ハンブルグステーキは、魔法の言葉。




「そりゃマズいっすよ」


案の定、室井緑はそう言った。


黒江さんが電話を掛けてからものの数分。


チャリで商店街を全力疾走してきたのか、顔を紅潮させ体中から湯気を立ち上らせている室井は、大船駅に突っ込んでくる昔の東海道線にそっくりだった。カボチャ色の車体で、ヘッドライトがギョロっと丸いアレだ。視界の百八十度を埋め尽くす巨大な警官の制服に身を包んでいなかったら、変質者を通り越して脱獄した凶悪犯として、機動隊の出動を要請しなきゃならないところだった。


黒江さんから水の滴る麦茶を聖水のようにありがたく頂戴し、あっという間に飲み干した室井は、私やモモ、黒江さんの顔を代わる代わる見回した。厳粛な警察官らしい面持ち――と言ってやりたいところなのだが、どこかオドオドしていて締まりがない。


「んなこたァ判ってるよ」


私は飛び切り粗暴に言った。


「だから、それを少しでもマズくなくするためにお前を呼んだんだ。背に腹は代えられんのでね。お前以外になんとかしてくれそうな人間の心当たりがなかった」


この上なく不安そうな表情で、ボソボソと室井が問う。


「なんとかって――何をどうしろって言うんですか」


「だから、こいつのお母ちゃん――土安ってオバハンで、散歩中の犬が逃げ出したみたいな調子で娘がいなくなったって交番に喚きながら入ってきたら、きちんと探すフリをして――いいな、ここ、重要だぞ? 間違っても、自動音声みたいに即答するんじゃないぞ――娘さんは、学校にも習い事にもきちんと行っていると確認が取れたので、捜索願は受理できない、って言うんだ。で、ここにいるってことは、くれぐれもおくびにも出さないように。騒ぎが大きくなるとコトだから、署にも回さない方が良いだろう。なるべく、他の警察官の誰よりも早く土安母の相談を引き受けて――適当に書類でも埋めるフリをして、黙っておくんだ。そうすると、全部が丸く収まる」


しかし、室井はそう簡単に納得しなかった。正義の巨人は、息を大きく吸い込み、見る見るうちに膨らんだ。


「それはできませんよ。職務規定違反じゃないですか。いくら先生の頼みだからって言っても――法に触れるようなマネは、自分にはできません」


「だろうな。俺の頼みじゃな」


そう言うと私は言葉を区切って、打算的な笑みを浮かべた。最近ドラマで見た、悪徳弁護士のニンマリとした顔を思い浮かべて。


「でも、黒江さんの頼みならどうかな?」


『黒江さん』。


この魔法の言葉は効果てきめんだった。室井はピクリと体をこわばらせ、ゆっくりと想い人の方を振り向く。すると、これまた芸達者なテレビっ子の黒江さんが、大河ドラマの悪女のようにしなを作って、深々と頭を垂れる。


「お願いします、室井さん。頼れる人が他にいないんです」


たちまち緊張が解け、脂下がった顔になって行くと思われた室井だったが、そこは堅物の正義漢。ブルブルと頭を震わせ、柔道部の助っ人をしていた頃の名残か、パシッとその巨大な顔面を平手で打つと、精一杯凛々しい表情を取り繕って言った。


「いや、事情は判りますし、黒江さんがそこまでおっしゃるのなら、自分としてもお力になることはやぶさかではないのですが――それは出来ません。室井緑という一個人なら喜んでお引き受けしますが、この制服に身を包んでいる以上、自分は飽くまで警察官です。法の番人たる警察が、法を遵守するという大前提を放棄しては、市民の手本になりません。この話は聞かなかったことにしますが――いくら黒江さんのお願いとはいえ、自分には出来ないのです」


「なァにカッコつけてんだか」


心の内で呟いた心算だったが、どうやら口から漏れ出ていたらしい。黒江さんに向う脛を抓られ、痛い思いをする。


まあここまでも想定の範囲内。根本が判りやすいヤツなので、大体シミュレートできている。


私は脚をさすりながら、次なる手を打ちに行く。


「じゃあこうしよう――お前は何も知らない。土安母に頼まれても、方々をきちんと探す。そして、自分が調べた通りに報告書を纏めればいい。コイツはどの路、きちんと学校や塾には通う心算なんだから、実際問題本当の意味での行方不明にはならないはずだ。で、有能なお前は、この『平音楽教室』の風変わりな講師二人が女子高生を匿っているかもしれないと勘繰るんだ。テレビとかでよく見る優秀な刑事が、証拠のない容疑者を追い詰めるが如く、うちに何食わぬ顔をして出入りすればいい。要は拉致監禁容疑だな。そして、俺や黒江さんと――もう一回言うぞ、俺や『黒江さん』とちょくちょく話して――なんなら、飯をセッティングしてやってもいい――事件の真相を探る」私は上目遣いにじっと室井を覗き込む。「さて、どうだろう?」


