第2話 狼の贈り物

 夢を見た次の日から、ハワルはさらにスーザニに精を出した。家畜の世話や食事の片づけが終われば、日中刺繍に没頭し、日が暮れたころに慌てて帰ってきた羊たちの世話に出る。アルマーンもスーザニを仕上げるよう言った手前、表立ってハワルのやることに文句をつけようとはしなかった。

 

 そうして二月ほどたったころ、トゥルクが三男坊――アズベクを伴って訪ねてきた。結婚の正式な申し込みに来たという。天幕の陰から父とやり取りする様子をそっと盗み見たハワルは、思った以上に醜い姿をした彼の姿に失望と恐怖を抱いた。でっぷりとした腹と豊かなひげをたくわえたアズベクはとがった靴を履いていて、しきりに地面をけりつけている。あの靴で蹴られたらとても痛そうだ、とハワルは顔をしかめながらつぶやく。彼が自分のことを気に入らなければいいのにと願わずにはいられなかった。


 それから二人は父と話し込み、しばらくしてから帰っていった。上機嫌の父を見るに、どうやら結納金の交渉がうまくいったらしい。この日は珍しくアルマーンでさえハワルにやさしかった。だがそれは、かえって「お金儲けの為の結婚」なのだということを少女に強く自覚させることとなった。


 夜自分の天幕に戻った後、ぼんやりとやりかけのスーザニを手に取る。そこには青い糸で縫いこまれた狼のモチーフが並んでいた。はっとして、周りにある新しく仕上げた手ぬぐいや、櫛いれ、クッションカバーを引っ張り出すと、同じように狼の口や足跡が散らばっている。どうやら蒼い狼のことを考えすぎて、無意識のうちにたくさん縫ってしまったらしい。


(わたし、どうかしてるわ……)


 夢で逢えるだけの狼。それはハワルが頭の中で作り出した幻想かもしれない。アズベクのところに行くのが嫌だという望みを投影し、現実逃避をするだけの夢の可能性だってあるのだ。そもそも結婚話が出た夜に、「アズベクとの結婚前に迎えに行く」と告げられるなど、あまりにうまくできすぎている。


(甘いことを考えるのは、もうやめよう。考えたってしょうがないもの)


 手元の布を放り出し、ハワルは大きなため息をつく。希望を持たなければ、そもそも失望することもない。何もかも受け入れてしまえば、きっとあきらめもつく。どうせ今の自分にできることは何もないのだ。あがいて見せたところで、かえって状況が悪くなるだけ。自分にそう言い聞かせ、無理やり狼のことを頭の中から追い出した。

 

 どこかめまいのするような疲労感を覚えながら、ハワルはふらふらと立ち上がり、手短に寝る支度を済ませる。初夏とはいえ、草原の夜はまだまだ冷える。少女はそうっと手元の明かりを吹き消し、しっかり寝具にくるまりながら眠りについた。






 気づけば、草原の中に立っていた。

 上を見上げると、光る砂をひっくり返したかのように星々がきらめいている。

 いったいいつの間に外に出たんだろう――そう考えて、はたと気づく。薄着なのに、まったく寒さは感じない。むしろ風が肌を撫でていくのが心地よい。


(これはゆめだ)

 

 周りの状況はいつもと違っている。だが、なぜかハワルには狼の夢の続きだという確信があった。狼を探さなければ――そんな思いに駆られて、ふらふらと足を踏み出す。踏みつけた草が少しくすぐったかったが、少女は気にせず歩き始めた。


(おおかみさん、どこにいるの?)


 目印になるベルタはちょうど天の真上に輝いていて、どこの方角もさしていない。ハワルは少し考えた後、狼が向かっていた東の方角へ向かって走り出した。夜風が髪を巻き上げ、スカートをはためかせる。まるで風と一体化したような疾走感に酔いしれながら、少女はひたすら足を動かし続けた。


 風を切って進むうち、気づけば少女は白い鹿となっていた。白い体躯は箒星のように草原を駆けぬけていく。そのうち自分がだれなのか、何のために走っていたのかすっかり忘れてしまった。だがいくら走っても体は疲れなかったので、鹿は気にせず走り続けた。


あるとき、ふと何かに呼ばれたような気がして足を止める。そこは大きな岩がそびえる場所だった。草原の中にぽつんと立つ大岩は、まるで空に向かって狼が吠えるかのように細い鼻づらを天へと突き上げた形になっている。それゆえこのあたりに暮らす遊牧民たちからは「狼岩ウル・ホゥ」と呼ばれていた。


『――私が信じられぬか』


 急に頭の中に響いてきた声に、白鹿はびくりと体を震わせる。甘く低い声は、どこかで聞いたことのあるような声だ。思い出そうとしても頭は紗がかかったようにぼうっとしびれていて、いっこうに思い出せない。だが、彼女にとってとても大切な意味を持つ声だということだけは理解していた。


『わたしはお前が作り出した夢幻ゆめまぼろしではない。そのことを証明してやろう』


(証明……どうやって?)


