第10話

 ふとした口調で探偵は言った。

 それは私の知らない事情だ。少なくとも、私の知っている鉄 哲人の中にはないものだった。

 だから私は、質問に答えることが出来ずに固まる。

 すると探偵はにっこりと微笑んで、私に言う。

「なんだ、知らなかったか。意外だな」

 だから私は反射的に言い返した。

「そりゃあ知りませんよ。私が知ってるのは高校までで――」

 言い返した後急いで口をつぐんだけれど、どうやらすべて遅かったらしい。

「吐いたな」

 探偵さんは心底楽しそうに笑う。

「忘れてください」

 私は俯いて、言ったことを後悔する。

「全部忘れてください……すいませんもう事務所に戻ります」

「つれないこと言うなよ。もっと俺の昔話を聞かせてくれ」

 どうしてと言いたい位に探偵さんは笑顔だ。この世界に来てここまでの笑顔を見たことはないかもしれない。

 何がそんなに面白いのか、どうやら探偵さんは私に知っていることを白状させるのが楽しくてたまらないらしい。

 私にとって、彼に対する最新の記憶は忌むべきことばかりなのだが、彼はそれを知っているのだろうか?

 いいや、知らないはず。知っているわけがないのだ。

 何せ、この世界には私がいないのだから。

「どうして話さなきゃいけないんですか。私は好きな人をあなたに奪われたって言うのに」

 探偵さんは少しも驚かない。

「それでも聞きたいもんだよ。お前、この世界に同じ名前の人間がいないのかしつこく聞いてきただろう? それと同じさ」

 探偵さんは言う。

「だから知ってること、ここで洗いざらい吐き出せ。そろそろ、隠し事は無しでいきたい」

 私は俯くのをやめて、探偵さんを見る。

 微笑みはしない。真面目な顔だ。

 私を攻撃するつもりのない、純粋に話を聞こうという顔だ。

 それは真摯な表情だった。

 だから、私は話そうと思ったのだろう。

「――あなたは私の幼馴染でした」

「惚れなかったのかよ」

「惚れませんよ。性格最悪でしたし。高校生になるまで初恋もありませんでしたから」

「ははは、そうか。俺と比べてどうだ?」

「多少は、今の探偵さんのほうがマシです。こっちの立夏のおかげですかね」

「そうだなぁ。立夏はすごい女だったよ」

「そうでしょうね。私が惚れたんですから伊達じゃありませんよ」

 そういうと、私の中から自然と笑いが湧いてくる。探偵さんも私に倣った様に笑う。

 やっぱり、立夏はすごいと思った。

「こっちの世界のリッカはどうでした?」

「俺の幼馴染だった。すごい女だった。アイツに着いていけば、何も問題がないくらいには……」

「でも、そんなのって」

「子供の間だけだったよ、当然。自分の足で立って歩けなきゃ大人になってねぇ」

 どうやらよほど吸いたいのか、探偵さんはイライラしたように、ベッドの隅を指で突いた。

 こんな話をしている最中だと言うのに。

「あー……ただ、真面目とは言い難い。成人になってから煙草をすい始めたのもリッカの影響だし」

「有り得ないでしょ」

「それが、有り得るんだよ。どうやら随分昔から吸ってたらしくてな……なんでも、人より税金を多く納めたいとかなんとか」

「変な子ですね」

「ああ、変わったやつだ」

 私は探偵さんと同じ方向を見る。

「……哲人、よく私に、他人のことを考えろって言ってた。私はいっつも、考えてるよって返してた」

 外では、少し離れた場所にある樹が、その枝を風に揺らしている。

「でも、リッカに会って、分かった。他人のことを考えるってことが。人を想うってことが。どういうことなのか」

 窓が開いているような気がした。

 風が吹いているような気がした。

「……私、立夏が好きでした」

 風は私に吹き付ける。

 体を濡らす雫も、風が寄越す落ち葉だって、今はもう、気にもならなかった。

 思い出は今、ここにある。

「だった、か。……嫌いになったか?」

「はい。少し」

 私は立夏が好きだった。同性だとか、そういうことが些細なことだと思えるほど、私は立夏のことを好きになってしまった。

 そして、それが初恋だった。

「帰る理由は最初からあったんじゃないか」

「わっかんない人だな。だから帰りたくないんですよ。気変わりしたんです。ここでだってうまくやっていけますよ、きっと。私、一人でも、探偵さんの代わり、できたんですから」

