親という謎、恋という不思議。




で、例によって室井が飯を食うシーンはカット。


あの形で意外と食欲は常人並みという室井が、程々に品の良いマナーで食すというのは、グルメ番組のパーソナリティーとしては失格だった。視聴者はああいう巨漢に対して、大口で食らい、口に放り込んだ瞬間に『ウマいっ』と叫ばせ、よく咀嚼もせずに呑み込み、何遍もお代わりを懇願する様子を望んでいるのだ。ちなみに、私は味覚が基本的に鈍感な所為か、あまりそう言った番組に魅力を感じない。ただ夕食時のニュース番組の中でチラホラ見るから覚えているだけだ。飯時に飯の番組見るってのも、どうなんだろうね。まあ、深夜零時の小腹が空いた頃に流されるよかマシか。


ただ、黒江さんの煮込みハンバーグは常にも増して気合が入っており、絶品だったということは付記しておかねばなるまい。肉は勿論、付け合わせのインゲンやニンジンまでもが絶妙な調理加減に仕上がっており、私らは皆舌鼓を打った。室井に至ってはその場で雷に打たれて死んでも悔いはないとでもいう風な喜びようで、モモも自分が危機的な状況の家出娘だということを暫くの間忘れたようだった。


ただ、一つ難を言うと――私、あまりニンジン好きじゃないんだよね。その割に、他のどの皿よりもてんこ盛りだったのは、好き嫌いはいけないという黒江さんの親心か。はたまた、ささやかな復讐か。


室井は持ち前の純真な下心を丸出しにして、ハートのアップリケの付いたエプロンを着て(貰い物)、いそいそと黒江さんの皿洗いに付いていった。


程無くして、ジリリリジリリリと廊下の黒電話が鳴る。


「はい、平音楽教室」


受話器の向こうから聞こえてきたのは、切羽詰まった様子の女性の声だった。


『も、もしもし? 土安です。土安萌々香の母です』


襖越しに心配そうに顔を突き出すモモに、私は軽く顎をしゃくって合図した。


私は、至って普通の調子で言う。


おや、こんばんは。どうしたんですか、そんなに慌てて」


普段は機関銃のように立て板に水の教育ママさんも、流石に弾詰まりを起こした火縄銃のように言葉が詰まる。はて、何かあったのだろうか(すっとぼけ)。


『萌々香です――うちの萌々香。萌々香は今日そちらに伺っていませんか?』


モモカモモカと繰り返していると、なんだかゲシュタルト崩壊に陥りそうだった。


「ん? ああ、彼女ならきちんと四時半からのレッスンに来てましたよ。で、いつも通りきっかり一時間レッスンをして帰りましたが――どうしたんです、一体?」


『萌々香がまだ帰ってこないんですよ! もう七時半だと言うのに……勉強しなくちゃいけないから、レッスンが終わったらすぐ帰るって言っていたのに』


ほうほう、自分から進んで自習のご報告とは、中々殊勝な娘さんで――私が知っているモモらしくもない。それともなんだ、土安ママさんは主語の使い方が下手なのかな?


「ほう、そりゃ心配ですね――警察には相談されたんですか?」


『警察!』


土安母は首を絞められた鶏のような声を上げた。


『え、ええ――今から行こうとは思っていたんですけれど、その前に先生が何かご存じではないかと思って』


「残念ながら、それ以上は存じ上げませんねェ――あ、でも。そうだ」


私はふと思いついたような素振りをして、


「実はですね、今偶々私の友人で、現役の警察官をやっている男がうちに来てましてね。警察署へいらっしゃる前に、その男に相談されてみてはいかがでしょうか。私が言うのもなんですが、真面目で頼れる男ですので、良い方向へ取り計らってくれると思います」


