東京駅。駅弁と外人と、いざ大船。



日曜日すっ飛ばして月曜日。


この日はいつも朝から大遠征で、外国語学校に出向いての語学及び実技のサポート、三歳にして外国語とピアノ漬けにさせられる哀れなチビのおもり、午後は中日外国人の子女にレッスンがてら日本語を教えると、都内を縦横無尽に駆け回りながら何でも屋的激務をこなす曜日だった。黒江さんも黒江さんとて、ヴァイオリンやらチェロやらを教えて回っているので、大船の教室がガランと物寂しい日でもあった。


夜七時半過ぎ。


銀座で最後の授業を終え、ようやく東京駅に這い出てきた私は、おもむろに携帯電話を取り出す。


そこには、朝の満員電車で人の波に呑まれながら黒江さんに書き綴った、一方的な魂の叫びが鮮明に記されていた。


『今、戸塚』


『どんどん人増えてきた』


『横浜。降りた人数よりも乗って来た人数の方が多いんだけど』


『武蔵小杉。人多すぎ。身動き取れない』


『たたたた多摩川越えちゃううううう。やだああああ、お家帰りたいいいい』


『……大崎。観念して行ってまいります』


この間、黒江さんの既読は付けど、返信は無し。


そして、渋谷に着く段になると私の携帯はブルルッと震え、『行ってらっしゃい。お気を付けて。』と黒江さんの丁寧な句点付きのメッセージが届くのも、いつものことである。


――それにしても、多摩川が近付くに連れて動悸がドキドキ、息切れハアハアする病に労災は降りないのだろうか。


我ながら情けない文面だなぁ――とウンザリしながら、アドレス帳を開く。『黒江さん』は『よく使う項目』のトップにある。


呼び出し音は二回半鳴っただけで、すぐに落ち着いた声音がスピーカーから聴こえてきた。私は帰宅途中の会社員の雑踏に掻き消されまいと、必死に声を張り上げた。


「あーモシモシ、黒江さん? うん、今終わったところ――エ、なんだって? ああ、うん、今は東京駅――エ、どこだって? だから東京駅だって。『東京駅のどこ』かって――そりゃ東海道線に乗るんだから、八重洲口に一番近いホームに上がる階段の前で――エ、『すぐに会いましょう』? だから今、東京駅だって――あ、切れちゃった。ヘンなの」


半ば戸惑いを感じつつも、電光掲示板で発着を確認する私。


えーと、チッ、次、品川止まりかよ。根岸線磯子行きに匹敵するガッカリ電車である。


そんな時、不意にポンと肩を叩かれ、思わず身構える。さあどんな悪漢か、それともチンピラかと思って振り返ると――そこには大きなチェロケースを赤子のようにおぶった、時代錯誤もはなはだしい和服の女がいた。


「黒江さん!」


私はまるで亡霊でも見るような目付きで、パチパチと瞬かせながら叫んだ。


そんな私の内心を見て取ってか、微かに頬を綻ばせる。


「はい、私ですよ。念の為に言っておきますと、幽霊でも残像でもありませんから、悪しからず」


「いや、まさか生身の黒江さんと、こんなところで出会えるとは思ってもみなかったよ。一体、なんでまた? 今日は精々横浜辺りまでじゃなかったのかい?」


「今日は特別ですよ。ちょっと溜池山王の方まで出る用事がありまして――少し面白そうだから、黙って待ち伏せしてみようかと」


ほんのりと頬を赤らめる黒江さん。黒江さんは我が家の空き部屋に間借りしているとはいえ(勿論鍵付き)、スケジュールの擦れ違いからか、二人揃って外に出掛けるということは殆どあり得なかった。月に一度程、大船の駅ビルに入っているレストランで夕食を摂る程度だった。夏もいよいよ始まりという時である。なんぼ着慣れているとは言え、その大荷物でその格好は、この人混みの中では蒸し暑かろう。


「折角こうして会えたんだし、家帰ってから作るんじゃ遅くなり過ぎるし――久々に外で食うか? ここの地下街、結構色々あるらしい」


「是非、と言いたいところですけれど――生憎、先生も改札を通ってしまった訳ですし」


私は改札口から土石流のように流れ込むスーツの群れをどんよりと見て、


「あー……確かにあれを掻い潜って外に出るのも億劫だな」


何か他に名案は無いかと辺りをキョロキョロ見回すと、階段脇の売店が目に留まった。


「あ、アレにしようぜ」


最近は駅ナカも随分と発展して、ちょっとしたデパートの様相を呈している。中でもその駅弁屋は、北は北海道から南は鹿児島までを謳っており、テレビの特集でも褒め称えられていた覚えがある。


