第6話
歩くのは苦手だ。何せ他人と歩調が合わない。
走るのが好きだ。他人と合わせる必要がない。
でも速く走れば走るほど、私の周囲はどんどん景色と一緒に溶けていって、どんどん見えなくなって、どんどん私は一人になって。
気づけば、追いつける人は誰もいない。
私が眺めていたのは、寂しい景色だった。
そして、その頃になって初めて思った。
どうしてこんなに走っているのだろうと。
私は元々どういう人だったのだろうと。
私を支えてくれた人は誰だったか。私を見てくれていた人はいたのか。私を守ってくれた人はいたのか。
私は。
私は一体、なんなのだろう。
私は一体、誰なのだろう。
私は一体、どうして走っているのだろう。
なんてことを。下らないことを。
振り切るために、私はまた走り出す。
往く道を妨げるものは何もない。
人も自転車も皆私を避けていく。昔はそれさえ心地よかったはずなのに、今は微塵だってそんなことは感じない。ただ虚しさが募っていくだけ。
ぐっと、いっぱいに息を吸い込んで、私は、一人きりの世界を駆ける。
走り続け、橋を渡り終えたところで、河川敷に降りて、さらに走る。
誰もいない、平坦な直線を、私は全速力で駆ける。
後少しで何かが思い出せそうだった。
でもその「何か」がなんなのか分からなくて、私はどうしてか、ずいぶん苛立っていると思った。
こうじゃなかった。もっと前の私はこうじゃなかった。
こうじゃなかったんだ。
叫びたい気持ちを、代わりに脚に込めて、速度をあげる。
景色はどんどん溶けていく。
私は、一人だ。
私は、独りだ。
帰りたい。孤独だ。誰も私のことを知らない。
息が尽きそうになって、ようやく減速して、それでもやっぱり、目の前に広がっているのは見知った街。
今度は歩いて事務所に戻る途中、考えた。
この街は窓から見える景色のみたいだ。
歩いていると、窓の外側を伝う雨の雫をなぞっているような感情がこみ上げる。
その雫には決して触れることはない。
ガラス一枚隔てた向こう側。
すぐそこにあるように見えるのに、いくら指で追いかけても、雫は指を濡らしたりしない。なんて意地悪なのだろう。
まるで私を戒めるように、雫は私の前で、するりと向こう側へ抜けてしまう。
雨の雫は想い出だ。
私は決して、それらに触れることができずにいる。
今まで積み上げてきたのは私なのに。
ふと風が吹くと雨が窓を覆ってしまうように、私は時々、この街を見失う。
押し寄せる想い出は私の視界をいとも容易く奪っていく。
歩いても走っても、私が立っているのはいつも空っぽの部屋。一歩だって、外に出ることは叶わない。
でも、それを疎ましく思うことに、理由はいるのだろうか? なんとか今を変えたくて、でもできなくて、どうしようもなくて。
だからこうして走たくなるんだと――誰にだって、分かることだと思う。
そしてそんな時、ふと外から、空っぽの部屋に来客があることにだって、大層な理由はいらないはずだ。
「……猫?」
橋の下の河川敷には、一匹の小さな猫がいた。
◆◆◆◆
「探偵さん探偵さん! この子飼っちゃ駄目ですか!?」
「名前で呼べって言っただろ。駄目だ、俺は猫飼育アレルギーなんだ!」
「適当なこと言わないでください! ほらこんなにつぶらな目をしてるのに……」
それは偶然のことだった。
まったく偶然のことなのに、なぜか不思議と現実味のあることだった。
私が走っていた先には捨て猫がいた。
私はそれをそそくさ拾うと、こうして事務所に持って帰って、今まさに探偵さんに向けて交渉している最中だ。
「駄目と言ったら駄目だ。そもそもお前、帰るつもりなんだろ。情が残るような真似してんじゃねーよ」
「う……それは、そうですけど……」
私が言いよどんだ所で、探偵さんは一応、拒否したことに対する正当な理由を教えることにしたらしい。
