第7話

 外に出ると、探偵が軽自動車の運転席で私のことを待っていた。

「……黒塗りの高級車ってイメージが」

「アホ。んな悪趣味なもん買うか」

 煙草を更かしながら、さっさと乗れと探偵さんが、言う。

 車の中まで煙草臭そうだ。私が煙草を凝視すると、探偵さんは意外にも、胸ポケットから携帯式の灰皿を取り出して、その中に短くなった煙草を放り込んだ。

「ああ、猫にはちゃんと首輪を着けとけよ。助手席に置いてあるからな」

 探偵さんはどうやら私ではなく猫を見ていたようだ。あんぐり開いた私の口に気付かない。

「え? あ、はい」

 探偵さんのその行動があんまりにも予想外だったせいか、私は大した嫌味もぶつけず、言うことに従う。

 助手席のドアを開けると、ピンク色の、無駄に可愛い首輪がチョコンと腰掛けていた。

 探偵の趣味だろうか。少し引く。というかドン引きだ。

 いい大人が少女趣味の首輪ってどうよ。

 ともあれ、私は嫌がる猫に首輪をかけて、そそくさと助手席に座った。

「というか、どこ行くんでしたっけ」

 そう聞くと同時、探偵さんがキーを回す。

「…………どこでもいいだろ」

 そうつぶやくと、車はガタガタ揺れながら、クラッチを繋げて走り出した。

 なんだかギクシャクしている様に、私はどこか親近感を覚えて微笑む。

 ハンドルに手を添えて、探偵さんはチラリと私を見た。

 ギアがトップに入って、エンジンが更に唸りを上げる。

 それはエンジン音にまぎれてつぶやかれた。

「て……わけにも行かないか」

 呆けて前を見つめていた私には、それが本当に零れ落ちた言葉なのかそれとも勝手に聞こえたつもりになっているだけなのか分からない。

 気になって探偵さんのほうを見ると、いつになく真剣な目が、ルームミラーを反射して私のことを見つめていた。

 感情のない透明な視線。

 吸殻を捨て、丁度信号に引っかかった探偵は、ハンドルの上部で両手の指を組む。

 ブレーキがかかって止まった車体は、急にエンジン音を鎮めて黙り込む。

 だから探偵の声は良く聞こえた。

「墓参りだよ」

 たとえ聞くべきでない言葉でもだ。

「え」

 私が聞き返すと信号が青に変わる。

「誰の? って聞きたそうな顔してるから、教えておく」

 探偵がアクセルを踏む。続く一言を思わず聞き逃しそうになるほど、彼はエンジンを吹かした。

「幼馴染のだ」

 クラッチがつながって、またガタガタ揺れながら、私たちは走り出す。

「そ、そこまで聞いてないです!」

 私はなんだか、今向かっている場所のことが急に怖くなった。今ここにいるべきではない気がして、探偵さんが付いてくるなと言った理由が、分かったような気がした。

 そんなことはまるで気にも留めず、探偵さんは前を見ながら、懐かしむように、どこか上の空な調子で続けた。

「驚くことないだろ。そんなに珍しいことじゃない。殉職なんて……前の職場じゃよくあった」

「……? 転職されたんですか」

「ああ。ちょっとヘマしてな」

 トップギアで走り続ける車から外を眺めると、見慣れた街並みは徐々に過ぎていこうとしていて、気が付けば、そこはすっかり、私の知らない光景だった。

 知らない世界だ。 外はなんだか、とても冷たそうに見えた。

「ずいぶん走るんですね」

 それでもどこか、見覚えがある街だ。私はもう大学生にもなるのだし、外出だって好きなほうだったから、だから近隣がどうなっているのかくらい、知っているはずなのだ。

 そう、本当は知っている。

 なんとなく、探偵の幼馴染が誰なのかも、想像はついていた。

「前の仕事って、何をされてたんですか?」

「警察。大学出て数年やった」

 ふいに窓が開いたかと思うと、温くなった車の中に、春先のまだ冷たい風が流れ込んだ。

「どうも馴染めなくてな。すぐやめちまった」

 苦笑いを浮かべる探偵さんはやはりどこか上の空で。

「へぇ……」

