たかが一年されど一年。『考えるな』で『考えろ』な芸術と現実と。




「よぉう」



翌日。


契約を結んでいる語学関係の仕事の関係で、朝早くから恵比寿まで行って帰ってきた私を出迎えたのは、何やら雑誌と睨めっこをしているモモの姿だった。イチゴチョコレートをコーティングしたビスケット菓子を頬張りながら、投げ遣りな口調で返してくる。


「よぉ……」


私は重たいフランス語の教材を「よいしょ」と床に降ろしながら、何の気なしに言う。


「なに読んでんだ?」


「あ、これ?」


モモはイヤフォンを耳たぶに引っ掛けて、誌面を大きく広げて見せる。


「わたしさ、ほら、音楽の知識まったくないじゃない? ちょっとでも真面目に考えてみるなら、こうした本を読むのも重要かなって思って、本屋さんで買ってきたの」


よく見ると、それは業界では有名な専門雑誌で、特に楽壇では良く名の知られた評論家のレビュー記事が載っていた。若手の盲目のピアニストに対する、熱烈な推薦文だった。


「なんだ、松黒誠司郎の駄文か。美辞麗句で対象を褒めそやかし、一般聴衆を煙に巻こうとする。良く読んだら具体的なことは何一つ言ってなく、要約すると『とにかくスゲエからお前ら、絶対CD買えよな!』になる。ヤツが大好きなのはお涙頂戴な障碍者か、センセーショナルな話題性に事欠かない人物で、気に染まない者は徹底的に排斥しようとする。そりゃハンディキャップを乗り越えても素晴らしい音楽を紡ぐ人間を、俺は大いに評価するし、立派だと思う。だが、彼らもまた芸術家。自分の肉体的欠陥だけを論って広告塔にされるのは――ありがたいと思うかもしれない反面、この上ない侮辱だと捉えるかもしれない」


モモはちょっと考え込む様子で、


「んー、確かにそんな感じするかも。フワフワしてるというか、キラキラしてるというか――じゃあ、こういうのは読まない方が良いの?」


「いや、そんなことはないさ。出版されてしまった以上、全ての文字は等しく有意義だ。ゴミはゴミなりに、反面教師として素晴らしく役立つとも言えるからね。それに、この松黒誠司郎という人間は、良くも悪くも現代音楽壇の現実を象徴しているよ。金ずくで、一部の識者にのみ媚を売り、当人は一度も楽器を握ることなくあちらこちらをこき下ろす。論文盗作、袖の下、障碍者を食い物にしたレコード会社との共謀等、黒い噂には事欠かない輩だが、『役に立たない』世界を支えて現実世界と折り合いをつけているのは、こういうヤツらがいてこそ、というジレンマもある」


「ふうん――じゃあ、先生はキライなんだ」


「好きか嫌いかで言えば、な。必要悪として放ったらかしておかなきゃならんのも事実だが、ことこんな街中の音楽教室をやっている限り、関わり合いにならんで済む人物でもあるしな。お上のことはお上のこと。俺には関係ないこととして、黙って受け流すことにしている」


「判った」


モモはポイと雑誌を脇に放って、元気よく言った。


「じゃあ読まない!」


いやちょっと待てよ。


お前、俺の話の何を聞いていたんだ?


紙屑には紙屑なりの有効活用法が、尻を拭く以外にもあると、今散々言葉を使って説明したばかりじゃないのか?


そう言うと、モモはゆっくりと首を振った。


「ううん、いいの。だって、私は先生のように沢山物を知らないから、そうした言葉に惑わされるかもしれない。もし洗脳とかされちゃったら、それこそ問題じゃん? 第一、私は先生の弟子なんだから、まずは先生の言うことをきちんと理解出来るように頑張るよ」


