第4話

「腑に落ちませんわ!」

「ま、まぁまぁ」

「だいたいなんなんですのあの方! ことあるごとに子供子供と! まったくもう、まったくもう!」

 予備のジャージに着替えた春原を待っていたのは夢遣いとのお使い、という名の愚痴の相手だった。

 探偵からしても、相当不満を溜めていることが伺えたのだろう。春原に夢遣いをぶつけた当の本人はきっと今頃盛大に煙草を吹かしているのだろうけど、それでも、いつも飄々としている夢遣いが怒っている姿を見て、なんだか愉快な気分になる春原だった。

 スーツしか持っていないのか、それともずっと同じ服なのかは分からないが、夢遣いはこんな時でもぴっちりとしたスーツを着込んでいる。

「面白くありませんわ!」

「面白いかどうかで判断しきれないことだってあるっしょー」

 街行く二人はなんだか奇妙な二人組みに見えた。

「それで、鰤の照り焼きでしたっけ? 走っていけばスーパーのセールに間に合うんじゃないですか?」

 上着に付いたポケットに両手を突っ込んで、春原はにこやかに言う。

「なんだか、春原さんまで悪い顔をしてますわ……」

 新たに愚痴を零すと、春原が片眉を吊り上げてこちらを見る。

「いやいや、意外なんですよ」ころころと笑って。「そういう一面もあるんスねぇ」

 春原はそう、楽しそうに言った。

 ふと、思いついたように、春原が夢遣いのことをしっかりと見る。

「一面ついで聞いときます。料理は得意なほうですか?」

「馬鹿にしないでいただけます?」

 あまりに真剣な表情で聞いてくるものだから、挑発の類だと勘違いしたらしい。夢遣いは笑顔のまま、なるだけ感情を抑えた声で答えた。

 いや……ただ純粋に気になっただけかもしれない。そう思い直す。

 先ほど私が怒っている姿を見て「意外だ」と言っていたじゃないか。

 心の中でそう整頓し、夢遣いが今度は自信を持って続ける。

「ご心配なく。私、こう見えて花嫁に求められるスキルは一通りこなせますから」

 自慢げに胸を張る。

「そっスか」

 対して春原の反応はごく薄いものだった。

「んじゃ、台所は任せます。私、料理、からきしなんで」

 どころか、続いて出たのは役目を一任する言葉。

「今日はきんぴらごぼうが食べたいなぁ」

 どうやら最初から、このリクエストのために着いてきたらしい……ずっと我慢していたため息がついに吐き出されるのを感じて、夢遣いは大きく肩を落とした。

「あなたもあの方も、少しは生活力をお付けになったらどうですの?」

 はぁぁ、と深く、深く、深く、長くため息を吐く夢遣い。

「どうしたんですか、ずいぶんうんざりしてますけど」

「仕事を任されてこっち、碌なことがありませんわ……」

 思い返して見ても実際良い思いはしていなかった。

 正直なところ、夢遣いはあの探偵、鉄 哲人のことが好きではない。つまり当然、二人きりの時間が自然と多くなる今の仕事は苦痛でしかなかった。

「仕事って……夢遣いさん、何されてるんです?」

「ある人の下で見習いを――」と、師の言葉を思い出す。「んっん! なんでもございません。ヒミツです」

 口止めされていたのを忘れていた。夢遣いは口を固く横に結ぶ。

「ふーん……」春原はくじけない。「探偵さんとはどれくらい一緒にいるんで?」

 これには答えられる。夢遣いは今さっき開くまいと閉ざした口をあっさり開けた。

「半年ほどですわね」

 唇に指を添え、今までのことを思い出す。

「まぁ、私もあの方も、職業は似たようなものですから。色々と都合が良いのです」

 話は合わないことの方が多いのだが、それでもあの探偵は、探偵として、とても頼りになるのは確かだ。こちら側の世界で売れない商売を続けていることが勿体無く思える程度には、才覚に溢れている。

「仲良いんですねぇ」

「どういたしまして」実際は真逆だが。

 春原は満足そうな表情で前を歩く。

 少し遠い。

 探偵との仲は悪い。

 むしろ、この世界に来てからは、誰一人として友と呼べる人物がいない。

 夢遣いとて、努力をしていないわけではない。

 半年で何人も、迷い込んだ人々をこの世界から元の世界へと帰還させてきた。

 一月余りで気が付いた。パートナーと呼べるような、友と呼べるような、そういう関係を客と築けなければ、依頼はすぐに終わらないと。

 そうでなければ相手は快く情報を差し出さないし、帰ったらいいことがあるという、夢遣いの言葉を信じてくれない――人間、自分の考えなんてものは根本的に信じはしないのだ。