「……猫が降って来るのはお前も知ってるよな?」
「はい」
「まぁ、この降って来る猫ってのが中々凶暴でな。野良猫を飼うには厳しい検査と厳重な監視が必要だ」
「そんなの嘘八百です!」
「残念ながら本当だ。数年前に法案が通ってる。本来なら、こんなところに持ってこず、さっさと行政の方に処分を一任してるところだ」
しょんぼりとした表情で俯いで、同じくしょんぼりとした顔の猫を探偵さんの顔まで抱え上げる。
「ど、どうしても駄目なのかにゃあ」
「正直キツいし気持ち悪い。おまけに可愛くない」
「ひどい!」
猫の後ろから顔を出すと、探偵さんのデコピンを食らった。
「しかしまぁ、処分する側もパンク状態だってのは確かだ」
だが、意地悪なのもそこまでで、どうやら特例は認められたらしい。
「連絡が行くまで、ここで飼う事を許す」
それを聞いて、私ははしょぼくれていた表情をまたころりと笑顔に変えた。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げたのは初めてかもしれない。
◆◆◆◆
この事務所が良く請合う依頼の中に「野良猫の保護」というものがあるらしい。
だから物置のほうから猫用のグッズが一通り出てきたときは心底驚いた。
この人も猫は好きらしい。
だとしたらなんで拒否したんだ? とかなんとか思っていたら、原因はすぐに判明した。
「ちょっと一服してくる」
答えは単純、猫の前で煙草が吸えないから。
だから、お金を産む客ではない私には、とりあえず冷たく当たった。
私――つまり春原新芽は、そんなことに不満を感じながら、猫に向かって猫じゃらしを振っていた。
ちなみに夢遣いさんはいない。今朝方、私がランニングから帰ってくる少し前に出かけたそうだ。
なんでも、いつもどおりのほほんとした調子で出て行ったそうだが。
あの人は外でも浮いてたりするんだろうか? いや、雰囲気とかそういう意味ではなく、物理的にだ。
あの人は周囲に溶け込むのが上手そうだし、人の群れから浮くと言うことはないだろう。
私とは違って。
……ネガティブはやめよう。
「えへへ~可愛いなぁ~コイツめ~」
ゴロゴロ鳴るにゃんにゃんの喉と合わせて私もソファの上でゴロゴロする。
ああ、猫はこんなに可愛いのに。でも私は何も思い出せない。
にゃんにゃんのにゃんにゃんにはにゃんにゃんが詰まっているのだろうか……なんて、下らないことを考えた。
詰まっているで思い出したが、空から降って来る猫には中身がないんだったか。前に探偵さんが言っていた。
「……」
この子はどうなのだろう。
子猫が床に置いた猫じゃらしに飛びついたのを見計らって、私は子猫を抱き上げる。
ちょっとした悪戯心から、ふとお腹の辺りを指で押してみる。
子猫も私もシャワーは済ませてある。私は汗臭かったし、子猫は子猫で、菌を持っていたら大変だからね。
綺麗な子猫のお腹はプニプニとして柔らかかった。
さすがに、これだけで分かったら、厳しい検査なんか必要ない。当たり前だと、私は微笑んだ。
それにしたって、中身のない猫か。
まるで今の私みたいだと、ふと思った。いやいや私は内臓がちゃんと詰まった人間だと自分の中で否定してみるけど、その「中身のない猫」とやらが、どうしてか、ひどく自分と似ているような気がした。
同時に強く否定したくなるのはなぜだろう。
猫を抱えたまま、私は思考する。
たぶん、肉体的な意味ではないのだろう。
もっと深い部分。
精神。
心。
近しいと感じたのは、そういうものだ。
「子猫ちゃん、あなたはどうなの?」
「今時子猫ちゃんって口説き文句はどうなんだよ……?」
「うわぁ!!」いつの間に戻ってきたんだ、びっくりした。「一声掛けてくださいよ!」
ソファの後ろには、ついさっき吸ってきたらしい煙草の匂いを漂わせた探偵が立っていた。
