いざ勝負。薄手の毛布を背に負って。



その夜遅く。


私はモモと黒江さんが寝静まった頃を見計らい、ノートパソコンを持って忍び足で階段を降りて行った。


昔の悪癖の名残か、私はどうも真剣に打ち込まなくてはならない作業がある時は、パソコンや勉強道具を山ほど抱えて居間に居付く習性がある。きちんとしたデスクに向かうよりも、座布団に乗っかった方がよっぽど集中出来る。思えば、留学先のフランスでもわざわざ背の低いテーブルを買って、茶の間のような環境で生活していた。あれだけ海外で暮らしていても、骨の髄まで日本人だったんだなあ、と感慨深くなる瞬間だ。


よし、冷蔵庫からこっそりくすねてきた栄養ドリンク、スタンバイ。


ついでに眠気覚ましのコーヒーもレディー。


準備万端と息巻いて、パソコンのスイッチを入れる。暗い液晶にパッと青色のスタートアップ画面が浮かび上がり、同時に起動音がけたたましく居間中に鳴り響いたため、慌ててついぞ使ったことのないイヤフォンを挿し込んだ。


移り変わりの激しい消耗品のノートパソコンの世界では、既に骨董品の域に達しつつそれは、幾分ノロマだ。ようやく作業開始可能体制に入り、私が立ち上げたのは――楽譜入力プログラムだった。



……


…………



ルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン作曲『ピアノ五重奏』作品番号十六。



モモがその楽曲の演奏を所望した時、私は頓狂な声を上げた。



「ハ? 何を言っているんだ? ここにいる連中の楽器編成を見てみろ。ピアノにヴァイオリン、チェロにクラリネット――そこまではまだ何とか許容できるにしろ、残りが若葉マークだか枯葉マークだか、どっちでもいいが齧り立ての鉄琴と、ジャワの竹笛だぞ? こんな珍妙な編成で出来る曲でさえまったく思い付かないのに――あろうことか、ベートーヴェンの五重奏だァ? アレの編成はピアノにクラリネット、オーボエ、ホルン、ファゴット――二つしか合ってないじゃないか。そもそも『クインテット』だ、『五重奏』だ。奏者の数は五なんだよ。ここにはひぃ、ふぅ、みぃ――六人の人間がいる! 数すら合っちゃいないじゃないか」


モモは口籠りつつも、引き下がらなかった。


「でも、ベートーヴェン自身だって沢山の編曲版を作ったじゃん。ピアノと弦楽トリオの四重奏版とか――ほら、あのクロエ・エドゥアールが入れたような」


ふと後ろで何かがぶつかる鈍い音が聞こえたような気がしたが、私は構わず口角泡を飛ばした。


「簡単に言ってくれるなよ。そりゃ編曲版は後世の別の誰かが作ったものも含めて山のようにあるだろうが、どこをどう引っ繰り返したってこんな奇妙奇天烈なごった混ぜにそぐう作品なんて、ありゃしない。『じゃあ先生がやればいいじゃん』って言い始めるかもしれないから予め言っておくが、編曲には作曲に匹敵する多大な時間と労力が必要不可欠なんだ。第一、三楽章構成の二十六分にも及ぶ曲を、付け焼刃のお前たちで出来るはずもなく――腐ってもベートーヴェンなんだぞ。子供や素人向けの映画音楽名曲選とは訳が違う」


「そりゃそうかもしれないけどさ――」


私の余りもの剣幕に、うっすらと涙を浮かべながらモモは、


「でも皆と演奏したいんだもん。で、やるからにはちゃんとした、先生が満足出来るような曲がやりたいんだもん。あのベートーヴェンは、私にとっては、先生が私にヴァイオリンのことを気付かせてくれた、思い出の曲でもあるし――」


