女子高生は、はじけ出す決意。




何が何やらまるで状況が把握できていない内に、ひとまず居るとますます話がややっこしくなりそうな戦士を追い返した私は、ピシャリと玄関を閉める。それと同時に、この上無く深いため息を吐いた。


仕事終わりの一服と共に吐き出す、あの達成感のある「フゥ」とは異なる、凶兆のプロローグのような「ハァ」。


眼鏡を外し、眉間を思いっきり抓んでからようやく言葉を捻り出す。


「黒江さん。警察に電話」


モモが血相を変えて叫んだ。


「ヒドい! まだ何も言ってないのに!」


「今、目の前にこうしてある物的証拠以外に、必要なものがあるか? 同じ市内に住んでいて、にも拘わらず数泊の海外旅行に余裕で行けそうなほどの大荷物。どっからどう見たって、青少年保護云々に真正面から抵触しそうな『家出娘』じゃないか。関わっただけでも社会的地位が怪しくなること請け合いの――これ以上、不確かにする地位なんぞ持ち合わせちゃいないんだ、さあ帰った帰った」


憤然とした様子で頬を膨らませるモモ。いつもの、あの強烈な母親の陰に霞んだ哀れな庇護者ではなく、あの母親にしてこの娘ありという自己主張の激しさを露わにしていた。


「そんな、まったく話も聞かないで――まあ、その通りなんだけれどサ。でも、来ていいって言ったのは先生なんだよ? 理由ぐらい聞いてくれたっていいジャン」


「知ってるか? 今はだな、夜コンビニに行く道筋で帰宅途中のOLとすれ違っただけで、『不審者目撃情報』が街中に張り出される世の中なんだぜ? 鼻唄なんぞ歌ってた暁には、職務質問待った無しだ。理由なんぞあったところで、『女子高生』なんていう火気厳禁の危険因子は、出来る限り遠くへやっておくに限る――って、ちょっと待て」


私はふと不穏なキーワードを思い返して、矢継ぎ早に言った。


「今なんつった? 誰が『来ていい』って言った?」


「だァかァらァ」


モモは耳の遠いおじいちゃんに話し掛けるような、鼻持ちならない一歩手前の口調で繰り返した。


「先生が――平ミノル先生が言ったんでしょ。『うちだったら、別に駆け込み寺の真似事をしても構わんぜ』って」


そう言って、スマホの画面(例によって胸がムカムカするようなピンクのケース付き)をチラチラとかざす。


私はビックリしてそれをひったくろうとするも勿論失敗、モモの手の内で上下に揺れる画面をやっとのことで覗き込むと、見慣れたチャットアプリのやり取りがあった。


「これ、黒江さんとの会話履歴じゃないか! 俺のじゃないぞ!」


「でも、このゴチャゴチャとした言い回し、どう考えても先生のだよね。きちんとカギガッコ付きで、先生が喋ったこととして書いてあるし。打って送ったのは黒江さんだけど、言ったのは明らかに先生だよね」


私は混乱した脳細胞を振り絞って、メッセージに記載された日時のことを思い出す。


えーと――昨日じゃん。それも夜、寝るちょっと前じゃん。


そういや、言った覚えがあるような無いような――いや、あるのだけれど、あまり認めたくないような――


「黒江さん」


考えあぐねた挙句、すがるような表情を浮かべて、


「ボイスレコーダーじゃないんだから、何もここまで丁寧に伝えなくても――」


「お褒めに預かり恐縮です」


ぺこりとお辞儀する黒江さん。


いや、褒めてない。


常に黒江さんの無欠の有能さにひれ伏さんばかりの私も、流石にこの時ばかりはチョッピリ殺意が沸いた。チョッピリ。


「ほうらね」


こっちはこっちで、殺意を瞬時にマックスまで押し上げるような得意ヅラ。


私は癇癪玉を破裂させた。


「何が『ほうらね』だ! 冗談とか言葉の綾とか幻聴とか、いくらでもあるだろう!」


「幻聴、あるの?」


心配そうな表情を浮かべるモモ。


いや、それこそ言葉の綾だから。ほら、黒江さんも可愛らしく小首を傾げない。


「とにかく、だ。そんないきなり何の説明もなしにやってきて、『しばらくよろしくね』もへったくれもあったモンじゃないんだよ。俺がお縄に付くか、その前に俺の手がお前の首に掛かるかの二つの一つしかないんだから。双方の身の安全のためにも帰ってくれ――いや、帰ってください」


