スナック永久。美女とジジイとむさい野郎。



翌日。


金曜日は、女子更衣室のような木曜日とはうってかわって、私の領域――男の園だった。


今時珍しいイガグリ頭の近所のガキ大将や、蒼白い顔に度の強い眼鏡を掛けたお坊ちゃま、ホストルックそのままなキラキラネーム(笑)のエレクトーン受講のマセガキ等が一堂に会す為、それは楽しい混沌の時間である。身体のパーツの数と年齢以外は、まったく共通点を見出せない連中を纏め上げるのは、ほぼほぼ不可能で――そりゃ世界から戦争が無くならないわけだ、と勝手な縮図を見ることで納得している。


リズム感もフレーズ感も著しく欠落した騒音に苛まされ(名誉の為に言っておくが、決して私の教え方が悪いから酷いのではない。改善した上で尚酷いのだ)、ようやく最後の一匹もとい一人を送り出した私は、続け様に数本ヨーロッパへの電話を入れると(イタリアでの講習会の真っ最中なのだが、イタリア人というのはおよそ規律面では期待できなかった)、どっと老け込んだ気持ちで食卓に着いた。


黒江さんの作る酢味噌も焼き魚もそれは絶品だったが、その日に限っては何かが足りない。何か、スッキリとするモノが足りないのだ。


そのことを告げると、黒江さんは慎ましくハンカチで口元を拭きながら言った。


「それは恐らく、今日が金曜日だからですよ。いくら『平音楽教室』が祝日を除けばほぼ年中無休でやっているとは言え、やはり働く殿方は金曜日の仕事後を特別な時間とする習性があるんですよ。行ってらっしゃいな、永久さんのところへ――お風呂は先に済ましておきますから。焦らず、ごゆっくり」



じゃあ、お言葉に甘えて。





永久とわさん。


この名は、大船商店街の面々によって十人十色のトーンで発せられるが、そのどれをとっても、一つとして一般的な人間の呼称として扱われることは無かった。


ある者は気恥ずかしそうに、ある者は人目を憚るように。


それは商店街の外れにある『スナック永久』に入る時も同様で、男性客は皆、家電の間を横切るゴキブリだったり巣穴を見張るプレイリードッグだったり、それぞれが異なる挙動不審さを披露するのが恒例行事となっている。


私?


私は、飽くまで堂々としている心算なのだが、しゃっちこばって木馬みたいだ、と心無い言葉に傷付いたことがある。


「こんばんは――邪魔するよ」


強張った顎関節をガクガク言わせながら戸を潜ると、ロココを基調とした和洋折衷の独特な店内のバーカウンターがあり、その向こうの神秘的な雰囲気を醸し出す造詣の行き届いた顔と目が合う。


彼女こそが店主の永久さんで、その国籍も年齢も超越した美貌は、何度見てもはっと息を呑ませる何かがある。黒と白銀の中間の錦糸のようなウェーブ掛かったセミロングの髪、茶色とグレーに緑色の光沢をも併せ持つ切れ長の眼――歴史、音楽、美術、どれを取っても膨大な百科事典のような知識を誇る彼女は、このバンカラな商店街の深淵なる秘宝で、芸術に馴染の無い人間にも美を意識させる。


別に彼女自身に妖艶だったり、淫靡だったりする点は一切無く、むしろ清廉潔癖そのものと言って良いような存在なのだが、哀れな世の男性は彼女に会いに行くことに一抹の背徳感を以って臨む定めにあった。


店内には、既に二人の客がいた。


一人は、鋸のような髪型をした、堅い樫の木を思わせる老人――倉内銀蔵。


そしてもう一人は、四角い人間と言うよりは、立方体に手足を引っ付けて人間としての体裁を整えたような大男――駅前の交番勤務の、室井むろいみどり巡査部長だった。


二人の間の空いている席に腰を下ろしながら、私は言った。


「永久さん、いつもの」


すると、澱みの無い動作でお通しの、なぜかブドウパン(この商店街のどのパン屋の品物でも無い特製の一品)と、江戸切子に入ったウィスキーの水割りが出てくる。両脇では、爺さんが焼酎、室井は顔に似合わずOLが好きそうなカルーアミルクを啜っている。浮世絵に天球儀にアフリカ土産が同時に並ぶ店内に負けじと、取り扱う酒類もごちゃ混ぜである。


