第8話

 気が付いたら夕方になっていた。

 私は今病院にいる。

 ようやく一息ついたところでどっと疲れが押し寄せて、私は墓地でそうしたのと同じ要領で、病院のベンチに腰を下ろした。

「お疲れ様ですわ。温かいものはお嫌いですか?」

「…………好きです。もらいます。どうも」

「ずいぶんと、てんてこまいだったようですわね」

「ええ、まぁ……」

 隣には、夢遣いがいる。

 浮かんでいない。地に足が着いている。

 こうしてみると、随分背が高い人だ。

「すいません、何が起こったかよく覚えてなくて」

 私は、自分よりもはるかに高く見える夢遣いの顔を仰ぎ見ることが出来ずに、俯いた。

「ええ、まぁ、覚えてませんでしょうね。何せ、何か思い出すのに必死だったようですし」

 驚いて、俯いていた顔を上げると、ちょうど瞳だけをこちらに向けた夢遣いと目が合った。

「無事に、思い出せたようで何よりですわ。それで、何を思い出しましたの?」

 そういうと、夢遣いは焦ったように目を逸らして、続けた。

「ああ、私、怒っているわけじゃありませんわよ? 単純に、私の仕事の関係上必要だと言うだけで――」

 そこまで続けて、ふいに黙った。

 それから、私に聞こえるほど大きくため息をついて、どうやら中身がなくなったらしいコーヒーの缶をゴミ箱に向かって投げた。

 ゴミ箱に開いた小さな口に吸い込まれるように、缶はゴミ箱の中に逃げ込んだ。

「すいません。こんな時、余裕を持って接しろと、師匠には教えられたのですが」

 私のほうを決して見ないように、夢遣いは言う。

「今にも馬鹿なことを言い出しそうなものですから」

 淡々とした声だった。

 淡々として、あまりにも淡白すぎて、無理をして感情を抜き取ったのだと言うことが、逆にありありと伝わるような、それはそんな言葉だった。

「私――」

「春原さん。それは許されないことですわ。鉄さんは傷を負った。そしてあなたに帰れる可能性を示した」淡々と。「それはすべて、あなたが『帰りたい』と言ったからでしょう?」

 ほんの少し、期待の混じった声だった。

 そしてもう一度繰り返す。

「それは許されないことですわ」

 回りくどい言い方だと思った。

 同時に、その考えは自分勝手だとも。

 だから、思ったことを、私は口に出してしまう。

「はっきり言ったらどうですか。あなたも帰りたいんでしょ?」

 夢遣いはきつく腕を組む。

「怒ったってなんにもなりませんから」

 返ってきた言葉を、私は鼻で笑ってやった。

 なんにもならないことなんて、私だって知っている。怒ったって、探偵さんが傷を負った事実は変わらない。

 私が帰りたくないと、そう思い直したことだって、変わりはしない。

「そうやって澄まして。そうやって傍観者気取って! 結局あなた、何してたんですか? どこ行ってたんですか? 見てなかった人には何も言われたくないですよ!」

 だから言ってやった。思ったことを、そのまま。

 思ったことを、そのままだ。

「あなたに、私の、何が分かるんですか!」

 そう言い終えた時に、私は床に向かって叫んでいたことに気が付いた。

 幸か不幸か、夢遣いは視界から外れていた。

 少し乱れた息を整えようと、一度肺から息を吐き切って、息を吸おうと言うその時に、夢遣いはまた淡々とした言葉で、的確な反撃を用意していた。

「そっくりそのままお返ししますわ」

 それは分厚い鉄の板のような言葉だった。

「あなたに私の、いったい何が分かると言うのです?」

 また、顔を上げることができなかった。

「言っておきますけど、あなたのような人間に理解されたいとも私は思っていませんし、理解して頂かなくて多いに結構。語って聞かせることもありませんわ、ええ、何も。何一つ」

 夢遣いのため息が聞こえる。

「怒ってなんかいませんよ。帰る準備が整ったんですから。ただ、少々厄介なことには変わりはありませんけど」

 私の隣に座って、夢遣いは足を組んだ。

「何もしていなかったわけじゃありませんわ。猫を探していたんです。まだ向こう側に帰っていない猫をね」

 それからもう一本買っていたらしいコーヒー缶を開けて、一口飲み込む。

「結果だけ言うと、まぁ、あなたが先に見つけてしまったんですが」

「どうして探してたんですか」

「同じことです。あなたを帰すために必要でした」

 私は恐る恐る横を向く。

 すると夢遣いと目が合った。

 あんまりいい顔はしていなかった。当然だ。この人にとっては仕事を終えて家に帰るチャンスを潰されたようなものなのだから。私が同じ立場だったとしても、決していい顔はしないだろう。

