オバチャンの、顔を見てよぎるは八千円。



『平音楽教室』は分業制である。


その業務は多岐に渡る。ピアノ実技は子供から老人まで、レベルも入門からセミプロまで。ソルフェージュ、リトミックや音大入試用の楽典の手解き(音楽史は私の専門だった)。海外に十五年いた経験を活かして、外国人や語学習得希望者を相手に英語、ドイツ語、フランス語でのレッスンも行っている。あとはちょっとした留学のお手伝い、講習会の斡旋――ご希望とあらば、音楽と全く関係のない語学教室の真似事もお引受け。


ほとんどは自宅で教えているが、時に駐日家族や外国かぶれのご愛顧を承って、多摩川の向こうや横須賀への出張もある。その傾向は黒江さんに留守番を任せられるようになってからは特に顕著で、彼女の専門の弦楽指導や、私より上手く教えられるソルフェージュや検定準備等を任せるに至り、私達はあっちやこっちでバラバラの仕事をすることが多くなった。


小学生、それもませかけ始めた女の子には、同性の先生のほうが受けは良いらしく、私自身、娘の半径十メートルに近寄る男を全て痴漢と見るような親の集団ヒステリーにもウンザリしていたことから、木曜日の午後は私が商店街をぶらつくようにしている。


今頃、うちの素晴らしい居間は女性専用車両のように様変わりして、アマゾネスの託児所として阿鼻叫喚の渦に包まれているに違いない!


「行って来るよォ!」


私が玄関先から大声を上げると、黒江さんが


「はぁい。お願いしまぁす」


と返す。


すると、私はお婆さんが持つようなキャリー?ショッピング?カート?(通称ゴロゴロ)を掴み、颯爽と街へ繰り出す。


門を出たところで、


「先生、こんにちは」


と声が掛かる。振り向くと、四角い顔に真ん中分けにした前髪が下駄の鼻緒のような中年女性が、ニコニコと愛想の良い笑みを浮かべて立っていた。


魚屋の倉内くらうち銀蔵ぎんぞう爺さんの長男の嫁で、同じ商店街でやってる『外村そとむら食堂』の娘の(ええい、ややっこしい)――倉内なんだっけ?


「お、こんにちは」


 こういうときは明るく誤魔化すに限る。


「随分とご無沙汰ですねえ――最近、お忙しかった? 前はうちの――実家の食堂の方にもよく顔を覗かせてくだすってたのに、とんとお見かけしなくなったって、お父さん心配してましたよォ」


「ハハハ……なんとか生きてますよ、ご覧の通り。ただ、貧乏ヒマなしでねぇ」


苦しい笑いを上げる私。


確かに、ここで教室を開いて間もない頃は、外村のオッサンの作る地域最安値の定食には随分と世話になった。でも所詮外食は外食、やっぱりどこか万人受けのする大量生産の味になって、毎日は味気ない。そもそも、よく考えればあそこで満足していたのはお代わり自由の白飯と、ワカメの切れ端がプカプカしている味噌汁ぐらいのものだったのだ。料理上手の黒江さんが作ってくれたら、毎日通う道理もないわな? 看板娘も、娘っていうよりは下駄屋の看板のようなオバチャンだし、消費税増税に伴いワンコインじゃなくなったし。


なんとか話題を変えようと、必死に脳細胞を働かせてチラついたのは――


「そうそう、お義父さん――いや、定食屋のほうじゃなくって、魚屋のおやっさんね。銀蔵さんはお元気ですか? いやね、魚屋の前はしょっちゅう通るけど、そういや最近見ないなあって」


「ああ、お義父さんねェ」


そう言って、『ミセス・クラウチ=ソトムラ』(カタカナ表記の倉内から迸る欧米感)の顔がふと曇る。


それにしても、『お父さん』と『お義父さん』という同音異義どころか、ほんの些細な違いによって成り立っている二つの単語を、絶妙なイントネーションの違いだけで表現できる彼女は、意外に音楽家かもしれない。実の父親のことを言うときは『と』を勢いよく、義理の父親の場合は控えめに発する。例えるならば、滋賀県人と関東人が『彦根』を発音する時の違いのような――うん、余計に分かり難くなった。


「というか、先生ご存じなかったんですか?」


「存じませんよ、何も」


「うちのお義父さんの怪我のことですよ!」


倉内(嫁)は信じられない、といった表情を見せた。


「つい一ヶ月ぐらい前、魚の沢山入った箱をトラックの荷台から降ろそうとしたとき、踏み外して腰を思いっきり打ったんですよ。お義父さんは『大丈夫だ、なんでもない』ってしきりに喚いてたんですけどねェ。自力じゃ起き上がれないし、それにああ見えて七十越えでしょう? 大事をとって救急車を呼んだんですよ、商店街のど真ん中に。結構な騒ぎだったから、わざわざお知らせすることもないだろうと思って、すっかり言いそびれていたんですけれど――まさか、本当にご存じなかったとは!」


