エピローグ
「春原さん、そのままお聞きください」
「はいはい。なんです?」
「明日はこのホテルで張り込みをし始めて丁度四日目ですわ」
「……そーですね」
「非常に申し上げにくいのですが、予報が外れる可能性もありますわ」
「ぬけぬけとよく言いますねアンタ……やめませんよ?」
それは三日と三晩目のことである。夢遣いはなんとも申し訳なさそうに、浮かびながら私にそう告げた。
「もうやることもありませんし、他の仕事は探偵さんがやっちゃったでしょ。あとは帰るだけですし、来るまでここで張り込みますから」
今回はしっかりシャワーのある部屋を借りて、探偵さんと交代でもう三日、張り込んでいる部屋の窓から、曇り空を眺めていた。
「まさかここに戻ってくるとはなぁ」
「私も思っていませんでしたわ」
「一番驚いたのは私なんスけど」
そこは、私が落ちてきた日、探偵さんが張り込んでいたホテルの向かい側にある部屋だった。
巡り巡って、ここに、戻ってきたのだ。
「あの……」
「なんですか夢遣いさん」
「……あなたそんなに積極的な方でした?」
夢遣いの少し引き気味な声に、私はため息をついた。
何を言っているのだろうか。ずいぶんと、今更なことのような気がしたから。
「風が吹いてますからね。走りたくなるのが性ってもんスよ」
「か、風……? 今夜は比較的静かな夜との予報ですが……」
なんのことだか分からない夢遣いさんは、困惑気味にそう言った。
私はもう何も付け加えずに、外の空を見る。
風は、確かに吹いている。
向かい風が吹いている。
「予報が外れそうとか、そういうの、やってみろって感じです」
私はもう、向こう側に帰ると決めたのだ。
この世界が如何にそれを阻もうとも、私はそれを乗り越えてみせる。
どんな逆境だろうと構うものか。
「はぁ……そう、ですか……」
夢遣いはもう一度深くため息を吐くと、もう一度、すっかり月も高くなった夜空を見上げる。
そして、ハッと息を呑んだ。
私が何事かと目を向けると、焦ったようにケータイを取り出して、画面に向かって何かぽちぽちと打ち込んで、髪の毛を掻き乱す。
「どうしたんですか?」
「すいません春原さん。やはり予報は外れませんでした」
「いや、それは大いに歓迎なんですけど」
「ただ問題があって、その……」
「歯切れが悪いな……なんだっていうんです?」
「――ここに直接猫が降って来そうです」
「え?」
天井がピカッと、白く、淡く光った。
「探偵さん!」
「俺は電灯弄ってねぇ!」
「まさか」
そのまさかだった。
白い光から見覚えのある靄が漏れ出してくる。それと同時に、遠くから、たくさんの、たくさんの足音と、鳴き声が聞こえてくる。
猫の鳴き声が。
「ええええ――」
私が悲鳴を上げると、それを合図にしたように、狭い狭いホテルの一室に大量の猫が雪崩れ込んだ。
私は声を出すことすら出来ず、窓の傍に行って伏せ、猫が雪崩れていくのをただ見つめる。それは探偵さんも、夢遣いさんも、同じだった。
それはまるで滝に打たれているような感覚だったと思う。濁流に飲まれるような、意識ははっきりしているのに、うまく物事を考えられない、そんな感覚だったと思う。
「春原!」
そんな中、私は、確かに探偵さんの声を聞いたのだ。
私はふと、思い出して、そして、また想う。
どうして帰りたいのかを。どうしてここに来たのかを。何をやってきたのかを。どうして走り続けていたのかを。
「風は吹いてるか?」
心の中で、三回唱える。
わたしはできる。
わたしは出来る。
私は出来る!