いつになく真剣な表情のモモに、私はプッと噴き出した。


変なところで妙に真面目で従順な娘である。その一種独特な師弟愛とでも呼ぶべきものに、私はほんのちょっぴり目頭が熱くなりそうだった。


でもそう言うからにはもうちょっと弟子らしく、真面目に取り組んで――いや、真面目に取り組んだ風な演奏を、ピアノで発揮してくれ。


「面白いことを言うじゃないか」


私は、飽くまで目が痒かったのだと自分に言い聞かせながら、軽く目尻を擦って言った。


「そこまで真剣に私のことを思っていてくれたとは夢にも思わなかったよ。ともなれば、ご期待に応えてビシバシと本格的なスパルタ教育をせざるを得ないな?」


モモはビクンと飛び上がって、


「それだけはご勘弁をォ」


とふざけた調子でペコペコと頭を下げ始めた。



まったくコイツは――と思いながらも、ふとさっきメールで届いたやり取りを思い出す。


「あ、そうそう。今日、またあの銀蔵爺さんが来るよ。今度は、前にも話したことがあるあのカタコトなインドネシア人の戦士も一緒だ。戦士も辛く当たられている仕事帰りだというのにマメなことで。爺さんにガムランのいろはを教え込むそうだよ」


「ガムランって?」


幾度となく繰り返されてきた質問を繰り返すモモ。


そして私はいつものように、同じような長ったらしい説明をする。


『鉄琴』という単語を聞いて、みるみる顔色が明るくなるモモ。お前、ホント鉄琴好きだな。『森の音楽隊』レベルから成長してないんじゃないかと、心配になるぐらい。


「面白そう! 私もやりたい!」


キラキラと目を輝かせるモモに、私は厳めしく首を振る。


「ダメだダメ。お前もいつまでここに居られるか判らないんだから、その間にもうちょっとヴァイオリンを見てやらなきゃならないんだ。そうだ、ここでゴチャゴチャやってる暇はない。さっさとヴァイオリンを出して、ピアノの前に立つんだ。『愛の挨拶』、もう一回やるぞ。俺のイギリス音楽への傾倒者としての観点からして、直さなきゃならん箇所が結構ある」


「ハァイ」


と渋々さを装うも、どこかその後ろ姿にウキウキとした楽しさを漂わせるモモに、私はやれやれと思う反面、確かな遣り甲斐を感じていた。


こんなにやる気になったのはいつから振りだろう。私はこう見えても結構計算ずくな人間で、レッスンの際はクオリティの均一化を念頭に入れてやっている。冷静に五感の網を張り巡らし、知性をもって的確な形へと近づけて行く方式だ。謂わば音楽教育における職人という形で、自分で言うのも難だがあまりムラがない。


だからこそ、一人の生徒に対しここまで感情的になり、どうにかしてやろうという気持ちになったことが、自分でも驚きだった。新鮮味? モモの人柄? それもあるかもしれないが、どこか自分の中で燻り続けていた探究心に、意図せず火が点いてしまったのだろう。


これはモモの為を謳っているが、私の為のレッスンでもある。


錆び付いた蒸気機関が、今また息を吹き返そうとしている。



エドワード・エルガー、『愛の挨拶』作品番号十二。


エルガーが、生涯の伴侶となるキャロライン・アリス・ロバーツとの婚約の折に贈った曲である。元々エルガーのピアノの生徒だった彼女は、エルガーより八歳年上、プロテスタントとカトリックの違いもあれば、陸軍少将の令嬢という、とにかく釣り合わないことだらけのカップルだった。周囲の反対を押し切っての結婚。にも拘らず――いや、その困難を乗り越えたゆえか、彼女は沈みがちな夫をよく宥め、音楽に対する批評は忌憚なく行い、社会的やビジネス的なマネージャー業も進んで引き受ける、あらゆる意味で最良の伴侶だった。夫の才能に敬服し、散文や韻文作家としての自身の夢も諦め、献身的に尽くし続ける姿。彼女のお陰で、一歩間違えれば失意のどん底で死んで行きやすい音楽家の群れの中で、エルガーだけは幸福の色を失わずに済んだのかもしれない。