「悪魔のような人だ!」


室井は叫んだ。


「次から次へと、そんな謀略を――何度でも言いますよ。無理なものは無理です」


「そうかァ、無理かァ――」


私はしょんぼりと肩を落として、


「時に黒江さん、今日の晩御飯の献立はなんだったかな」


「ハ?」


こんな時に何言ってんだコイツ、とでも言わんばかりの侮蔑的な表情を浮かべて、モモがじっと見る。


こっちにはこっちのやり方ってモンがあるんだよ。その顔、腹立つなあ、もう。


ところが黒江さんは流石黒江さん、一瞬面食らったものの、すぐに意を汲んで何気ない口調で答える。

「実は買い物がまだなんですよ。今日はあっさりとお刺身にでもしようかと思っていたんですが――何かご希望がありますか?」


「刺身? それはいけない。仮にもお客様が泊まるというのに、スーパーで買ってくるパック入りのおかずじゃ、持て成しの心に欠ける」


私は少し考える素振りを見せて、


「そうだな、ハンバーグだ。俺はハンバーグが食いたい。それも煮込みの」


『ハンバーグ』。


魔法の単語、パート2。


室井の鍋の取っ手のような耳がピクリと動いたのを見て、私は内心で『ビンゴ!』と叫んだ。


室井は逗子の出身だが、親元を離れて久しい独り者である。そして、職場の環境三割、自身の男子校的素質七割の所為で、その私生活には驚くほどに女性の姿がない。ともなれば、食事に関して食堂とコンビニを行ったり来たりする毎日を送っているに違いなく、栄養補給をただただ機械的に行っているということは、想像に難くなかった。手間暇の掛かる料理ともなれば、さぞ懐かしかろう。


で、なぜハンバーグというチョイスかだが、黒江さんが来る前、私はよく倉内銀蔵爺さんところの嫁の実家である外村食堂で、ちょくちょく室井と顔を合わせていたのだ。ヤツが訪れるのは決まって非番の水曜日で、ルーティン化した食堂の日替わりランチにおいて、その日は『ハンバーグの水曜日』だった。室井は脂っこいもの、そして子供が好きそうなおかずに目がなく、けれど持ち前の細かさで料理に対しては一家言を持っていた。外村の親父さんや、ウェイトレスをしている娘の八千代(八千円)の耳に入らないように、ボソボソと美味しいハンバーグとはかくあるべきという持論を展開していたのである。


それによると、室井の特に好みの調理法は、煮込みハンバーグである。


自炊経験のそこそこある私もよく判るが、ハンバーグっていうのは馴染みの深さの割にメンド臭い。不器用な人間は、まずタマネギのみじん切りで躓く。外皮を剥がし、いざ切り刻まんと包丁を振り上げると、どんどん涙が込み上げてくる。霞む視界に歯を食いしばりながら刃を突き立てて行くのだが、どう足掻いても賽の目より細かくならない。ひき肉と生卵という手にベチャベチャとへばり付いて仕方がない物体を必死にこね回し、生焼けと黒焦げの両極端な戦いをようやく潜り抜けて出来上がった代物を見ると、乳歯のようなタマネギが方々からコンニチハしていたりする。食感やら舌触りには比較的寛容――というか鈍感な私も、肉がボロボロとしてタマネギの引っかかるハンバーグもとい肉団子の出来損ないには、流石に閉口する。ただの焼いたハンバーグでさえそうなのに煮込みともなれば、ビーフシチューを途中まで作るというプロセスが加わるため、あまりにも敷居が高い。


室井は顔に似合わず、私よりはマメで器用な方なのだが、流石に割に合わないと思っているらしく、そうそう食べられたものではないと言っていた。


「煮込みハンバーグですか」


黒江さんはチラリと時計を窺いながら言った。


「まあ確かに、今から買い物に行けば間に合わなくもありませんけれど」


「ハンバーグ? 黒江さんの得意料理なの?」


と、モモ。


私は、チッチッチッと指を振りながら得意げに返す。


「うちの黒江さんを甘く見るなよ? 作るモノ全部が得意料理なんだから。でもそうだな、黒江さんの『黒江流ハンブルグステーキ』は特に絶品だ。タマネギは丁寧に刻み込まれ、肉の下味も秘伝のスパイスのバランスによってキリリと引き締まっている。それをそのまま焼いただけでも充分ご馳走なんだが、あのソース――あのデミグラスの、赤ワインの風味を感じつつも酒臭いところの一切ない絶妙さは、言葉では言い表せられないね。黒江さんはビーフシチューを始めとした煮込み料理も得意なんだが、その二つのコラボレーションともなれば、単に美味さが二倍になったとは言い切れまい。二乗だ二乗。旨味が、こう、スーッと、曲線を描いて青天井に伸びて行く」


「ヘェ、おいしそう」


モモも、室井のことなんか頭から吹き飛んでしまったかのように興味津々だ。色気より食い気かよ。こりゃ、あの母親がベッタリ張り付いていなくても、彼氏なんぞはまだまだ先のようだ。


