた視界の向こうで膨れっ面が浮かび上がる。


「いつまで寝てんの。もう朝十時だよ」


ウルさいなあ、やかましいなあ、騒々しいなあ。


うちのお母ちゃんみたいだなあ。


「寝かせてくれよ、日曜日くらい――後五分」

 

万国共通の伝家の宝刀『後五分』を振りかざした私に、もう一撃をお見舞いしてくるモモ。


「なーにが『寝かせて』だ! 明け方四時にメールなんか送って、何かと思えば朝一番に集まれだなんて言っておいて――私、ミュートにしてなかったんだからね? 起きちゃったんだから。ほら、みんなもう来てるよ。起きて起きて」


あ? みんな?


みんなって、誰。


ブツクサ言いながらも、ようやく頭がハッキリしてきた私は、慌てて布団から飛び起きた。


パッと部屋着を掴み、サッと着替えようとする。


「コラ、女子高生の前で脱ぐな!」


そう怒鳴りながら廊下に消えていくモモの後ろ姿に、ようやく配慮の足りなさを実感した私。



まっ、いっか。モモだし。


ってか待てよ――アイツ、どうやって俺を叩き起こした? 蹴っ飛ばさなかった? 仮にも師匠を? 一度ならず二度までも。


私が頭を掻きむしりながら階下へ降りると、確かに爺さんに室井に戦士という、朝の顔には相応しくない三人が勢揃いしていた。


「おう、ようやく起きやがった、寝坊助が」


と爺さん。


「随分な重役出勤振りッスね」


と、室井。


「オハヨーオハヨー」


はい、戦士。オハヨーオハヨー。



手にはそれぞれの楽器が握られ、ついでに私が昨夜の内に印刷しておいたパート譜が置かれている。


爺さんはマレットを、太鼓のバチのようにブンブンとぶん回しながら言った。


「さあ、さっさと楽器の前に座れ。やるぞ」


ちょっと待っておくれよ。年寄りは朝早いかもしれないが、俺は若者、朝に弱いんだよ。特にここ数日、昼は昼行性、夜は夜行性みたいな生活を送っていたものだから、久々の布団との邂逅に危うく永遠の眠りに付いても良いと思っちゃうほどだった。


目覚めは足蹴、間髪入れずに労働。今時は刑務所の方がもうちょっとマシな扱いなんじゃなかろうか――と思いつつも、元はと言えば自分の蒔いた種であることを思い出し、渋々従おうとする。


そんな私を『断頭台への行進』(ベルリオーズ作曲『幻想交響曲』第四楽章)から救い出したのは、またしても? あろうことか? 黒江さんだった。


「まあまあ、まずはオレンジジュースだけでもお飲みになったらいかがですか――そんなに寝惚けてちゃ、指も動きませんよ。はい」


自分一人でやるとついぞコップに入っていることを見たことのないジュースが、その鮮やかな橙色を晒していた。



手渡された瞬間、ふと指先同士が触れ合う。


私は一気に飲み干して、染みる喉を振り絞って低く言う。


「勝った」


黒江さんも負けじと小声で、


「なににです?」


と、どこかでやったようなやり取りをした。



厳密に言えば、これは決着ではない。


私が、ようやくスタートラインに立ったというだけのことである。


こればっかりは、勝つよりも負けることが嬉しい勝負。てんでんばらばらな楽器を持った、年齢も性別も国籍すらも寄せ集めな、我が楽団の面々にズイと向き合う。


「まあ初見演奏で形になるとは万が一にも思っていないから、大体の流れを掴むところから始めよう。モモ、室井――お前らは、精一杯楽譜にしがみ付け。戦士――お前は大体モモと同じパッセージだから、合わせられそうなら合わせて、無理そうなら覚えろ。爺さん――アンタは黒江さんの脇に着いて、指示を仰げ。俺は両手が塞がってるし、ぶっちゃけ譜読みは得意じゃないんだ――という訳で、自分自身満足に通せる気がしないが――よろしく」


頷く面々。



こうして、平音楽教室発、世にも奇妙な六重奏の初稽古が始まった。



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