第80話 切り捨て

 熱いぬるぬるした液体を頭からかぶった。

 いま自分は血を浴びているのだ、と等は思った。

「なにやってるんだ!」

 どうやら葦原が、包丁で相手の頸動脈を切断したらしい。

 やはり彼はこうした行為に慣れている。

 しかし疑問は残った。

 葦原の性格からして、なぜ自分を助けたのか理解できない。

 もう目指す乙種地区まではわずか三キロである。

 太陽の位置で方角をわりだせる葦原ならば、いま自分たちがずっと西にむかって移動していたことには気づいていたはずだ。

 つまりすでに、地図がなくてもその気になれば丙種地区に辿り着けるのである。

 とはいえその思考は一秒もたたないうちに行われたものだ。

 いまはそんなことを思い悩んでいる暇はなかった。

 鉄パイプを握りしめてそのまま自転車へと葦原と並んで走って行く。

 あまりにも多量の血を見た群衆が浮足立つのがわかった。

「やばいぞっこっちにくるっ!」

「こいつらやっぱり化け物だぞ! なんのためらいもなく人を殺しやがるっ!」

「くるな! 化け物!」

 お前らだって立派な化け物だろうと思いながら、血まみれのまま自転車へと駆け寄った。

 悲鳴をあげて自転車の持ち主が逃げていく。

 「伊東」という人名が書かれた自転車に等は乗った。

 ふだんは徒歩だが、中級学校一年生のときに将来、必要になるからと自転車の乗り方については習っている。

「いくぞっ」

 葦原が叫んだ。

「きゃああああああああああああああ」

 霧香の金切り声が鼓膜を震わせた。

 反射的に振り返ると、すでに霧香は何人もの男たちに路地に押し倒されていた。

 どうやら衣服を脱がされているようだ。

 さすがにこれは無理だ、と等は思った。

 いまから引き返しても、これだけの人数にはまず勝てない。

 しかもいままで等や葦原を敵視していた男女も、しだいに霧香のほうへと移動を始めている。

 もはや霧香の運命は決まった、のだろう。

 小型の撮影機をもった男が興奮に鼻をふくらませている。

 いずれ霧香の無残な姿の動画が電網上に載るのかしもれない。

 もちろん、未成年は閲覧できないところにだが。

「助けて! 平くん! 葦原さん! 私たちは仲間でしょう! いや、見捨てないで! お願いだから! いやああっ!」

 苦いものが胃のあたりからせり上がってくる。

 無言のまま、等は自動車を発信させた。

 鉄パイプは全部の籠に放り込んでいるため少し安定しないが、なんとか自転車の運転はうまくいった。

「あっちで女の魍魎が捕まったらしいぞっ」

「まじかよっ」

「こりゃすげえっ」

「しかも若い娘だってさ、最高じゃねっ」

「俺たち、すげえツイてるぞっ」

 あちこちから人々の、『人間たち』の声が聞こえてくる。

 これが人権を持ち、反人権的な態度を憎むものたちの言葉なのか。

 いや、彼らは別に反人権的な行動を憎んでなどいないのだ。

 そうしないと自分たちも魍魎にされてしまうから、「反人権的行為を憎むふりをしている」にすぎない。

 わかってはいたことではあるが、ここまで露骨に人間の本性を見せつけられると、悲しくなってきた。

 やはりあの鈴木のような男は、この社会ではごく少数派なのだ。

 しだいに霧香の悲鳴が遠くなっていく。

 だが、いつまでも彼女の声が脳内で鳴り響いていた。

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