一年前。 その日は朝から雨だった。
一年前。
その日は朝から雨だった――というよりは、連日連夜続いた長雨が、分厚い雲から漏っているような感じだった。それもその筈。梅雨だもの。
ガラガラと扉を開けると、郵便受けの上に小さなカタツムリが這っていた。ビニールに包まれているとはいえ、捻じ込まれた朝刊は私の袖をびっしょりと濡らした。
曜日は水曜日だった。裏手に溜めてある空き缶を、持って行ってくれる週に一度のチャンスだったから、よく覚えている。朝刊を玄関に放り投げ、缶コーヒーの空き缶を両手いっぱいに掴む。本来がズボラな性質なのだ。自宅が客の眼に晒され続けるってことさえなければ、虫の沸かないゴミだったら幾らでも散らかしていいと思っていた。
それらをびしょ濡れのゴミ袋に挿し込み、口を縛り、傘も差さずに門の外に出る。
次の瞬間。
死角にへたり込んでいたなにかが急に立ち上がり、私は仰け反った。
「うわっ、びっくりしたぁ」
近所の悪ガキのイタズラかと思ったが、すぐに違うと気が付いた。
立ち上がったのは、時代遅れの合羽に身を包んだ若い女性で――和服の裾も足袋も、泥ですっかり汚れていた。
女は、切れ長の薄茶色い瞳で、真直ぐと私を見つめて言った。濃い隈を作り、憔悴しつつも、芯の強い、しっかりとした瞳。
「平ミノル先生ですね」
静かに辺りを包み込む雨音。軒から滴る雨が、石畳を穿っていた。
「私を――ここで働かせてください」
暫しの沈黙。
そして――
「へ?」
私はポカンと口を開けた。
求職の方法としては、あまりにも破格だった。
朝七時半。
通学時の小学生、大船駅から通勤列車に揺られ行くサラリーマン以外は、ほとんど目にすることのない朝の住宅街。時代錯誤な装い、端正な水彩画のような顔の造り――何から何まで、この平成の大船には似つかわしくない。
第一、うちは求人をしていない。一人で食うのもやっとなのに、従業員を雇える余裕などあるはずもない。会社ではなく、正真正銘の個人経営の自営業なのだ。
追い返すのは簡単だ。今思った理由を、そのまま叩きつけてやればいい。
でも、私はそうしなかった。
朝方で、普段以上に頭が働かないのが、まず一つ。
そしてこの眼の前にいる女は、昨日から一食も摂らず、一睡もしていないように見えた。にも拘らず真摯で――
ボケーッと固まって見つめ続けていると、女の腹がグーッと鳴った。
私はゴミ袋ごと持ち上げて、家の中を指差した。
「朝飯、食います?」
女は、頬を微かに赤らめながら頷いた。
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