第2話

第一話


 ケ・セラ・セラとぼやいて息を吐いた。

 俺は何をしているのだろう。いや、これも被害者――加害者? いずれにせよ――の保護に必要なこと。の、はずだ。

 そう、自問自答にケリを着けて。

「探偵さーん」

「…………」

「探偵さんってばー」

「…………」

 俺は、新しい服を試着してはしゃぐガキの歳相応な姿にため息を吐く。

「ねー聞いてるんですか?」

「………………服くらい自分で選べねーのか」

 このガキ――名前は確か、春原 新芽――が落ちてきた日から数日が経ったある日のこと、俺はガキと街に来ていた。

 それはまぁ良いのだが、どうして俺は一時間以上もガキの試着に付き合っているのだろう。

 既に一週間分は服を買うことが確定している。俺の財布は悲鳴を上げる寸前だ。

「どうです? 似合ってます? 似合ってるなら買って下さい」

「もういいだろ。そろそろ切り上げて飯にするぞ」

 貯金を切り崩すのはあまり好きじゃない。



 煙草が吸えない。

 どうやら俺の知らないうちに、すっかり嫌煙家の棲家になってしまったらしいこの街は、いたるところに禁煙の看板が掲げられていた。

 俺は随分イラついているというのに、このガキと来たら呑気なもので、大した不満をこぼすでもなく俺の前を歩いている。……俺のおごりで買い物をしているのだから、当然と言えば当然か。

