第1話
神様はこのクソ忙しい時期に、一体どこに行っちまったんだろう。
寂れたホテルの一室で、くたびれたスーツを着た俺は、双眼鏡を覗きながらぼやきたくなった。
いや、そもそも、もし神様がいるとして、こんな重苦しい曇り空の元に帰って来たいと思うのだろうか?
考えてもどうしようもないのだが、それでも考えてしまう。
「お煙草は体に障りますよ」
「う、る、せぇ」
まったくなんて憂鬱な仕事か。
「酷く辛気臭い顔をしてらっしゃる。何かご不満?」
「ああだったら言ってやる。俺は女のガキが嫌いなんだよ!」
双眼鏡を下ろして、俺の周りを浮かびながら――何かの悪夢でもなく実際に浮かびながら――呑気な声を上げるガキに一発ドカンと怒号を飛ばす。するとガキは「きゃあ怖い」なんてまた呑気な声を上げて、今度は俺から少し離れたところで浮かぶことにしたらしい。
「いやですわ。何やら溜まってイライラしてらっしゃる?」
口元に手を当てて、ガキはクスクスとお上品に笑った。
ガキの言うとおりだ。実際、髭が剃れないこの環境にはイライラせざるを得ないし、生憎このガキは女らしくいつまでだって夜更かししているもんだから、することも碌にできない。
すっかり髭の感触が濃くなった顎を擦りながら、俺は煙草に火を付けた。
「三日三晩だ」
「は?」
「だから、三日三晩だ! 俺がここに張り込んで、今日でもう四日目!」その間の記憶を、俺は煙と共に外へ出そうと頭を捻る。「何も起こりやしなかった! いいか、この探偵様を舐め腐ってるかなんだか知らんが、今日何も起こらなかったらタダで帰れると思うなよ!」
自分にしては随分と荒い語気で言った言葉に、しかしガキは大らかに、俺をイラつかせる態度で返した。
「あらやだ。煙たい男は今時流行ってませんわよ」ガキはほんの少し高度を上げて、天井に掌を当てる。「それに、まだ今日一日分、時間はたっぷり余ってますし」
その女は、余裕たっぷりと言った感じに言った。
「クスクス。溜まっているなら多少はお相手しますけど?」
「あと五年経ってから出直せよ、ガキ」
「五年経ったら抱くつもりと? 獣ですわ、汚らわしいですわ!」
「てめぇ、人をバカにするのも大概に――」
で、異変が起きたのは丁度そんな時である。
「あ、探偵さん」
「人の話を聞け!」
このガキと来たら、俺の説教を完全に無視した挙句、ずっと窓の外を見てやがった。
「空です空、来ましたよ」
「あ――?」
だからと言ってはなんだが。
「ああ、いつものことじゃないか。猫が降って来るなんて」
やはりその分、このガキは、俺より良く外の景色が見えていたのだろう。
「いやいや良く見てくださいな。ほら見えますかあれ」
「見えてるよ。今日は一段と良く振るな」
欠伸交じりに返すと、珍しくガキが俺の頭を掴んで視界を窓の外へ向けさせた。そんなことをしても何も変わりは――
「ほら! 群れの中に人!」
「あぁッ」あるじゃないか変化!!「それを早く言え!」
慌てて双眼鏡を目に押し付ける。
倍率が低い。良く見えない。目を凝らしても、そこに映る大半は、ニャーニャーニャーニャーうるさそうで、その上獣臭そうな、雨のような、近年気候の一種に認定されたそれだ。
猫雨。または単純に猫。群れ単位で降って来る、大小様々な猫の中、そのうちとびきり大きいのにしがみついた――
「なんてこったい」
――これまたやかましそうな、ガキの女が一人。今にも猫から振い落とされそうになっている。
ふと双眼鏡から目を離して、こっちにいるガキの方を見てみると、さっきもそうしていたように、口元に手を当てて、またクスクスと笑って言った。
「何か、起こりましたでしょう?」
なんて日だ、ついてない。