「私は苦手ですわ、あの人」

 気付いて同時、夢遣いは、最大の障壁はあの探偵だということにも気が付いた。

 夢遣いの元へと送られる客は基本的に女性なのだが、皆が皆、鉄 哲人という人物に恋をしてしまうのだ。

 それはもうぞっこんに。

 夢遣いが苦手とする相手に惚れた人間が、夢遣いのことをどう思うか。……結果は見えている。

「あぁ、もう……すいません、私怖い顔、していませんか?」

 後ろを振り返ろうともせず、春原はポケットに手を入れたまま答えた。

「暗がりなんで良く見えません。いつも通り美人だと思います」

「は?」変な声が出た。「今なんと?」

 やっと春原が振り返る。

 表情にやわらかさが無い。

 大きいが鋭い、猫のような目で夢遣いのことをじっと見る。

「いつも通りですよ」

 至って普通に、春原はそう復唱する。

「あ、ありがとうございます」

 どうやら聞き間違いだと思ったらしい。

 春原は猫背をさらに丸めて、夢遣いの前を行く。

 ……この子はどうなのだろう、と思う。

 少なくとも、夢遣いに対する態度が素っ気無いと言うのは分かりきっている。だからと言って、探偵に気があるかどうかと問われると、そうでもないように見えるのだ。

「春原さんは、」聞こうとして、止める。「お好きなんですか、きんぴら」

 苦しい修正だと顔をしかめるが、春原は特に気にする素振りも無い。

「友達の得意料理なんですよ」

「友達、ですか」

「はい、友達です。今となってはもう、いないのと同じですけどね」

「なぜです?」帰るつもりだと言ったのに。「また会えるではないですか」

 春原はポケットから手を出して、ぽりぽりと頭を掻く。

 言いあぐねているのか。

 上を見上げてから、春原が首を傾げる。

「あれ……? なんでだったかな。思い出せないや」

 どうやら、今は会いたくない相手のようだった。

 言葉が嘘でも本当でも、なんとなく、春原にとってその「友達」の存在は、大きなものであると、夢遣いは感じる。

「そうですか、あなたには、友達がいるんですね」

「当たり前でしょう。友達面は簡単に作れますからねぇ」

 嘲笑するのが見えるようだった。いかにもくだらないと言いたげな言葉の後で、春原は「いやでも」と付け加える。

「そういう意味じゃ、本当に友達って言える人が、何人いたかな……」

 付け加えて、自虐するようなことを言ったのに、春原はそれでも楽しそうだ。

「不思議ですよ。私。そんなことも分からないのに、帰ろうとしてる」

「ええ、不思議な人ですわ、春原さんは」

 自分とは違うと思っていた。

 今も思っている。

 でも少し変わった。

 春原と自分は似ている。

 なぜだか夢遣いはそう思う。

「それだけ、大切なのでしょうね。やり残したことが」

 春原は夢遣いの方を振り向いて、ニコっと笑う。

「たぶんね」

 返されたのは、曖昧な返事だった。

「じゃ、まぁ。ちゃちゃっと買い物済ませましょうか。外結構冷えてますし」

 夢遣いが次の質問をぶつけようとするより早く、どうやら目的地が目前に迫ったことを、春原が伝える。

「ジャージだから寒いんでしょうが」

 額に手を添えて、夢遣いはため息を吐く。……この人の友達とやらは、こんな気持ちを味わったことがあるのだろうか、なんて、思って、なんだか親みたいだと笑いが零れる。

 呆れた、と思った。

 同時、自分はこの子より、大人なのだと、夢遣いは自覚する。

「まったく。こういう時は、もう少し暖かくなさってください」

 そう言って、夢遣いは自分のジャケットを春原に羽織らせる。