どんどんトーンダウンして、終いには懇願するような口調になる私。竜頭蛇尾という四字熟語の輝ける見本。男は皆、女という生物にとにかく弱い。無論、その弱さにも色々あるが。


「でもさ」


モモもそんな情けない大人の姿を見て、態度を柔和させて、包容力のあるおふくろさんのような調子で言った。


「確かに、いきなり押しかけてきて迷惑だとは判ってるけど、『何の説明もなしに』って言うのだけは違うよ。説明はする気だし、したいよ。それには先生――まず、私の話を聞いてくれないと。別にだから必ず泊めろ、とは言わないもん。だって、ここは先生の家なんだから――拒否権は先生にあるし、私もそれに従うよ。だからお願い――私の話を聞いて」


殊勝な態度で頭をペコリと下げるモモに、私も困り果てて黒江さんの方をチラリと見た。ムゥ、こいつ、普段はアホ丸出しのクセに、こういう時だけ妙に理屈っぽくなりやがる――


黒江さん観念したかのように肩をすくめ(こういうときだけ行動がバタ臭い)、


「私は複雑な立場なんですよ。モモちゃんの相談に乗ってきた身として、彼女の力になってあげたいという気持ちが強い反面、先生の言い分もよく判るんですから。元はと言えば、先生の承諾もなしにお言葉を一字一句伝えてしまった私に責任がある訳ですけれど――お願いです、人情家を常日頃自負される先生らしく、お話だけでも聞いてあげてはくれませんか?」


卑怯だ。そこで普段の私の言動に結び付ける辺りが如才ない。私は黒江さんのそんなところを大いに気に入っている反面、最も恐ろしいと感じていた。


私は中毒者の鑑らしく、神経質そうな挙動で煙草を一本取り出すと、震える指先で吸い付けた。紫煙が不穏な軌跡をもって立ち上るのを見届けると、私はドアが軋むような耳障りな声で、低く言った。


「いいだろう。聞く分にはタダだ。その後のことに関しては、まったく保証しないがね」


モモの顔に梅雨の晴れ間の太陽のような光が射した。そして、その年頃のぱっとしない女の子らしい取り留めのない言葉が、堰を切ったように流れ出てくる。


「ちょっと前にね、学校で三者面談もあったの。うちの学校結構厳しいから、親と二人三脚で生徒の行動を全部把握しようってところがあるの。ほら、今高二じゃん? そろそろ、どんなに遅くてももう進路を決めとけって感じでさ。話題はもっぱらそのことなの。担任が訊くんだよ――決まってる子に対しては『ナニナニさんはどこそこへのご進学を希望なんですね』で、決まってない子に対しては、ちょっぴり困った風に『お子さんは、どちらへのご進学をご希望なんですか』ってね。進学するってことが確定事項みたいにさ。高校卒業したからって、大学へ行かない子だっているかもしれないのに」


私は頷いた。


モモの通う高校は、古都鎌倉のおハイソな固定観念に肖った、『清く正しく美しく』をプロパガンダのように宣うお嬢様学校である。男子禁制の女の城。音楽という女性が圧倒的多数の畑に進んだ私からすると、『女だらけ』と『清く正しく美しく』ってのはそれこそ水と油の、決して共存できぬ要素である。