「どうなされますか?」
「当然、助ける。猫から落ちてそのままなんざ、例え他人でも見ちゃおれん」
神様はこのクソ忙しい時に、一体どこに行っちまったんだ。
きっとこんな『いい天気』の朝方にゃ、どこか南の国にでも、バカンスへ行ってしまったに違いない。
「『神様はバカンス』《ケ・セラ・セラ》だ、クソッタレ」
俺はコートを羽織ることも忘れて、猫の下へと駆け出した。
◆◆◆◆
メーデー、メーデー、メーデー。
こちらは、私、春原新芽(ハルバラ アラメ)。春原新芽、春原新芽。
メーデー、メーデー、メーデー。
こちらの位置は猫の上。高層ビルの屋上が、ちょっと前に過ぎたくらいの空中。
しがみついてる猫は順調に墜落の一途を辿っています。お願いだから助けてください。
メーデー、メーデー、メーデー。
乗員は一名。メーデー、オーバー。
なんて大層に救難信号を出したって、ここには機材も何もないのだから届くわけもない。
「ひ、ひ、ひ……!」
地面には、中々落ちなかった。しがみついた猫は四肢を目一杯に広げて、まるで滑空するように、周りに比べ――それはもう僅かな差だが――ゆっくりと落ちていたからだ。
しかしそれでも地面が迫ってくるというのは心臓に悪いし、冷静な判断なんて出来なくなってしまう。
「助けてぇぇ」
この猫達はいったいどこに向かっていて、いったいなんのために走っているのだろう。
それはわからないけれど、とりあえず、このまま無事着地するつもりが全くないことだけはどうにか理解できた。
――ああ、私、死ぬのかな。
やけに鮮明に見える景色を眺めながら、私はそんなことを思う。
どのみち助かることは、ないだろう。この速度で地面に叩きつけられれば、猫諸共砕け散る。
トマトが潰れたように血が飛び散って――そう理解した途端、私の頭はサッと血の気が引いた。
それが返って私を冷静にしたのかもしれない。
「女ァア! こっちに飛べぇ!!」
声がして。
初めて地面を見渡した。
「聞こえてるか!? 受け止めてやる! さっさと飛べ!」
豆粒程度の大きさなのに良く声が聞こえると思う。よほど張り上げているのか――それとも、自分が思っているより近いのか。ともかく。
「そ、そ、そんな、できるわけないじゃないですかぁ!」
できるわけなかろう。
ここ何処だと思ってるんだ。あんたと違ってこちとら空中なんだ。それを今からわざわざこうやってしがみついてる猫を手放して、落下に身を任せろなんて。
「死んじゃいますよぉ!」
まぁ、しかし。どちらにしても同じか。
何処の誰にしがみついたって、駄目な時は駄目だ。今はそういう時かもしれない。
それに……悩んでいる時間はそんなにない。
「いいから飛べ! 早く!」
地面はすぐそこだ。このまま死ぬなら、やれることはやっておきたい。
どうとでもなれ。どうせ神様はバカンス中なんだ、だったら幸運も不運もない。きっと全部、起こることはすべからく、そのままちゃんと答えを出してくれるはず。
「い……い――行きまぁす!!」
しがみついていた猫から手を離す。
途端、空気が下からこみ上げて、まるで私の体を叩きつけるように通り過ぎていく。圧縮されてぶつかる空気は元から自分は固体であったと主張しているようにも感じた。
目が開けられない。風を切る音しか聞こえない。今何処まで落ちているのか。風に打ち付けられた制服はところどころ破けているらしい。内側に入り込んだ風が体を冷やす。
あ、これ、駄目かも。
誰か叫んでいる気がする。何秒経ったの。今何処なの。私は後どのくらいで地面に激突して――して――して?
「あれ?」
ぶつからない?
そういえば風も止んでいる。
「もう大丈夫ですよ」
「え? え?」
誰か私を受け止めた?
