第3話

 神様がバカンスに行くとして、それはどちらの世界を旅行先に定めるかが問題であると女は考えた。

 つまり、当の女は神様――のような存在――がもともとどちらの世界にいるのかを知っていたし、だからこそ、この世界に猫が降るのだという事を知っていた。

 女は深くため息をついて、ごく近くの天井を見上げる。

 こんな辺鄙な世界に左遷されたのは、きっと法外な報酬を師匠に要求したからだろう。

 最近になって、ある女はそう思うようになった。

 女に名はない。それは忘れるように言われたから。

 女は今、自らを、『夢遣い』と名乗っていた。

 その女は他と比べても抜きん出て女性らしい体つきをしていて、まだ子供の歳とは思えないような色気も持っていたから、誘惑という一点において、彼女が他の追随を許すということは、それだけで珍しいと言えることだった。

 それでも誰も抱いたことはないし、抱かれたこともないと、彼女は言う。

 そんなものがあったとしたら、それは夢のまた夢だと。

 夢遣いは思う。この厄介な仕事を最後の最後に持ってきたあの忌々しい我が師匠を、決して許してはなるまいと。

「はぁ……憂鬱ですわ……」

「重い」

 夢遣いはデスクでパソコンに向かう探偵を肘置きにしながら、そんなことを思った。

 深くため息をついて、彼女は窓の外を見る。……春原新芽の姿が見えた。

 どうやら縄跳びをやっているらしい。

「なんですの、あれ?」

「知らん。そして重い。日課のトレーニングだとよ」

「知ってるじゃありませんか」春原の自己申告か、それとも聞いたのか。「で、どうしたんですか? 随分生き生きしてますけど」

 不意に探偵が頭を振って、夢遣いの肘を払う。

「俺が知るか。こっちはこっちで忙しいんだ。居候は黙ってろ」

 言い終わるが早いか探偵は口に煙草を咥えた。

 夢遣いはムスッとした表情で、もう一度探偵の頭に肘を置いた。今度は、さっきより少し強く。

「痛い」

「なんだか面白くありませんわ!」

 ここ数日、待遇は目に見えて雑になっているような気がする。いや、居候だからいずれはそうなる運命なのだが、それにしたって、春原が来てからと言うもの、夢遣いへの冷遇は留まることがなかった。

 探偵はデスクに張り付いている時間が長くなっているし、話し相手になってもくれない。

 春原は気が付いたら外に居て、トレーニングをしているか、走っているかのどちらかだ。

 そういうわけで、夢遣いは一人でいる時間が多くなっていることに気付かざるを得なかった。

「いったい、あのデートの日に何がありましたの? 明らかにおかしいですわ! あなたも、あの子も!」

 そう、おかしくなったと言えば、その日以来だ。春原が大量の服を買い込んで帰ってきたあの日以来。

 夢遣いはそれがなんだか面白くなかった。

 だからと言って、それを正直に探偵に伝えてみても――

「そうか……? 関係ないだろ」

 ――この有様だ。

 夢遣いはぐりぐりと、探偵のつむじに肘を押し付けながら、思考する。

 いや、仲間外れにされたのが癪に障るというわけではない。もうそんなものを気にするような年齢ではないし、そんなことより、もっと拘るべきことがあるはずだ。

 そう、春原は夢遣いが元の世界へ帰るために必要だ。

 彼女が腹を立てているのはその春原と探偵が勝手に張り切っていることであって、だからつまり自身を介さず帰ってもらっては困るというわけであって。

 仲間外れにされたことが寂しくて悲しくて拗ねているというわけでは、ない。断じて。決して。

「そうですわ! 春原さんは私の顧客でもあるんですから! 何かあったなら私にも話すのが筋と言うものではなくて!?」

 そこまで思考して、夢遣いは首を強く横に振って、その考えを忘れようとする。

「痛ぇよ肘。仕事の邪魔だぞガキ。散れ散れ」

「ぐぬぬ……!」

 これではまるで自分が拗ねて駄々をこねているように見える。夢遣いにとって面白いものではなかった。

 しかし、春原を連れて帰らねば、師匠が帰還を許可しないというのは本当のことだ。だから唾をつけておく必要があると言うのは、それはまたそれで、真実なのだが。

 相変わらず人の頭から肘をどけようとしない夢遣いにさすがに苛立ったか、探偵がいつもより濃く煙を吐きながら、うんざりした様子で言う。

「そんなに知りたいなら本人に聴きゃいいだろ、鬱陶しい。大人ってのはまず自分で動いてみるもんだ、違うか?」

「大人論というものは個人よって異なるものですわ。そう決め付けてしまうのはあまりに一元的ではなくって?」

「はいはい。いいから行けよ」

 頭から肘をもう一度払い、探偵がひらひらと手を振った。さっさと行って来いと言いたいのか、探偵としてもいつまでも今の夢遣いを相手するのはうんざりするものがあるらしい。

 夢遣いは頭の上にごちゃごちゃとした雲を浮かべるような気持ちで、仕方なく春原自身への聞き込みを決めた。




 それにしても、良く走る子だ。

 ストレッチ中の春原を見つめながら、夢遣いは思う。

 かれこれ一時間以上、春原は事務所の近くを走っていた。休憩がたまにあったものの、ほぼノンストップだ。

 走り方と、練習メニューからして、短距離が専門だろうか?