「なんで一服しただけでそこまで……まぁいいか。お前の方こそくつろぎすぎだろ」
私が寝転んでいるからか、ほとんどスペースがなくなってしまったソファの端の方に腰掛けて、探偵は、すぐ近くのテーブルにおいてある書類を手に取った。
「何か思い出したか?」
「全然です」
正直に答えておこう。嘘をついたも損するだけだ。
「未だに空っぽのまんまですよ。どこに置いてきちゃったんでしょうね、私の思い出」
中身のない猫。
記憶のない私。
どちらも同じか。
「そういえば、降ってきた猫っていったいどこに消えちゃうんでしょう」
私が疑問を口にすると、
「あー……駆け抜けて人知れず消えるってのが通説だが……どうも違うらしい」
探偵はなんとも歯切れの悪い答え方をした。
「ちょっと調べた。あの女の話によると、猫はトビラを潜り抜けてこっちに来るんだそうだ。で、こっちから出て行く時も同じように、どこかにトビラが開く……らしい。詳しいことは調べ切れん」
何せ記述がないからな、といって、探偵は黙る。どうやら書類のほうを確認しているようだ。
……まさかとは思うが、日を追うごとに机の上に増えていく資料や本は全て、猫に関連していたりするのだろうか?
「帰る希望は、どうやらあるぞ」
「え?」
「トビラだよ。それを見つけることが出来れば、帰る事だってできると考えてる」
口に指を添えて、息を吹く。どうやらさっき一服したばかりなのに満足できなかったらしい。
黙った途端唇に指を添えるのは、どうやら探偵の癖のようだった。
書類と睨み合っていた探偵はふと顔を上げて、壁に掛けられた、捲られていないカレンダーを見る。
しばらく探偵さんは不思議そうな様子でカレンダーを見つめる。
そして、持っていた携帯端末の画面を点けてから、あ、なんて言いそうな勢いで立ち上がる。
「…………今日は何月の何日だ?」
どうやら探偵さんの長い長い冬は終わりを告げて、ようやっと春が来たようだった。
新年を主張し続けていたカレンダーは乱暴に切られて、事務所に四月の風が吹いた。
「4月18日です」
「マジで?」
うきうきしそうな春風を体の芯に受けて尚、探偵さんはなんだか落ち込んでいて落ち着かない様子だった。
探偵さんはぶつぶつ何か言いながら髪を掻き乱して、深くため息を吐いた。
「あぁ、すっかり……なんてこった、忘れるなんて」
外も事務所もせっかくの春だというのに、一体どうしたのだろう。私は珍しく心底そわそわしている探偵さんの姿を見て、首を傾げる。
らしくない。
「どうしたんですか、そんなに落ち込むなんて」
不意にそんな言葉が口をつく。どうやら自分が思うよりずっと、自分は探偵さんのことを心配しているらしい。
しかし当の探偵さんはごそごそ音を立てながら事務所の奥に歩いていく。私のことを気にする様子は微塵も無い。
「ちょっと出かけてくる。晩飯は、あの女とテキトーに作って食え」
「えぇ!?」
少し待つとそんな声が聞こえてきたものだから、私はうっかりソファから転げ落ちる。
「と、突然すぎませんかちょっと。私も連れてってくださいよ」
事務所の奥から現れた探偵さんはいつもよりも高そうなスーツを着ていた。
一緒に来るなという無言の圧力を感じる。
「連れてってくれないと猫と一緒に事務所を荒らしますよ! 本気ですからね!」
めげるかそんなことで。
「そんなに一人が嫌かよ。ああもう」
はぁ、と探偵は声も出してため息をつく。
「仕方ない……か? 本当は一人で行きたいんだけどな……いつ帰ってくるか分からねぇし……」
机の引き出しから車のキーを取り出して、ちらりと私のほうを見て。
「着替えて来い。ちゃんとした格好で着いて来るんだぞ」
そう言ってくれた探偵さんは、なんだか疲れた顔をしていた。
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