第90話 ボールのようなもの

「おい、もしかして、丙種地区にまで、俺たちを追ってきた奴らがいるのか?」

 可能性は充分にある。

 だが、より恐ろしいこともありうることに等は気づいてしまった。

「もしかしたら、丙種地区の人たちも混じっているかもしれない……」

「ありえない。だって、ここの連中は自律機のことを知っているんだから」

「光! 自律機はいま、使えるか?」

「そんなの使えるのに決まって……」

 携帯電脳を操作していた光の顔が蒼白になった。

「嘘……どの子も、全然、反応しない……まさか、絶対人権委員会がここまで出来るっていうの?」

 違う、と等は思った。

 さきほどまで自律機は弥生が操作していた。

 そのまま弥生は、光から自律機を奪い取ってしまったのだ。

 目的はわかっている。

 自律機なしでは、光はただの非力な少女にすぎない。

 とてもではないが、群衆には太刀打ちできないだろう。

 だとすれば……。

 光の額を見て、最悪の予想が的中したことを悟った。

 彼女の額にも、『魍』の字がくっきりと浮かび上がっていたのである。

 一体、いつこの処置を施されたのだろうか。

 あるいは生まれた時から、彼女はすでにこの呪わしい刻印を押されていたのかもしれない。

 もともと彼女に人権はないのだから、ありうる話だ。

 どのような光学偽装を施しても「魍」の字は消せないということになっているが、それもあやしいものだ。

 少なくとも弥生ならば、その程度の芸当はやってみせるだろう。

 なにしろ彼女はこの日本州を統括する人工知性体なのだから。

「おい……光……お前、なんだそれ」

 葦原が目を見開いていた。

「お前も魍魎だったのか……?」

 反射的に光が額を抑えた。

「嘘! そんな……弥生! なんで! 嘘でしょう! 違う! 弥生が私を裏切るなんてありえない! 絶対人権委員会の奴らの命令ね!」

 そうではない。

 弥生は自らの意志で、あの忌まわしい刻印への光学偽装を解除したのだ。

 これだけ危機的な状況になれば、等が絶対人権委員会に入ると見越して。

 やはり人工知性体は卑劣な電脳だ。

 信用などまったくできない。

「くそっ……おい、平! これ、あの弥生って電脳のせいだぞっ!」

 さすがに葦原は頭の回転が早かった。

「お前を寝返らせるつもりなんだ……いや、もう、お前、絶対人権委員会に寝返ってるんじゃねえか?」

 血まみれの包丁を、葦原がこちらにむかって構えた。

「葦原さん! 落ち着いて! そうじゃない!」

 だが、葦原もあまりにも絶望的な状況に冷静な判断力を失っているようだ。

「裏切ったのか! そうなんだな!」

「いまは仲間どうしで争っている場合じゃないですよっ!

 玄関のあたりから、やかましい物音が聞こえてきた。

「ここに魍魎がいるぞ!」

「まだ若い女の魍魎もいるって話だぞ!」

「くそ、あの自律機を使ってるアマ、やっぱり魍魎だったんだ! でも安心しろ、もう自律機は動いていない! 絶対人権委員会からの通達通りだ!」

 やはりこれは弥生の仕業と考えてまず間違いないだろう。

「やべえぞ、畜生! さすがにこれはやべえ……」

 葦原の顔を冷や汗が伝い落ちていく。

 ふいに、室内にボールのようなものが投げ込まれた。

 三人とも、絶句した。

 それは恨みと苦痛に凄まじい形相を浮かべた、霧香の頭だったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る