 とにかく夢遣いが近くに来ても、一瞥と軽く手を振っただけで走るのはやめなかったのだから、相当入れ込んでいることに変わりはないのだが。

「……お疲れ様、ですわね」

 路肩に置いていたらしいペットボトルに春原が口を付けたのを見計らって、夢遣いが声を掛ける。

「あれ? まだいたんですか」

 しかし、春原は本人は実に意外そうにそんなことを言った。……本気でもうどこかにいったものだと思われていたらしい。ずいぶん薄情者として見られている。

「あなたにお話がありまして。だから、待っていましたの。邪魔するのも無粋でしょう?」

「まぁ、確かに助かりますけど……」

 首にかかっていたタオルで顔を拭いて、春原は夢遣いのほうを見る。

 そして、また悪びれる様子もなく、言った。

「――話って、するほどのことありましたっけ?」

「薄情者って言われたことありません?」

「あはは、分かります?」

 実はとんでもない人なんじゃないか、この子。なんてことを思うが、口には出さない。

 代わりといってはなんだが、ずっと言いたかったことを言う。

「……数日前とは、変わりましたね」

 春原は首をかしげた。

「そうですか? 自分としてはいつも通りに戻った感じですけど」

 この世界に慣れてきたのかも。なんて、春原は呑気そうな声で言う。

 慣れるも何も、元いた世界とほとんど変わらない。違うのは自分と言う存在が無くなっていることだけ。

 ……夢遣いからすれば不思議なのだ。春原はあの日、晴れ晴れとした表情で帰ってきた。

 慣れた、だけでは説明しきれない何かが、そこにあるはずだと、そう思うほどに。

「似合ってますわよ、ジャージ」

「嫌味ッスかねそれ」

「純粋な賞賛ですわ」

「どうもです」

 ボトルを傾けて、春原がその中身を喉に通していく。

 ここは世間話の一つでも交わして、緊張を解したほうがいいかもしれない。夢遣いはできる限り何気ない口調で、しかし確かな反応が返ってきそうな話題を選んで話すことにした。