 ぶっきらぼうにそう返すと、それきり言葉も交わせなくなって、私達は、車を降りるまで、そのまま無言でいた。


◆◆◆◆


 数十分は車の中にいただろうか。

 駐車場に車を停めた探偵さんの後ろに、猫を抱えてついていく。

 大きな墓地だ。

 いったいどこに件の墓はあるのだろう。

 探偵さんはここに着いてから一本も煙草を吸おうとしない。我慢しているのは火を見るより明らかだ。

 だから私はなぜだか声を掛けるのに気が引けて、ただ黙って後ろを着いて行く。

 ふと、探偵さんが立ち止まる。

 彼の前には一つのお墓。

 名は――

「……」

「よぅ、久しぶり。今日は遅くなっちまった……悪い、リッカ」

 ――ハザクラリッカ。

 風が冬の頃を思い出したように吹いたかと思うと、私は体が凍ったような錯覚を覚えて体に腕を巻きつける。

 刻まれた名前を見た途端、頭痛がした。

 だってそれは、私も良く知っている名前だったから。

 私の窓に雨が吹き付けた。

 思い出に、また、触れることが出来ない。

「ま、そのぶんたっぷり綺麗にしてやるからよ。おあいこってことにしてくれ」

 そう言って、探偵は何食わぬ顔で墓を掃除し始めた。

 ハッと我に返って、探偵さんを見つめる。

 その横顔は嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。

 ただ受け入れてしまっている顔。

 この事実をとっくに受け入れてしまった顔。

 それを。その表情を。私はなんと形容すべきなのだろう。いくら言葉を探しても、ふさわしい言葉はどこにも落ちていない。

 当たり前だ、殺風景な部屋なのだから。

 そんな探偵さんの隣で、私は黙ってじっと立って、その様子を見ていた。

 もの言わぬ墓石を磨き続ける探偵さんを、私はただ黙って、見ていることしかできなかった。


 一通り掃除をし終えたところだろうか。探偵さんは、買っておいた花をお墓に供える。

 線香を出すと、ジャケットのポケットに入れていたライターで火を付ける。

 曇り空に煙が昇っていく。

 上がった線香を見ていると、それはゆっくり短くなっていく。

「――……っ」

 何か、言わなければ、ならない気がした。

 何か聞き出すべきだと感じた。

 でも、それがなんなのか分からない。肝心な私自身が何を言うべきなのかを知らなかった。

 たぶん、それは、探偵さんを突き刺すような、鋭利な言葉だ。あるいはまた、彼の記憶を殴りつけるような、暴力のような言葉だ。

 おそらく残酷なことを聞こうとしている。でもそれがなんなのか分からない。私はその言葉を知っていた。

 知っていたのに。

 思い出せない。

「悲しく、ないんですか」

 だから苦しそうな声が喉の奥から漏れ出た時は、私がそれに一番驚いた。

 ハッと、口を堅く閉じる。

「何が」

 すると、探偵さんは乾いた声で聞き返した。

「幼馴染なんですよね」

 塞いでいたはずの口は勝手に開いて、また言葉を吐き出す。

「そうだな」

 あまりにも淡々とした調子の探偵は、口に煙草を咥えて言う。

「悲しくないわけないだろ」

「だったら」

「泣き喚いて欲しいか?」

「え」

「俺が今ここで泣き出したらお前、どうする?」

 ちらりと私を一瞥してから、もう一度お墓のほうを向いて、探偵さんは咥えた煙草に火をつけた。

 深く煙を口に溜めると、長く、長く、彼は俯いた。

 口の端から漏れる煙は彼の眸を覆い隠してしまう。

 その瞬間、探偵さんの姿も見えなくなったように思えた。まるで煙のように、探偵さんが空気と共に薄まって、消えてしまいそうだと思えた。

 探偵さんは上を向いて、煙を吐き出す。

 見えなかった眸の色は、煙がなくても、同じように、透明に思えた。

 なんの色もない眸。

 彼は機械のような声で、言った。

「悲しいに決まってる」

「じゃあ」

「だが、もう人前で泣ける歳じゃない。それに――」