 ぎこちなく、私は言う。

 探偵さんはちらりと、私の方に顔を向ける。

「そんな顔はしてないけどな」

「顔で全部分かったら、言葉なんて必要ないでしょ」

 我ながら言うとおりだと思う。

 顔だけで全部分かったら、もう少し、傷つかずに済んだのにとも想った。

「……どうして帰りたくないんだ?」

「夢遣いさんにも同じ事聞かれましたね」確か、あれはここに来た最初の日だったか。「……合わせる顔がないじゃないですか」

 あの時とは違っている。

 この世界に来て、まだ半月ほどのことなのに、私はもう、あの時とはすっかり別人のようになってしまった。

 今はきちんと、理由がある。

「怖いんです。帰ったって、そこにいるのはもう、誰かを好きになっている立夏だから」

 別に理由が、どんな時も必要とは思わない。だけど、今は必要だ。

 納得するために。

 探偵さんを納得させるために。

 何より、自分の納得を、自分で得るために。

 それは何より難しいことだ。だけど、何よりも優先されるべきことだ。しなきゃならないことだけど、とてもとても難しいことだ。

 だから、誰もが一歩、踏み出すまでに時間がいる。

 留まるために理由を探した私が、言えることではないかもしれないと、私はニヒルな笑みを浮かべた。

 それでも、それは納得の行く理由だった。

 私は自分で、窓を閉めることを選んだ。

 最後に外の風を一身に浴びて――

「諦めるのかよ」

 ――窓を閉めようとした私の手にそっと、哲人が手を重ねる。

 探偵さんは外の景色を見ていた。

 向かい風が吹いていた。

「一度駄目だったからって、諦めるのか? それはどうしてだ? 俺が見てきたお前はそんなに、諦めのいい奴だったか?」

 それは温かい手。私のとは違って、大きくて、ゴツゴツしていたけれど。

 顔で全部分かったら、言葉なんて、必要ない。

 その通りだと思った。

「俺は嫌いなんだよ。初恋は叶わないって言葉が」

 それはきっと、多くの人には負け惜しみに聞こえる言葉だと思った。きっとそうでなかった多くの人にとって、それは子供の我が侭のように聞こえるのかもしれない。

 少なくとも私にとって、そうではなかったけど。

「そんなことを言うのは、悟ったフリした大人だけさ」

「子供みたい」

「諦めを知らないガキだってか?」

 うなずくと、探偵さんはそれを鼻で笑った。

「諦めを知るのが大人だって言うんなら、俺はずっと小さな頃からたくさんのことを諦めてきた。もう充分大人だろうよ。それとも、失恋を味わうのが大人だって言うのなら……俺はそれでも大人だよ」

 それは、私には……到底分かるはずもない言葉だった。

 私の知らない鉄哲人がそこにいて、その人は私より何年も永く生きていて、だからこそ、彼には分かることがあって、私には分からないことがあって。

 でも、そこまで続いている道は、きっと同じなのだと、それだけははっきり分かる気がした。

「本当は誰だって忘れることなんてできない。初恋が叶うなら、それが一番良いに決まってる。でも、そのために、やるべきことをすべてこなせる人ってのは、思ってるよりずっと少ないのさ」

