ぼくのわたしのアンダンティーノ。




案の定それは戦士と銀蔵爺さんで、それに加えなぜか室井ののっそりとした巨体が戸口の向こうに覗くのを、私は上の空の様子で招き入れた。


爺さんは庭履きを足だけで揃えるという無作法を以って、杖を傘立てにねじ込みながら言った。


「そこでな、偶々警察に兄ちゃんと会ってだな。なんでも今日は非番で、どっかの教室に行った帰りらしく、楽器を持ってウロウロしてたからついでに拾ってきた」


室井は背負ったクラリネットケースを恥ずかしそうに指し示しながら、頭をゴシゴシと擦った。


「クラリネットッスよ――実は今週から、近所の引退したどっかの音大の先生の下で、レッスンを受けることにしたんです。先生と色々話してたら、ちょっともう一回やり直してみたい気が起きてしまいましてね」


「ボクも竹笛、持ってきたよぉ!」


ヒョコッと顔を覗かせた戦士も、げっ歯類のような歯を見せて笑う。


爺さんも至極上機嫌そうに、


「という訳で、大勢で申し訳ないが、上がらせてもらう――ってお前、どうした? 悪いモンでも食ったか?」


「かもしれませんね」


私は適当な愛想笑いを浮かべて言った。


「今日は、昼を外で食べたから――駅蕎麦が口に合わなかったんですかね」


爺さんは、その洗面所のカビ取りに回された歯ブラシのような、白くゲジゲジとした眉を高々と揚げて噛み付いた。


「そんな訳あるか。あんなのは、コチコチの胃袋にも合うように茹で過ぎで出されるモンなんだよ――ハハア、さては、あの姉ちゃん――黒江とかいう姉ちゃんと、喧嘩でもしたな?」


「ソソソソンナコトナイヨ」


なぜかカタコトで返す私。


爺さんはそれを図星と取ったのか、ニンマリと意地の悪い笑みを浮かべる。


「まあ何でもいいや。お前さんがそう言うんなら、そうじゃないんだろ。でもな、これだけは忠告しておく。痴話喧嘩で言い争うのも結構だか、そういう時は得てして男の方に非があるモンだ。女子供の前では口が裂けても言えねェが、そういう理になってンだよ。だからその場はたっぷりと言い返して――後で夜、枕と顔引っ付けながら真摯に受け止めるンだな。これが年配者の、永年女房と連れ添ってきた者としての忠告だ」


「俺と黒江さんは別にそんな――」


「そうですよ! 黒江さんと先生はそんなんじゃありません!」


身体に電流でも流されたかのように慌ててそう発する室井に、なぜお前がそんなに自信満々に言ってのける、と思いながらも、私は力ない苦笑をした。


「ご忠告、ありがとうございます――でもホントに、そんなんじゃないんです。だから室井、安心しろ。ともかくみんな、上がってくれ」



居間に入ると、モモは相変わらず心配そうな顔をしているものの、肝心の黒江さんは常日頃と変わりない様子で、全員に簡略な歓迎の意を伝えると、そそくさとお茶を出しに台所へ戻って行った。


「ホントに、なんでもないみてェだな」


と、室井に耳打ちする爺さん。


「判りませんよ。黒江さんは並外れた自制心をお持ちの方ですから」


室井、お前は私と黒江さんの間になにかあると、信じたいのか信じたくないのか。


やがて、戦士と室井は各々の楽器を取り出し、私は爺さんの為に特別に掘り起こした小さめの鉄琴を引きずり出した。


「爺さん、アンタがピンクやら水色やらの三歳児用の鉄琴を叩く姿は、子供返りを起こしたようで見たくなかったから、もうちょっとマシなモンを用意させてもらった。同じ一オクターブしかないが、こっちはきちんと十二音揃っている。戦士――ひとまずはこんなもんで充分か?」


戦士はコクコクと頷いて、


「だいじょぶです。じゃあ早速始めましょう――先生、ムズカしいところは説明お願いします」


あい、お願いされます。


こうして、戦士先生のカルチャースクール・ガムラン講座の第一回が始まった。


戦士は、まずガムランにおいて使われる音階の種類を説明して、私がペロッグ音階とスレンドロ音階、どちらも西洋音楽においては五音音階に分類されるものだと補足した。つまり一オクターブを五分割したものであり、要はこの楽器では使われる板は五つのみだということになる。私は判り易いように、残りの板を全て外した。規則性のあるメロディを、移り行くリズムに合わせて当て嵌めて行くと、早い話がそれっぽくなる。


まあまずは習うより慣れろ、だ。


私はピアノの前に向かい、助っ人の室井もクラリネットを構える。モモも、自分もやりたいとうるさいので、あのおもちゃの鉄琴をくれてやった。


そして、セッションスタート。


まず戦士の合図を受け、一応打楽器として、私が基本のテンポを提示する。


登ったり下がったりするだけの単純なメロディをひとまず設定したため、爺さんも叩く個所を迷うことがないはずだ。いくら初めての楽器とはいえ、そこは和太鼓奏者。リズム感は問題なく、すぐに慣れて的確なタイミングで音を入れてくる。モモもそれに倣い、若干たどたどしくも(ついでに言うとモモの楽器は黒鍵に当たる箇所がないため、音階が歯抜け状態)、なんとかしがみついてきた。