「それに?」

「――もう、昔のことだ」

 口元を手で覆うようにしながら、探偵は深く煙草を吸った。

「悔やんだって悔やみきれない。だから悔やまない。そんな暇があるなら、他にすることがあるはずだ」

 煙を更かすと、その表情はまた一瞬だけ煙に覆われた。

「あいつはいつもそう言ってた」

 見えなくなった一瞬のうちに、私はがつんと、後頭部を殴られたような錯覚を覚える。

 それは。

「よ、よく、覚えていますね」

 嗚呼、それは。

「そりゃあ。……初恋の相手を忘れるやつがどこにいる」

 それは確かに、私が聴きたかった言葉だ。

「はつ――」

 頭痛がする。考えが纏まらない。

「……あとちょっとだった。けど俺のせいで」

 言葉を失った。

「今でも時々思い出す。――好きな女の最期を乗り越えられない。俺は、弱い男だよ」

 その言葉は聞こえなかった。ただはっきり「嫌だ」と思った。

「やめて!」

 頭が痛い。

「……悪かったよ」

 驚いた探偵の顔が見えた途端、頭に割れるような痛みが走る。

 猫が腕の中で暴れだす。私は頭を抱えて、思わず猫を取り落とした。

「聞きたくない! 聞きたくないよ!」

 嫌だ。

 頭が痛い。

 嫌だ。

 猫が低く唸っている――ような気がする。

 でもそれが、頭が痛くて自分が唸っているのか、それとも猫の声なのか、判断することは出来なかった。

 頭痛はどんどん酷くなる。いつの間にか目を閉じて、私はその場にうずくまった。

「う、あ、……う、う、う、……」

 言葉が、うまく、形にならない。

 頭の中で今までの言葉がグルグル回る。

 猫。中身。空。トビラ。中身。私。思い出。

 帰りたい気持ち。

 帰りたくない気持ち。

 理由。

 ここに来た理由。

 初恋。

「あ」

 脳裏に電撃が走ったような感覚と共に、一つの情景を思い出した。



 それは卒業式の日。

 高校を出て、そのまま大学への進級が決まっていた私にとって、卒業と言うものに大した意味はなかった。

 それは自分にとって背中を押されるためのものでしかなかったし、いざと言う時のための言い訳の……そう、免罪符のようなものでしかなかった。


 私には好きな人がいる。


 それはこの高校に来てから始めて知った感情だった。

 雷に打たれたようなとか――時間が止まったようなとか――色々、そういう、夢のような話を聞いていた私のことだから、それがそういう感情だと始めは気付かなかったのだ。

 なんせ、気が付いたらその人から、目が離せなくなったいたから。

 高校までは他人と深く関わらず、ずっと面倒ごとを避けてきた私にとって、そんなことをさせてしまう人物は危険人物でしかなかった。

 でも、目が離せないのだ。

 その人から。

 気が付けば目で追ってしまう。

 それを「恋」というのだと、高校生活が二年目を迎えた頃になって知った。

 何もかも初めてのことだった。

 がむしゃらに後を追った。

 私は走ることしか出来なかったから。

 追いついたと思っていた。

 追いついて、そして対等な関係を築いたと。

 そう思っていて、そして、実際にそうだったのかも知れない。

 ただ私に言えることは、私はその人のことをまったく見ていなかったということ。

 だから卒業式の日に、私は、その人に告白した。


 好きだったから想いを伝えた。

 伝えて、駄目だった。

 産まれて初めて恋心を知った。

 産まれて初めて失恋を知った。

 そして挫折を味わった。


 好きな人がいると言われた。

 そして、その口から出たのは私の――幼馴染の名前だった。

 吐き気がした。

 追いついたと思っていた。

 いや、追いついていたのだろう。ただ、彼女は別の場所を見ていただけだ。

 私などには目もくれず、ずっと私の隣を見ていただけだ。

 私が彼女を見ていたように、彼女は私の隣を見ていた。

