第9話

 探偵さんが起きたのは、猫を逃した日から十日余りが経とうと言う頃だった。

 いつものように病室で本を読みながら時間を潰していると、不意に探偵さんが寝返りを打った。

 静かな病室にはその僅かな音もよく耳に届いた。

 ハッと本を見つめていた顔を上げて探偵さんの方へ顔を向けると、丁度こちらに不細工な寝起きの顔を晒しているところだった。

「おはようございます」

「……今日は何月の何日だ?」


◆◆◆◆


 探偵さんはやはり、人使いが荒いと改めて思った。

 なんせ、起きて早々に、事務所にある写真を取ってきて欲しいと私に頼んできたのだから。

 そういうわけで、私は今事務所に戻っていた。

「あら、今日は早いおかえりですのね」

「暇人ですかあなたは……探偵さんにおつかい頼まれただけッスよ。すぐ戻ります」

 事務所には夢遣いがいた。天井に貼り付いている。

 見上げながら話すのも面倒だし、目線は前に向けたまま、探偵さんに頼まれた写真を探す。

 彼のデスクには全く手を入れていない。退院してくるまではいじらないと決めていたからだ。

 だってあの人、自分の机を他人に弄られたら怒りそうだし。

「あった」

 目当てのものはすぐ見つかった。

 私がよく座っていたソファに、いつも背を向けていた、心なしか無愛想な写真立てだ。正面から見たのは始めてかもしれない。

 私は写真立ての中に納められた紙切れ一枚を見て、皮肉を込めて鼻で笑った。

「じゃ、私は戻ります。誰か来たら連絡お願いしますね」

「お出かけの前に一つ、よろしいですか?」

 その写真立てを大きめのウェストポーチに入れていると、夢遣いが私に上から声を掛けた。

「なんですか?」

「上から失礼しますわ。近日中に、猫が降ってきます」

 思いもよらぬ天気予報だ。

「近日中って、何日以内なんですか?」

「さぁ……明日かも知れませんし、明後日かもしれません。明々後日かもしれませんし、弥明後日かもしれません」

 回りくどい言い方が気になった。

 天井を見上げてみると、夢遣いはどこからか取り出した望遠鏡で空を見上げていた。

「ただ、今日ということも、五日後以降ということもないでしょう」

「明日から、四日後まで、ですか」

「ええ」

 ぐりんと、夢使いは首を曲げて、私に顔を向けた。丁度、見上げるような格好だ。

「猶予はそれまでとお考えください。帰るか否か。はっきりさせてくださいな」

 私はがしがしと髪を乱して、適当にヒラヒラと手を振っておいた。

「それじゃ、行ってきます。留守番ちゃんとやってくださいね」


◆◆◆◆


 おかしな気分だった。

 再三受け付けに話を通して、私はすっかり見慣れた、探偵さんのいる、個室の病室へと足を運ぶ。

 彼が寝ている間に、衣服や携帯電話はこちらに運んでおいた。それ以上に写真を求めてくるなんて思わなかった――その写真がどういったものか、見てみるまでは。

「失礼します」

「座ってから言うもんじゃないよな」

「元気ですねまったく。割と忙しかったんですよこの一週間とちょっと――」

 探偵さんは私の言葉を、ハイハイと面倒そうに返して、写真を見つめている。

 ため息を吐いても私のことを見ようとしないので、身を乗り出して、探偵さんの視界に無理矢理入る。

 探偵さんは少し不機嫌な表情をした。

「なんだよ?」

「私の顔久しぶりに見たでしょ。堪能してもいいんですよ?」

「俺からすりゃ久しぶりでもないっつーの」

 そういって、あたりをキョロキョロと見渡して、一言。

「タバコ」

「ありませんよ……あなた入院中なんですよ?」

「冗談だよ」

 そういって笑った探偵さんは、写真からようやっと視線を外す。

「ありがとな、写真」

「もっと褒めてくださいよ全く。そんなに大事なら財布にでも入れておけばいいのに」

 やれやれと私が肩をすくめると、探偵さんは大きくため息を吐いた。

「俺の財布か。今あれ、血まみれだろ?」

「…………どうして知ってるんですか」

「じゃ、逆に聞くけどな。どうして財布に写真が入ってることを知ってる?」

 私は言葉に詰まる。

 どうやら先にボロを出したのは私の方だったらしい。

「発言を疑うなんて酷いです」

「お前、知ってることしか話のネタに使わないからな」

 探偵さんは掌で口元を覆う。

 一度息を吸うと、吐く前に掌を離した。……どう見ても煙草を吸っている時の動きと同じだ。もはや無意識の行動らしい。

「他に知ってることは?」

「なんで詮索したこと前提なんですか……」

「何を詮索したんだよ」

「……財布の中身だけですよ」

 自分でも驚くような、諦めきった声だった。少しは呆れもあっただろうか。