『ホ、ホントですか? ではお願いします、今すぐに!』


言われんでも今すぐ変わってやるわい、そういう段取りなんだから――と心の内で毒づきながら、私は声を張り上げる。


「おい、室井――室井! ちょっと廊下まで出てきて、電話に出てくれ。仕事の電話だよ!」


やがてノソノソと台所から出てきた室井は、メルヘンなエプロンを身に着けて、まあ愉快な見た目だった。子供が見たら、夜うなされそうなほどに。


私は隣でそびえ立つ室井に、耳打ちしながら受話器を渡す。


「じゃあ後は任せた。頼りにしているぜ」


煮込みハンバーグと黒江さんの魔力か、素直に頷く室井。


「お電話変わりました。大船駅前交番勤務の、室井緑巡査部長です――」


大きな体をビックリするほど小さく丸めて通話する姿に、私は職場での彼の苦労を見て取りながら、モモのいる居間へと引き返す。


襖を静かに閉めながら、私は言った。


「さあ、大人しくしていろ。大丈夫、室井は見ての通りヘッポコだが、きちんと恩義には報いる男だ」


「明らかに食べ物で釣ってたよね――黒江さんでも。なんか、心配」


うーん、確かにそう言われると言い返せない。


でも大丈夫。それだけ素直なヤツなんだ、素直にちゃんと努力してくれる。私、信じてる。


「ま、でも、おふくろさん、きちんと心配してくれてたぜ。所々感に障る物言いはしてたがな」


モモは力なく苦笑した。


「仕方ないよ、お母さんだもん。自分に都合の良いように言い換えちゃったり、ヤアヤアせっついて一言多かったりするのは、いつものことだもん。今更怒っても始まらないよ」


「……お前も苦労してンだなァ」


「まあ、人並みには」


私とモモの視線が交差し、やがて笑みが浮かんだ。


「でもね、そんなお母さんだけど、決して世間一般から言って悪い母親じゃないとは思う。まあ、なんと言うか――愛情は感じているもん。過保護で、過干渉で、一緒にいるとイライラさせられることばっかだけど、それも全部私のことを大切に思ってるからだからこそなんだと思う。世の中には、もっと酷い母親なんて山のようにいるのも知っている」


私は頷いた。


その昔、アメリカにとある殺人鬼がいて、その父親が自らの半生を顧みて、怪物を作り出してしまった経緯に思いを巡らせた著書が話題になったことがあった。仕事に忙殺されたゆえの親子間のコミュニケーションの少なさ、妻の精神向上薬依存、それに伴う夫婦関係の悪化などを、懺悔のように書き連ねていた。その中でも結びの一節の中の一文は、特に私の記憶に深く残っている。


『親であるということは、永遠に大きな謎である』


人はいつ子供から大人になり、親となるのだろうか。


今までどこか利己的に生き、他者の寵愛を受けるに留まっていた存在が、ある日突然責任感に目覚めるものなのだろうか。


私は、『ノー』だと思う。それは瞬時にやってくるのではなく、時を掛けて変容してゆく類のものであると信じている。愛情を受け、その有難みを知っているからこそ、その真似事をして段階的に育めるものなのだ。


中にはその気構えもなしに、愛情とはなんぞやと知る前に、無計画に子供を作ってしまって、便宜上『親』になってしまう人間がいる。パチンコに現を抜かし、孟夏の車内に子供を置き去りにする母親。愛人を作り、人知れず蒸発する父親。体罰という名の八つ当たり、育児放棄――そんな胸糞の悪い事件が、至る所で起きてはテレビを騒がせている。


そうした最悪の事態を未然に防ぐために、法は存在する。法と照らし合わせて、初めて親の正否、他者が口出しできる土壌が出来上がるのだ。


しかし偏に愛情といってもその形は千差万別で、個人に合う合わないまでを含めればその判断は困難を極める。ある愛情表現が一人の子供に良かったからって、もう一人にも良いとは限らない。例え、同じ相手と出来た、同じ胎を痛めて産んだ子供だとしても。


更に言うと、そうしたバリエーションに富む不確定要素を多分に孕む以上、親であるということに関しては、絶対に経験豊富なベテランには成り得ない。今の時代、一生の間に多くて精々三四人。百回も二百回も繰り返して初めて見えてくるものもある訳で、その意味では人間皆『親』であることに関しては素人なのだ。


まあペーパードライバーならぬペーパーペアレント以前に、子供を持ったことすらない私が論じるのも変な話だが。


とにかく、土安家の悲劇はその経験不足と、一種空威張り的な自信過剰に起因しているところが大きいように見える。なにもこれは土安母に限ったことではない。うちの教室に来る生徒の過半数は、多かれ少なかれそうした問題と共に生きている。