男子校然り女子高然り、異性の目が希薄な環境というのは、気楽さと引き換えにデリカシーを欠落させる。フランス時代の中高大と一貫して女子校に通った知り合い曰く、夏場は大股を開いて椅子に座り、下敷きで股座を仰ぎながら、無造作にほったらかされたジャージの腐ったような臭いで窒息死しそうになるのが風物詩であるらしい。もう少し品が良いと、早々と外の世界に目を向け、校外の異性を物色しながら陰湿極まりない井戸端会議の予行演習をする。女に幻想を抱いている男子校育ちを篭絡するための手練手管を、学校ぐるみで教え込み、きちんと尻に敷くための花嫁修業――男よりも男らしくガサツになるか、暗く淀んだ女性性を助長させるか、どうやら二者択一であるというのが私の窺い知ったことである。


どうやらモモの学校は、そこはさすが鎌倉。ドロドロとした人間性を、〈船月庵〉の練り羊羹のように、綺麗に流し固める方向性らしい。『ご進学』は絶対。こうして卒業生の品質管理が行われているのである。


「でも今の時代、金さえ積めば猫も杓子も大学で学士号が取れる世の中だぜ? 大学入って、社会人になるまでの息抜きだかガス抜きだかと称して、合コンやら飲み会やらサークル活動やらに明け暮れる。親の金をジャブジャブと使って、足りない遊行費はバイトで賄う。それが今の日本のスタンダードだ。おまえンとこ、ただでさえ私学で学費高そうなんだから、進学が確定ってのはそれこそ普通じゃないの。是非は別として」


私はなるべく客観的にそう言ったものの、そのトーンにはどこか皮肉で風刺的な匂いが付き纏う。お前らはそうかもしれないが、俺は違う。俺は、お前らとは違う。


私とて、最初からこの自営業だか自由業だか、社会の環からほっぽり出された一匹狼家業を志した訳ではない。『ブロイラーのような新卒集団』の一員として、企業面接に名を連ねたこともある。だからこそ、その形成された鶏肉相手に無自覚の内に嫌悪感を抱いたとしても不思議ではない。


モモは、私のそんな面まで知ってか知らずか、弱々しさと諦めの中に頑固さを秘めた面持ちで頷いた。


「うん、それは判ってる――今の日本が、手に職を付けた専門学校卒や高卒より、長く学生として遊んでいた人間を高く評価するところがあるのは知ってる。勿論、建前は違うけれど。でも、それが良いか悪いかなんて判らない。けれど、親や周りの人間が、寄ってたかって本人の意向を無視して、自分たちの型に嵌めようとするのは――絶対にチガうと思う」


チガう。


正しい、間違っているではない、善悪の両極性から飛び出たところにある『チガう』。


言うなれば違和感。酔い潰れた次の朝、痛む頭をさすりながら目にする冷蔵庫に時々あるアレ。夕方、もう一回よく見てみると、なぜか歯磨き粉が入ってた。


その漠然としたモヤモヤに、『絶対』という単語が付くのも、また不安定ながらエネルギッシュである思春期の為せる業だろうか。


黒江さんが、膝丈の長いスカートの上で握られたモモの小さな拳を包み込みながら言う。柳の枝先のように華奢ながらも長くしっかりとした指は、演奏家の指だった。


「つまり、さっきの質問に対して、お母さまが代わりに答えてしまったという訳ですね? そして担任の先生もそれに納得して、モモちゃんの話が、モモちゃんの目の前で、モモちゃんと関係なく進んでしまった――それが、『チガう』と思っている原因なのね?」


臍を嚙み、小さく無言で首を縦に振る。


私は耳の後ろを軽く掻きながら、問い掛ける。


「で? 土安ママはそれでなんと答えたんだ? お前を、いったいどんなレールに乗せようって言うんだ?」


モモは、モゾモゾと動きながら口籠った。


「――けいし」


「ア? 聞こえなかった」


もうちょっとハッキリ言ってくれ。如何に音楽を生業にしていようと、人類の理に外れることなくきちんと聴力は衰退していく一方なんだから。


「だから、お父さんの――いけいし」


「よし判った。次もう一回ゴニョゴニョとよく判らないこと言ったら、その尻っぺた蹴っ飛ばして追い返す」


その言葉にモモはキッと表情を変えて、母親譲りのキンキンするヒステリカルな声を張り上げた。


「だから、お父さんの事務所を継ぐために公認会計士になる、って言ったの! お母さんが! 勝手に!」


私は、今しがた自分が耳にした内容を理解できずに、口をパクパクとさせた。


は?