「風邪を引かれても厄介ですから。万全でないと、送り返せませんわ」

「あ、ありがとうございます」

 財布を見る。食材を買い揃えるには十分だろう。当面の分も、追加で購入するのもいいかもしれない。

 だいたい買うものの目星を付けていると、春原がふとつぶやく。

「煙草の匂いがする」

 なんてことを。

 そりゃあ、あの探偵と一緒だから、するだろう。

「……探偵さんの匂いだ」

「違います。それは芳香剤の匂いです」

 毎日のように洗濯機を回しているのは誰だと思っているのだ。

 それはシャツに付いた芳香剤の匂いが移ったのであって、決して探偵の匂いではない。

「むしろ私の匂いではなくて?」

「芳香剤と、煙草が、ですか? それってなんか、男の相手ばっかしてるって風に見えません?」

 痛いところを突かれたが、夢使いは笑ってごまかす。

 いずれにしても春原はすんすんと鼻を動かしながら、不思議そうに首を傾げる。

「うーん。確かに、探偵さんの匂いそのものかって聞かれたら、違う気もしますね」

「それはそうです」

「でも分かんないな。だって、夢遣いさんの匂い、知ってるわけじゃないし、私」

 当たり前だ。

 隣を歩いたことも無いだろうし、寝所を共にしたことも無い。そもそも、春原が他人一人一人の匂いに区別をつけているとは思えない。

「へぇ。夢遣いさんは、こんな匂いがするのか」

 楽しそうな顔で、春原はなおもジャケットの袖に顔をうずめている。

 なんだか恥ずかしい。

「なんか大人の匂いって感じですね」

 弛緩しきった笑みを浮かべて、春原はそんなことを言う。

 照れ臭いのか、夢遣いは整っている前髪を指で弄くる。

 大人だなんて言われたことがなかったから。

「おかしなことを言う子」

 ガーっとスーパーの自動ドアが開く。春原は少し早足で店内に入ってそそくさと籠とカートを用意して、夢遣いの方を振り返る。

「よく言われます」

 そういって、呆れた顔をした夢遣いに向かって微笑んだ。

 なんだかため息をつくタイミングを逃した夢遣いは、力の抜けた笑顔で応える。

「あ、なんかやっと柔らかい顔になりましたね」

「はぁ……?」

 ガラガラとカートを押しながら店内を歩く。

 野菜を目利きする片手間に、夢遣いは適当に聞き流した。

「いやぁ、なんていうか。夢遣いさんはもっとやんわりしてた方がモテますって、絶対」

「左様で」モテる必要などないのだが。「あ、その生姜取ってくださいまし」

「はいはい。それで聞きたいんですけど、夢遣いさんって今付き合ってる人とか」

「いません」くだらない。「お味噌汁も作りましょうか」

 味噌汁の材料は。夢遣いは極力安いものを籠に入れながら、春原の話を聞く。

「いいッスね。じゃあいないんですか」

「今答えてなんの意味が?」

「あいや、気になったんです」

「……私が言えた義理ではありませんが、他人の情事には、あまり首を突っ込むべきではありませんわ」

 今は答えたい気分ではなかった。総合的に考えても、機嫌が良いとは言えない。下手に答えたら強く出てしまうだろうと思うと、それが夢遣いを踏み止まらせる。

「ただ言えるのは、誰のことも好くつもりはありませんし、誰とも恋仲になるつもりもない、ということです」

「お硬いんだ。遊んでそうな見た目してるのに」

 どうやら相当な偏見を持たれているらしい。

「勝手なイメージですわ」よく言われはする。「もやしも買っておきましょうか……」

 遊んでいるだろうと、よく言われはする。異性は私を見るとそう思うのだろうと夢遣いは独りでに納得していたけれど、なるほど同姓からしてもそう見えるらしいのは意外だった。

