第5話
彼女――夢遣いは、とある商人の見習いである。
その商人は、数多の人を相手に夢を売り買いするという。
だから、付いた呼び名が、夢商人。
彼女は、夢商人見習いだった。
そんなものを売買する人間なのだから、たとえ見習いであっても他人の夢に入り込むと言う技術は必須となる。
つまり何が言いたいのかと言うと――
「こんばんは、春原さん」
「ど……どうも……」
――夢遣いはその夜、春原の夢の中にいた。
夢と言っても、長い時間そこにいても違和感がないように、背景や小道具は一式揃えてあるのだが。
「気分はどうですか?」
声をかけると、春原は萎縮しているのか、辺りをキョロキョロと見渡す。
「これどこから持ってきたんです?」
「細かいことを気にしていると、皺が増えますわよ?」
師匠は言っていた。たとえ強引な誤魔化し方でも、夢の中だから平気なのだと。
それに、こうして夢に介入を許すと言うことは、何か問題を抱えている証拠だということも。
すんなり介入できたことを考えると、問題とやらは深刻なのだろう。
「じゃあ気にしませんけど……なんの御用スか」
今まさに問題を抱えているのは、どちらにも言える事なのだが。
「なんの御用。そうですわね……強いて言うなら、誰にもバレない話し合いがしたくって」
だから、それを解決したい。どちらにも言える胸のモヤを、ここでなくしてしまいたいのだ。
夢遣いがパチンと指を鳴らす。
数個の椅子と、簡素な背景だけだった夢が、一瞬にしてモダンなバーへと姿を変えた。
店の中央にはビリヤードテーブルが置かれている。
「話し合いって……」今更と言いたげに。「……もう私から言う事、ないですけど」
先に腰掛けたのは夢遣いのほうだった。その清楚な見た目に反して、どうやらこういう場所自体に慣れているらしい。
戸惑う春原に対して、夢遣いが隣の席を薦める。
春原はあたりを忙しなく見渡してから、薦められた席に座る。心なしか、その頬は赤らんで見えた。
「な、なんていうか、緊張しますね、こういうの」
「ふふふ。夢なんですから。緊張するだけ損ではないですか?」
ごにょごにょと「エロいチャンネーとバー」なんて呟いたのは聞かなかったことにして。
こうして、余裕を持って春原を見るのは初めてかもしれない……なんてことを考えると、ならば春原にとってもこれは初めてなのだと、夢遣いは理解した。
なるほど、道理で。
「どうしました? そんなに見られるのはさすがに恥ずかしいのですが」
昼間の、飄々とした春原はどこへやら。
腕やら足やら胸やら顔やら、春原は暇さえあれば、夢遣いのそれを見ていた。
視線が男性のそれと対して変わらない。じっとりとした、湿り気たっぷりの視線だ。
「ああーいや。その、えっと」言葉に詰まる春原に微笑みかける。「あーもぅ……何ドキドキしてんだ、あたし……」
春原はようやく視線を外して、深くため息をついた。
「前から気になってたんですけど。あなたってどっちの世界の人なんですか?」
ふと零れ落ちたような問いは、夢遣いにとって答えるに足るものだったらしい。微笑みを崩さずに、いつの間にか置かれていたグラスを傾ける。
「どちらだと思いますか?」
余裕綽々と言った様子で、夢遣いはそう返した。
にこやかな表情で。しかし冷たい声で。しかもグラスを空にして。
そんな夢遣いに、春原は真剣な声を返した。
「……私と同じ世界の人、ですよね。そんな感じします」
声は正解を言い当てた。夢遣いはその事実を肯定する。
「正解ですわ。ええ。私もこちらに送られた身でして」
おもむろに、夢遣いが席を立った。
春原もそれにつられて席を立つ。
いつの間にか、夢遣いの手にはビリヤードのキューが握られていた。
「きっかけって、なんなんですか?」
「それは……この世界に来たきっかけ、ですか?」
群れる客を掻き分けて、夢遣いがビリヤードのテーブルにつく。それから、ボールを並べ始めた。
少し時間が出来た。そう判断したのか、春原は遠慮がちに、問いに補足を加える。
「こういうこと、できるようになったきっかけです。他人の夢に入れるなんて、普通できませんよ」
客は誰も、そのテーブルに近付こうとしない。
さて、はて、春原はいったいいつ、ここが夢の中だと理解したのだろうか。夢遣いは内心で、まだ未熟な自分の技術を罵りながら、キューの先端に青いチョークを塗りたくる。
キューを手に取って構えると、そのやけに色っぽい体つきがなおさら強調して見えた。
「おかしなことを聞く子。別に、面白くもない話ですのに」
春原には、手球がキューによって弾かれたのが辛うじて見えた。
というのも、動きが早くて……無駄が一切なかったことも、それを助長しているのだろうか。
ブレイク・ナインだ。
夢遣いは深くため息をついた。
「単にそういう職を手に付けている最中という話ですから」
あまり楽しく感じなかったらしい。夢遣いはキューをテーブルに立て掛けて、テーブルに腰を預けた。
そのまま、言葉を紡ぐ。
「……夢商人という都市伝説をご存知?」
春原が首を横に振ると、夢遣いのため息は続いた。
「夢商人は夢を買い、夢を売る。中には人を自殺に追いやる夢も――」夢遣いは遠い目をして。「――……ただ単に、その都市伝説は実在して、私はそれの弟子になった。それだけのことです」
春原が、今度は首を傾げる。
「……どうして弟子入りしたんですか?」
「どうしても手に入れたい夢があるんです」
即答だった。間髪入れず、夢遣いは続ける。
「だから弟子になった。……たとえ、その師匠が、私にとって仇だとしても。…………その夢に近付く道を、その人の他に知る者は、誰もいないものでして……」