 ハワルが心の中でそう答えるが早いか、まわりの輪郭がぼやけだした。

 夢が終わる――まだもう少しだけ。そう叫んだ少女の願いもむなしく、夢はほろほろと砂のように崩れていき、闇に包まれていく。

 

 すべてが闇に溶けていく直前。人の姿に戻ったハワルの手に、ほたりと白いものが落とされる。手の中のものを確認しようとしたところで世界は完全に漆黒に塗り込められ、ふつりと意識は途絶えたのだった。






 目覚めると、もうすでにあたりは明るかった。

 いつもは夜明けとともに起きだすハワルだったが、珍しく今日は寝坊してしまったらしい。あわてて飛び起きて服を身に着けようとして、自分が何か手に握りこんでいることに気づく。おそるおそる手を開いてみてみると、白く細長いものがキラキラと輝いていた。


「なんだろう、これ……」


 小指ほどの長さの物体はすべすべした感触で、爪ではじけばコツンと音がする。真っ白というよりは、少し黄色みを帯びた白だ。山羊の角のように先が細く湾曲するそれは、今までハワルが見たことのないものだった。


――私はお前が作り出した夢幻ではない。それを証明してやろう。


 ふと頭の中に蘇ったのは、夢でささやかれた声だ。一度も姿を現さなかったが、夢でハワルに話しかけていたのは蒼い狼と同じ声だった。夢が消える前、手の中に落ちてきた白いもの。それが狼の言う「証明」だとすれば、つじつまは合う。


(大ばば様に聞いてみよう)


 この白い物体が一体何なのか、それがわかれば謎は解けるだろう。そう考えて、ハワルは家族の中で一番物知りな父の祖母に聞いてみることにした。この家族の中で一番自分へのあたりが柔らかい彼女であれば、嫌な顔をせずに答えてくれるはずだ。

 そうと決まれば、早く行動を起こすに越したことはない。まずは朝の家畜の世話や食事の準備を済ませてから、大ばば様の天幕を訪ねよう。そう心に決めて、ハワルは行動を開始したのだった。





「――これは狼の牙だね。かなり大きな狼だよ。わたしもこんなに大きなもんを見たのは初めてだ」

「狼の牙……」

 

 ほうとため息をつき、まるで大切な銀細工を扱うかのように大ばば様は白いものを撫でた。その手を覗き込みながらハワルは彼女の言葉を繰り返す。狼の牙。それでは、あの狼の言葉は本当だったのだ。


「あんた、いったいこれをどこで手に入れたんだい」

「たまたま遠出をしたときに拾ったの。きれいだからとっておいたんだけど……」

「そうかい。わたしゃてっきり“狼の贈り物ウル・チャム”だと思って肝が冷えたよ」


 難しい顔をした大ばば様の言葉に、ハワルの心臓がどきりとはねた。聞きなれない言葉だが、意味は理解できる。その言葉はまさに今の自分の状況にぴたりと当てはまるものだった。早鐘のようになる胸を押さえ、ハワルが恐る恐るその言葉の意味を問う。大ばば様はそれに応え、歌うような節回しでゆったりと話し出した。




 ――そのむかし、この一帯を治める狼の王がいた。蒼い体の大きな狼だ。その狼は遊牧民たちに土地を与え、家畜を食わぬと約束する代わり、一人の娘を差し出せという。選ばれたのは、狼の王から白い牙を送られた遊牧民の長の娘マクムだった。


 彼女にはその時婚約者がいた。だが狼の意思は変わらず、マクムは泣く泣く結婚支度をした。夏祭りの終わり、迎えに来た狼と婚礼を上げたマクムは王の妻となった。


 それからこの土地に住む遊牧民たちは家畜の草に困ることも、狼が家畜を襲うこともなく暮らしたそうな。




「それから何十年かに一度、代替わりをするごとに狼の王は牙を送った娘を花嫁にした。私がまだ小さかった頃、狼の花嫁ウル・ハニャンになった人の話を聞いたよ」

狼の花嫁ウル・ハニャン……」

「花嫁はたいそう狼に大切にされて、幸せな人生を送ったそうだよ。アズベクのとこに行くくらいなら、いっそ狼の花嫁になっちまったほうがまだましかもしれないね……」


 話を聞いて呆然とするハワルを見て何か察したのだろうか。大ばば様はどこか遠くを見るような目をしながらそうつぶやく。耳を疑うような言葉に少女が大きく目を見開くと、これは内緒にしておくよと笑って牙を返された。


 それからどうやって別れを告げて自分の天幕に戻ったのか、ハワルはよく覚えていない。夢見心地のまま一日を過ごし、気づけば夕方になっていた。東の空を見上げれば、あれほど待ち望んでいたベルタが赤い光とともに揺らめいていた。


「狼の王様。確かに贈り物をいただきました。ハワルは、あなたを信じます」


 祈りを込めて、白い牙を胸にかき抱く。

 どうか、この声が狼に届きますように――そんな願いを込めて大地に両膝をつき、深く頭を下げる。あれだけぐらぐらと迷っていたはずなのに、風が凪ぐように不思議と心は落ち着いていた。


(しあわせになりたい――……)


 それは初めて明確に自覚した少女自身の望みだった。

 自分には縁がなかったのだと、今まであきらめてきたもの。もしもこの結婚でそれが手に入るのなら。

 

 ほたほたと涙をこぼしながら祈り続ける少女を、赤いベルタと白い月が優しく見守り続けていた。

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