いや、そんな感覚はない。これはどちらかと言うと……吊るされている感覚だ。
「ほら、探偵さん。いつまでもそんな面白い格好してないで、事務所に戻りましょう」
ゆっくりと目を開ける。
地面数ミリのところで自分は浮いているようだった。後ろを見てみると、自分の襟を掴んでいる女の人が――
「そんな走らなくたって、私がこうして掴みますのに……おバカさん」
自分より高いところに浮いていた。
お化け。
私はついに気絶した。
拝啓神様。
この世のどこかでバカンスしながら私達を見ているのなら、さっさと帰ってきて、私を助けてください。
「春原新芽、年齢18。高校三年……嘉永大学付属高校に所属。今春から新大学生、ね」
「あの……なんで私取調べみたいなことされてるんですか……」
「人聞きの悪いこと言うな。それに、みたいな、じゃねぇ。実際取調べしてるんだ」
「なんでですか!」
「そりゃあ、お前が本当に空から降ってきたかどうか、調べるためだ」
「どっからどう見たって、そうでしょ!? そりゃ受け止めてくれたのはあなたじゃありませんし、説得力に欠けるかも知れませんけど! 徒党を組んで騙す意味が何処にあるんですか!」
「騙すやつは決まってそう言うのさ。ちと黙ってな」
ああ神様、どうして私に関する資料が、私が思っているよりずっと多くあるのでしょうか。私はつい一時間ほど前に、ここに来たばかりだって言うのに。
「嘉大付属に、お前、いたか……? 卒業式に顔出したが、お前のことは見なかったぞ」
分厚い冊子となった資料の束を捲りながら、目の前の男の人はうんうんと唸る。
「おかしいな。新入生のリストに名前がない」
「そ、そんなぁ。おかしいですって」そんなわけはない。「間違ってるんじゃないですか、それ」
「んなこと言ってもな。ないことは、ない」
パラパラと捲った冊子が最後のページになると、男の人はそれを机の上に置き、深く息を吐いた。
「落ち込まれても困りますって! 困ってるのはどっちかって言うと私のほうなんですけど」
「じゃあ聞くが、お前、どうやってここまで来た?」
「そりゃ……猫に乗って……」
私の答えを聞きながら、男の人は煙草を口にくわえて火を付けた。
「……俺の職業、分かるか?」
「えっと、さっき名刺もらったので分かります。確か――」結構、普通じゃない職業だったはずだ。「プ。確か私立探偵でしたっけ。プププ」
「何がおかしい? その笑い者の世話になってるのは何処のどいつだ」
「だぁってそんな。随分と夢のあるお仕事じゃないですか? 真実はいつも一つ二つ言っちゃう感じの方でしょう?」
男――改め、探偵は、私を見つめてゆっくりと煙を燻らせ、これまたゆっくりと煙草を吸う。
どうやら私への反応を決めあぐねているようだ。仕方ないのでもう一押し、二押しするとしよう。
「結局、最後は警察頼りになるんだから。それくらい知ってますよ私」
探偵が灰皿に煙草を強く押し付けた。
「……まぁなんでもいい。話を戻すとだ」
「はいはい」
「俺の推測によると……馬鹿な話だが、春原新芽と言う人間はこの世界に存在しない」
「……は?」何を言ってるんだ、この人。「そんなわけないでしょ」
「それが、ある。お前が在籍しているはずの大学にお前の名前はないし、お前が答えた家の住所には、今コンビニが立ってる。極めつけは――」
俯いたまま、探偵は言う。
「お前の戸籍はない。同姓同名はいる。だが、顔は違う、経歴は違う、年齢も、血液型も違う。……こういう言い方は好きじゃないが、ここじゃない世界から来たとしか言えない」
そして、また新しい煙草を一本取り出して、火をつける。
「何か、反論は?」
「はぁ……」反論。反論か。「あんまりにも突拍子がなさ過ぎて、着いていけませんよ」
灰皿に煙草を乗せて、探偵は両の手で顔を覆う。
そのままくぐもった声で、言った。
「正直な話、俺も信じられないんだ」大きくため息を吐き。「信じられんついでに、もう少し話に付き合え」顔から手を離す。「ここに来るまでのことを覚えてるな?」
ジリジリと焼けていた煙草の灰が、灰皿に落ちた。