 嫌われてしまう理由の一つかと思うと複雑だ。夢遣いはほんの少し苦い顔をする。

「でも、案外しゃっきりしてるんですね」

「案外、は余計です」

「えへへ。でも凄いです。やっぱり夢遣いさんは大人です」

 一体、どこをどう聞いたら、そう言えるのだろう。もしや春原は適当なことを言っているのではないか。

 味噌を見比べながら夢遣いはそう思った。

「私にはできないな……その、余裕って言うんですか。ナイスバデーっていうんですか」

「はぁ」結局、体か?「赤出汁でよろしいですか?」

「お、私好きですよ赤」

「ではこれで」

「はいはい。で、話の続きなんですけど」

「結局、体でしょう?」

「へ?」

「結局体でしょう、と言ったのです。でもこんな体、大人でもなんでもありませんわ」

 春原がぽかんと口を開けたまま、しばらくカートと共に突っ立っていた。

 それからちょっと考え込む。

「ち、違いますよ!」

 どうやらようやく、反論を思いついたらしい。

「何が違うので?」

「違うったら違いますよ! そりゃ確かに体つきも大人だなって思いますけど!」

 ほらやっぱり。そんな目で見ると春原は怯んで後ずさる。

「い、いや、確かに七……や、四割? は体のことですけど」

「ほらやっぱり」

「違うんですって! あの、なんていうんですか。持ってるものの多さっていいますか。自分の守り方を知ってると言いますか。とにかくそういう部分ですよ」

 鮮魚のコーナーに立ち入ると生臭い匂いがした。「残ってればいいのですが……」

「ちょっと聞いてるんですか!?」

「ハイハイ聞いてますわよー」

 春原が言ったものは全部、学生時代に学んできたものだ。

 歳不相応に熟れた体だ。同級生から好色の目で見られることは多かった。

 だから相手から自分を守る術は自然と身についた。今日に至るまで、そしてこれからも、それは続いていくというだけだ。

「だから、その、そういうところがカッコイイって思ったんですけど」

「頑固なだけです」

 そう、頑固なだけ。

 依然として過去を引きずっているだけだ。

「探偵の彼ともうまくいっていない。それが証拠ですわ」

「えぇ? そうかなぁ。私は仲良いと思うんだけどなぁ」

 どうやら、本当にそう思っているらしい。

「誰とでもうまくやる。それは当たり前のことですから」そして、ずっと昔に決めたこと。

 たとえ嫌いな相手でも、頼らなければいけない時があるのだ。学生のうちはそうでないかもしれないけれど、大人になって社会に出れば、そういう機会は必ず訪れる。

「当たり前って言えるのが凄いことですよ」

「そうですか」

「そッスよ。私、逃げてばっかりですもん」

 逃げてばかり。

 とてもそうは思えなかった。

 なにせ春原は夢遣いよりも頑固だから、その春原が安易に逃げ出すような人間だとは、思えない。

「時には逃げることもありますわよ」

「でも時々でしょう?」

「ええ。仕事から逃げるわけにはいきませんから」

 仕事、仕事。思えば随分無味乾燥な日々を送っている。

「ビジネスライクな性格ってやつですねー」

「ん……」そう来るか。「そうかもしれませんね」

 頼まれたのは鰤の照り焼きだったか。切り身をカゴの中に入れる。

「探偵さんって、どうもそういう感じしないんですよねー。なんというか、仕事してても上の空っぽいというか。常に何か気にしてるんですよ……」

 どうやら、次の話題に移ってくれるらしい。

「気になるのですね、あの方のこと」

 そう自分で言っておいて、夢遣いはため息を吐いた。

「そりゃあ気になりますよ。なんてったってあいつは私の――」

 そこまで言うと、春原は不意に言葉を切った。

「私の?」

 追撃すると、春原はギクリと肩を震わせて、ぎくしゃくと身振り手振りで動揺している様を伝える。

「な、なんでもないッス」

「嘘ですね」

「嘘じゃないですよ!」

 見え透いた嘘だ。第一、隠し事がなければそんなにドギマギしたりはしない。

「鉄さんのことが好きなんですか?」

「違いますよ! 誰があんな不良となんか」

「あの人は真面目だったと聞いてますが」

「とんでもない! あいつの酷さったらないんですよ? おとなしそうな顔してすっごく凶暴なんですから! ちょっと喧嘩が強いからって、いっつも人のこと殴ってくるし。すっごい毒舌だし。生傷が絶えないったら……付き合った子が可哀想ですよ」