「変わんないんですね。異世界とは言っても、私が住んでた街と一緒です」

「そうかい」

 こいつが落ちてきたこの街は、俺が事務所を構える街であり、春原 新芽が住んでいた街――らしい。

 らしいと言うのは、住んでいたとする証拠が今のところ、春原の言葉しかないことに所以する。

「あの、それはそれとして、女の子に荷物持ちさせるってどうなんですか?」

「全部お前の荷物だろ」

 頭に疑問符でも浮かべそうな様子でガキはぼやいた。

 制服の女とスーツの男が一緒に歩いてる時点で怪しさ全開だ。

 だからせめて荷物を持たせることで、買い物に付き合う親父を演出している。

 ……俺はまだ28だ。

「重いんですけどー……」

 一週間分の服だ。下着も込み。そりゃあ、重いだろう。

「鍛えろ鍛えろ」

 ちなみに俺は絶対に持ちたくない。

「いや、鍛えてますって。私陸上やってるんですよ。短距離なら結構いいとこまで行ったんですから」

「へー。お前でも得意なことってあるんだー」

「どういう意味ですか!?」

「別に」落ちてきた時はしょぼくれて見えたのに。「そういうの、俺にはねぇな」

 そういえば顔つきが変わったように見える。一日寝て起きれば変わるものか、なんせ春原はまだ二十歳にもなっていない。

 若さか。いや、俺もまだ若いが。

「それにしてもお腹空きましたね」

「ん、そうか。昼飯にするか……」

 俺も腹が減った。

「食いたいものは?」

「親子丼ですかね!」

 女子らしからず、がっつり食う気であるらしい。


 俺が選んだのは、昔からの馴染み深い喫茶店だった。

 そうして選んだ喫茶店に入って、一時間ほどか。

「ごちそうさまでしたー」

「良く食うな……」

「いやぁ、その割には身長伸びないんですけどねー」

 俺の前にはコーヒーカップが一つ。

 ガキの前には丼と、食後の紅茶が置かれていた。

 ああ、また財布が薄くなる。

「……探偵さん、あんまり食べないんですね」

「元々小食なんだよ」

 喫煙席は良い。いくらでも吸える。この店は、この街で喫煙席のある稀有な店だ。

「つーか喫茶店で親子丼頼むってどうなんだよ」

 メニューにまだあった時はこっちが驚いたが、頼むほうも頼むほうだろ。

「知らないんですか。この店の料理は絶品なんですよ」

「知ってるよ。昔は良く通ってた」

 昔は良く、ここの店長と話したもんだ。

「お前こそ、良く知ってるな? かなりマイナーな店だと思うんだが」

「そりゃまぁ――えへへ」

「なんだ、気持ち悪い。誤魔化し方が雑だな」

 素直な感想を述べてから、俺は煙草を灰皿に置いて、こっちもこっちで食後に飲まなきゃなら無いものを準備する。

「な、なんですか気持ち悪いって! というか突然お薬取り出すほうがよほど気持ち悪いと思いますよ!?」

「ほっとけ」

 そう、医者から毎月処方される錠剤薬――を、二個。

「そういえば、昨日も飲んでましたよね。風邪ですか」

「ほっとけ、って言っただろ」

 薬を飲むのは個人の都合だ。突っ込まれて嬉しいものではない。少なくとも、俺にとっては。

 口の中に錠剤を含んで、舌の上で転がす。

 ……コイツには話す必要のないことを考えた。

 溶け出した錠剤が苦い味を訴えた。ぐいと、冷たい水を呷る。

「第一、お前が知ってどうなる。こっちで暮らすなり帰るなり、ことが済んだら会わなくなるだろ」

 少しだけ溶けた錠剤を包み込んで喉を通り過ぎ、鳩尾の辺りで再度その冷たさを主張する。

 ガキは窓の外を見つめて曰く。「探偵さん、冷たいですよね。私のこと未だに名前で呼んでくれませんし」

 俺は煙草を咥えて曰く。「ガキが嫌いなだけさ。これも言ったろ、呼ばれたいなら敬意を払え」

 煙を吹くと、一瞬ガキの表情が見えなくなった。

「……未だに、なんて言われてもな。まだ出会って数日だ」

「そ、そうですね。探偵さんにとっては、そうでした」

「……?」

 細い煙草を灰皿にかけ、春原のほうを見た。

 窓の外を見つめている。

 一体何を思って、何を見ているのか、俺には想像も付かない。ただ、心なしか……「何見てんだ」……その目は外を見ていないような気がした。

「あの、追加注文いいですか?」

「ほどほどにしろよ」

 春原はころりと表情を変えて、からから笑う。

「えー? でもでもだって、探偵さんは大人じゃないですか。これも敬意ですよ。探偵さんの稼ぎへの」

「うまいこといいやがって……コーヒーか?」

「えっと、オリジナルブレンドを。ケーキセットでお願いできますか」

 うなずいて、俺も適当に注文を決める。

 咥えた煙草はあっという間に短くなった。

 ひしゃげた吸殻を捨てて、俺は近くを通りかかった、懐かしい顔の店員を呼び止める。

「……注文いいかい、店長」

 俺の声に、さっき客のいなくなったテーブルを拭いていた店員が振り返った。

 その店員の、栗毛の綺麗なここと来たら……緩いポニーテールに結わえられていると、柔らかさを強調しているように感じる。

 昔から馴染みのある髪形だが、何度見ていても飽きない。いつまでも揺れる髪を見ていたいがそうもいかない。

 なぜなら、注文を取る為には、顔を合わせる必要があるからだ。

 店員はちらりとこちらを見て、微笑む。そしてテーブルの清掃を終えてから、俺たちの方へと歩いてきた。

 そして、店員は言う。

「久しぶりネ、テット」

 俺の名を。

 やたら流暢な発音で。

 そう、この店長は外国人である。

 俺は日本人で、名前も日本語なのだが。

 それでも流暢な発音で。

 俺は、その声が懐かしくて、ため息をついた。

「変わらないな。元気してたか?」

「おかげさま。テットの方はどうナノ?」

「ま、ぼちぼちってとこだ」

「ヘェ。ここに顔も出せないくらいには忙しいんじゃないノ?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、店長は言う。

「しかし、久しぶりに来たと思ったら、子供連れとはネ。ロリコンの気があったカ?」

 その視線を春原の方に向け、ニコニコと営業用の笑顔に変えた。

 向けている顔から伝わる温度が明らかに違う。

 もしかすると俺に向けた笑顔より暖かい。

「それで、ご注文は?」

 暖かい笑顔のまま、店長はガキに聞く。……払うのは俺だとは言わないでおこう。お節介に追加メニューが出てきたら嫌だ。

 初対面であるはずの春原は店長の顔を見て、一瞬驚いたような顔色になって、何か言おうと口を開いた。

「ア……」

 しかし、すぐにやめてしまう。

 聞きそびれたと思ったのか、首をかしげた店長に、春原はすぐさま、急ごしらえの笑顔を向けた。

 同じ笑顔でも、塗られた感情は違っているような気がした。

「ケ――ケーキセットを」

「コーヒーかティー、ドッチ?」

「コーヒーを。オリジナルブレンドで」

「はい、注文は以上で?」

「おい、俺の分は」

「以上です」

「おい?」

「ケーキセット、オリジナルブレンドで。はい、かしこまりました」

「おい!」

 俺の注文も聞け!