「それは悪いことを」

「実感を伴わない反省は結構です」

「バレましたか」

 ハハハと笑いながら、私は頭を軽く掻いておく。

 頭の中がなんだか、釈然としない。フワフワとして纏まらないでいる。

 思い出したことに、何か一つまだ、足りていなかった。

「あの」

「なんです」

「……あなたが愛した人はどんな人でした?」

 その何かを埋めようとした結果だったと思う。私は夢遣いに向かってそう質問していた。

 夢遣いは嫌がる様子も無く、少し黙り込んだ。

 さっきとは纏っている空気が違って感じる。

 私が横目で夢遣いのほうを見ると、彼女は懐かしむような微笑みを浮かべ、どこか哀しそうに、何もない、自分の一歩前を見つめていた。

 夢遣いは口を開いて数秒硬直した後、話し始めた。

「ひねくれた女の子です」

 嬉しそうな声。

「彼女、こう言うと怒るのですが……紛れも無い天才でしたわ。それから、私にとってはかけがえのない先輩でもありました。学校の噂では、たまに音楽室に現れるピアノ奏者とか……鉄仮面なんて渾名のあった人でした……容姿が人より優れているのに表情の無い人で――」

 それは徐々に、どこか遠い声になる。

 夢遣いはまた、口を半分だけ開けて、固まった。

「ただ一度だけ、笑顔を見たことがあるんです。」

 そして、吐息を震わせてから、ポツリとこぼした。

「……先輩を好きになる理由なんてそれで充分でした」

 ため息をついて。

「私からの話はお終いです。満足して頂けましたか?」

「初恋だったんですか?」

 間髪入れずにそれを聞いた私に対して、夢遣いは余裕を見せるように指を組んで、伸びをした。

「いいえ?」

 それは、間抜けに感じるほど明るい声だった。

「初恋は叶わないままですわ。もっとも、そう後悔はしておりませんが」

 あまりにもしれっと答えたものだから、私は思わず噴出しそうになって、それを誤魔化すように前のめりになった。すると後から咳が追いかけてきて思わず噎せ込む。

 コーヒーの苦い味がした。

「何かおかしなところでも?」

「もっとこう、引きずる人だと思ってました」

「ええ、引きずるほうですとも。二度目の恋のあの人が、あまりにも――鮮やかだっただけです」

 答えの全てがなんだか予想外だった。この人はもっと、私とは比べ物になら無いほど頑固者で、諦めの悪い人だと思っていたから。

 すると、私のそんな考えを悟ったのか、彼女は自らの答えに続きを足した。

「人なんてそんなものですよ。引きずっていると思っているその時に、新しい恋を始めてしまう自分を、一人で罵ったりして……そんなものですよ」

 私なんかより、夢遣いはずっと、大人びて見えた。

 そんな人が、そんなことを言うのだから、それがきっと正しいのだろうと思った。そしてそれが正しいと自分の中で認めた上で、それでも、と、思った。

「でも、人生なんて人それぞれです。春原さん、あなたには、あなたの恋があって、それは人生の、ほんの一部に過ぎませんのよ」

 それでそんなことを、また私より先に言ってしまうんだから、この人はずるい人だと思った。

「春原さん。あなたにとって、下らないことがいったいどういうものなのか、もうはっきり分かっているつもりになっているでしょう?」

 私は黙って、夢遣いの声を聞く。

「でも、それって案外、人によって、全くの別物になってしまうものですのよ。あなたが思っている以上に、人というのは、ままならないものですから」

 まるで、私が何を思い出したのか――全て知っているようなことを言うのだ。

 私は何も話していないのに、知っているようなことを言うのだ。

 なんだか悔しくて、なんだか嬉しくて、なんだか悲しくて、なんだか憤っているような、複雑な、煩雑な、ともかくそういう良く分からない、もやもやとした感情がこみ上げて、私は。

「…………ズルいッスよ」

 私は気付かないうちに、雨に打たれたような気分になった。

 足元に雫の痕が付く。

「では、私はこれで。次の猫がいつになるのか、予測しなければいけませんので」

「あ、あの!」

「……なんです?」

 その場を後にしようとする夢遣いをなんとか呼び止めて。

「生意気言って、すいません」

 私は深々と、頭を下げた。

「気が動転してて。どうかしてました。もう落ち着きました。本当にごめんなさい」

 夢遣いはいつものように、ニッコリと笑う。

「では行動で魅せて頂きましょう。入院中のあの人の見舞いは任せましたよ」

 こうして、私の元に面倒ごとが転がり込んできたのである。

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