星を待つ人
さかな
第1話 蒼い狼
初夏の夕方、ふわりと風が草原を駆け抜けていく。
天幕が広がる草原の中、羊たちの中にポツンと少女が立っている。夕焼け色の衣装には、遊牧民の象徴でもある手の込んだ刺繍が所狭しと縫いこまれていた。
羊たちの世話をする手を止め、少女がふと空を見上げる。今まさに太陽が西の空へと沈んだところだった。赤から紫、紺へと色を変えていく空はいつみても美しい。少女は一日の中でこの時間が一番好きだった。
ちょうど太陽が沈んだばかりで、星々はほとんど姿を現していない。少女は何かを探すように目を凝らし、東の空へ向けた視線をめぐらせる。だが目当てのものが見つからなかったのか、しばらくしてから肩を落としてうなだれた。
「今日も見えないなあ……」
少女が探していたのは、草原の民から「狼の心臓(ベルタ)」と呼ばれる星だった。初夏になると東の空へとあらわれる赤い星。その輝きが東から出てくるのを、ある理由から彼女は心待ちにしていた。
(風はもう、夏に差し掛かっているのに)
髪を巻き上げていく風は、だんだん暖かく乾いたものへと変わってきている。いつもならもうそろそろベルタが東の空へ登ってきてもいい時期なのだが、今年はなかなか赤い輝きが現れなかった。
「ハワル! いつまでぐずぐずしてるんだい!」
「はぁい! もうすぐいきます」
やがて羊たちの世話が終わり、本格的に星々が輝き始めたころ。ハワルはもう一度東の空を見上げて大きくため息をつき、天幕の中へと入っていったのだった。
その晩、話は急に父からもたらされた。
「ハワルのことなんだが、嫁にほしいと言ってきた奴がいる」
部屋の端で縫物をしていたハワルは、内心飛び上がらんばかりに驚いた。まず自分の話題が出されることすら珍しいのに、よりにもよって結婚の話とは。家の中でも興味を向けられることはほぼなく、目立たないように過ごしてきたハワルにとっては青天の
盗み聞きはいけないことだとわかっていたが、つい気になって耳をそばだてる。
「へえ。この娘をね……いったいどこのだれなんだい?」
「トゥルクのとこの三男坊だ」
「器量はよくないし、縫物の腕もいまいちだが、それでもいいのかい」
「なんでもこの前の冬に二人目の妻が病気で死んだらしい。このあたりで売れ残っているのはハワルだけだろう。それで白羽の矢が立ったそうだ」
相手の名前が出て、ハワルの心臓がまた飛び跳ねた。トゥルク――たしか、父の叔父にあたる人で、ここから少し離れたところに天幕を張っている家族だ。そこの三男坊はあまりいいうわさを聞かない。一人目の妻は一年たたずに暴力で衰弱死したらしい。三年ほど前にようやく二番目の妻をめとったが、そのひとも前の冬に死んでしまったという。そんな男に自分は嫁ぐことになるのか――ハワルは半ば呆然としながら、自分無しで進んでいく会話を聞いていた。
「そうかい。まあこの不器量な娘じゃ、嫁に行けるだけ幸せってもんだろうさ」
半ばせせら笑うように放たれた言葉に、つきりと胸が痛む。父と話しているのは、アルマーンだ。生みの母が10年前に亡くなり、代わりに継母となったのが彼女だった。彼女はハワルを自分の娘たちと比べ、不器量だと言ってはばからない。口が悪く意地悪な彼女が新たな母となってから少女は身を粉にして働き、認められようと努力したが、ただの一度も褒められたことはなかった。
「じゃあ、決まりだな」
「あとはこの子の
半ば呆然自失のまま話を聞いていた少女に、いきなりアルマーンが話を振る。ハワルはまさか自分に話しかけられるとは思っておらず、盗み聞きがばれたのかと内心ひやりとしたが、どうやら違うらしい。なるべく平然として見えるように息をゆっくりと吐き、返事をするための言葉を探す。
花嫁の持参品となるスーザニは様々な布に細かい刺繍を施したものである。日常生活で使う小さな手ぬぐいから大きな壁掛けまで、女は心を込めて刺繍を入れ、結婚するまでに準備をする。遊牧民たちの嫁入りはだいたい13~14歳ぐらいが普通で、それまでには仕上げていなければならなかった。
ハワルも空き時間を見つけてはせっせと布に針を入れ準備をしてきていたが、まだすべて出来上がってはいない。今まさに手に持っているスーザニに視線を落としながら、小さな声で少女は答えを返した。