「駄々捏ねないの、テット。まだまだボーイのまんまだネ」

「歳変わんねぇだろ!」このアラサー!

 まぁ、ガキの分の注文を持ってくるだろうし、その時でいいか。

 俺はもう一本煙草を咥えた。

「……まだ、それ吸ってるのネ」

「ん、あぁ。……アイツが好きだったから」

「いつまで女物を吸っテんだイ……」

 今度は春原が首をかしげた。

 意味は伝わらなくていい。知っている奴が、分かればそれで。

「……じゃ、テットの分も持ってきてやろう」

「おい、俺はまだ何も」

「いつものでショ」

 反論する前に出された答えに、俺は閉口するしかなかった。

「じゃ、少々お待ちを」

 ライターに火を点した俺を見て、店長は去ろうとした。

 その時だ。

「あ、あの!」

 春原が、堪えきれなくなったように、声を上げた。

「アレシア――アロイジナ・イルメントラウトさんですよね?」

 大きな声で、春原は、今日始めて会ったはずの店長の名前を呼んだ。

 店長は名札を提げたりはしていないのに、だ。

「……そうだけド」

 店長は、少し眉間に皺を寄せて、聞く。

「会ったことアル?」

「え、あ、はは。ま、まぁ」春原は、嫌に歯切れが悪く、言った。「あの、アレシアさん。バイトの募集とかって、考えてないですか?」

 ガキの問いかけに、店長は驚いた顔をする。

「今朝考えてたところ! どうして知ってるの?」

 よほど、予想外な質問だったのだろう。そのはずだ、この喫茶店はバイトを雇ったことがない。だから、自分が今朝方考えていたことを、初見の客に見抜かれたことが意外だったんだ。