 意外だったらしい。夢遣いは少し眉を上げて目を大きく開ける。

「良くご存知なんですね、あの人のこと」

「へ」

「出会って数日しか経ってませんのに」

 春原が「あああああ」なんて情け無い声を出すのを背にして、夢遣いはレジに並んだ。

 探偵から渡された諭吉がばらけて帰ってくる。

 レジ袋をもらって、レジを出る。

「……誘導尋問ですよさっきの」

「知りません。貴方が勝手に話しただけでしょう」

 買ったものを袋に詰めると、何か言うより早く春原がそれを持つ。

 夢遣いの胸を見つめて「肩凝り」と口が動いたように思えた。

「意地悪です。ずるいです」

「そうです。大人はずるいんです」

 そして、スーパーを後にした。


 外は風が吹いていた。スーパーの中にいたのは僅か数十分のことだけど、随分冷え込んだように感じる。

「夢遣いさんは」

 道の端を歩きながら、春原が問いかける。

 相も変わらずジャケットは借りたままだ。

「どんな子供だったんですか?」

「…………なぜそんなことを?」

 思わず棘のある言葉になってしまったかと、夢遣いが笑顔を付け加えて場の空気を繕う。

「いいじゃないですか、仲良くしましょうよ」

 春原はそれにあわせて笑顔を見せた。

 夢遣いと春原の目が合う。

「詰まらない話ですよ」

「いいです。面白いかどうかは私が決めます」

 眩しい笑顔だ。

「簡単でいいんですよ。どんな学校行ってたとか。どんな友達がいるとか。そういうので」

 眩しい笑顔で、夢遣いの胸の内を照らそうとしてくる。

「……」良しとは言えないけど、「なら少しだけ」答えないわけにも行かない。

 夢遣いはもはや、記憶の奥隅へと追いやられた「学生時代」とやらに思いを馳せた。

「特に、これと言った専門知識を学んでいたわけではありません」

 その記憶の中にあるのは、まだ小さかった頃の自分。

「でもずっとピアノをやっていたのを覚えていますわ……先輩と一緒に良く練習したものです」

 そして、色褪せた青春だ。

「厳しい先輩でした。決してミスを許してくれない。どんな先生より厳しい人でした」

「好きだったんですか?」

「ええ。尊敬もありましたけどね」

 思い出せばそうと思いさえすれば、易々と思い出せるものだ。

「色々ありましたわよ。先輩は天才と呼ばれるほどの人でしたから、その才能に悩む事も多かったようですし」

 今となっては他人事のように感じるけれども、夢遣いにとって、それはかけがえのない記憶なのだ。

 そう、奥隅に追いやってはいるけれど、その記憶はその隅で、確かに大切に鍵の掛かった箱に守られている。

「……先輩はある時を境に学校に来なくなった。来れなくなったのです。それを知って、お見舞いに行って……そして……」

 春原の方を見る。

「以上です」

「ええ!? 今盛り上がってくるとこでしたよね!?」

 前のめりになった春原に笑顔を向けて。

「隠し事の一つや二つは誰にだってあるものですわ」

 夢遣いは、その記憶に再び鍵を掛けた。

 自分の原点はそこにあった。自分がこの世界でこんなことをしている理由は、そこにあったのだ。誰かに話すようなことではないし、できるだけ見ないようにしていた記憶の中に。

「大人でなくてもね。春原さんだってそうでしょう?」

「ずっけぇんだ」

「貴方のことを聞かないだけマシでしょう」最も春原は話せないのだが。

 今度は春原と並んで歩く。

 春原は笑顔のままだ。出かける前より、表情は随分柔らかくなったように見える。

「……これでもまだ私を大人だと思うんですか」

「え? なんでそんなこと聞くんですか」

「単純に歳が上というだけですのよ? 誰からも……みんな私を大人とは言わない。ただ子供が背伸びをしているだけだと」

 夢遣いは、ふと言葉を止める。何を話しているのだろうと思ったからだ。

 でも、と夢遣いはもう一度息を吸う。

「当たり前のことですわ。私は大人であることを言い訳にしている」

 本当に大人だと言うのなら、そんなことはしないはずなのだ。本当に大人だと言うのなら、胸を張って清清しく生きていけるはずなのだ。

 少なくとも夢遣いにとって大人とはそういうものだったし、皆が皆そう思っているのだろうと夢遣いは考えているのだ。

 だからこそ、彼女は胸を締め付けられるように思うのだ。

 自分はただ……大人になるのが怖いのだと。

「歳をとる。経験を積む。それは、それだけで大きな力になるのです。だから責任も同じように大きく、そして背負いきれないほど重くなっていく」

 自分はただ、何もしないまま大人になってしまった自分の中に、ちゃんとした経験を詰め込みたいだけなのだと。

「大人が子供を羨ましがるのは、一重に責任の重さからですわ。私には背負いきれない。貴方の人生も。探偵さんの仕事も。この世界に降ってくる猫達のことも。私一人で背負うには、私はあまりに未熟で……」