いや、本当にご存じなかった(誤用)。


確かに妙な話で、この狭い社会でおまけにこんなにご近所さんで、むしろ結構親しい仲だったはずなのに、タイミング一つ逃すとこの有様だ。


ただ、もしかしたら黒江さんは知っているかもしれない。黒江さんが転がり込んで以来、近隣住民は私らを夫婦もののように見做し、片方に知らせたらもう片方にも情報が届くと思い込んでいる節がある。


そして事実、私と黒江さんはしょっちゅう町内で仕入れたホヤホヤのニュースを交換しているのだが、私の記憶に残っているかは別問題で、私がリアルタイムに知り得なかった、つまりは留守中の出来事ということになる。一番可能性があるのは多摩川越えの最中に起きた場合で、二十三区の人ごみに当てられた私は精も根も尽き果て、食後の談話を右から左へ聞き流したのだろう。この高度に情報化された社会において、浦島太郎となるのは実に容易い。


私は時事ニュースの補講を有難く拝聴した。


「怪我は大したことなかったんですよ。暫く安静にしていれば、直に良くなるってお医者さんにも言われましたしねェ。まあ、あのお爺さんにとっては、じっとしている方が辛かろうとは思いますけれど」


「でしょうな」


そうなのだ。


倉内銀蔵氏はパッと見、頑固な大工の棟梁のような矍鑠とした老人で、事実よく動く脚と杭でも打てそうな石頭を持っていた。ただ偏屈というよりは純粋に昔気質の人間で、盆踊りなどの町会行事を何よりも重んじ、また率先して働く。その真直ぐな気質は人々に愛されているが、強いて言うなら、祭りの囃子と一緒で毎日だとちょっと騒々しい。


「ただねェ――コワいと思ったんですよ」


「なにがです?」


「あんな元気なお義父さんだけど、年には勝てないってことですよ。で、足腰がちょっとでも利かなくなると、人間っていきなり衰えるモンなんですねェ」


「衰える? それはつまり――」


『ボケましたか?』と言いそうになって、私は慌てて言葉を濁した。


倉内(嫁)は頷いた。


「いやね、大したことはないんですよ。テレビなんかでやってる、ホントに大変な認知症のお年寄りに比べれば――アレはホントに大変ですよォ、ウチも年寄りが多いですからね、他人事じゃない」


このオバチャン、結構話がグルグル回るので、以下要約。


銀蔵爺さんは、どうやらその日以来、自由に動けない鬱憤が溜まりに溜まってか、少し攻撃性と意固地さに磨きが掛かったようだった。文句が多い。小言が多い。家の中に長く居ると、家庭内のあちこちのことが気になって仕方がない。


まあその程度だったら『困ったお爺ちゃん』(意訳、『小ウルさいクソジジイ』)で済んだのだろうが、丁度十日前に起こったエピソードはちょっと毛色が違う。


日本の水洗トイレ特有のものに、貯水槽の上に備え付けられた流しがあるが、どうやら爺さん、何をどうしてか、手拭用のタオルをシンクに浸けてしまい、滴る水で床をビショビショにしてしまったらしい。更に何をトチ狂ったか、床が濡れたのはタオルの所為だとは思わず、タンクの中に問題があると思ったらしい。で、これもまた排泄先進国日本特有の現象なのだが、機能を凝縮させたトイレの整備は素人の手に余る。シンクの上蓋一つ元に戻すのだって結構至難の業で、爺さんはタンクの中をゴソゴソと自力で弄った挙句、床をなぜか懐にあったポケットティッシュで拭き、それを追加で流してしまったため、嫁が戻った時にはそれは悲惨な状況だったらしい。


当の嫁は責め立てる心算は(本人曰く)一切なかったらしいのだが、過剰なまでに『儂は悪くない』と言い募る義父に、超高齢化社会が抱える普遍のキーワード『認知症』がチラついた。事態の収拾に招かれた修繕業者に八千円の請求書を提示されたことで、疑念は確信に大出世。


なんだか最後の方は腑に落ちないが、倉内(嫁)は鼻息荒く繰り返す。


「八千円ですよ、八千円!」


まあ八千円の是非は知ったこっちゃないが、たしかに奇妙ではある。夏祭りで、進んで盆踊りの太鼓をドンドンやってる、しっかり者の銀蔵爺さんらしくもない。


年を取るというのは残酷なことだなあ――と他人事に思いつつ、放っておいたらいつまでたっても埒が開かないので、話を巧く誘導して倉内(嫁)の前から退散することにした。



これから暫くあのオバチャンの顔を見る度に、『八千円』という単語がよぎり続けそうだった。


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