後年、彼女はこう回想している。「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものである」、と。


エルガー初期の不朽の名作『愛の挨拶』には、そんな困難の嵐を乗り越えた先にある平穏と幸福を感じさせる何かがある。


音楽家たる前に人間たれ。


人間でありながら音楽家であれ。


そんな二つの命題を、モモのヴァイオリンが紡いでゆく。




四分弱の短い曲。


僅かな間の無言であったはずなのに、ようやく発せられたモモの声は、遠く懐かしいもののように思えた。


「――先生、ピアノ、上手いね」


茫然自失のまま、眉根に皴を寄せて、暫くしてからぶっきらぼうに答える。


「ん? ああ、当たり前だろ。卑しくもそれで飯食ってんだから。弾けなきゃ話にならん」


そんな粗暴な物言いに、モモは顔をしかめることもなく、静かに首を振った。


「ううん――そういう意味じゃなくって、弾けるとか弾けないとかそういう意味じゃなくって、とてもいい伴奏――いや、演奏だったと思う」


「耳を磨け。俺はメロディを鳴らし過ぎる嫌いがあるし、音が鋭角的に入りすぎて情緒が無いと言われることもままある。第一、この曲はけっして難しくはない。確かに一般的な伴奏版より、主旋律が全部丸々右の高音部に入っちゃってる所為で、耳で聴く以上に忙しないところがある。それでも、プロの演奏家からしたら――こんなものは、児戯に等しい」


「そんな難しいことは判らないけどさ」


モモは尚も言い募った。


「そりゃ、そんな難しい曲じゃないのは判るよ。人をアッと言わせる、サーカスの曲芸的な超絶技巧じゃないのも。プロの音楽家がどう思うかは知らない。けれど――私には、とても心に響く、良い演奏だと思った」


音を言葉で表現するのは途轍もなく難しい。


詳しく説明すれば説明しようとするほど、空虚さが纏わりつく。


だから、松黒誠司郎のような、過剰包装の駄文にしか思えないようなものも、正鵠を射ているとして褒めそやされるのかもしれない。


音楽学的知識もなく、語彙にも乏しいモモの口からは、精々そのような陳腐な感想しか出まい――


そんな卑屈な想いに耽っていると、背後からピシャリと言葉が飛んでくる。



「またゴチャゴチャゴチャゴチャと要らないことを考えていますね。モモちゃんが『良い演奏』だと言ってくれた。『心に響いた』と言ってくれた。それだけで良いじゃありませんか。音楽と言う無形の、言葉なきものを取り扱う以上――雄弁は物事の本質を見失わせるに他ならないと思いますよ」



黒江さんだった。


買い物から戻ったばかりなのか、ネギが大きく膨らんだビニール袋から覗いている。


返す言葉も見つからない私に、黒江さんは矛先を緩めることなく続けてゆく。


「先生の悪いクセです。理屈っぽく、合理性を重んじ、降りかかる数多の問題に最善の解決法を模索するその精神――私はそれを、向上心として誰よりも高く評価し、心酔しています。けれどそれは人たる所以――現実世界に折り合いをつける為であって、時に芸術家――一個人としては足枷にも成り得るものです。器用に立ち回っている心算で、とんでもなく不器用。無尽蔵の原動力を以って、思考のドツボに嵌ってしまう。今一度、原点に立ち返って、ご自身が何をなさりたいか考え直してみるべきなのではないでしょうか」


「……さい」


私が俯き、ギュッと唇を噛んだまま発した言葉に、モモが微かに飛び上がる。


「ウルさい。お前に何が判ると言うんだ。高々一年ちょっとの付き合いのクセに」


目に見えてあたふたとし始めるモモ。


当の黒江さんは、買い物袋を手にしたまま、限りなく無表情で――厳めしい様子のまま、世の理を説くような断然とした口調で、ゆっくりと一字一句明瞭に発した。


「芸術を芸術たらしめているのは、他者の目です。主観ですから正解も間違いも、実際にはあり得ません。けれど私にとっては、誰になんと言われようと、決して揺らぐことのない絶対の真理なのです」


そう言い残し、くるりと踵を返して消えて行く黒江さん。


モモが、心配そうに譜面台越しに身を乗り出す。


「いいの? 謝らなくて」


私は、暫く押し黙っていたのち、ゆっくりとこう言った。


「……いい」



黒江さんと知り合って高が一年、されど一年。


彼女が私のことを、絶対的自信を以って評するように、私も私なりに彼女のことを判っている気でいる。


それによれば――


彼女は怒っていない。


ただ、私に『考えろ』、そして『考えることをやめろ』と相反する命令を突き付けたに過ぎない。


つまり、答えを出すべきは私自身であって、それが出るまでは黒江さんにどうこう弁解する筋合いではないということになる。その場凌ぎのおためごかしは、私も黒江さんも最も嫌うものであるということを、私は知っていた。



ピンポーン。



そうこうしている内に、玄関の呼び鈴がけたたましく来客を告げた。


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