「私、こういう店で――バイト……し、したいなって」

 ……さっきから春原の様子が変だ。この店に入った時から。

 そういえば、この店に入ろうとしたら「別の店にしましょう」とか何とか言って、拒否しようとした。その割には、この店について詳しかったが。

「そう? じゃあ、気が向いたら面接来てヨ!」

「はい。喜んで。」

 春原新芽は、静かに答える。

 丁度別のテーブルが注文を決めたらしい。店長を呼ぶ声が挙がった。

「じゃ、ネ」

 ちらりと一瞥して、店長はテーブルを後にした。

 春原の目が店長の背中を追う。

 その目は、まるで、俺が学生時代を思い出すときのような――もう二度と手に入らない輝きを懐かしむような、そんな眸をしていたように思う。

「……はぁ」

 それから、浅くため息を吐く。

 視線が窓の外に移ったのはすぐだった。

 目の色は変えず――いや、変わった。

 少し、悲しそうな色。

 そんな色が混じった気がする。

「らしくないな」……なんだか見ていられない。「似合ってないぞ、悲しそうにするの」

「ホンットに心遣いってものがないですね……ちょっとだけ色々思っちゃっただけですよ」

「へぇ。お前にもあるのか、そういうことが」

 意外にも落ち着いた反応に、俺は少し悪戯心を刺激されたのかもしれない。

 いや、普段、俺自身、様々なことを思うからかもしれない。所謂そういう、他人の思うところを気に掛けるのは。

「ええ、まぁ、そりゃあ。私だって年頃ですし」

 ガキがつっけんどんにそう言ったのに、俺は乾いた笑いを返した。

「自分で言うかよ」

 俺がそう言うと、しばらく気まずい沈黙が流れる。

「…………」

 ガキ――そろそろ改めよう――春原は相変わらず外を見ていた。外を見ては表情を次々と変えていく。

 それがだんだん悲しみを帯びていく。

 まるで落ちてきたその日の気持ちを思い出したかのように、春原はまたしょぼくれた顔をして、窓の外を見ながらふと何かを考えていらしい。

 おそらく、自分が今どういう気持ちでいるのかを。自分が今、何を感じているのかを。それらをどうすれば的確に俺に伝えることができるのか、春原は思案し口をつぐんでいる。

 俺は分かったふりをして、それを待つことにした。

 ふと、春原の表情に、諦めの色が混じったように見えた。

 同時に、まるで嘲笑するような口調で、こう言った。

「……………………私が死んだ後の世界ってこんななのかなぁって」

 それは、消え入りそうでいて、でも自然に耳に焼きついた声だった。

 そう言った春原の顔を――俺はたぶん、忘れないと思う。

「少し悲しくなりました」

「……だから、似合ってないって言ってんだろう」

 やけに悲しそうな顔で、笑っていたから。



 調子が狂う。

 昼前はあんなにごねていた荷物の重さをものともせずに、口元には貼り付けたような笑顔。

 あの悲しそうな目なんて無かったとでも言いたげに、春原はケロリと笑っていた。

 それでも口数は減ったし、なんとなく、それほど元気でないことは伺えるのだが。

 可愛げのないガキだと思った。

 春原は俺の前を歩く。たまに俺の方を振り返っては嘘っぽい笑顔を向けて、それから前を向くのだ。

 一言も話さず。

 嘘だったのだろうか。

 あの悲しそうな、見ているこっちが辛くなるような、あの目は、嘘だったのだろうか。

 子供と女が苦手だ。俺からは何も言えない。例え言ったとしても、語った言葉の半分でも理解しているのかどうか……。

 そう思うと、俺は不意にもの悲しくなって、何も言えなくなる。ともすれば俺の言葉で傷つけてしまうかもしれないと思うと、相手が子供でも怖かった。

 いや、子供でも――じゃない。子供だから怖い。

 若く、未熟で、どうしようもないくらいの不安定さが怖い。

 沈黙をタバコで紛らわすことができないのがつらかった。

 春原はとびきり良く分からないガキだ。今居候している、あの夢遣いとかいう女のほうがよほど分かりやすいくらいに。

 話題が見つからない。春原とは年代が違いすぎる。

 することもなく、俺は時計を見つめる。

「そろそろ帰るか?」

 いや、時計を見たというのは口実だ。本当は、一刻も早く春原を別の奴に押し付けたかった。

 気まずいといったらない。

 話さないからじゃない。そういうわけじゃないけども、春原といるのはなぜか気まずかった。

 春原は俺の言葉にふとこちらを振り返る。

「そーですねー」

 笑顔を崩さないまま、春原は一度顔を背けた。

 今日のことを思い返しているのか――はたまたいたずらでも考えているのか――は知れないが、春原はしばし、続く言葉を考えた。

「実はお願いが一つありまして」

 こちらに背を向けたまま春原が言った。俺は、春原が誰か別の人間に話しかけたことを期待してあたりを見渡すが、どうやらそうでもないらしい。

 春原のことを見ている者は一人としていなかった。

 つまりこれは、紛れもなく自分自身に向けられた言葉であるわけで……。

「ちょっと行きたい所があるんですけど」

 勘弁願いたいものだ。

 俺は深くため息をついた。




「ほら探偵さん! 走りますよ!」

 夕暮れ。

「どこまで行くんだよ……」

 誰もいない坂道を、俺たちは走っていた。