 心が、ずっと続けてきたことが、否定されたような気がした。

 私にしかできないこと。私が一つだけ出来ること。それら全てが無駄なのだと、そういわれた気がした。

 私が追いかけた三年。

 それを嘲笑うかのように、私の幼馴染は、私の好きな人を隣に引き寄せた。

 でも祝福しようと思った。

 だけど憎らしかった。

 だからできなかった。

 涙は出なかったけど、言葉も出なかった。

 私はただ黙って、私の好きな人が、幼馴染のもとへと駆けて行く背中を――

「行かないで」

 ――何も出来ずに見つめていた。



 ……。

 …………。

 …………………………。

 思い出した。

 歩いていた理由を。

 頭痛が止んだことを知ると、なんだかあたりがひどく静かに感じた。

 ふと顔を上げると、目の前に嫌に大きくて太った猫がいるのが分かった。

 猫の目はギラギラしている。

 私に飛びつこうとしているのか、体勢は低い。

 猫と目が合った。

 嬉しそうな目だった。

 満足そうな目だった。

 獲物を見つけた目――

「危ない!!」

 視界の隅から飛び出してきた黒い影が私を突き飛ばす。

「あう!」

 私は地面に倒れこむ。

 痛い。

 ハッとして。

「哲人!」

 その名前を叫んだ。

 けれど、答えが返ってくるより早く私の目が哲人を捉える。

 それは、鋭い猫の爪が、哲人の体に食い込んで、胸から腹にかけてを切り裂く瞬間だった。

 それがゆっくり見えるのだ。

 ゆっくりゆっくり見えるのだ。

 傷口から血が噴き出してくる様子や。

 痛みを認識しきれず疑問の表情を浮かべるのが。

 ゆっくり見えるのだ。

「何してる! 走れ!」

 どうやら無意識に、哲人の――いや、探偵さんの方へ足を動かしていたらしい。

「猫を逃がすな!」

 その言葉でスローモーションが解けた。

 私は弾かれたように後ずさって猫を見た。

 もう一度探偵さんに飛びかかろうとしている。

 横目で探偵さんを見る。

 深呼吸していた。

 そんなことをしている場合じゃ――

「俺はできる、俺はできる、俺はできる」

 ――それは呪文のように紡がれた言葉だった。

 探偵さんが唱え終わると同時、猫が飛ぶ。

 何をしようが猫のほうが速いと感じるその中で、二つ、銃声が鳴く。

 いつの間にか構えていたらしい銃口が、猫の額を向いていた。

 穴が二つ、猫の額に空く。

 どさり、倒れこむ探偵さんの上を、意識を失ったらしい猫が素通りした。

「行け、春原」

「え――」

「すぐに動き出すぞ! その前に、猫につかまれ。そのまま……トビラに向かうはずだ……」

 猫に。

 あの大きな猫に。

 探偵さんを、哲人を傷つけた、あの猫に掴まって。

 一緒にトビラまで走り抜けろとそう言った。

「……――」

 その瞬間、あの時の――丁度空から落ちてきたときの――恐怖が、私の中で蘇る。

「そんな」

 考えなくても、声は出た。

「そんなぁ! そんなの、無理ですよ! 怖いじゃないですかぁ! そんな、あ、あれに、乗れですって!?」

 脚が震えた。

 走ることはできなかった。

 あの時の恐怖を拭いきれなくて。

 どんどん血に染まっていく探偵さんのことが恐ろしくて。

「そ、れよりも、きゅ、救急車を呼ばないと」

「やめろ」

「何言ってるんですか!」

「いいんだ。早く……猫を。もうじき動き――」

 その時、私の携帯端末が鳴った。

 こんな時に。そう苛立ちながら番号を確認したその時。

 猫がけたたましく吼えて、立ち上がると、そのまま、走り去っていく。

 私はその光景だけで、腰が抜けて、地面に座り込んだ。

 視線が落ちた先には、私の携帯端末があって。

 そこには、先日登録したばかりの人の名があった。

「夢遣い……さん?」

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