私が黒江さんの袖を引き引き向かうと、確かに評判に違わぬ品揃えの豊富さだった。


「富山の鱒寿司もいいな、奥羽の鳥飯もいいな。神戸牛のすき焼き弁当も、この幕の内弁当も捨てがたいし――」


山のようなご当地の味に囲まれ、決めるに決められない私。慣れ親しみ過ぎた横浜名物シウマイ弁当以外は、どれも好奇心と食欲をそそられる。いや、シウマイ美味しいんだけどね。


そんな時は賢人の教えを仰ぐに限る。


「ねえ、黒江さん」


と振り返って見たらば、そこにはもう早々と奈良県名物・柿の葉寿司を大事そうに抱えた黒江さんが立っていた。


ちょっと呆れたように眉根に皺を寄せ、


「パッと決めたら宜しいじゃありませんか。洋服とか靴とかの買い物は驚くほど速いのに、食べ物となるととことん悩み抜く人ですねぇ」


「食い物に好き嫌いはあまり無いからな。『好き』か『大好き』しか無いと、それはそれで選びにくいものなのさ」


「人とか土地の好き嫌いは激しいんですのにね」


そんなことないと思うけどなあ。俺、博愛主義者だけどなあ。


結局、列車の中で食うには些か釜がゴツ過ぎる釜飯に決めた私は、黒江さんの分も預かって、外で待っていて貰うことにした。


駅弁を少し豪華な惣菜代わりに買って行く人は多いらしく、レジ前は夜とは思えない長蛇の列だった。前のオッサンのビジネス鞄が向う脛に思いっ切り刺さった上に、釣銭を如何に少なくしようかともたついてくれた所為で、私の彼への好感度は見る見るうちに下がって行った。まあ別に上がっても、何の得にもならんけどさ。


さあて、ようやく私の番――という時。


別の店員が『出来立て、出来立て』と、連呼して持ってきた牛スジ弁当の美味そうな香りが鼻孔をくすぐった。どうやら店の裏手には調理場もあるらしく、東京駅名物の駅弁がここで作られている。本来はこれから新幹線に乗って、地方へ向かう人達の為のものなのだろうけれど――


「兄ちゃん、これも追加」


「まいどあり!」


食欲に勝る誘惑無し。


私は綺麗に小銭入れまで浚って、一円のお釣りも出さずに、無事三人前の弁当を持って店を出た。


予想外に嵩張ったビニール袋を見て、黒江さんが心配そうに言う。


「結構、買いましたねぇ。お金、足りましたか?」


「ん? まあ確かに駅弁って、平気で普通の弁当の二倍ぐらいの値段するけどさ。大丈夫、財布にまだ三桁前半はある」


「……そうですか――って、ん? 先生、ちゃんと改札前にカードの残金チェックしましたか?」


「そりゃあきちんと……あ」


さっき改札にかざした時に表示された金額を思い出して、口を噤む私。


黒江さんは、そんな無様な私を呆れた面持ちで見つめながら、帯から財布を取り出した。


「はい、千円。本当に、そのカツカツの状態で遠出するその癖、なんとかした方が宜しいかと――」


「面目無い……」


黒江さんが来て一年。


教室の経理のみならず、我が家の金庫番の役目も押し付けられた黒江さんには、全く面倒の掛けっぱなしである。ヨーロッパの地方都市に暮らし、どこへ行くにも徒歩と自転車で事足りていた私には、未だに余分のお金を持って行動するという習慣が無いのだ。




弁当三つに自分の仕事鞄、それに加え黒江さんの荷物も少々引き受けた私がホームへ上がると、案の定そこには熱海行きの電車を待つ人でごった返していた。電車に乗る時は、降車駅の階段に近い号車を選ぶのがポリシー。


というわけで、後部車両目指して進む進む。紳士の国イギリスで教育を受けたこともある私は、チェロの所為でまるでヘラクレスオオカブトのようになってしまっている黒江さんが引っ掛かっていないか、きちんと後ろを確かめることも忘れない。