幾度となく口にしてきた、ゲール語の『命の水』――春を濃縮させたかのような芳醇な香りが、妙薬となり五臓六腑に沁み渡る。まさに週末のエリクシール。気障な物言いを全部取っ払うと、ただ一言――ウマい。


最初に口を利いたのは室井だった。


「お疲れのようッスね、先生」


私はブドウパンを千切り、口に放り込んだ。


「そりゃあお互い様だよ。今日の生徒は揃いも揃って日光の猿山みたいな連中だったんだから。話の通じなささで言えば、おまえさんとこに来る、何をどこに置き忘れたか盗られたかすらも定かじゃない爺さん婆さんや、ポッケから品物覗かしといてまだ白を切る窃盗癖のオバチャンとどっこいだろう。まあなにが言いたいのかって言うと――今週も一週間、お疲れさん」


そう言って、グラスを突き出す私。室井もクリームパンのような大きな手でカルーアミルクを持ち上げ、コツンと小さな音を立てて乾杯した。


「あざッス」


図体と裏腹にボソボソと喋る室井に、私は言葉を継いだ。


「まあなんだ。忙しいって言えば、おまえさん最近とんとうちの教室に顔を見せないじゃないか。黒江さんも心配してたぞ? 想い人の元に足繁く通えないほど、警察官ってのは繁盛してるのか?」


ガタンと椅子を鳴らす室井。巨大な向う脛をカウンターにぶつけたらしく、グラスに波紋が広がった。


見れば見るほど面白い動揺を見せる室井に、私はニヤリと笑った。


「おいおい、ちょっとは自分の図体考えて驚けよ。ちょっと身じろいだだけで、店の壁が吹き飛んじまうんだから。それにそんなに驚くこともないだろう? ムサい大の男が別のムサい男のところに突然やって来て、『生活にゆとりが出てきたから、高校時代やっていた音楽の勉強を再開したい』ってそんな話、そう簡単に信じられるか? 全くのナンセンスだ。で、見回してみれば、そこに最近雇い入れたばかりの、まあ控えめに見ても相当な別嬪さんの若い従業員が居た。『これはもしかして』と思っていると、案の定うちに来る度に顔を真っ赤にして、こっちの胸が悪くなるほどドギマギとしてやがる。明らか過ぎんだろう――さもなきゃ、この俺に気があるってことだが、それだけは御免被る」


「自分は別にそんな――勿論、先生にもそんな気抱いちゃいないッスよ、気持ち悪い」


気持ち悪いとは失礼な。


これがこんな白物家電の怪物のような男に言われたんじゃなかったら、ショックの余り二三日寝込むところだった。


室井緑。


このなんとも可愛らしい名前の男は、色々な意味で外見と中身がバラバラで、前衛芸術的なアンバランスさの上に成り立っていた。


高校卒業と共に警察学校に入った所謂ノンキャリア組なのだが、地元ではそこそこの進学校に通っていた経歴を持つ。柔道の団体戦に学校代表で選ばれていたが、単に助っ人としてであって、当の本人は吹奏楽部に入っていた。チューバでも担いでいればお似合いだったのに、担当していた楽器はクラリネットで、身長百九十センチ、体重百二十キロから一トンの間の巨漢が吹く姿は、まるで紙パックのジュースをチューチューしているようにしか見えなかった。