「……鉄さんと何がありましたの?」

「ぼふ」

 液体がボトルの中に引き返した。

「な、どういう意味ですそれ」

 どうやら、世間話では済まされないことがあったらしいことを悟って、夢遣いはいじらしい方法で質問の意味を変える。

「言ったまんまですわ」

 訝しげな視線を投げてから、春原はしばらく考え込んだ。

 片手に持っていたボトルをまた路上に置いて、夢遣いの方を見る。

「別に何もありませんでしたよ。私が元の世界に帰りたいなーって、探偵さんにお願いしただけです」

 余裕綽々、しかし少し申し訳なさそうに、とてもとても重要なことを、春原はさらりとさわやかに言ってのけた。

「重要なことが起こってますわ!」

 こうなると驚くのが夢遣いである。

 確かにそんなことでもなければ、違和感なんて感じないはずだと思いながら、その中で彼女は頭痛を覚えたような気がした。

 二人の間に流れる空気が変わったこと。

 自分だけが着いていけない話題の気配。

 探偵が最近忙しそうにしている理由。

 それらをつなぐ見えない糸に始めて気付いて、夢遣いは頭を抱えて仰け反った。

 全てに合点が行ったらしい。

「なぜ私でなく彼なのですか……」

「え、だってこう、頼りになるじゃないですか、あの人探偵ですよ?」

 言うとおりだ。

 確かに、見た目――もちろん中身も――若い自分より、年上である探偵の方が頼れそうに見える。

 しかし、だからと言って、除け者にすることはないじゃないか。夢遣いはそう思った。

「……もしかしてまずいんですか?」

「ええ、まぁ。こちらも都合と言うものがありますし」

「なんかすいません」

「なんかじゃありませんわ……ああもう」

 夢遣いとしても、春原がこちらの世界に来たきっかけを思い出さない限りはどうしようもないのだが。

「とにかく、分かりました。邪魔するつもりはありません。むしろ協力させていただきますわ」

「あ、ありがとうございます……?」

 当の春原本人は、喜んでいいのかどうか、決めあぐねているようだった。




 それにしたって、春原は何も思い出さないでいる。

 帰りたいという割りに、なんの努力もしていないように見えて仕方なかった。

 もしかしたら春原のそういうところに腹を立てているのかもしれない。

 事務所に戻ってシャワーを浴びながら、夢遣いはそんなことを思う。

 春原はどうにかして帰さなければならないし、夢遣い自身も帰らなくてはならない。

 夢遣いの中に密かな焦燥が募っていた。

「お、お邪魔しま~す……」

「あら? 春原さん」

 そんな時に限って、この淡い苛立ちの元凶は、自分の近くにやってくるのだ。

「どうしました?」

「うぅ、酷いですよ……探偵さんが光熱費の節約だって、一緒に入れって……狭いのに……」

 浴室が狭いのは確かだ。

「あらあら、それでご一緒に? 私、構いませんわよ?」

 クスクスと笑って見せると、それにつられて春原も苦笑いを浮かべた。

 じろりと夢遣いの視線が春原の体を這う。

 勝ったと思ったらしい。

 夢遣いは優越感たっぷりに鼻から息を抜いて、胸を張る。

 対して春原はこそこそと、鏡から姿が見えないよう、夢遣いの後ろに移動する。

「………………………………肩凝りそう」

 春原は小さく呟いた。

 泡立てた石鹸で体を擦りながら、夢遣いは、

「そうでもありませんわよ? 要は慣れですわ」

 と、返す。

 すると春原はビクリと肩を震わせて、

「き、聞いてたんスか」

 なんてことを言った。

「ええ。耳はいいんです」

 実際、浴室で、こんなに近くに居るのなら、否が応にも聞こえてしまうものなのだが。

「あーいや、そのーつまり、さっきのは嫌味とかじゃなくて単純な感想というかそういう……」

 ごにょごにょ言い訳を述べる春原に、夢遣いは一言だけ聞く。

「羨ましいんですか?」

「ほおんとに嫌味だなぁこの人」

 春原は項垂れて、ぶつぶつと言い訳の続きを呟いていた。

「あ、そろそろ私、洗い終わりますから。交代しましょう」

「あぁ、神様って不公平だ……」

「いえいえ、あなたも魅力的ですよ」

 お世辞だと言うことは分かっているだろう。純粋な言葉さえ曲解するような子だから、こういう言葉は人一倍敏感に受け取るはずだ。

 春原に背中を向けて、夢使いは湯船につかる。

 それから、ほんの少し足を伸ばした。

「春原さん」

「はい?」

「どういう気持ちの変化ですか? 最初、帰るのをずいぶんと嫌がっていたように思えたのですが」

「……ちょっとね。色々。えっと、やり残したよなって。そう思って」

 奥歯に物が挟まったような物言いだが、それは確かな答えだった。

 なるほど、そうか。一日街を歩いてみて、誰か知人だった人物にでも会ったのだろう。

 よほど、春原にとって重要な人物だったのだろうか。なんにしろ、案外気持ちが動きやすいらしい。

「まぁ、まだ帰れるような気はしないんですけどね」

 当然だ。それを言うのは少し憚られた。

 だから、何か代わりの言葉を捜していると、春原が先に言葉を続ける。

「一つ思い出したことがあるんです」

「な――」なんだって?「どんなことを、です?」

 思わず湯船から身を乗り出しそうな夢遣いに向かって、春原は微笑んだ。

「や、なんか……すごく後悔したことが、元の世界であったなって……それだけです。何に後悔したのか思い出せないですけど。でも、すごく後悔したなって」

 それは夢遣いにとって――偶然にも、痛いほどに分かる感情だった。

 でも、だからこそ。

 この共感は今、伝えたくないと思った。

「……私、そろそろ出ますわ」



「晩飯どうすっかな」

 シャワーを済ませて髪を乾かしていると、机に向かっている探偵がそう言った。

「急にどうしたんです?」確かここ数日はカップ麺ですましていたか。

「いや、一週間近くカップ麺だろ。ちょっと味気ねぇかなってよ」

「まぁ」別に嫌とは思っていないが。「確かに少々、彩りに欠けますわね」

 ここは一応賛同しておこうと考えたらしい。夢遣いはわざとらしく指を唇に添えて、探偵の方を向く。

 別にこっちを見ていなかったので、少し顔をしかめる。

「どうしてもと言うなら? その、私が? 買い物に出てあげてもよろしくってよ?」

 ぐいと腰を逸らして胸を強調する。

「おー行って来い」カチリと音がして。「それくらいは働いてもらわんとなぁ」探偵はやる気の無い仕草で煙を吐いた。

 更に顔をしかめさせて、夢遣いは息を強く吐き捨てる。

 探偵は頬杖を突いて薄い笑みを浮かべながら、楽しそうに夢遣いを見つめる。

「ガキが背伸びするなよ」

「もう!」子供じゃないのに!

 思いのほか強くなった声に、夢遣いは続く言葉を呑み込んだ。

 代わりに大きく息を吸い込む。

「お言葉ですけど。別に、背伸びしてるわけではありません。もう子供と呼べる時代はとっくに過ぎてます」

 と、言って見たものの、探偵はまた興味が無さそうに「そーか」とだけ答えて煙を吹く。

 ぷかぷか浮かぶ煙の奥を見つめながら、ゆらゆら揺れる煙のようにからかい甲斐の無い探偵にイライラしながら、夢遣いは唇を尖らせる。

「ガキはみんなそう言うんだ」

 細めた目でこちらを見つめて、探偵はまた煙草に口をつける。

「大人だと言わせたいんなら、とりあえず、今日の晩飯作ってくれよ」

 財布から紙幣を一枚取り出して。

「ちょうど春原も上がっただろうしな。二人で行ってきてくれ」

 ヒラヒラと挑発するようにふりながら。

「今日は、鰤の照り焼きが食いたいねぇ」

 探偵は、呑気な声でそういった。

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