さあ、この狭くなった箇所を越えたら目的の位置だ――と言うその時。


不意に円柱の陰から跳び出してきた人影にぶつかり、私は線路に転がり落ちる寸前というところで踏みとどまった。


「っぶねェなァ――」


反射的に攻撃的になった視線の先には、ギロッと神経質そうに眼を剥いた、浅黒いというよりは黒かりん糖のような男の顔があった。


「ソ、ソーリー」


甲高い声を上げる男。けれどすぐさま一層引き攣った、パニック的な形相になって、


「ゴゴゴ、ゴメンナサイッ!」


と、カタコトの日本語でしどろもどろになりながら、ペコペコした。


いや、そんなにキツツキみたいに謝らんでも。別に煮も焼きも殺しもしないのに。


――ん? 『ソーリー』って言ったな。外人さんか――まあどっからどう見ても東南アジア人だけれど。


私は欧米的に手を軽く振りながら、英語で返した(以下日本語訳)。


「いや、そんなに気にすんなって。こっちも前方不注意だったんだからさ――いや、本当だって、顔を上げてくれ」


ようやくおずおずと、その怯えきった顔を上げる男。薄汚れた水色の作業着を着ていて、あちらこちらに黒い煤の跡が残っている。こうも真っ黒だと、顔色の善し悪しはそう簡単に判らないものなのだが、男の顔色は見るからに不健康だった。体も痩せこけ、青銅のような肌には血の気というものがまるで無く、そげた顔の肉に頬骨ばかりがやたら張り出して見えた。


それよりも私の眼を惹いたのは――その眼だった。肌との対比で怖ろしく真っ白に見えるその眼球には、対象の無い恐怖の色が浮かんでいた。家庭内暴力を受ける子供、殴られ慣れた犬と同様の、弱者が抱く社会全体への漠然とした鬱憤が溜まっていた。


「え、英語、話せるんですか?」


驚き半分怯え半分に言う男。


それに対し、私は、


「そりゃ英語ぐらい話せたって、罰は当たらんだろう? ってか、いつまでそのへっぴり腰の上目使いで、こっちを見てるんだって。止めてくれよ、苛めてるみたいだろうが」


事実、いまいち状況を把握できていない周りの客が、無関心を装った野次馬根性でこちらをチラチラ見ていた。日本文化とメンタリティをこよなく愛する人間とは言え、どうにもこの都会特有の反応は慣れない。


男は竦んだように飛び上がって、「あ、ごめんなさい」とまた謝りかけるのをギリギリのところで思い留まった。


ようやく黒江さんも追い付いたらしく、湿気と熱気にやられたのかうっすらと額に汗が浮かんでいる。懐からハンカチを取り出して拭いながら、キョトンとした表情で言った。


「どうされたんですか、こんな狭いところで――あら、お友達ですか?」


「いや、初対面だ。どちらかと言うと古い時代の少女漫画みたいな出会い方はしたがね――ああそうだ(ここから英語に切り替わって)、英語で話した方が要らん混乱を免れそうだから、ちょっとの間、頼む」


少し驚いたような顔をした黒江さんだったが、すぐに流暢な、微かに鼻音がかった訛りの英語になって、


「お安い御用ですけれど――もう少し、向こうに行きません? 品川止まりの電車に撥ねられますよ」


それもそうだ。


聞けばこの男も、次の電車はやり過ごすとのことなので、この奇妙な取り合わせの三人は連れ立ってホームの階段裏の開けたスペースに移動した。


口火を切ったのは私だった。


「まあこれも何かの縁だ。ちょっと我慢して幾つか質問に付き合ってもらうよ――何はともあれ、まずは自己紹介だな。俺は平ミノル。こっちは黒江さん――まあ、この黒江さんが背負ってる荷物を見れば概ね察しは付くと思うが、大船で音楽教室を営んでる」


「ングラ・ウィラトマジャ、です。インドネシア人、です。工場で働いてます。ボクも、オオフナに住んでます」


うん、日本語よりは大分マシだけれど、英語も訛りが強いし固いね。


それにしても、今の人の名前なの? 新手の呪文かと思った。

 私は舌を噛みそうになりつつ言った。


「で、その――ング――ングラ君」


「『戦士』でいいです。『ングラ』は、インドネシア独立戦争の英雄『ングラライ』の一部から来てるんです。先祖は中国系でしたから、『ウィラトマジャ』も『黄』って苗字を変形させたモノなんです。一応、『黄戦士』って名前も使ってます」