それを見つめていた私は――ふと何かを思い出したような――ドンぴしゃりと、何かがはまった。
「――ずっと白い靄の中を歩いてたんです」ずぅっと。「随分長い間歩いてた気がします」
探偵が私の話を資料の裏に書き残す。残しながら、質問は続いた。
「白い靄の中を歩いてたら、そのセーラー服がボロボロになったのか?」
「あー、それは……別の理由があった気が……って」
そういえば、あのままこの事務所に来たもんだから、着替えてない。
「な、何見てるんですか! ヘンタイ!」
「今更言うかよ……他に思い出せることは?」
「い、今のところないです! 着替え持ってきてください!」
「了解。これで取り調べ終了、っと……時刻は……」
「聞いてます!?」
「聞いてる聞いてる。俺シャワー浴びて寝るから。適当に、あの女と話しとけ。んじゃ」
「ちょ、ちょっと! 探偵さん!」
私がうんうん思い出そうとしている最中、探偵は取調べを切り上げてしまう。
さっきまであんなに嫌だったはずの取調べなのに、急に終わってしまったことがなんだか拍子抜けで、異議を申し出ようとした。
すると。
「鉄哲人(クロガネ テット)だ。探偵って名前じゃない」
探偵は自らの名前を改めて名乗った。
「名前で呼ばれたいなら、まず年上に敬意を払うんだな」
そしてそれだけ言い残し、今度こそ本当に、私を狭い事務所の片隅に押し込めて、シャワーに行ってしまったのだった。
◆◆◆◆
まったくどうして、おかしなことになっている。
服を脱ぎながら俺はそんなことを思う。
一度ならず二度までも、猫と一緒に人を捕まえてしまうなんて、我ながら、よほどどうかしている。
「あらあら。随分とお疲れのご様子。これからシャワーですか?」
「見たら分かるだろ。覗きの趣味がないんなら、ジロジロ見てくるな」
汗の臭いが濃くなったシャツをカゴに放り投げながら、後ろの方でぷかぷか浮かぶ女に半ばうんざりした様子で答える。
「くふふ。後ろに年頃の女子を控えておきながらその物言い。案外初心なようですね?」
「違う」コイツに言われるとやたらと腹が立つ。「気も許してない相手に裸見られて堪るか」
そうは言いながら、俺は既に半裸であったから、鏡にもそいつの目にも、体――特に上半身――の方ははっきり見えていたわけだ。
隠したって意味はなかった。この女はこういうものをすぐ記憶する。
だから気にせず、四日も伸び放題だった髭の具合を確認する。
「……頑なに見せてくれないと思ったら、そういうことですか」
「なんだ? とっくに夜這いか何かで知ってると思ってたが」
ガキは、ガキらしく、どうやら言葉を失っているようだった。
「その手術痕、一体いつごろのものです?」
「そういう辛気臭い話は」今は気分じゃない。「後で幾らでも聴かせてやる。その前にあいつ――春原の相手をしに行けよ」
さて、時間があるなら一服したいところだが、生憎と煙草を切らしている。
シャワーを終えたら、まずは買い物だ。
「どうせお前の客だろう」
そういって、スーツのベルトに手をかけてから、顎を春原に向けてしゃくる。
「ガキのお守りはごめんだぜ」
「あら? 保護したのなら、責任を持つのが大人じゃなくて?」
「いいから行け!」
叫ぶが早いか。ガキは逃げるようにして、脱衣場からいなくなった。
◆◆◆◆
どこを探せば着替えがあるか分からずにソファの上で縮こまっていると、脱衣場の方から女の人が飛んできた。
「!?」
「あ、どうもー」
文字通り飛んできた。
仰向けに浮かんで、寝そべるような体勢で、滑空してきたのだ。
「と、飛んでる! なんで!?」
「ふむ、確かにワタクシ富んでおりますが。財布は十分潤ってますよ?」
「そうじゃなくてなんで浮かんでるんですか!」
「ふーむ。浮かれているつもりはなかったのですが」
「そうじゃなくてぇ!」
どうやら、突っ込んではいけない領域なのか。
「細かいことは、いいじゃありませんか? そんなことより、少しお話、いたしましょう?」
その女の人は、うつ伏せに体勢を直して、私のことを真っ直ぐに見つめてから、ニコリと笑う。
「諸事情から名前をお教えすることは叶いませんが、私のことは『夢遣い』とお呼びになってくださいまし」