次に戦士が、同じ音階を用いたもうちょっと複雑なメロディを上手く合わせてくる。プロフェッショナルらしい卓越した技術の所為か、はたまた本場の楽器を用いているからか、急に異国情緒を増し始める。最後に室井が、ソルフェージュの技術をフルに活用して、耳で取った音をクラリネットで模倣していった。


そうして出来上がったのが、大船発のなんちゃってガムラン。


特徴的なミニマルさのお陰か、予想以上にそれっぽく聴こえる。


民族音楽の基本は伝承である。今となっては五線譜に起こし出版するという行為が、驚くほど当たり前になってしまっているが、古来それ以外の地域では師匠から弟子へ、衣鉢を継ぐが如く伝えて行くというのが主流だった。故に、正確さはあり得ない。噂話に尾鰭が付いてどんどん変容していくように、音楽もまた、介した人の数だけバリエーション豊かなものになっていったのだ。そしてその多くは祭礼用。まさに需要と供給に根差した工芸だった。


それがいつの日からか、西洋音楽だけが本来の仕来りを逸脱してしまった。


個々の多様性を認めず、一部の権力者だけが良しと認めたものだけが許容される文化。芸術性やオリジナリティと宣う反面、足並みを揃えることを強要する。


アンダンティーノは歩く速さよりも、若干速くと制定されてしまったのだ。


牛歩の人間は、それこそ居場所が無くなりつつある。


半永久的に流れゆく音楽は、聴く者の時間の感覚を麻痺させる。ジャワ人がそこに神秘性を見出したように、おもむろに手を動かす私たちの周りにも、悠久の時が流れていた。



徐々に加速し、幾分激しさを増した頃。


曲はいよいよクライマックスに達し、戦士の合図を以って終焉が告げられた。そこからは粘り気帯びるようなリタルダンド。最後の一音の余韻が消え失せるのを待って、私たちは楽器から手を、口を離した。


ポンポンポン。


慎ましやかな拍手の音がする方向を見ると、襖の前に黒江さんが立っていた。


「お見事でしたわ。皆さん、とっても楽しそうで――混ざれなかったことが残念でなりませんわ」


戦士が、少し先生らしい毅然とした態度で言う。


「みなさん、おじょうずでした。はじめてにして、もう立派にガムランの精神を、わかってました」


次いで爺さんが、


「んー、なんか和太鼓に比べると勢いの点で劣る気がしなくもないが――まあ、悪くはなかったよ、うん。腰も来ないし――これなら儂でも無理せずに出来そうだ」


「西洋音楽しかやってこなかった身として、始めはどうなることかと思っていたんですが、結構なんとかなるもんなんですね。勿論、本場のガムランはこう簡単には行かないんでしょうが――戦士さんと先生のお陰で、すんなりと呑み込むことが出来ました」


と、室井。


最後にモモが、頬を上気させながら言った。


「うん、とっても楽しかった――で、私、弾きながら考えてたんだけどさ。私、このみんなで、もっと一緒に演奏してみたい。今度は黒江さんも一緒に、アンサンブルをしてみたい」


アンサンブル。


私は学生時代、ハッキリ言って室内楽は苦手だった。


ただでさえ自分の技量不足を痛感している上に、生来の完璧主義と相まって、人と合わせるという行為は途轍もない肉体的及び精神的疲労を強いるものだったのだ。自分のケツも満足に拭けないのに、人の面倒まで見られるか。あるいは、自分がダメなことが判っているのに、人様に迷惑を掛けることが本意ではなかった。


確かに、音楽学校においてはそうかもしれない。


人の試験で、室内楽の先生の前で、私の至らない能力で、他人の評価が左右されるのはなんとしてでも避けたかった。でもそれはガチガチの型に嵌りつつある現代の西洋楽壇だからこその固定観念で――私が最も忌み嫌っているはずのもののこの上ない現れだった。口では反体制派を気取りつつ、誰よりも深くそれに捉われていたのが私なのかもしれない。



でも、今は。


今ここで――私の居城で、西洋音楽の枠組みから遠いところにあるガムランを弾いた時、私は従来のしがらみから解き放たれているべきだった。クヨクヨと思い悩む私は出遅れたが、私以外の、純粋に音楽を――音を楽しんでいた四人は、充分羽を伸ばしていたのである。


例えば『アンダンティーノ』。


私一人が字引きの定義に従いせっせと速足で歩いていたのに対し、知ってか知らずか達観していた残りの面々は、ゆっくりとそれぞれの『アンダンティーノ』で一歩ずつ着実に、時間の上を歩んでいたのである。



俗世に捉われず、自分を見つめ直せ。


それこそが、先程黒江さんが毅然と言い切った言葉の真意であるのかもしれない。


――そう思い至った時。



モモが、居住まいを正して、妙に畏まった様子で口を開いた。


「ねえ、先生――みんなにも、お願いがあるんだけど」


一同、静まり返ってじっとモモの方を見る。その頬は、摘み立てのリンゴのように紅く初々しかった。



「あのさ、私と演奏してくれないかな。今度は私がヴァイオリンを弾くから――曲はね、ベートーヴェンの『ピアノ五重奏』作品番号十六」



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