半べそをかき始めるモモに、男連中はどうしたら良いのか判らずに、ただただ慌てふためくばかりだった。私はそっぽを向いてむっつりと押し黙っていると――



場を一瞬で制す、落ち着いた声音がどこからともなく響き渡った。


「出来ますよ」


黒江さんだった。



私はその発言に耳を疑ったが、すぐにキッと睨んで、


「いや、一体俺の説明の何を聞いてたんだ? だからあの曲は――」


「判っていますよ、あれが相応に難しいくらい」


彼女はいつになく、苛々とした調子で言った。


「でも例えば第一楽章――あれだけをやるとなったら、十二分程度の比較的長い曲ですが、何とかならなくもないでしょう。それに古典派楽曲の性質上、ソプラノとバスの進行で大体の曲想が決まるというシンプルさがあります。そして曲を主導するのはピアノ――先生がリードし、私がチェロで低音部を抑え、メロディをモモちゃんが、間の和声を室井さんのクラリネットで埋めてもらうようにすれば、最低限の曲の体裁は整います。楽器こそ特殊ですが、音域的には戦士さんは高音部を充分任せられると思いますし、銀蔵さんは打楽器。和声や演奏効果の強調という観点で、幾らでも追加出来るものです」


「言わんとしていることは判らんでもないが――いくらなんでもベートーヴェンへの――」


「『冒涜だ』と仰るんですか? 馬鹿馬鹿しい、ベートーヴェンは墓の中の人ですよ? 良いですか、確かにこれをプロの評論家の前で演奏したとあっては、非難轟々も已む無しでしょう。けれど私たちは――敢えて、先生や私も含めてこう申させていただきます――アマチュアなのです。しがらみに縛られたプロフェッショナルとは、対極の概念としてのアマチュア。私たちには、商業価値を値踏みするプロデューサーも、隙あらば取り込んでやろう貶めてやろうという意地の悪い批評家もいないのです。先生が一代で築き上げた領域に、そんな外部のルールを持ち込む必要もないはずです。人の言葉や価値観ではなく、自分の――先生がいつものべつ幕なしにだだ流しておられる、ご自身の考えに基づいて、ご自身の言葉ではっきりと仰ってください。そうして生み出されたご意向には、私は文句なく従います。ただ、今のように他人の定めた取り決めをオウムのように繰り返される内は――私は頑として譲りません」


キッと鋭い視線を送り続ける黒江さんに、負けじと向き合う私。


その姿は時代劇で見た武家の才女のようで、鋭い薙刀を突き付けているような威圧感があった。


止まった時の中で、十畳の居間を舞台に交差する視線――



やがて眼を逸らしたのは、私の方だった。


「判ったよ」


私は憎々しげに言った。


「勘違いするな。誰の意見を聞くまでもなく、俺はこれを――モモ、お前や戦士、室井に銀蔵爺さんを貶める心算は毛頭ないが、到底達成不可能な難題だと考えている。ただここでおめおめと引き下がって、俺が怠けているからだとか、俺がこの程度――敢えてこの程度と言わせてもらおう――この程度の曲を弾けないから渋っていると思われたら、心外極まりないのでな。それを証明するためにも――受けて立とう」


それを聞き、勝ち誇った笑みを浮かべる黒江さん。


「エ、これ勝負なの?」


困惑気味にそう発するモモを他所に、私はメラメラと闘志をたぎらせたのである。



いざ、打倒黒江。



…………


……



という訳で、これは男と男の戦いならぬ、音楽家と音楽家の戦いの下準備なのであった。その昔、どっかから安く買い叩いた分厚いベートーヴェンの楽譜を前に、グルリと肩を回す。顎関節症気味の顎が、血に飢えた獣のようにガクガクと鳴る。


そして一音一音、力強いタッチで打ち込んで行く私。


蝋燭の灯りの下、五線譜から手書きだった時代に比べれば屁でもない。便利な世の中になったものである。


文明の発展を珍しく謳歌しながら、私は我を忘れて楽譜にのめり込んで行く。



そしていつの間にか意識は遠のき――目覚めた時には昼日中。



誰が掛けたのかも定かではない、薄手の毛布を背に負って。



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