「は、はぁ」これまた随分夢のある名前だ。「それで、夢遣いさんは何をしにここへ」
ぷかぷか浮かびながら、夢遣いは頬杖を付く。
「少々質問を。しかしながらお疲れでしょう? 着替えがてら、お答えくださいな」
そう言って、夢遣いはおもむろにシャツのボタンを二つ三つ外したかと思うと、くっきりとした深い胸の谷間に手を突っ込んで、まさぐった。
「この制服で良いでしょうか?」そう言って胸元から引き抜かれた手には今着ているものと同じ学校の制服――と、いっても新品だが――が握られていた。
「あ、ありがとうごぜいます」
どこから出てきたんだろうこの制服。
「質問してもよろしくて?」
せっかくだし、好意に甘えて着替えさせてもらおう。
どうして胸の谷間からこれが出てきたんだろうとか、そういうことを気にしてはいけない気がする。
「あ、はい。どうぞ」
「私が聞きたいのは、そう……あなたがここに来る前の話ですわ」
「はぁ、ここに来る前」
「ええ。あなたは一体、何処で何をしていて、どういう人間だったのか。答えられる範囲で教えていただきたいのです」
ぷかぷか浮かびながら、夢遣いは私の真正面まで移動する。そしてさっきまで探偵さんが座っていたソファに寝そべったままの姿勢で着地した。
「とても重要ですわ。己が何者であるか、と言う問いは」
夢遣いはごろりとうつ伏せになって、チラリと流し目で私を見た。
質問の意味を噛み砕くと、こっちの思っている個人情報を開示しろ、ということらしい。
ここでもったいぶっていても仕方ないかもしれない。探偵さんには異世界人扱いされてしまったし、ここは一つ、私がこの世界の人間だという証拠を見つけるために話してみるのも悪くないかもしれない。
「私、学生でした。この春から大学生になるはずの」覚えていることと言ったが、忘れていることのほうが少ないはずだ。「だから、要するに卒業生だったわけです。」だって今こうして、自分のことを確かに……。「周りからは、よく明るい子だとか言われました。それこそ鬱陶しいくらいに。人見知りはしないほうだと思います」確かに……。「えっと、それから、海より山より川派です。もっと言えばプールですかね。抹茶好きです。めっちゃ好きです。それと、最近まで喫茶店でバイトしてました。お客さんからは結構好評だって聞きました。それと、それと、えっと、」おかしい。「あ、頭は良くないです。大学まではなんとか上がれましたけど」おかしいぞ。「しょ、小学生の頃から、ずっと一緒の友達がいました。最近はあんまり遊ばなくなったんですけど。なんでもすっごい美人と歩いてるのを別の友達が見たとか何とか――」
「春原さん」
「は、はい」
「もう一度、質問しなおしても?」
「…………はい」
夢遣いが初めて、顔をこちらに向けたような気がした。
「白い靄の中に入る前。例えば、どうして延々歩く羽目になったのか。覚えていらっしゃいますか?」
そして飛び出した問いに、私は俯いて、口をつぐんだ。
沈黙が流れた。
その間、私はなんとか――それを思い出そうとした。問いに対する答えを用意しようとした。
どうして、あんなにボロボロになるまで歩いていたのかを。
でも、思い出そうとすればするほど、段々と不明瞭になっていく。それをまるで、あの靄の中に置き去りにしてしまったかのように。
その部分だけがすっぽりと、霧の中に囚われているのだ。
そうして記憶の霧の中を模索し続けて、数分が経った。
「…………思い出せないのですね」
夢遣いの声が、沈黙を破った。
「――はい。ごめんなさい」
今まで寝転んでいた夢遣いさんはソファに座り直して、今度こそきっちりと、「春原さん。お話があります」なんて言って、私と目を合わせた。
「お話ですか」
「ええ。このままでは何かと……困ることが多いでしょうから」
「…………」
「いえいえ、そんなに気を落とす必要はありませんわ。重要なのは、そう、帰ろうと言う意志なのですから」
「帰ろうという意志、ですか」そんなもの。「何故でしょうね。ハナっからそんなもの、持ち合わせてませんよ」