なんですと?


コーニンカイケーシ?


だれが?


そんな私の面白い姿を見て居た堪れなくなったのか、黒江さんがそっと耳打ちする。


「ご存じなかったんですか? モモちゃんのお父さん、北鎌倉に事務所を構える公認会計士さんなんですよ」


いや、それは知っている。


あのオバサンは、自分の娘の心配事と同じくらい亭主の自慢話が大好きなのだ。蚊の鳴き声がどんなものかを思い起こせるぐらいには、しっかりと覚えている。


だけどねえ――モモが、土安萌々香が公認会計士って!


「馬鹿も休み休み言えよ。いや、お前じゃなくって、お前のおふくろさんがだな――四分の四拍子の中に、八分音符の三連符がいくつ入るかもあやふやな娘を公認会計士にだって? 戦士を日英の同時通訳としてアメリカの大統領の下に派遣しろっていうぐらい無理な話だろ」


「戦士って、だれ」


「ええい、いなくても話がややっこしくなる――そんなことはどうでもいいんだ。お前を否定する気は毛頭ないが、海の魚に川の魚、人には得手不得手ってモンがあるんだ。お前と数字なんて、それこそ一番混ぜちゃいけない代物だろう。現実を見て考え直すんだ、世のため――いや、自分自身のためにも」


「だから、私の意志じゃないって。お母さんが勝手に言ってるんだよ」


そう膨れっ面で返すモモに、私はいよいよ居た堪れない気持ちになった。


女性ってものは、子供を産んだときにイカの腸を引きずり出すように知性を失い、その衝動的な熱意は子供の成人前にピークを迎えると思う。それは自然の摂理で、男の、それも子供を持たぬ自分に鼻で嗤う資格がないのは重々承知だが、人間ここまで現実を見失うものだろうか。人間は考える葦であるという格言の通り、常に状況を鑑みて効率的な解決法を模索する使命がヒトには課せられている。それを無視して猪突猛進に生き急ぐことは、家に入りたいからって庭先の塀に頭突きを繰り返すのと一緒で、時間と体力の浪費に他ならない。そもそも、人生の目的地なんて一つではありゃしないのだ。それを、本人の資質や意向を無視して押し付ける行為は、関わる者みんなを不幸にする。


モモによれば、それからというもの、土安母は毎日のように公認会計士になる心構え、人々に尊敬され役立つ職業の美徳を説くようになったらしい。前々からその兆しは充分にあったものの、公にそれを明示したことで、一層の熱意としつこさを増した。


聞けば聞くほど、こちらまでどんよりとした気持ちになる。そして、私のようなチャランポランな仕事に就くことを快諾とまでは行かないが許容してくれた両親に、密かに強い感謝の念を覚えた。口が裂けても、面と向かっては言えないけれども。


「そりゃあお気の毒に。大体想像付いたよ。俺も、お前の母さんとは昨日今日の付き合いじゃないし。で、親父さんはなんて言っているんだ? 一度も会ったことはないが、プロならプロの観点で、自分の娘にその素養があるかないかぐらいは判るだろう?」


「お父さん? お父さんは知らないんじゃないかな――子供を含め、家のことはほとんどお母さんに任せっきりの人だし。数字と自分の趣味以外には無関心なタイプ」


うわ、役に立たねェ。


自分が腹を痛めて産まない所為か、男ってのは気楽なものである。尤もそれも人によりけりで、うちの親父は実の母親以上に母性本能というか干渉癖の塊のような人だから、その限りではない。雄鶏というよりは雌鶏のようで、四六時中夢見がちで偏屈な息子を気に掛け、その都度私を疲弊させた。