 夢遣いは俯いて、しばらく地面を見つめていた。

 今はこの体さえも煩わしかった。

 碌に足元さえも見えない、こんな体が煩わしいと感じた。

「……」場の空気が重い沈黙に流されていく。

 もう一度笑顔を向けなければ。夢遣いがそう思って目を瞑ると、誰かの――と言っても一人しかいないのだが――冷たい両掌が頬を挟んだ。

 夢遣いは目を開ける。

 春原が目の前にいた。

 身長は私の方が高かったはず――なんてことを思いながら、夢遣いはしかし、春原のことをただ黙って見つめる。

 気にならなかった。

 春原が段差の上でつま先立ちしていることとか、買い物袋が思いの外重くて左腕がプルプルと震えていることとか、そんな細かいことは。

 気にならなかった。春原が、あまりに真剣に夢遣いの瞳を覗き込んでいたからだ。

 春原の背後を車が通り過ぎていく。

 やけにエンジンが煩く感じた。

 やけにライトが眩しかった。

 視界の中心にいる春原だけ薄暗い。

 血色のいい肌をしていた。頬に触れる掌は柔らかい。

 髪は日光に焼けた茶色だろう。車が通る度にその色が透かして見えていた。

 鼻はそこまで高くない。唇もそんなに厚くはなかった。

 元気そうで、ただ元気そうで、色恋沙汰も、人の汚さも、何も知らないような、そんな女の子だ。

「夢遣いさん」

 ――そう、この声と、この瞳がなければ。

 春原の目はほんのりと茶色い。それはまるで瞳孔に向かって収束していく放射線のようで。

 真っ黒な色の瞳孔が、夢遣いのことを覗いている。その周りでゆらゆら揺れる茶色い虹彩を見ていると、自分の驚いた顔が映っていた。

 そして、春原の声がした。

「せっかくの美人が台無しです」

 この声だ。

 賢そうな、落ち着いた声だ。

 元気そうな見た目からは予想もつかない声だ。

 この声に話しかけられると、私は何もかもを打明けたくなってしまうのだと、夢遣いは自覚する。

「…………はい」

 自覚して、それで。何にもならないのだけど。

「分かってるんじゃないですか。自分のこと。大人のこと。そうやって分かってて、なんとかしようとしてる夢遣いさんのこと、私、大人だって思います」

 春原は淡々とそう言って、しばらく夢遣いの瞳を覗き込んでいた。

 数台車が通り過ぎてやっと、春原が無表情を崩す。

「あはは、やっとうまく言えました」

 掌が離れた頬を、今度は夢使いが自分の手で押さえる。

 熱い。

 らしくないと思うと、なんだかまたため息が漏れるのであった。

「……春原さん」

「はい?」

「帰りましょうか」あの探偵がいる事務所に。

「はい!」

 春原のことを、少し見直そうと思った夢遣いだった。


◆◆◆◆


「ただいま戻りましたー」

「おーぅ」

 事務所に戻るといつものように、探偵が口から煙を蒔いていた。

「遅いと思ったら、大層な荷物だな」

「ええ。どこかの誰かが、滅多に買い物をしないせいで」

 事務所に帰ってきた二人は靴を脱ぐと、その足で台所へと向かう。

「春原さんはテーブルの方を」

「はーい」

 夢遣いはどこからともなく取り出した簡素なエプロンを身に着けて調理を始める。

「探偵さーん布巾ってどこですかー」

 二人が動いているのを見て、椅子の座り心地が悪くなったらしい。探偵は煙草を咥えるのを止めて、春原の指示に答えた。

「裏のもの干し場にあるんじゃないか」

「じゃ行ってきましょうか」

「お、頼めるか」

 春原は頷いて、事務所の奥へと消えていく。

 それを見て、探偵は自分の机の上に置かれた――どうやら灰皿代わりらしい――空き缶と煙草を手に、夢遣いのいるキッチンの方へと顔を出した。

「お前、ジャケットは?」

「見てませんでしたの? 春原さんにお貸ししてますわ」

「ほぉう」

「なんですの一体」

「いや、別に」探偵は煙草を咥え直す。「案外優しいんじゃないか」

 料理に匂いが移ったらどうするんだという夢遣いの視線に、探偵はニヤニヤしながら換気扇に向けて煙を吐く。

「で、どうだ。春原とはうまくやれそうか?」

 包丁で野菜の皮を剥きながら、夢遣いは鼻歌交じりに調理を始めた。

 その余裕振りから見ると、答えはイエスであったらしい。

 探偵が口の端を綻ばせると、そこから煙が漏れていく。

「なら、いいんだ。それだけ気になってたんだよ」

「どうしてです?」

 探偵が「ん?」と言って、目で聞き返す。

「どうしてそんなことを気になされるのです?」

 その言葉に、探偵は空き缶の中に灰を落としてから答える。

「歳の近いヤツがいた方が、気が楽なんじゃねぇかと思ってな」

 火が水に触れて消える音がした。

「……結局同じですわ。あの子が帰ればまた二人です」

 包丁の音が響く。

「そうだな」

 そう言うと、探偵が缶の頭に煙草を押し付けて火を消す。

「……別にいいんじゃないか」