「俺もそう思うよ。お前の母親は悪い人間じゃない。ただ、どうしようもなく小うるさくって、ウザったいだけだ」


モモは苦笑した。


「それ、生徒の母親に対して――それもその娘に面と向かって言う?」


「しゃあないだろ、事実なんだから」


プッと噴き出すモモ。


私もそれに釣られて、笑みを浮かべる。


和室にピアノに座卓という風変わりな部屋の中で、一回りも年の離れた他人同士の笑い声が、軽妙に辺りを包み込む。


その声に引き寄せられてか、電話を終えた室井と洗い物の済んだ黒江さんが、揃って部屋に入ってきた。


「おや、随分と楽しそうじゃありませんか」


と、黒江さん。


室井は金タワシのような角刈りをもみくちゃにしながら、


「そうですよ。人の気も知らないで――娘さんのいる前で言うのもなんですが、いやァ、疲れました」


私は座布団を勧めながら言った。


「だろうな。お疲れさん。で、どうだった?」


「そりゃ、うまくやりましたよ。自分に一任するという形で、納得してくれました。少なくとも今晩は何もしない。明日朝一番に学校に登校しているのを確認し次第、伝えておきます。そうすれば事件性はないと言うことで、暫く様子を見ることに同意してくれるでしょう」


私はポンとその巨大な肩を叩いた。


「よくやった。随分な食後のカロリー消費になっただろ? 俺がスリムなままなのにも納得行ったかい?」


「銀蔵爺さんじゃないですが、先生は運動不足で貧弱なだけッスよ。いや、でも――親御さんを相手にするってのは大変ッスね。ちょっと見直しました」


だろうだろう。


これを機に、私を立派に崇め奉りたまえ。


『人の役に立たない仕事』を生業としている分、それはもう充分に納得済みなのだが、世の中は私に対する敬意が絶対的に足りない。サルもおだてりゃ木に登る、私は褒められて伸びる子なのだ。


柄にもなく座布団の上で礼儀正しくちんまりと収まっていたモモが、申し訳なさそうに口を開く。


「ホントにすみません、お巡りさん――私の所為でメイワク掛けちゃって」


女子供に甘い男の見本と呼ぶべき室井は、慌てて首をブンブンと振る。


「いや、モモさんの謝ることじゃないッスよ。自分が好きでしたことです」


「そうだモモ。コイツは好きで首を突っ込んだ。第一、煮込みハンバーグを食わしてやったんだからその代価としてチャラ、恐れ入る必要性なんてこれっぽちもありゃしない」


「そりゃそうなんですが――なんだか癪ですね、先生に改めてそう言われると」


「ほう、そうかい。まあ恩を着せるなら黒江さんにすることだな。そもそも言い出しっぺは彼女な訳だし、ハンバーグを作ったのも彼女。俺はただの傍観者に過ぎない訳だから」


それを聞き、黒江さんが深々とお辞儀する。


「本当にご迷惑をおかけしました。とても助かりましたわ――室井さん」


黒江さんの着物の衿から覗く白い項に、室井は打ち立ての南部鉄器のように真っ赤になって、


「いや、そんな滅相もない! 本ッ当に、自分が好きでしたことですから、ホントに! それどころかハンバーグまでご馳走になって――本当に美味しかったです、ハイ」


ホントホント言っていることからも、本当に嬉しいのはよく判った。でも一々ガタガタ身じろぎするのはやめてくれないかな、色々揺れるんだ。


そんな少年漫画のラブコメ的展開を生温かい目で見守っていると、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。


ん、誰だこんな時間に?