あー、やっぱそっちの人だったのね。そういやバリ島の空港がそんな名前だった。世界史は文化史の延長で結構明るい心算だったが、インドネシア史となるとまるで知識が無い。


というか、もっと言い易い名前があるんだったら、最初から言ってくれ。


「じゃあ戦士。単刀直入に訊こう。お前は――日本が好きか?」


「はい」


戦士は即答した。けれど、その後の台詞はどこか歯切れが悪い。


「ニッポンは、裕福な国です。ボクが、故郷で幾ら働いても稼げないような額を、稼がせてくれます。ニッポンのお陰で、家族は暮らしていけます」


「うん、で、それを感謝しているという訳だな? でも質問に対する答えの理由にはなってないな。俺にはどうしても、お前が必死こいて『好きだ』と自分を言い聞かせられる理由を、後付で引っ付けたように思える。もっと簡単な質問なんだよ――そうだな、質問を変えよう。戦士、お前は今、日本に暮らしていて『ハッピー』か?」


反射的に頷こうとした戦士だったが、じっと眼鏡越しに探るような視線を投げ掛け続ける私の前に、ついに観念した。


彼は消え入りそうな声で、ボソリと言った。


「……いいえ」


私はポンと手を叩き、横っちょの不思議そうな顔をしている黒江さんに向き直った。


「やっぱりな、俺の思った通りだ! なあに、大したことじゃない。まず、この戦士君はどこからどう見ても、今の生活に満足しているツラをしていない。大恐慌のウォールストリートも真っ青な、怖ろしく沈んだ表情をしていた。単なるホームシックもあるだろうが、それ以上に俺は、彼が異常な勢いで平謝りしてきたことに引っ掛かった。まず反射的に『ソーリー』と英語で言った後に、俺が日本人だと気付くや否や必死に日本語で謝ろうとした。現地の人間に対する配慮と言うには、有り余る逼迫感を感じたね。となれば辿り着ける結論はただ一つ。彼は今、この日本において必要以上に肩身の狭い思いをして、アンハッピーだと言うことさ。職場で苛められているとか、そう言うことだと踏んでいるがね」


意気揚々と推理を語る私を、黒江さんはまるで珍獣でも見るような目付きで見ていた。


「よくもまあ、そんなズケズケと――戦士さん、どうなんです? この先生、ちょっと単純で調子に乗り易いところがありますから、もし間違っているようでしたら、どうぞ遠慮無くおっしゃってくださいね」


黒江さん? あなたいつから、そんな私に対して最も効果的な切り込み方まで心得なさったの? その学習能力の高さ、近い将来に必ずや大きな脅威となって私の前に立ちはだかる気がしてきた。


恐る恐る戦士の方を見やると、吃驚したことに――その眼には驚きと、それにも増して明るい喜びの兆しが爛々と輝いていた。巨大な目玉は、今にも零れ落ちんばかりだ。


「……スゴいです」


「ん?」


「スゴいです。全部ピッタリ当て嵌まってます。見ず知らずの初対面なのに、ボクの現状をここまで言い当てるだなんて、ホントにスゴいです」


その声は徐々に声量を増し、今にも私の手を握ってブンブン振り回しかねない喜びようだったので、思わず手を引っ込めた。


でもいいぞ、もっと褒めて。私は叱られるより褒められて伸びるタイプなのだ。


私はたっぷりと満面の笑みを浮かべて、黒江さんの方を見た。


「勝った」


黒江さんは無表情に、


「なににです? それよりもほら、もうとっくに品川行きは出発して、熱海行きがホームに入ってきますよ。早く並ばないと、少なくとも横浜までは立ちっぱなしになりますよ」


私は血相を変えて叫んだ。



「そりゃあ大変だ! きちんと整列乗車して、七人掛けの隅っこの特等席を陣取るぞ。ほら戦士、お前も来るんだ。まだ話したいことがある――そうだ、随分身軽そうだからこの荷物一個持て。俺達の晩飯だからな、落っことしたらお前を線路に落っことすぞ。そして――いざ、大船!」




五キロ離れた地名になるだけで、諺は諺らしさを失う。その良い見本だった。




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