夢遣いは、答える。
「あの人を師匠と呼びこそすれど、そうして慕ったことは一度だってありませんわ。そう、一度も。だってあの人は私から、最愛の人を奪ったんですもの」
続いたのは深いため息だ。
夢遣いにとって、それはあまり思い出したいことではなかった。同時に忘れられるようなものでもないのだが。
夢遣いが首筋あたりに手を掛ける。
それから髪をかきあげるような動きを見せて、もう一度ため息をついた。
「伸ばせばいいのに」
それを見て、憚らないのが春原だ。
「似合ってませんって、短いの」
平然として、表情一つ変えずに春原は言う。
「別に、小顔効果が〜とか、そういうのじゃないんですけど。美人ですし。……まぁ、長い方がもっと綺麗かなって、私は。それだけです」
「変な子」
「よく言われますけど、そんな変ですかね」
自分の太ももに肘をついて、春原は少し顔をしかめた。
「私、ただ、するべきことをすればいいって言ってるだけなのに。それの何が変なんですか?」
「すべての人間が、それを決めてしまえるほど強くはない、ということですわ」
「でも、するべきことを判断して、それを実行してけば、幸せになれるはずでしょ? まさしく自分の進むべき道なんだし」
不満そうに目を細め、春原が頬を膨らして、戻す。
「おかしいんだ、みんな。そういうことができてる人を見ると、いっつも除け者にして」
そして、一転明るく笑った。
「嫉妬ですかね」
「…………嫉妬、でしょうね」
夢遣いは対して、柔らかに、微笑む。
「あなたもあの人と同じ、ですか」
それは懐かしむような声だった。
「ねぇ春原さん。もし私が、女性に恋をしたとして、あなたはそれを……笑いますか?」
「さぁ? あんまり興味湧きません」
前のめりになっていた姿勢を戻して春原は言った。
夢遣いは安心したようにクスクスと声を漏らす。
「……髪を短くしていることには、理由がありましてよ」
それから真っ直ぐ春原を見て。
「決めてますの。たとえ似合っておらずとも、このままでいると。この髪をもう一度伸ばすのは、一人前になって、あの人と再開する時だと」
放たれた言葉に、春原はまた表情を変えない。
「変なの。恋でもしてるんですか?」
表情を変えずとも、その言葉は嘲笑を込めたものだと、誰が聴いても分かっただろう。それくらいはっきりと、春原の声には軽蔑の念が込められていた。
「恋……ですか」
夢遣いがもう一度、ゆっくり歩いてカウンターに戻る。
「恋をしたことはあるでしょう?」
椅子に腰掛けると同時、背を向けたまま夢遣いは言う。
「私は、それを忘れないと決めただけですわ」
夢遣いの言葉が切れるが早いか、春原はとにかくすぐさま反撃に転じた。
「忘れたい恋もありますって、絶対」
まるでそれを待っていたかのように。
「恋に生きたって、なんになるって言うんですか。破れるたびに死んでちゃあ、世話ないですよ。せっかくの、――」
そこまで言って言い淀むと、ふと春原は夢遣いの、その優しさに満ちた眸を覗き込んだ。
大きく息を吸う。それでも言葉は出てはこない。そして肺に吸い込んだ空気がほとんど使われて返ってくる頃になって、ようやく春原は、言葉を紡ぐ。
「――……一度きりの人生なのに」
たったそれだけの、短い言葉を。
果たして、前を向いているのはどちらだろうか。
「……何言ってんだろ私。ごめんなさい熱くなっちゃって」
背を向けて、夢遣いはグラスを手に持った。
しばらくの間、夢遣いも春原も黙り込んでいた。春原にはもう話したいことがなかったし、夢遣いには、春原が放った言葉をよく噛み砕いて、しっかりとした言葉で返すまでに時間が必要だったから。
「――生きる理由ではないんです。今あるのは、そのためなら果ててもいいという覚悟ですから」
グラスの中の氷が、カランと音を立てた。
「心中なんて」春原は、言う。「そんなの自分勝手ですよ」まるで堰が切られたように。「できるなら、それに付き合ってくれたなら、どんなにいいか……!」
互いに、表情を伺うことはしなかった。
だから、夢遣いに春原のことなど見えなかったし、春原には、夢遣いの静かな覚悟など、知る由もなかった。
「ホント、すいません。何言ってるんたろう私。何も思い出せない癖して」
「仕方ありませんわ。ここはあなたの記憶の奥底に、一番近い場所ですから」
足音を控えめに響かせながら、春原が夢遣いの隣に座る。
そして今度もまた、一転して明るく笑い、そして言った。
「じゃあ次は楽しい話を聞かせてください。夢の話を」
続く言葉に、夢遣いは、思わず、いつもよりもずっと堅苦しい表情を浮かべた。
「私、好きですあなたの話」
それは、憧れの人の最後の言葉に、良く似た響きを孕んでいたから。
「早いな春原……」
「あ、おはようございます。夢遣いさんも」
「はい、おはようございます」
翌朝。
朝日が昇ったばかりの時間に、春原は、玄関で靴紐を結んでいた。
「あの、夢遣いさん!」
「はい?」
「なんか、ごめんなさい」
「……どうしたんですか、突然?」
「いや、なんか、昨日、夢で失礼なことをした気がするんで……だから謝っておきます」
俯いていた顔を上げて、春原が、明るい笑顔を見せた。
「それだけです。んじゃ、朝練いってきまーす!」
驚いた顔の夢遣いをそのままに、春原は、玄関を開けて走り出した。
「……何かあったのか?」
「ええ、まぁ。変わった夢でも見たのでしょうね」
玄関が閉ると同時、夢遣いは、気が抜けたように、また宙に浮かんだ。
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