学業も優秀だったらしく、その片鱗は今でも伺える――融通や独創性には乏しいが、そつ無くこなす、俗に言う優等生タイプである。


そんな彼が大学への進学をしなかったのは、偏にその性格に起因する。


とにかく気が小さいのだ。


コツコツと努力をし、普段の授業や練習では高いパフォーマンスを発揮するのに、ここ一番というときに限って失敗する。


具体的に言うと、センター試験の時に胃が痛くなり、意識が朦朧とし、脂汗をダラダラと流し、挙句にマークシートを全部一段ずらして埋める。柔道はと言うと、予選はなんとか持ち前の恵まれた体躯で相手をねじ伏せられるものの、本戦一回戦でいとも容易く脚を掬われ一本負けを喫する。吹奏楽でも、大勢の聴衆を前にすると必ず一番ミスってはいけない箇所で、一番面白い音を鳴らしてしまう。


そんな不器用な男には、幼少の頃から抱き続けていた信念があった。


それは『人の役に立つ仕事に就く』と言うことであり、更に『一日も早く』と言う条件付きだった。こと室井緑に関しては、働く前のモラトリアムとしての怠惰な学生生活や、体裁を取り繕うための浪人という発想は全く無かった。彼は自分の肉体的長所と精神的短所に鑑みて、警察官に天職を見出した。事実、それは正解だったように思う。


気が優しく力持ち、実直で正義感に溢れる――そんな室井は、この荒んだ世の中に於いて法の護り手の鑑に充分成り得る素質があった。


一応名誉の為に言っておくと、この男、意外なことに音楽的にも悪くはないのである。技術は大分錆付いてはいるものの、地道な練習の成果は失われていなかったし、純朴で涙もろい気質に裏付けされた感性も、童心的な持ち味がある。ただ、人前で演奏することは大変不得手で、それが黒江さんの大きな茶色の瞳の前となれば尚更だ。音は上擦る、汗は滝のように流れ、帆のように大きなシャツをぐっしょり濡らす――いや、今思い返しても中々滑稽だった。


さあ次はどう言って室井を苛めてやろう、と考えあぐねていると、反対隣りの銀蔵爺さんが「フン」と大きく鼻を鳴らした。


「若いな。そして甘い。そうやってニヤニヤしてられるのも今の内だ――女なんて、ロクなモンじゃない。女なんていない方が、男の生活はよっぽど平和に回る」


刺々しい語調に、一瞬辺りは水を打ったように静まり返った。銀蔵爺さんはカウンターに凭れ掛かり、虚ろな目でチビチビと焼酎を舐めていた。


やがて永久さんが、怒るでも無く諭すでも無い、独特の静かな口調で言った。


「あら、ご挨拶ですね。私も一応女なのですけれど」


私も愛想を顔いっぱいに浮かべて、銀蔵爺さんに向き直る。


「おいおい爺さん、永久さんの言う通りだ。あまり永久さんを苛めるなよ。もしここがなかったら、俺はどこでなにを見ながら酒を呑めば良いんだ? 野郎の面ばかり拝むのは嫌だよ?」


「ちげェよ。永久さん、アンタは結婚しちゃいないだろう? 儂だって、別嬪さんを肴に呑む酒は好きだ。儂が言ってンのは、家に入った女の事だよ。女なんてのは象と一緒だ――動物園で拝む分にはそりゃ楽しいし飽きないが、家で飼うモンじゃねェ」


風雨に折れた松さながらに、カウンターに凭れ掛かったままの姿勢で吐き捨てるように喋る銀蔵爺さんの背中は、怒りよりも悲哀の色が濃く浮かんでいた。まだ腰が痛むのだろう――最後に会った時はピンと伸びていた背筋が、ゴツゴツとしたカーブを描いている。


器用な気配り名人が黒江さんだとしたら、不器用側の横綱・室井がおずおずと口を挟む。


「どうされたんですか、倉内さん。奥さんと喧嘩でもなさいましたか?」


「いや、それは無い。爺さんのカミさんは、俺がここに戻って来る前の当の昔に墓ン中だ」


少々不遜な物言いに、爺さんはギロリと鋭い一瞥をくれたが、すぐにその視線はどんよりとしたものに戻っていった。


「ヨシ子の事じゃねェよ。アイツは良く出来た女房だった。魚売りっていう、朝も早けりゃ臭いも酷い商売だったが、アイツは嫌な顔一つ見せずにいつもニコニコと働いた。それでいて子供を三人もきちんと面倒見切ったんだから、大したモンだ。そりゃそうだろ、俺が惚れた女なんだから」


ご馳走さま。


――ん? となると、少し論調がおかしい。自分は良い女房を持ったのに、他人には結婚するな、と?