帰ろうなんて、微塵も思っていない。不思議なことだが、私は気味が悪いくらいにこの世界で生きることを硬く決意していた。
なぜか、なんてことは自分でも分からない。適応力が驚くくらいに高かっただとか、パニックになっていないだけとか、冷めた性格だとか。そういう単純な言葉では表せない奇妙さが、今の私からは滲み出ている気がした。
まるで、元居た世界が、故郷ではなかったかのようにさえ感じる。
「帰らなくてもいい気がします。別にそこまで親しい人がいたわけでもありません。昔からの友達はいますが」でも彼女の人生は彼女のもので、私が左右できるものではないし、していいものでもない。「でも皆きっと普通に過ごすでしょう? だから私も普通に過ごすだけです」
でも、それは私にも同じことが言える。
私の人生は私のものだ。誰が関与しても、そこまで大きく左右できるわけじゃない。
「しかし、それで困るのですよ。……理由が必ずあるはずですわ」
そして、ここにいることに、必然性があるわけでも。
「あなたも、物事には理由がなくちゃいけないとか、そういうことを言う人ですか」
理由、理由と、それはそんなに、重要なことか。
そんなに理由が好きならば、勝手に理由を作ればいい。理由がないと動けないというのなら、ずっと動かなければいいじゃないか。
私は、物事全てに理由があると信じて止まないその論が、鳥肌が立つほど嫌いだった。
「別にいいじゃないですか。戻りたくないと言ったら戻りたくないんです。嫌なもんは嫌なんです!」
なんだか駄々を捏ねているみたいだ。夢使いは困った顔をしている。
「そんなことは言っても、仕事はどうするのです? 戸籍は? 学歴は? 住居は? この世界は異世界人を諸手を挙げて歓迎してくれるほど優しくありませんわ」
そんなことは分かっている。
分かった上で言っている。
「はぁ。分かりましたわ」私が膨れてそっぽを向いたのが効いたらしい。「……帰りたくない方に理由がある、と」
どうにかして、理由を付けたがる人だ。何度言えば分かるのだろうか。
「だから――」もう一度言おうとした私に掌が向けられる。「なんですか?」
「少々。……自己紹介させていただけますか?」
夢遣いさんはにこやかに言った。さっきまでの険しい顔はどこに行ったのだろうか。
「構いませんけども」
「では改めて」夢遣いはスーツを正し。「ワタクシ、夢商人見習いをやっております――師匠から、この辺り一帯の管轄を任されている者ですわ」
もう何を言われても驚かないと思う。
いや、実を言えば、私はワクワクしているのかもしれない。猫の群れで、もう一時間ほど前死にかけたばかりだからだろうか。
この世界は、私の知らないことで溢れているような、そんな期待が、確かにあった。
――帰りたくないなんて言ったのは、そのせいかもしれない。
「任せれていると言っても、仕事は極めて限定的なものですわ」私が考えを深めている間にも、夢遣いの自己紹介は続き――「こちらに流れてきたものを、元居た世界に帰すこと。それが、私の今の仕事です」
もしかすると私はとんでもなく厄介者扱いされているんじゃないか、なんてことも考える羽目になった。
「ですから、何が何でも帰っていただきます」
「随分直球に、さっさと帰れって言ってきますね」
「あなた相手に小細工交じりの説明は意味がないと思いましたので。違いますか?」
「そりゃあ私にだって、傷つくだけの心はありますよ」
しかしまぁ、肝心なことをぼかされるのは嫌いだ。そういう点で、この人は案外悪い人ではないのかもしれない。
「でもやっぱり、色んなことを思い出すまではここにいたいです。なんであんなところを歩いてたのか釈然としないなんて、さすがに気味が悪いですし」
「良かった。その意思があれば大丈夫ですわ」
かくして、私を元の世界に帰すためだけの話は始まるわけである。
そう、こんな感じで、ここまでがプロローグ。
猫の群れに乗せられて、記憶を失った私が、元の世界に帰るまで、後――
約、半月ほど。
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