でも、その説明のお陰で、土安家の構図が大体判った。パパさん、絶対自分の代わりに全部喋ってくれるママさんに、楽さと安心感を覚えて惚れたな。


「つまりはカカア天下、ママさんによる独裁政権か。そりゃクーデターの条件が揃ってるわけだ」


理系のみならず、文系科目もパッとしないモモが小首を傾げる。


「クーデター? あの宇宙人と戦うヤツ?」


「それはプレデターで、どっちかっつうとお前の母ちゃんだ。で? そのヤアヤアうるさいのが続いて、我慢できなくなって飛び出してきた、と?」


しかし、モモは首を横に振った。


「違うの。その程度だったら、今までずっとお母さんの娘として育ってきたんだもん、家出なんてしないよ。ああメンドくさいなあ、ウルサいなあ、と思って諦めるだけ。でも昨日は行き過ぎだった。塾から帰ってみると、部屋の様子が違うって、すぐに気付いたの。ガランとしていた。妙に片付いていて、朝と景色が違う――」


まさか。


私は嫌な予感がして、固唾を呑んだ。


もし私の予想通りだとしたら、これは世の母親が子供に対して行う、法の許容範囲内では最悪級のテロ行為。誰しも一度は経験ないしは想像したことがあり、トラウマとして魂に刻み込まれる。痔で肛門科の診療台に横たわるのに匹敵する屈辱――


「お母さん、家探ししてたの。私がいない間に。それだけじゃない――捨ててたの。勝手に、何の断りもなく。私の大切にしてたもの――『勉強に必要ない』ってお母さんが判断したもの、全部」


やっぱり。


無駄に倒置法が多いのが気になるが、それだけモモの言葉には悲壮な真剣みがある。


それにしても、エゲツないことするなあ、あのクソババア。相手によっては刃傷沙汰も已む無しだ。


私も黒江さんも絶句していたが、ようやく声を取り戻した私が、ゆっくりと尋ねる。


「勿論、怒ったんだろうな」


「モチロン」


モモは即答した。


「でも、お母さんは自分がやったことは全部私の為、間違っているなんてこれっぽちも思ってないから、何を言ってもムダだった。理由を問い質すと、なんて言ったと思う? 『成績が下がっていたんだから、仕方ないでしょう?』だって。私の担任ね、数学教師なの。三者面談の時に、きちんと中間試験の結果が良くなかったことも言ってた。私を公認会計士するって聞かないお母さんには、数学の成績が良くなかったことが、よっぽどガマンならなかったみたい」


どんどん消え入りそうな声になって行くモモに、私は初めて心の底から憐れみを感じた。今まで私にとって土安母は、頭がイカレてると思っている反面、モモには悪いがどこか面白おかしい漫画の世界の住人だった。対岸の火事と言うべきか、私自身はあの耳にタコができるうっとくるしい長話の他に、何ら被害を被っていなかったからだ。けれど、ここまで差し迫った状況を聞かされたら訳が違う。


義憤。お節介と言われればそれまでだが、喧嘩っ早い私の導火線に火を点けるには充分過ぎるネタだった。


肝心のモモは、努めて明るく言った。


「だから、私はしばらく家出することにしたの。お母さんに、自分がしたことの意味を判ってもらうために。私も、お母さんの敷く公認会計士のレール以外の将来を探すために。学校も行く、習い事も行く――でも家にはしばらく帰らない」


ピンク色のスーツケースをポンポンと軽く叩くモモ。あたかも、その中に夢が沢山詰まっているとでもいう風に。けれどその肩は、巣から転がり落ちた雛鳥のようにか弱く、淋しさに震えていた。意志的な口元のライン一つで、自らを奮い立たせている。


「でも、どうしてうちなんですか?」


黒江さんが優しく問うた。


「普通、お友達の家に転がりこむものなのではないんですか? どうして、習い事の先であるうちに?」


「だって、うちの学校に通っているような生徒に、そんなことを頼めそうなお家の子はいないもの。それに先生や黒江さんなら、判ってくれそうな気がしたから、なんとなく――」