「いや、そうじゃねェよ――自分が選んだ女を自分の家に上げて、仮に上手く行かなかったとしてもそりゃ自己責任だろ。男なら男らしく、自分のケツは自分で拭けって話だろ? でも、幾ら手塩にかけて育てた息子と言えど、どんな女を嫁に連れて来るかまでは判ったモンじゃねェ。でさ、鰥夫にもなるとさ、自ずとそっちの赤の他人の方に頼らざるを得ない訳よ。息子もそりゃ、自分のカミさんの意見を尊重するのが当然だ。俺は――どんどん肩身が狭くなってくのが判る訳よ」


私はまあまあ、といなしながら言った。


「でも世間一般の、この核家族化が進む現代の日本において、お宅のお嫁さん(名前は未だに思い出せない――もしくは『八千円』)は良くやってる方じゃないの? 実家も嫁ぎ先も両方手伝ってるし、鬼嫁ってヤツでも無いだろう?」


「そんなコトァ重々承知だよっ」


爺さんは語気も荒く言った。普通の店主だったら顔の一つでも顰めるところだが、そこは永久さん、ポーカーフェイスを崩さない。


「でもよォ、俺は判るんだ。腰を痛めてからこっち、どんどん俺が一家の大黒柱じゃ無くなってきていることが。どんどん、足手纏いの邪魔モンになっていくことが。八千代は親切だよ、外村の親父とは長い付き合いだし、アイツのこともねんねの頃から知っている。気立ての悪い娘じゃないのは判っているんだが――それだけにアイツが時折浮かべる、頭痛の種でも見るような視線が耐え切れねェ訳よ」


顔に似合わず(顔に似合わない人ばかりだね、この街)、結構ナイーブな爺さんである。


私の中で銀蔵爺さんは、もっと男気に溢れ、もっと無神経で――長所と短所をひっくるめての昭和の頑固オヤジと言う印象が強かった。その爺さんが、まるでクラスでの交友関係に悩む思春期の男子生徒のように湿っぽくなっていることは、これが本質かはたまた環境の所為か――それよりも、倉内(嫁)って八千代って言うんだ。道理で『八千円』がこびり付いて離れない訳だ。


私は煙草を取り出しながら言った。


「いやだねェ、年を取るって言うのは。俺もさぁ――ほら、大船駅って橋上駅舎だろ? 朝のラッシュ時に、どうしても東京の方に出なきゃならない用事がある時、エスカレーターが詰まっているとじれったくって階段を昇るんだよ。すると、朝弱いのも相俟って脚がガタガタ震える」


「だらしねェなァ、一緒にするんじゃねェよ。儂は仮にも怪我人で、でもお前ぐらいン時は――いや、それどころか、それから四十年はピンピンして、朝まだ日が昇る前に三浦の魚河岸まで行って、魚のたっぷり詰まった箱をせっせと持ち上げてたンだぜ? たるんでんだよ」


「いやはやご尤も」


私はどこ吹く風で、


「まあとにかく、折角息子夫婦と同居もしてる恵まれた身分なんだからさ、あんまり我儘は言いなさんな。バチが当たるよ――具体的に言えば、愛想を尽かされる、とかさ」


「お前に言われンでも、判ってるよ。でもよ、今まで五十年以上あくせく働いてた人間がさ、急に安静にしろって言われて、一日中テレビの愚にも付かないワイドショー見続けなきゃならなくなってみろよ。そんないきなりボケ老人みたいなことが出来るか?」


