第81話 光の家へ
もはや自転車に乗る魍魎を見て、自分から襲いかかろうとする者はいない。
あちこちの家から、ごく普通の主婦たちが霧香の捕らえられたあたりにむかっていく。
好奇心と下衆な欲望、野次馬根性の塊のような連中だ。
なかには包丁を手にしている者すらいた。
武装ではなく「霧香の肉を切り分けるつもり」なのだろう。
誰もがタンパク質に飢えている。
魍魎は、人ではないから、食べても良い。
すでに人の肉を食った身なので他者を責められないが、やはりやりきれない思いにとらわれた。
「今更、気にするな」
葦原が言った。
「もうあいつは限界だった。遅かれ早かれ、こうなる運命だったんだ」
なんとか頭を切り替えようとしても、そう簡単には割り切れるものではない。
ほんとうの意味での人権を真摯に考えていた少女が地獄を見て、そんなものを上辺だけでつくろっている連中が生き残るのがこの国のあり方なのだ。
やはり、絶対人権委員会は間違っている。
「そういえば」
霧香のことを頭から振り払おうと努力しながら、等は尋ねた。
「なんであのとき、俺のこと、助けてくれたんですか? もう、丙種地区まで三キロなら、俺がいなくてもだいたいの方向はわかるでしょう」
「お前も呑気だな。そんな簡単なこともわからないのか」
葦原が苦笑した。
「いいか、あの光ってのはお前に惚れてるんだよ。そんなところにお前を見捨てた俺がのこのこ顔出してみろ。あいつ、たぶん自律機で俺のこと拷問にでもかけて殺すぞ」
そういうことか、と納得した。
葦原は最低の人間だし、冷酷で、自分が生き残るためには容赦なく他人を犠牲にできる。
しかしまだ葦原のほうが、ふだんは善良な市民を装って、いざとなれば集団で魍魎に襲いかかるような手合よりはましなような気もした。
実際にはどちらもろくでもないのだが、葦原は自らの欲求に正直なぶん、どうしてもそう錯覚してしまう。
だが、ここで葦原を信じれば裏切られるだけだとさすがに等も学んでいた。
「あとは……大した心配はいらないだろう。油断は禁物だが、丙種地区までたどり着ける公算は高い。だが、問題はそれからだ」
「ですね」
等はうなずいた。
光がこれからなにを考えているのか、まだよくわからない。
一応、逃亡するようだが、彼女は無意識のうちに絶対人権委員会に情報を流しているのだ。
これが絶対人権委員会の誰かが仕掛けた悪趣味な罠である可能性は、どうしても否定できない。
「用心にこしたことはないが、考えても仕方ないことってのもあるな」
ふと葦原が笑った。
皮肉げでいて、凶悪な笑いだ。
まさに魍魎にふさわしい、悪鬼羅刹の類の浮かべる笑みだった。
葦原の予想通り、さしたる困難もなく乙種地区へとたどり着いた。
悪臭が鼻をつくが、どこかいまでは懐かしくさえある。
いつものように建物の窓から無数の視線を感じた。
なにしろ今回は乙種市民ですらない魍魎なのだ。
住民たちが警戒するのは当然といえば当然だった。
「おっと、さっそくお出迎えか」
葦原の言うとおり、一機の自律機が接近してきた。
いつもながら強化合成樹脂でつくられた昆虫のような意匠である。
自律機から音声が発された。
『霧香は駄目だったみたいね。でも、二人いればめっけものか。とりあえず、おかえりなさい。魍魎さんたち』
光の声は嬉しげだったが、これから本物の地獄が始まることも、ありうるのだ。
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