「何がです?」

「俺が言うのもなんだが、お前、転職したがってたろ。……春原と一緒に雇うのも考えてるところだが、どうする」

 夢遣いの手が傍と止まる。

 探偵の方を見て。

 そして、春原の言葉を思い出す。

「有難いお話ですけれど……」

 あながち、間違っていなかったようだ。

「そうか。ならいい」

 春原は、夢遣いと探偵の仲はそう悪くないといっていた。

 どうやら自分が一方的に嫌っていただけだったらしいことを知って、夢遣いはなんだか拍子抜けに感じてしまって、呆れたように肩を竦める。

「まさか貴方からそんなことを言われるなんて思っても見ませんでしたわ」

「意外だったのか」

 きっと何かしら、探偵に買われるようなことがあったのだろう。それは夢遣いにとって確かに喜ばしいことではあった。

 何せずっと子ども扱いされてきたのだから。少しは認められたような気がしたのだろう。

「まぁ、確かに料理も碌にやらない男を一人残すよりは安心でしょうけど」

「料理くらいできる」

「そういうことではありませんわ」今やっていないのが問題なのだが。

 着々と料理を進めながら、夢遣いは先程のスカウトの言葉をもう一度、自分の中で繰り返す。

 春原が未だに戻ってきていないのを見計らって、今度はしっかりと、断りの理由を話すことにした。

「申し訳ありません。どうしても…………。ここに残ると言うことは、あの子を裏切ってしまうことになりますから」

 探偵は、また意外そうな顔をして――しかし、次の言葉を待ってくれる。

「できません。あの子を裏切るようなことは。私はあの子の前でくらい、大人の女でいたいんです」

 そう言ってみて、夢遣いは何故だか恥ずかしさで頬を紅くする。

「ええ。私だって、真面目にやろうと思ってますのよ?」

「意外だね。お前はもう少し軟派なやつだと思ってたんだが」

 包丁を再び持って調理を再開する。

「与太話はこれくらいでいいでしょう。」春原の足音だ。「鉄さんには食器の用意をお願いできますか?」

 探偵も春原の足音に気付いたらしい。

 缶をシンクに置いて、食器棚の中身を弄くる。

「そうかい」

「何がです」

「お前にも、やりたいことができたんだな」

 ガチャガチャと音を立てながら三枚の皿を取り出すと、それを水で軽く洗い出す。

 どうやらしばらく使っていなかったらしい。

「大事だぜ。仕事を続けてくならな」

 夢使いがチラリと横目に、探偵を見る。

 普段着だ。よれよれの服と、がっしりとした体格が絶妙に合っている。

 大人の男、と言うのだろうか。そういう色気のある佇まいだ。

 ため息を吐いておく。こういうところに女性は惹かれるのだろう。

「あなたにもあるのです?」

「まぁな。人に話すことでもないが」

 洗い終えた。近くに掛けられた布巾で拭く。

 今度は探偵が夢遣いを見る。

「……分かってると思うが、気張りすぎるなよ」

「貴方に言われたくありませんわ」

 探偵はニッと笑う。

「言えてるかもな」

 それから台所を後にした。

「んじゃ、飯、楽しみにしてるぞ」

 この後、夕飯を絶賛する春原に、探偵共々呆気に取られたのは別の話だ。


◆◆◆◆


「春原さん、本当にお好きなんですね」

「何が」

「トレーニングです」

 夕食の後。

「風呂は沸かさないけどな」

「シャワーがあれば良いでしょう」

 探偵はいつものように煙草を吹かしていた。

「あのな……光熱費って知ってっか」

 ため息をつくように煙を吐いて、春原――のいる部屋の扉――のほうを見る。

 仕方ないと言いたげに、探偵は首を傾げる。

「掃除はさせろよ」

「はい」

 上々だ。家主が許可を出しているなら構わない。

「で、お前はまたなんで、寝ないでここにいるんだ」

「寝るのを待っているんです」

「誰が寝るのを」

「春原さんが寝るのを」

「なんで?」

「秘密です」

 探偵は「ふーん」と返して、特に気にするような素振りは見せなかった。

 天井に煙がかかる。

「そういえば」やはり話が続かない。「鉄さんはどうしてこの仕事を?」

 煙草を一旦置いて、探偵は机の上の書類を片付ける。

「言うほどのことじゃない。前の仕事でのことを活かそうと思ったら探偵をやってた」

 大きな机の上に散らばっていた書類は見る間に整頓されていく。書類の内容には触れないこととして、もう少し印刷する量はどうにかできないのだろうか。

「……一応言っとくと、この事務所は貰いもんだ。備品はそのまま使わせてもらってる」

「そのやたら大きい机はあなたの趣味だと思ってましたけど」

「俺はこんな高いのは買わん」

 灰皿に置かれた煙草を咥えて、探偵は煙の奥から夢遣いのことを睨んだ。

「詮索しても無駄だぞ」

「果たしてそうでしょうか?」今のやり取りで色々と分かることもあるのだが。

「肝心なとこは喋らないさ」