アンタは嫁に、充分そのボケ老人予備軍と看做されてるよ――とは、口が裂けでも言えず。


確かに、ここまでウジウジと、尚且つ頑なに凝り固まっていると言うことは、八千代の懸念もあながち的外れでは無いのかもしれない。その根本の原因はストレスだ。不自由さから来るフラストレーション――けれど、そこから本格的な認知症に罹ってしまう人間なんて、それこそ五万といる。


室井が再度、恐る恐る口を挟む。


「と言うことは、今はお店の方には立っておられない訳でしょう? 何か別の――レクリエーション等を探されてはいかがですか?」


「レク……レク……なんだそれ」


聴き慣れない外国語に眼を白黒させている老人に、私は苦笑交じりに助け船を出す。


「おい室井、ツラに似合わない横文字出すンじゃないよ。爺さん、英語は『ハロー』『センキューベリマッチ』『ギブミーチョコレート』しか知らないんだから――平たく言うと『気晴らし』だな。新しく趣味を探して暇でも潰せ、ってことだ。でもよ室井――そんなこと言うからには、なにか案があるんだろうな? 代わりに言っておくと、倉内銀蔵氏は我が大船商店街が誇る筋金入りの仕事人間だぞ? 雨にも負けず、風にも負けず、一年三百六十五日、文字通り死んだ魚のツラと睨めっこしてきた御仁だ。水揚げされた水死体以外に、興味を持てるものがあるかどうか。同じくらい死んでるもの――盆栽か?」


そんな私の輪に掛けて無責任な提案は、光の速さで却下された。


「盆栽は嫌だ。ジジ臭い」


「ジジ臭いって、アンタねェ――」


室井も苦笑して、


「盆栽は死んじゃいませんよ。施肥、剪定、針金掛け、水やり――そんな地道な手間隙の一つ一つが、長い年月を掛けて常に植物を変化させて行くんです。うちの祖父ちゃんは植木屋でしたからね。他の趣味――そうですね、音楽なんか、脳の活性化とエクササイズを同時に行えるって最近高齢者の間で盛んになってきているそうですよ」


流石は室井。


顔に似合わず(何度でも使いたくなるこの台詞)、中々に察しが良い。


二年前に逗子から配属変えになったとは言え、きちんと地元民に眼を配っていて、銀蔵爺さんの人となりにも大よその見当が付いているのだろう。そして怪我以降、気持ちが塞いで偏屈になりかけているのも理解している。そこからきちんと『認知症』というキーワードに結びついている辺りは、案外良い町医者になれたかもしれない。


「それだ!」


私は叫んだ。


「爺さん、太鼓でもやったらどうだ? ほら、毎年夏になると、街中の若い衆が竦み上がるような勢いでドンドコ叩いていたじゃないか。アンタぐらいの大物となれば、町内会長も倉庫から祭り用の太鼓を引っ張りだしてくれるだろうよ」


「太鼓か――」


老人は遥か昔を懐かしむような眼で、じっと壁を見た。しかし、やがて首を勢いよく振って、


「ダメだ。儂は腰が悪いんだ。もう昔のようには打てん」


いや、別にね? ちょっとした運動代わりに叩けって言っているんで、あの先祖供養と破邪とゴリラのドラミングを全部併せたような物凄いものを毎日やれとは、一言も言っていない。


でも、確かに一音楽家の眼から見て、爺さんの太鼓は真剣そのもので、職人技と芸術性の境地とも言えた。真面目に打ち込んできた人間――それも善し悪しがきちんと判る人間にとって、手を抜け、いい加減にやれと言うのは、到底出来るものではない。