まさか居ても立ってもいられなくなった直情径行型中年女性の土安母が、車で乗り付けてきたのではあるまいな。


実の娘であるモモの脳裏にも同じ懸念がよぎったらしく、ダーッと脱兎の勢いで押し入れに身を隠す。


いや、そこ仏壇入ってるんだけど。咄嗟に人んちの押し入れに押し入る女子高生を、私は初めて見た。


「はい、ただいま――」


そう言って立ち上がる黒江さんを制して、私が言う。


「いや、俺が行こう」


灯りを落とした廊下に出ると、曇りガラスの向こう側で車のヘッドライトが照っていた。


うわ、マジで来やがったよあのオバハン――と絶望に打ちひしがれながら引き戸を開けると――


不思議なことに誰もいなかった。


車はどうやら、向かいの家の前に止まっているらしい。軽く外に出て見回してみても、人の気配一つない。


真夏の夜の怪奇現象か、はたまたそれに肖ったイタズラか――不思議に思いながらも、ゆっくりと居間に引き返す。


「妙だな、誰もいなかったぞ――って、オワッ!」


襖を開けた途端、目に飛び込んできたのは、庭先に佇む枯れ木のような老人の姿だった。グッと前に傾き、杖に縋っている。丁度陰になっている為、顔の造形は判り難く、ただ深い皴が無数に刻まれていることだけは判った。何やら板のようなものを携え、頻りに口をパクパクとさせている――


落ち武者の亡霊か?


いや、よく見たら倉内銀蔵爺さんだった。


「『オワッ』とはなんだ、『オワッ』とは。儂はお化けじゃないぞ。第一、呼び鈴押したらさっさと出て来いよな、若いんだから。年寄りをこんな裏まで回らせやがって」


息も絶え絶えと様子で悪態を吐く爺さん。慣れない杖は余計に体力を消耗させるのか、ひび割れた地表のような額に汗が溜まっている。


私は一応生身の人間だということを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。


「なんだ、爺さんか――そんな動き回るのがしんどいほど耄碌してんなら、大人しく玄関で待っときゃ良かったのに。アンタ、せっかち過ぎんだよ。気が肉体の数メートル先を行っちゃってる」


自分のことに関しては悪びれる風の無い爺さん。


「儂は三つの頃からこういう性質なんだよ。『三つ子の魂百まで』っつうだろう? 今更、どうこう変わるもんじゃねェ」


「そんなこと続けてたら、百歳になる前にお迎えが来るぞ。ともかくそこの縁側でいいから座れよ、杖でヨタヨタヨタヨタ見られたモンじゃない。もう一回立ち上がる余力があるのなら、の話だが」


「なにをォ、若造が生意気言いやがって――どっこいしょ」


そうは言いつつも大人しく従う爺さん。いつの間にか台所へ消えて戻ってきた黒江さんが、そっと麦茶の入ったコップを差し出すのを見届けると、私は口を開いた。


「で、なんの用だ? まさか爺さん、アンタも家出か?」


私の不用意な発言にビクッと体を震わせた室井を他所に、爺さんはその乾ききった口元に麦茶を流し込み、盛大に親父臭い一息を吐くとやっとのことで続けた。


「家出? 何の話だ。なぜ、儂が家出せにゃならん。あれは儂の家だ。儂が大黒柱だ。他の誰を追い出すも儂の勝手だが、残りの連中にどうこうされる筋合いはねェ――違ェよ。回覧板だ、ほれ」


先ほどまで私がまな板かなにかだと思っていたものは、よく見ると日に焼けて色の薄くなった薄水色の回覧板だった。私がここへやって来た頃から既にこの色合いだということを考えると、これまた相当な年代物である。


私はぶっきらぼうに突き出されたそれを受け取ると、眉根に皴を寄せて言った。


「何で爺さんがこれを? アンタんち、三軒先だろ。第一、いつもは嫁の方がこれ持ってウロウロしてないか?」


「なんだ知らねェのか、隣は今夏休みで親元に帰省してるんだよ。で、お前んとこの向かいは旦那の親の具合が悪いとかなんとかで、女房の方は栃木にしょっちゅう出向いてる。亭主の方は夜勤だからな、こんな時間に居る訳もない」


あー、なんかそういや向かいの奥さんそんなこと言ってたな。話好きではあるものの基本的に上の空という、私の信頼を落とす悪癖を惜しげなくも晒してしまった。ただ単に記憶力が悪い所為かもしれないが。そうだ、そういうことにしておこう。


ん、じゃあ、あの車のヘッドライト、向かいの家に止まってたもんじゃないのか。


「ご近所事情は判ったよ。でもお嫁さんは――」


「八千代なら、今日は同窓会かなんかで横浜まで行ってるよ。遅くなるとよ――いい年したオッサンオバハンが、集まって何をするのやら。外村の親父が作り置きしたおかずが、電子レンジの中にラップして入っていやがった。ご丁寧に、書置きまでしてさ――『お義父さん、これを二分半温めて食べて下さい』とよ。自分で飯ぐらい勝手に漁って食えるってェの」