 もう一度、灰を落とす。

 探偵の呼吸に合わせて煙草の火が燻った。

「まだ話したい気分じゃないんだ。その時までお前がいれば、いずれな」

 どうやら、話すつもりではあるらしかった。それがいつになるかは知れないが、探偵は探偵なりに、夢遣いとの距離を測っているらしい。

 嬉しくないと言えば嘘になる。

「なんだニヤニヤして」

「あら? 私、そんな顔してました?」

「鏡が無いのが残念だ」

 探偵は苦笑いを浮かべて、煙草の火を消した。

「やっぱまだガキだな」

 その言葉に、今まで笑顔だった夢遣いはブスっと顔を顰めて、もう何度目か分からなくなってしまった質問を投げる。

「どうして子供だと言うのです」

 すると、探偵はちょっと意外そうな顔をした。

 何が意外なのだろうか、ずっとずっといつも同じことを聞いているというのに。

「納得したと思ってた」

 だから、何に対して、なのだろう。夢遣いは依然ブスっとして探偵のことを見る。

 すると、探偵は困ったと言いたげに眉を微かにハの字に曲げてため息を吐いた。

「なるほどな……そうだったか」

「だから、何が?」まずい、つい。「何に納得したように見えたのでしょうか」

 落ち着こうと深呼吸してみると、まるで自分までため息を吐いたように聞こえてきて、夢遣いは気まずさに咳払いした。

 探偵は机の上に落ちていた灰を手で掃いながら、落ち着いた声で言う。

「言い方を変える」

 掌におとした塵を灰皿に乗せて。

「俺相手に背伸びしたって仕方ないだろ?」

 それは夢遣いにとって、想像していたよりもずっと優しい口調だった。てっきりもっと厳しいことを言われるのだと思い込んでいた身からすれば、それは意外も意外なことだったに違いない。

 実際あまりに意外すぎて、いつもの余裕が剥がれ落ちて、口がポカンと開いていることにすら気付いていない。

「別にガキでいるのが悪いことだって言いたいんじゃない」

 一通り整頓を終えたらしい。机に向いていた探偵の視線が今度は夢遣いの方へ向く。

「背伸びのこともそうさ。むしろ存分にすりゃいいと思ってる」

 だったら、なぜ?

 その疑問は口にしない。探偵の話はまだ続く。それを聞いてみたいと思ったからだ。

 ここでただの口論にしてしまうのはもったいない。

「そうしてみなきゃ大人の風景なんて分かんねぇだろ?」

 探偵と目が合う。黙ってその目を覗き込むのは初めてのことかもしれない。

「背伸びしてよ……慣れてきた頃には、もう、大人になっちまってる。あっと言う間なんだよ」

 探偵としても始めてのことで驚いたらしい。意外そうに少し背を丸める。

「だからちゃんとした背伸びをしろ。ちゃんと背筋を伸ばして、胸を張れるようになれ」

「……できていないから子供だと?」

「そこまでは、言ってやんねぇことにした」

 探偵がフッと目を閉じると、その口角が僅かに緩むのが見えた。

「ただな。追いかけるにしろ、追いかけられるにしろ、どうせなら、お前がなりたいもんになれよって話だ」

 目を開けて、口角が緩みきると、そこにいるのはいつもの探偵だ。

「ま、頑張れや。これから仕事の時間なんだろう」

 夢遣いが夜な夜な何をしているのかは、なんとなしに理解しているようだった。

「……あの」

「あんだ」

「春原さんのこと、どう思っていらっしゃるんです」

 探偵外が意外そうな顔をした。

「なんですその顔」

「そこ聞くのか」

「そこじゃなければどこなんです」

「いや、もっと……こう、なんでスカウトしたのとか、聞くもんだと」

 それはもう納得したことだ。それに、今は夢遣いにとっても聞きたいことではなかった。

 それよりも、気になるのだ。

 春原のことが。

「だって貴方が春原さんを説得したんでしょう? 最初は私に向けて『帰りたくない』って言ってたんですから」

 そうは言うものの、本音はもっと単純だった。ただ彼女が何を話したのかを知りたい。ただ探偵が何を話したのかを知りたい。それだけだった。

 探偵は途端に手持ち無沙汰になった。堪らず煙草を取り出して、さっき吸い終えたばかりだというのにまた咥えて火をつけた。

 探偵はいつもより長く、最初の一息を吸う。

 大きく息を吐く。吐息の音がやけに大きく聞こえる。

 探偵はなんだか言い辛そうに、頭を掻いて、煙の向こうからポツリ、と呟いた。

「あいつはこの街にいた。それだけだよ」

 そうとだけ。

 そうとだけ言うと探偵は椅子を後ろに向ける。

「これよりも聞きたいことがあるのなら、あいつに直接聞くんだな」

 天井を仰いだ探偵の顔が、最後に夢遣いのことを一瞥した。

「ガキ同士、色々話しやすいだろうしな?」

 やはりこの人は嫌味な探偵だ。

 夢遣いは今度こそ、大きなため息を吐いた

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