「ええと、だいぶん出来上がっています。あと半年ぐらいですべて仕上がるかと思うのですが――」
「あと半年で16になるというのに、相変わらず準備の遅い子だね。オーリはもう半分以上出来上がっているよ」
はあ、とためいきをついてアルマーンは眉を吊り上げた。オーリはハワルの異母妹で、今年10歳だ。ハワルよりもふんだんに布も糸も与えられ、アルマーンがつきっきりで刺繍を教えている。遊牧民の娘たちは皆そうやって刺繍を習い、母や祖母、曾祖母が受け継いできた紋様を覚えていく。対して自分は誰に刺繍を教わることもなく、家で使われている布類の刺繍を見よう見まねで覚えただけだ。それでは一向に腕も早さも上がらない。アルマーンはそのことを十分承知したうえで、ハワルを不器量呼ばわりするのだ。
「ふむ。では半年後に婚礼を行うとするか」
「ああ、それがいいね。必ず仕上げるんだよ、ハワル」
「はい、わかりました。お母様」
こうしてハワルの嫁ぎ先はあっというまに決まったのだった。
その晩、夢を見た。
気づけば、ハワルは小さな
ひゅうひゅうと耳元で風がうなる。めいっぱい両腕を伸ばし、風をとらえる。
――はやく。もっとはやく。あのひとにおいていかれないように。
夕焼けに染まった空の下、草原を流星のように駆け巡る蒼い狼がいた。狼は煌々と赤く輝くベルタを目指し、一心不乱にかけていく。ハワルはその狼に追いつきたくて、一生懸命黒い翼を動かすが、狼が早すぎてその距離は一向に縮まらない。それどころか、どんどん引き離されていく。
――まって。おいていかないで。わたしもいっしょにいくわ。
ハワルの声はむなしく風に流されていき、先をかける狼には届かない。
はるか彼方の狼の姿が見えなくなる直前、風に乗って声が届いた。
――ベルタが空高くのぼる夜、お前を迎えに行く。
――やくそくよ。まっているからね……!!
心の限りハワルがそう叫んだところで視界が暗転し、夢はぷっつり途絶えた。
「………!!」
自分の声で飛び起きたハワルは、暗い天幕の中をあわてて見渡した。夜にあまりうるさくすると、アルマーンにひどく叱られる。同じ天幕には継母と
(蒼い狼の夢……)
ハワルは先ほどの夢を思い出し、大きく息をはいた。汗を吸って体にじっとりとまとわりつく肌着がうっとうしい。ただ寝ていただけなのに、まるで全力疾走をしたかのように心臓は早鐘を打っていた。
蒼い狼の夢は、12歳を過ぎたころから時々見る不思議な夢だった。いつも見た夢は忘れてしまうのに、この夢だけは必ず起きた時鮮明に覚えているのだ。
その内容は毎回同じで、初めからずっと変わらない。ハワルが夕方、蒼い狼を草原で見つけ、追いかける。空にはベルタが輝き、狼はそれを目指して走る。ハワルは狼に決して追いつけず、その姿は遥か彼方に消えていく。自分が何の動物になるのかはその時々で違っていて、今日のように鳥になる時もあれば馬や鹿になることもある。
いつもは一方的にハワルが追いすがって終わりだった。だが今日の夢は少し違う。狼からの声が届いたのは、これが初めてだった。
(ベルタが空高く上る夜、お前を迎えに行く……)
耳に残る、甘く低い声。初めて聞いた狼の声はいつまでもハワルの頭に響いていた。
ベルタが空高く上る夜。それは、遊牧民たちが豊穣を天に感謝する
狼の嫁になるか、トゥルクの三男の嫁になるか。はたから見れば究極の選択に見えるだろう。獣にめとられるならば、まだ人間のほうがいい、と思う人もいるかもしれない。狼は家畜を襲い、人に牙をむく獣であり、同時に人々から「神」として崇められる存在だ。だがハワルは不思議と怖くはなかった。それどころか、夢であの狼に会うたびもっと会いたいと望むようになっていた。
(この家から逃げ出したい、ただそれだけの理由かもしれないけど……)
自嘲気味に心の中でつぶやきながら、ハワルは天幕の中で見えぬ空を見上げる。希望が何もないこの家の中で、夢の狼の存在だけが少女のよりどころだった。そうして「夢」は今夜確かな「希望」へと変わり、彼女を導く光となったのだ。
(蒼い狼さん……あなたのことをもっと知りたい)
寝息だけが響く天幕の中、切なる少女の望みは吐息とともに溶けて消えていった。
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