それが痛い程判る時点で、私も充分立派に同じ穴のムジナである。


「うーん、じゃあカラオケとか? 大声を出すと言うのも、良い刺激になるらしいですし」


室井、おまえ、また無責任なことを。


コイツは爺さんの底抜けの音痴さを知らんから、そんなことを言えるのだ。自宅の風呂桶の中で演歌とも念仏ともつかぬ声を張り上げるのなら、百歩譲ってオッケーだとしても、万が一にもうちの教室でやられたら堪ったモノじゃない。


ところが爺さんもそこは良く判っているらしく、蒼褪めている私を余所に気乗りしなさそうに唸っている。


「三味線とか琴とかスチールドラムなら、うちにありますけれど」


と、永久さん。


アンタ、何屋だよ。スチールドラムって。ちなみに、スチールドラムとはカリブ海の島国トリニダード・トバゴ発祥の、ドラム缶を凹ませて作る『二十世紀最後にして最大のアコースティック楽器の発明』と言われている旋律打楽器で――要は、カリビアン・ミュージック特有のあのポコポコ言っているヤツね。


やはりしっくりきていない様子の爺さん。


やがて上着のポケットをゴソゴソやると、バンと千円札を一枚出して、


「まあいいや。自分の暇潰しぐらい自分で見つけるさ――世話掛けたな。今日は帰るわ。悪かったな、辛気臭い話ばかりして」


そう言って、カウンター下に隠し持っていた買ったばかりの杖を不器用に突き、ヨロヨロと去って行く後姿は――モモとは別の意味で、小さく萎れたものだった。


暫くは無言で、チビチビと酒を啜っていた野郎二人。永久さんの、キュッキュッとグラスを拭く音だけが静かに響く。


やがて、私は大きく伸びをしながら言った。


「さあ、呑み直すか」


そして室井のデカい顔に詰め寄り、


「で、次に黒江さんが空いているのは火曜日の夜なんだがね、久々にレッスンをしてやろうか?」


室井は大仏のような耳を付け根まで真っ赤にして、


「か、からかわないで下さいよゥ」


と情けない声を上げた。



かくして、寂しい男どもの週末は幕を開ける。




* * *




――とは言っても、やっぱり『平音楽教室』に休みは無い。


特に土曜日は、週休二日制が当たり前になった現代において、最もレッスン希望者が多い曜日だった。音大受験生を含め比較的レベルの高い生徒が多く、社会人あるいは他の教室で活動しているピアノ教師の人達もいる。音楽家ってのは奇妙な生き物で、いかに大成して一人立ちしようと、時折他の人間に教えを乞いたくなるときがある。まあ超一流のスポーツ選手も、監督やコーチは必ず付けるものだから、同じ発想なのだろう。


ショパンの『舟唄』にプロコフィエフ『戦争ソナタ』、ドビュッシー『喜びの島』――自分が弾けと言われても、冷や汗をかく他にない曲目が多い中、リスト『バラード二番』やベートーヴェンのソナタは熱意を以ってレッスンを行うことができた(あれ、おかしいな。フランスに留学していた筈なのに)。私自身、実技一本畑では無い上に、ピアノのスタートがかなり遅かったものだから、技術に結構ムラがあるのだ。それを音楽学で培った知識と、師匠の受け売りで補う――


断言しよう。


ピアノ教師は、何も自分の十八番ばかり教えている訳では無い、と。判らない物は、判る物との類似性を探して尤もらしいことを言う、柔軟性が求められているのだ――


ほらそこ、ハッタリとか言わない。


そして迎えた夕食時、テレビの天気予報を見ながら、『三十路手前にもなって、この手の幼稚園のお遊戯会みたいなファッションしているのって、お天気お姉さんと音楽家ぐらいのものだよなぁ』とか漠然と思っていると、廊下の黒電話(年代物)がけたたましく鳴った。


数分後。


通話を終えて、居間で姿勢良くお茶を啜っている黒江さんに向かって、私はニヤリと笑って言った。


「火曜日、午後六時――室井、来るってよ」



品良く事務的に頷いただけの黒江さんを見て、こりゃ前途多難だな、と私は苦笑した。


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