女性は、とにかく自分の領地を侵略されることに病的な嫌悪感を持つものなのだ。思春期の『お父さん、勝手に部屋に入ってこないで!』に始まり、一人暮らしの娘の部屋に父親が足を踏み入れられるのは、良いようにこき使われる引っ越しの時以外ありえない。そして結婚したら結婚したで、台所全域を私物化し、そのクセ皿洗いは分業じゃないと文句を言う。


ちなみにこれ全部、永久さんのところに入り浸っている縄田のオッサンからの受け売りな。十ぐらい年の離れた二人の娘を持っており、下の娘のピアノを私が見ている。十代二十代四十代に自分の母親の八十代、ありとあらゆる世代の女性のカマキリのオスとして歳を重ねてきた、所謂苦労人である。


要は、この無骨な爺さんに聖域を荒らされては堪らないという危機感の表れなのだろうが、そんなことを気にするデリカシーは備わっていない。デリカシーと言ったら新種の菓子だと思っている。


まあなんでもいいや。


爺さんがグチグチと愚痴を垂れている横で、半ば棚と化した電子ピアノの上の箱の中からハンコを漁る私。回覧板の中身は、夏祭りのお知らせに商店街の掃除当番という至って当たり障りのないものだったが、爺さんの前の家の日付が気になった。


「なんだ、今日回り始めたやつじゃないか。そんな勢い込んで回すモンでもないだろうに。ははァ、さては爺さん、一人じゃ寂し過ぎてヒマを持て余したな? で、うちに遊びに来た」


「馬鹿言うんじゃねェよ!」


想像を絶する大音量でいきなり叫ぶ爺さんに、室井がビクッと身を竦めた。いや、だから室井君、大人しくしていようね。暴れるもんだからほら、ちょっとお茶が零れちゃったじゃない。


「ってか、モモ――お前、いつまでそうして押し入れに立て籠もっている心算だ? 聴きゃあ判ると思うが、お前のおふくろさんじゃないぞ」


オズオズとゆっくり押し入れから這い出てくるモモ。あーあ、あんまり下の段は掃除してないから、頭にクモの巣付けちゃって。


想定外の人物の登場に、爺さんは目を丸くした。


「おい、なんだってそんなところから若い娘っ子が出てくるんだ? さてはお前――」


「馬鹿。やましいことはしてねェよ。第一、この家には四六時中女の目があって、今は特に爺さんも見ての通り、お巡りまでウロウロしてンだぜ。こんな所に女を連れ込めるものか――訳あって、コイツを今匿っている。名前は土安萌々香。モモ――こっちは倉内銀蔵爺さん。そこの魚屋の主人で、ここの嫁は定食屋の看板――じゃなかった、看板娘だ」


娘と言えるかどうかは怪しいけれど。


言われるがままに、控えめにお辞儀をする二人。


まあ爺さんのことだから、あまり口うるさいことを言って騒ぎ立てはすまい。そう踏んでの対面だった。


それよりも、私はモモの膝の上に乗っている物体の方が気にかかる。


「モモ――なんだそりゃ。どっからそんなモン引きずり出してきた?」


「あ、これ? 見て判らない?」


モモはそう言って、得意げな表情を顔中に浮かべた。


「おもちゃの鉄琴だよ。どっからどう見ても。押し入れの奥に転がってたんだよ――先生のじゃないの? 先生ちなのに? オッカしぃ」


オカしいのは人の家の押し入れに何の断りもなく乗り込んで、勝手に物を引きずり出した挙句、人を小バカにした表情を浮かべるお前の思考回路の方だ。


それは古今東西の玩具店で最低一個は常に売られている、ドレミファソラシドの一オクターブが揃った、虹色に塗り分けられた鉄琴だった。水色の土台に、ネジも子供が触っても危なくないように白く丸みを帯びた形状になっている。ゴム製のマレットはボロボロで、明らかに口に入れた形跡があるように小さな歯型が付いている。剥げ掛けた動物のポップなイラストのシールやらが、側面にベタベタと貼ってある――