「わたし、『かもめグリル』のハンバーグ、好き」


『かもめグリル』とは、大船の駅ビルにも入っている有名洋食屋だった。


「バカ言うんじゃないよ」


私は飛び切り高慢そうに言った。


「ローマを見て死ね。黒江さんのハンバーグを食べずして、ハンバーグを語るべからず。アレに比べたら、『かもめ』のハンバーグなんて――ただ高いだけの肉の塊だ!」


私のヘイトスピーチにいよいよ目を輝かせて行くモモと室井。


断わっておくが、これは便宜上の誇張ってやつで、私は『かもめグリル』のファンである。美味いと思っていなかったら、吝嗇家の私が、時々黒江さんと連れ立って千円以上のランチに出向いたりしない。


過剰なほめ殺しにあっても尚、黒江さんは黒江さんだった。


顔色一つ変えず、サッと裾を直して立ち上がる。


「お褒めに預かり恐縮です。では、ともなれば早速行ってきましょうかね。生憎ですが、レッスンの方はお手伝いできそうにないので、後はお願いしますわ」


「おう、任せとけ。いつもより人数が多い分、買い物も大変だろうが頑張って――ひぃ、ふぅ、みぃ、と三人分宜しく」


丁寧に指折りまでして数え上げる私。


その様子を見て、ついに室井が石のような沈黙から解き放たれた。


「さん、にんぶん?」


オズオズとそう尋ねる室井に、私は驚いたような顔をして見せる。


「ん? 違うのか? 俺だろ、黒江さんだろ、モモだろ――いち、に、さん。何度数えてみたって三人だ。一人で二人分平らげる大食漢が居なければ、の話だけどね」


「そ、そうですか」


どんどん声の小さくなる室井。そのカバのような口の中には、今まさに大量の唾液が潮のように満ちているのだろう。腹は人知れず、グゥグゥと鳴っているのだろう。俯いているからよく顔が見えないが――アレ、ちょっと涙目になってる?


「もしよろしければ、室井さんもお召し上がりになります?」


黒江さんが絶妙なタイミングで、天使のように問い掛ける。


まさに以心伝心、計画通り。パァーっと明るい光が射しかけた室井を遮るように、私は追い打ちを掛ける。


「いや、マズいだろう、それは。俺たちは、これから規律に忠実な室井巡査部長の決して看過出来ぬ悪行に手を染めようとしているんだぜ? そんな悪徳の巣でご飯を振舞おうものなら、それこそ贈賄だ。室井緑氏は飽くまで正義の警察官だからね、一個人である前に、常に警察官であるということを忘れない――そんな彼にこんな胡散臭い場所に入り浸らせるのは、甚だメイワクなことだと俺は思うよ」


「いや、マズくないです。絶対、美味しいです」


咄嗟に素っ頓狂で支離滅裂な奇声を上げる室井。


「も、もし黒江さんのご迷惑でなければ、自分のご同席させていただけないでしょうか。勿論、平先生のお許しがあればですけれど――」


どこか刺身のツマのような扱いに、ちょっと内心面白くない私だったが、この不格好なレンガ造りの厩のような男相手に嫉妬するというのも、もっと気持ちが悪い。


私は鷹揚に手を振って、


「いいよいいよ。室井巡査部長殿さえ良ければ。ただ、それにはな、ちょっとコイツのことが――」


そう言ってチラリとモモの方を見ると、室井が勢い込んで声を張り上げる。


「判りました! 判りましたってば! なるべく穏便に、内密に処理しますから! 先生はいざ知らず、黒江さんがやましいことを女子高生にする筈もありませんからね。ここは永年のお付き合いに免じて、この室井緑、なんとか致します」


先生ならいざ知らず、ってどういう意味だコラ。


まあ何はともあれ一件落着。


ひとまずほぼほぼ初対面の家出娘と(買収された)警察官にもうちょっと親交を持って貰うため、私と黒江さんは部屋を後にした。


すると、扉を閉めるや否や、黒江さんの細く長い指が私の袖を掴む。


「先生、そんなに私の煮込みハンバーグ、好物でしたっけ? 確かに何度か作った覚えがありますが、そこまで大絶賛されていたようには思えなかったのですけれど――」


「ん? ああ、アレな。嫌いじゃないよ。むしろかなり美味しいと思っている。でもなァ――俺もなァ、歳だからかな。ああいう脂っこいものより、あっさりと出汁の利いた京風の和食の方が好みに合うというか、胃に優しいというか。まあ、出まかせだな――イテッ!」



そう言い終わらない内に、私の足の甲を思いっきり踏ん付けて足早に階段を降りて行く黒江さん。



いやはや、黒江さんも女性である以上、時に激したり暴力を振るったりすることがあるんだねェ――と、痛む足をさすりながらゆっくりと後を追った。




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