 普段から煙草を吸っていたせいでずいぶん体力が落ちたらしい。俺は走り出してすぐに息を切らした。

 対して春原は異常なほど元気だ。

 自転車でなら絶対に登りたくないような坂道を、ものともせずに駆け上がっていく。短いスカートの裾がヒラヒラ揺れるのも気にしない様子で、春原はさらにペースを上げた。

 俺は思わず心臓のあたりを押さえる。

 こんなに走ったのはいつぶりだ。

 空から降って来る春原を捕まえた時ですらこんなに走らなかった気がする。

 酸素が中々入ってこない。大きく口を開けて懸命に肺の中を満たして、体内で熱くなった二酸化炭素を吐き出した。

 着いていくので精一杯だ。どうやら陸上競技をやっていたというのは本当らしい。

 走っているだけでここまで差が出るとは。

 足が動かなくなってきたところで、春原が徐々に減速し始めた。

 それによってようやっと余裕が出来た俺は、始めて左手のほうを見る。

 ついに立ち止まった春原は、立ったまま膝に手を置いて、呼吸を整えてから、勢い良く伸びをした。

 立ち止まったそこは公園のようだった。

 岡の上に立てられた公園。

 今日歩いた街が一望できた。

 その景色に近付いて、春原が腰辺りの高さにある柵に手を置いて――

「あああぁぁぁあぁぁああーぁぁああ!!」

 ――叫んだ。

 長い間叫んだ。

 体を折り曲げて叫んだ。

 山彦があるわけでもないのに。

 一度じゃない。二度、三度、何度も、何度も。

 声は強くなっていく。そして少しずつ震えてくる。

「私は……! 私は……私はこの街に住んでたんだぁあーああ!!」

 それはまるで、咽び泣くような叫びだった。

「なんで、誰も、覚えてないの……あんなに、私、頑張ったのに……」

 誰かに話しかける言葉ではなかった。

 ただ吐き出しているような言葉だった。

「私、この街が大好きなのに!!」

 その声は怒りが混じっているような気がした。

 俺は呼吸を整えながら、煙草を吹かす。

 煙が朱色の空に登っては消えていく。

「こんなの……あんまりだ……私がこの街に嫌われたみたいじゃない……」

 春原は叫ぶのをすっかり止めて、その場に膝を着いた。

 泣いてぐしゃぐしゃになった顔を街のほうに晒しながら、春原はとめどなく涙を流し続ける。

 夕立のような涙だと思った。

 居場所を失くしたんだ。今日一日この街を歩いて、それが自覚になってしまった。有り得ないとそう思い続けたことが現実だと知ってしまった。

 ここは自分の知っている街で、そして自分のことを知らない街だと言うことを、今日知ってしまったのだ。

 帰る家が、今日なくなったような、そんな気分なのかもしれない。

 泣き続ける春原に、俺はゆっくりと歩み寄る。

「大丈夫か」

 すすり泣いていた春原は、ふと泣き止んだ。

「大丈夫に見えるんですか」

 涙を拭う春原を傍目に見下ろして、俺も街を見た。

 沈んでいく日は街に影を落とす。

 煙を吐き出して、懐かしく感じるこの風景に思いを馳せた。

「……初めて猫が降ってきたのはガキの頃だったかな」

 思い出が口を突いて出る。

「驚いたな、あれは。なんせそれまでは道端で呑気してた猫が、空から鬼みたいな顔で降ってきたんだから……」

 なぜ、こんなことを話しているんだろう。

「降って来る猫は普通のそれとは違う。奴ら中身がない。皮一枚隔てた中は空っぽなんだ」

 ああ、なんとなく、何が言いたいのか、自分で分かってきた。

「その理由には諸説あるが、こっちへ降りてくる前に、どこかで中身を忘れてきたってのが一番有名だな」

 我ながら、ありえない話だと思っていた。

 内臓のない猫が一体どうして走れると言うんだ。

 でも、中身のない猫はああして、昨日も空を駆けていた。

 有り得ない話は、俺がガキの内に、ただの奇妙な事実に変わってしまったのだ。

 猫は中身をおいてきた。

 俺は少し違うと考えている。

「俺は思うんだよ。猫は中に詰めていた物を見失ったから、ここに来るんじゃないかって」

 そうでなきゃ、どうしてあんな顔をする。

 あんな、ヤケクソになったような顔を。

「なぁ春原。お前一体、何を見失ったんだ?」

 俺はそれが不思議でならないのだ。まだガキの、19の女が、一体何を無くしてしまえるというのだろう。

 どうやったって何も捨てられないような、そんな時期じゃないか。

 春原は膝を抱えて、啜り泣きながら俺の声を聞いていた。

 それがしばらく止んだかと思うと、うずくまっていた顔を前に向ける。

 ぼそりと、気の抜けた声で、春原は言う。

「見つからないんです。私は確かにここにいたのに。思い出が一つも、私のことを見つけてくれないんです」

 気の抜けたようなそれは、ともすれば、風が吹けば飛んで、散って消えてしまいそうな、弱々しい声だった。

 でも俺は、ただその声を聞く。

 その後の言葉を待っていたいから。

「……鉄さん。お願いがあります」

 俺はその言葉を――

「私を元の世界に、帰してくれませんか」

 ――ずっと待っていたような気がする。

「お安い御用だ、春原新芽。その依頼、この探偵が引き受けた」

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