「先生の子供の頃のものではないんですか?」


と黒江さん。


「いや、それはない。うちの家、変なところに神経質で、ガンガン音楽鳴らしたりピアノ弾いたりはするクセに、音の出るやかましいおもちゃは何一つなかったんだ。となると、アレだ。ほら、俺が開業して間もない頃、これからの時代は小児教育だと息巻いて、チビ達相手のカルチャースクールのようなことをやろうとしたことがあったんだ。『〇歳からの音楽教育』を謳ってね。その時に、フリーマーケットみたいなところから大量にタンバリンだのマラカスだのを仕入れたんだ。その名残だな」


「フゥン――先生もそんなこと考えてたんだ」


と、モモ。


「で、なんでヤメにしたの? 今先生、別に小っちゃい子にターゲット絞ってないじゃん」


「それはだな――」


どんよりとした表情になって行く私。


「ここへ来て最初の数ヶ月、その路線でやってみたんだが、人間というよりも獣に近い、知性の欠片も無い生き物が、ピーピーギャーギャー喚き続けるのに耐え切れなくなったんだ。放っておいても泣き出すのに、いざ泣き始めると親は半狂乱だし――見る見るうちに体重が三キロも落ちて、こりゃ限界だ、体に悪いと気付いて路線変更した」


「ハハハ……」


苦笑するモモ。


私は毒舌だが、毒舌の毒が効力を表すのはきちんと言語を理解する能力が備わった相手に限る。『アー』だの『ウー』だのしか言わない、おしめも取れていない幼子相手にそれを判れというのは酷だし、そんな奇声を日夜聞き続けている若いママさん達の脳細胞も同程度に死滅していた。デトックス出来ない私は、体内に溜まりに溜まった毒素の影響でやつれていったという次第である。


「確かに、ガキのお守りは金輪際御免だな」


「まあ、私が来る前にそんなことが――」


「三キロ? 自分なら結構朝と晩でそのぐらい変化してますがね」


と、三者三様の反応を示す爺さん、黒江さん、室井。


いや、室井。お前の三キロは確かに誤差の範囲で、全体の目方の三パーセント程度だろうが、俺の場合は五パーセント近いんだよ。数字にすると大したことないように思えるが、この差は大きいよ? 『消費税増税反対!』って暴動が起きるほどに。


モモはそんな周りの状況などお構いなしに、ポンポンポロリンと楽しそうに鉄琴を叩く。


「でも、これ結構楽しいね。タンバリンとか太鼓とか好きだったなア、昔」


「エエイ、ウルさい。音楽教室やってるからって、騒音まで大歓迎だと思うなよ? これ以上妙な音を出すと、放っぽりだすからな――ところで爺さん」


わたしはふとさっきの回覧板を思い出して、爺さんの方を向いた。


「太鼓で思い出したんだが、さっき夏祭りの報せが回覧板に――」


爺さんはピクリと反応したものの、すぐに顔を曇らせた。感情を殺した、低く押し潰したような声音で答える。


「あ? ああ、アレな――今年はやらん。というか、出来ん。もう多分、今後ずっとな――」


先程までの威勢はどこへやら、どんどん老いさらばえて行くような爺さんに、私は少し自分の不用意な発言を反省した。しかし、よくよく考えてみれば、そんなことは当の爺さんが、この家に来る前から、回覧板に自分がハンコを捺したときから、あるいはずっと頭の片隅で燻り続ける種火のように判っていたに違いない。他の誰よりも夏祭りの太鼓に熱心だった爺さんの――漢のひたむきさを侮ってはいけない。そこに部外者が無駄に気を使うようなことは、却って自尊心に傷をつける。


「まあなんだ――歳だからな。誰しも通る道だ」


私は、紙巻を咥えながら言った。


「どうだろう、これを機に、もう少し分相応な大人しい楽器に手を出したら。そうだな――手始めに、そのモモが持ってる鉄琴とかどうだ? 叩くモンなんだから根本は一緒だろう?」


次の瞬間、爺さんはいつもの爺さんに戻って、血相を変えて怒鳴った。


「馬鹿野郎! そんな子供のおもちゃ、恥ずかしくって出来るか!」



年甲斐もなく掴みかかる爺さんをヒョイとかわし、明るい笑いに包まれる平音楽教室。


けれど皆、その笑顔の仮面の下に憂いを帯びた表情を隠して生きている。



それとシンクロするかのように、大気が渦を巻き――台風が近づいていた。




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