「まぁ、発言の一つ一つを疑っていくのは重要だってこと、分かりますけど。される身にもなってください」

「生憎となったことがないんでな、想像はできるが同情は期待するな」

 私は探偵さんに、さっきついでに買ってきたペットボトルのお茶を渡す。

 探偵さんは「ありがとよ」と適当に礼を言って受け取る。

 探偵さんのお金で買ったものだと言うのは黙っておこうと思った。

「あー……財布が血まみれってのを知ってる理由はもう一つあってな」

 お茶を一口飲んでから、探偵さんが言う。

「血が止まりにくい体質なんだよ、俺」

 知っていた。

 それが今日先ほどまで意識を失っていた原因でもあるのだから。

「聞きましたよ、お薬を飲みすぎてるんですってね。どうしてそんなことしてたんですか」

 探偵さんの傷は思ったより深くはなかったが、私が思っているよりもずっと出血が多かったのだ。おかげで探偵さん本人は失血でショック死しかけ、輸血には手間取るし、手術はできないしで、探偵さんの両親の顔を見ることにもなって、それはもう、大変だったのだから。

「…………いつでも死ねるようにな」

 私はため息を吐いた。

「何言ってるんですか!」

「お前が帰ればもう悔いはないよ。だからあそこで死んでもいいと思ってた」

「……馬鹿なこと、言わないでください」

 自分でもビックリするくらい、その声は優しかった。

 探偵さんに情でも移ったのだろうか――いや、情と言えば、最初からあるのだったか。

「せっかく、子供の頃、大手術して繋いだ命なんでしょう?」

「お袋でも見舞いに来たのかよ」

「来ましたよ。ええ、すごく冷たいご両親でしたけど」

「…………………………それに関しちゃ何も言えない」

 探偵さんは急にしんみりした様子で、言う。

「手術したのは、俺が就職して三年目のことだ」

 意外に最近だった――いや、それだと何か話が会わないような気もする。

「で、でも、ご両親は子供の頃だって」

「一回目は、な。二回目があるんだよ」

 探偵さんは心臓のあたりに拳を置いた。

「今、ここで動いてるのは、俺の恋人の心臓だ」

 私はそれを聞いて、黙った。

 何も言えなかった。

 それが気まずいというよりも、今探偵さんの心臓として動いているのが、元々誰の臓器だったのか、なんとなくでも予測がついてしまうからだ。

 だからその気まずさに耐えかねて、私は黙ったまま、その答え合わせをするかのように、探偵さんの方に写真を向けて、頼まれていた写真立てを置く。

「……丁度その写真に写ってる」

 今度は私が写真を見る。

 探偵さんの脇に置かれた写真立て。その中では、一組の男女が笑顔で写っている。

「――誰と誰が写ってるんですか?」

「俺が写ってるのは分かるよな?」

「この無愛想な男ですか」

 私は写真の左側を指差す。

 探偵さんは嫌そうな、呻き声にも似た声を出した。

「プププ。無愛想だって自覚あるんですね。プププ」

「余計なお世話だ」

 私の頭に緩いチョップが落ちた。

「もう一人は……恋人か何かで?」

「リッカだよ。ハザクラリッカ。墓参りに行っただろ」

「ああ……」

 とは言ったものの。

「分かってない前提で話すのやめてもらえます?」

「お前なぁ……」

 私は、写真に写っている女の子を良く知っていた。高校の三年間はその子を知るために捧げたといっても過言ではなかった。

「知ってるに決まってるでしょ」

 しばらく写真の中のその女の子を見つめながら、私は知っていることを話す。

「名前は葉桜 立夏。血液型はO型、誕生日は11月26日。好きな言葉は全身全霊。得意科目は現代文。成績は上の下。好きな食べ物はゴーヤチャンプル。紅茶が苦手。母と父との三人家族で弟を欲しがっている。ポニーテールに結った髪がトレードマークで、清楚な見た目の通り、穢れのない純粋な人です。あと確か、受験はだいぶ頑張ってましたね。頭は悪くない人だったんで、大学は違うところに行きたかったみたいです。あとスリーサイズは――」

「もういい。……むしろなんでそこまで知ってんだよ」

 探偵さんは今度こそうんざりした様子で答えた。

「お前に教える情報はそう多くなくていいか……俺の幼馴染だ」

「それは前聞きましたよ」

「俺の彼女だってことは?」

「……なんとなくそんなこと言ってました。その後猫に襲われて今に至ります」

「そうだったな」

 探偵は天井を見て、煙を吐くのと同じ動作でため息を吐いた。

「――じゃあ、俺が生まれながら心臓を患ってたってことは?」

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