私はじっと考えていた。


その言葉に嘘偽りはなく、媚やへつらいさえ感じなかった。ニュアンスに一喜一憂する私の音楽家としての威信に賭けて、それはモモの本心だった。『なんとなく』というあやふやなフレーズも、理屈を超越したところにある直感の信奉者からすると、充分説得力がある。


鉄は熱いうちに打てと言うが、溶鉱炉の中に放り込んだままでは打つものも打てない。ドロドロに溶けた不格好のまま、悪戯に時間だけが過ぎて行く。若いうちの時間の重みは、年を取ってからのそれとは訳が違う。小学生の頃、四十日間という夏休みが限りなく長いものに感じられ、そして一生の想い出として一個人に寄り添うように、モモにとって今の状況は無限の灼熱地獄に等しい。要は時が解決する問題ではあるのだが、土安家には冷却を促すラジエーターが欠如しているのだ。


『家出』――一歩間違えれば短絡的極まりない発想にも捉われられないそれだが、私は現実逃避とは違う何かをモモの言葉に見出していた。前向きだからこその非行。建設的だからこその寄り道。モモには家族をないがしろにする気は毛頭なく、学校にも稽古場にも通い続けると言う。はてさて、今までこんなに現実的で家族想いな家出があっただろうか。


ただなあ、世間がなあ。


理不尽に女性に甘く、理不尽に子供に甘いご時世だからなあ。女子高生なんてそれこそ理不尽二乗。どんな理由があったとして、同じ屋根の下で寝泊まりなんぞした暁には、『淫行先生』とかいう不名誉極まりない呼称を週刊誌に付けられた挙句、未来永劫この大船の地で後ろ指をさされ続けるのが目に見えているからなあ。


煮え切らない私に、黒江さんが見透かしたかのように言う。


「たしかに、平先生はモモちゃんのピアノの先生であり、異性の――おじさんです。でもこの家には私もいます。モモちゃんと私は、普段からこうしてチャットや面と向かってお話して、交友を育んでいます。それに、私は体裁を取り繕う以上に、モモちゃんのことを一人の人間として、『お友達』としてお付き合いしてきた心算でいます。ですから、万が一家出のことが外部にばれたとしても、私の一存で招き入れたと言うことにはできないでしょうか。もしモモちゃんが、私の『お友達』を名乗るのが嫌ではなければ、ですけれど」


ちょっぴり不安そう(演技なのか本心なのかは定かではない。彼女は聡明でしたたかなのだ)な様子の黒江さんに、モモは慌てて声を張り上げる。


「そんなことないよ! 私は黒江さんのこと大好きだし、友達だと思ってるよ!」


ほんのり頬を染めて確かめ合う二人に、私は背徳的な小恥ずかしさを覚えながらも――よし、ようやく腹が決まった。


「よし、判った」


私がそう言うと、辺りは水を打ったような静けさに包まれる。モモは合否を確認する受験生のような面持ちで、黒江さんはなるべく無表情を取り繕って私の顔を見ている。


顎関節症で軋む顎を鳴らし、私はそっと咳きを一つ挟む。




そして、判決を言い渡す判事のような厳かな口調でこう言った。


「黒江さん、警察に電話」




絶望的な表情になり、サーッと血の気が引いて行くモモ。


けれど、黒江さんは微動だにしない。


部屋に置いた子機を手に取り、極めて事務的な口調で訊く。


「番号は、どこにお繋しましょう」


「そりゃあ、一一〇番だろう――って言いたいところだがね」


私はニヤリと口の端を歪めて言った。



「駅前の交番の――そうだな、室井緑巡査部長をお願いしようか。ひとまず、うちに来るよう言ってくれ。黒江さん直々のお願いとあれば、大抵の無理は通るだろうから」



「かしこまりました」


そう言ってサッと廊下に消えて行く黒江さんと、取り残されたモモ。まったく状況が呑み込めず、大きな眼をキョロキョロクルクルさせている。


「いったい、どういう――」


「まあ見てろって」


私は人差し指を立ててモモを制しながら、悪戯っぽくウィンクした。



「これから、かなり面白いものが見られっから。かなり、ね」


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