 大人は皆、同じことを言うのだろうか。

「似たようなことを誰かに言われた覚えがありますよ」

 とどのつまり、叶わないのも仕方がないと言いたいのだろうか。それは叶えた人の戯言と取れなくもない。

「……嫉妬、ですかね」

 好きに決まっている。

 まだ好きに決まっている。

 まだまだ好きに決まっている。

 そんなことはもう分かっている。

 だからこそ、帰るのが怖い。変わってしまったことが怖い。気付いてしまったんだ、ここにいても、帰っても、私は一人になったんだって。

「帰ったって、誰も私のこと、好きじゃありませんし。意味ないでしょう」

 探偵は、私の方を見て、落ち着いた口調で聞いた。

「子供の義務ってなんだと思う?」

 私が黙ったままでいると、探偵さんはまた煙草を吸うような仕草をして、息を吐く。一拍おいて置いて、探偵さんはゆっくりと、彼なりの答えを口にした。

「それは、他人に愛される努力をすることだって俺は思うよ」

「他人に愛されなかった人はどうなるんですか?」

「――今の自分はどうだ?」

「…………さぁ」子供のままだ。

 私は子供のままだ。何一つ、大人になんてなっていない。確かに変わったかもしれない。でもそれはあくまで変化であって、成長ではなかったから。

「他人の愛を受けて始めて、人は大人になるんだと思う」

「じゃあ私はまだ子供のままだって言いたいんですか?」あれだけ頑張ってきたのに?「三年間ずっとあの人のために注いできたのに?」あれだけ走り続けてきたのに?「色んなことを知ったんですよ?」挫折しそうにもなったのに?「どれだけつらい思いをしたと思ってるんですか?」

 何をそんなに躍起になっているのだろう。と、考えたけれど、私がずっと堪えてきた思いはそう簡単に止まってはくれなかった。

 そうだ。

 たくさんのことを諦めてきた。失恋だってした。じゃあ私は充分大人だろう。そう思っていた。よく頑張った。そう褒めてくれるものだと思い込んでいた。

 私は認められたかった。誰にも話したことのないあの三年間を。人知れず一人の女の子を追いかけ続けた三年間を。私が自ら棒に振った三年間は、決して無駄ではなかったと、誰かに言って欲しかったのだ。

 そうでないと、私の心は弾けてしまいそうだった。

 そうでないと、私はあの子を、葉桜 立夏を、恨んでしまいそうだった。

 どれだけ好きだと思っているんだ。どれだけ恋焦がれたと思っているんだ。どれだけ想い続けて、どれだけ尽くしたと思っているんだ! 見返りがあってもいいはずだ! 私はそれが欲しかっただけだ、私の言葉に、ただ承諾を、「はい」の一言を! ただ欲しかっただけなのだ!

 欲しかったんだ、ずっと、ずっと。

 誰よりもその言葉に焦がれていた。

「諦めてんじゃねぇ」

 でも、探偵さんは、私の期待などには応えてくれない。

「諦めるな。食らいつけ。お前はどうしたい? それに従え。いったいどうして、今までのことが諦める理由になるんだよ」

 探偵さんは冷たい人だと思った。

 風が、吹いていた。

「最後に決めるのはいつだって自分だ、自分自身だ。お前じゃない他人の意見なんて、決断の時にはなんの役にも立たないもんさ」

 探偵さんはいつだって冷たい。

 でもそれに触れてみると、火傷しそうなほどに熱い。

 だからこそ私の知らないことを知っているのだと思った。それは自分のことを分かっているが故の冷たさで、ちゃんと自分を持っているが故の熱さなのだから。

「でも、私、怖いんです。帰っても、誰も私を覚えてないかもしれない。ここにいるのと同じになっているかもしれない。立夏のために使った三年間のあとに、もう一度私が、私を始められるのか……」