「ええ、吹いてますよ、春一番が!」
雪崩落ちていく猫の濁流に向かって、私は何も疑わずにスタートの姿勢を取った。
出来るの呪文は、そういうことだ。
自分だけでなく、自分が向かうべき相手ですらも信頼すると言うことなのだ。
だから。
「出席番号22番――春原 新芽、走ります!」
だから私は、猫の群れに向かって、全速力で走り出した。
◆◆◆◆
「良かったんですか?」
猫の毛だらけになったスーツを手で払いながら、夢遣いは言った。
「何が、だよ」
探偵は、煙草に火を付けて、質問で返す。
「春原さんのことですわ」
夢遣いはうんざりと言った感じで答えた。
「こう言うのはなんですけれど、あなた、あの子が大層お気に入りだったじゃありませんか」
夢遣いがそう言うと、探偵はフッと一息煙を吐いた。
「いいのさ、これで」
余りにも清々しい声で、そう言う。
そういうものだから、夢遣いは思わず首を傾げて、うんと唸った。
「男なら、一度はやってみたいもんなのさ。こうして、女の背中に手を添えるってことを」
夢遣いは、また大きく唸った。
◆◆◆◆
……。
…………。
………………。
……………………。
ここはどこだ。
神様はバカンスに出ているのだろう。
なんせついていない。勝負運(ツキ)というのか、とにかく運がない。もはや半ば、どうしてこうして自分が歩いているのか、それすら忘れそうになるほど、まぁとにかく自分は不運だった。
まぁ、今度は決して忘れたりはしないのだが。
私はまたなぜかボロボロになったセーラー服を着て、白い靄の中を歩いていた。
記憶が確かなら、このうんざりしたほど歩いた頃に、あの不細工な男と出会ったような気がするのだが――
「おや、ずいぶんとお早いお帰りで」
――いた。
「探しましたよ……居て良かったぁ~」本当に良かった。
帰ってきた。
今度はそう感じた。だから私は今までの疲れを癒す意味で、その隣に腰を下ろす。
「ずいぶん遠くに行ってた気がします」
「実はあながちそうではないんでさ」
「知ってますよ。遠くに思えて、実はとっても近いところに居たなんていうのはね」良くある話だ。「灯台下暗しってやつです」
不細工は、一度目に会ったその日とまるで様相を変えず、相も変わらずプカプカと煙を吐いていた。
不細工な男が不意に私にこう聞いた。
「良い旅になりやしたか?」
私はため息を吐いた。
「嫌になるくらい最高な旅行でしたよ」
すると、不細工はその顔を更に歪めて笑う。
口の端から煙がもれていくのが見えた。
疲れて項垂れる私に、不細工はまた、質問した。
「それで? 良い中身は見つかったんですかい」
私は、その質問に――「……まったく、」――呆れたというのか、怒りを感じたというのか、笑いそうになったと言うのか、泣きたくなったというのか――とにかく。
「あんたもあの人達も……」
この男は最初から全部知っていたのだ。私がここを歩いていた理由も、あの世界に運ばれた理由も、そしてここに帰ってくることも。それを全部知っていて、それでもあえて何も教えずに、私をあの世界に送り込んだ。
送り込んで、そして、今こうしているように、ずっと私を待っていたのだ。
だから、私も胸を張って答えようと思った。
あの世界で、ひとまず私が出した答えを。
「見つけるために、帰ってきたんですよ。旅ってのは、帰るまでが旅ですから」
不細工な男は、満足そうに目を細めた。
「さいですか……なら、このまま進むと良い。元来た場所に戻れますぜ」
男は長い煙管を私が今しがた歩いてきた方向とは逆に向けて、そう言った。
私は微笑んで、男に「ありがとう」と感謝を伝えた。
「あの」
「なんですかい?」
「この後しばらくしたら、スーツを着た女の人が一人、来ると思うんです」
「それが何か?」
「その人も、私と同じ世界の人です。ちゃんと、返してあげて欲しいんです」
「…………承知しやした」
「ありがとうございます」
私は立ち上がって、深々と頭を下げた。
もしこの世界に神様がいたとして。
きっとバカンスに出た神様だって、この白い靄の中を通ったに違いない。
そうやって世界から離れないと、癒されないことだって、気付けない事だってあるのだから。
そしてそこで、自分が住んでいる世界がどんなに恋しいのかを知って、いつもここで、こうつぶやくに違いない。
「さぁ、帰ろう」
私は白い靄の中を、また一人歩き出した。
メーデー、こちら、猫の群れ 04号 専用機 @PKsamurai
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