 それならここにいるのと大差はないと思った。だから、帰りたくないと、そう言った。

「ホントの瞬間はいつも、死ぬほど怖いもんだよ」

 だから探偵さんは、知っていることだけ短く話して、そして、まっずぐ、私の目を見つめた。

 ……始めて、見つめ合った気がする。探偵さんの目は黒く、そして少しだけ緑色が混じっていた。

 温かくて、落ち着いていて、何もかも見透かされているように感じるのに、それが決して不快ではない、しっかりとして――ちゃんとした大人の目だ。

「――私に、できますか?」

 震えた声が出てから、その余りにも情けない声が私自身のものだと気付く。

 視界がぼやけて見えた。

 帰りたかった。

 本当は帰りたかった。

 もう一度立夏に会いたかった。

 それがどんな形でも良かった。

 でも忘れられているかもしれないのが怖くって、それでどうしようもなくなった。

 だから帰りたくないといったのだ。

 本当は、帰りたい。

 帰って、もう一度、立夏に好きだと言いたい。今度はちゃんと目を見て言いたい。友達としてでもいい、私はもう一度、葉桜 立夏と同じ時間を過ごしたいのだ。

「できるさ」

 探偵さんの声に、ハッと顔を上げた。

「でも私」

「どうしても怖いときは」探偵さんは私の言葉を遮って続ける。「そうさな、とにかく三回、こう唱えろ」

 その口からまるで魔法のような言葉が出てくるのかと、私は一瞬でも期待して――

「自分はできる」

 ――余りにも当たり前の言葉に、思わず吹き出す。

「な、なんだよ」

「いや、自分はできるって。そんな当たり前のこと」

「じゃあ聞くが、お前、自分でそう言ったことあるか?」

 私は、言葉に詰まって、誤魔化すように口を尖らせる。

「そ、そんなの、当たり前すぎて、今更やりませんよ」

「そう言って、忘れてるうちに、やらなくなるもんなんだよ」

「……そんなものですか」

「そんなもんよ。だから、やってみる価値があるのさ」

 探偵さんが深く息を吸って、顔を窓の方に向ける。

「なぁ春原」

「なんですか?」

「大人は楽しいぞ」

「だから――」

「俺は努力することが義務だっていったんだ。振り返ってみると、ふと気付くんだよ」

「……何に、ですか?」

「自分はとっくの昔に、誰かに愛されてたってことに」

 私はまた、ため息を吐いた。

「何が楽しいんですか、大人って……働いてばっかで時間もないし。責任もあるし、しかも重いし」

 探偵さんは、そんな私に顔を背けたまま、窓に向かってハハハと笑う。

「確かに、仕事は忙しいし、上司に叱られるのは辛いし、朝は早いし、休みはないし、同期は急に誰も何も言わなくなるしよ」

「ほら」

「でも、辛い仕事の後の酒はうまい。自分で稼げるっていう充実感が心地良い。親と対等な立場になれる」

 それが、そんなにいいものなのかは、私には分からない。

「それだけでいいもんだよ」

 でも、探偵さんが言うのだから、そうなのだろうと思った。

 私の幼馴染が言うのだから、信じてみようと思った。

「あのな春原。だから、その、だな…………」

「なんですか、歯切れの悪い」

「……寄り道しても、いいんじゃないか?」

「寄り道……?」

 探偵さんは照れ臭そうに、申し訳なさそうに、咳払いをする。

「他の誰かを好きになってもいいと思うぞ」

 言われて初めて、私は考える。考えもしなかったことを、考えた。

「寄り道したっていいんだ。大人になってからも、その長い道はまだ続いてる。まだまだ歩いていかなきゃならない。走り続けてちゃあ、息切れしちまうぞ?」

 でも、答えは今、出そうにもなかった。

 だってそれは、私の周りに、誰が残ってくれるのかという言葉と、同じだったから。

 だってそれは、故郷に帰ってから探すべきものだから。

「そうですね、考えてみます」

 だから私は、笑顔でそう答える。

 踏ん切りが着いた、ような気がする。

「探偵さん――ううん、哲人。お願いがあるんだ」

「おぅ、言ってみろ」

「私、元居た世界に帰りたい」

「一応聞くが……どうして?」

 私はにんまりとして、応えた。

「もう一度、一から始めるために」

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