第31話 欲求と恐怖

 さすがに七月も近づいてきたので、光の部屋のなかは蒸し暑い。

 だが、緊張のせいか等はそんなことを意識している余裕もなかった。

 ついに今日、光たちの「仲間」と初めて対面するのである。

 光は決して、一人で絶対人権委員会を敵に回しているわけではない。

 個人は所詮、個人にすぎないと光は何度も言っていた。

 対して絶対人権委員会は、組織である。

 実質的に彼らと戦うということは、大亜細亜人権連邦という国家を相手にするのと変わらないのだ。

 そう考えると、改めて自分がとんでもないことをしでかそうとしているのだということに気づかれた。

 十数億の人口を抱える世界有数の大国に、自分たちのような非力な人間がなにを出来るというのだろう。

 確かにこの国の「人権制度」は名前ばかりで、明らかに間違っている。

 しかしさすがに敵が巨大すぎるのだ。

「ほら、ぼうっとしていると、アイス溶けちゃうよ」

 ぺろぺろと青く冷たい棒を舐めながら光が言った。

 その舌がちろちろと躍る様が、どこか淫靡に見えてしまうのは自分がいやらしいからかもしれない。

「こら。今日は真面目な話、するんだから、アレはなしだよ」

 光はこちらの股間を見つめてけらけらと笑った。

 羞恥に顔が火照っていく。

 相変わらず光は奔放で、自由にやりたいようにやる。

 甲種のなかには猫を愛玩動物として飼っているものもいるらしいが、光はまさに仮想動画で見る猫そのものといった感じがした。

 ちなみに乙種や丙種地区では、まず猫や犬の姿を見ることはない。

 そんなものがうろうろしていれば、食用として捕まえられてしまう。

 天然の肉はご馳走なのである。

 もっとも、さすがにドブネズミなどは不衛生すぎて乙種では食用にすることはないが、丙種地区ではごく当たり前の食材らしい。

 さすがに丙種地区にも慣れてきたが、その貧困と腐敗ぶりは凄まじいものだった。

 まだ幼い子供がわずかな食料をめあてに、大人に性行為をさせるなどというのは当たり前である。

 あまりの反人権的行為に吐き気がしたが、子供たちはそうでもしないと生きていけないのだ。

 また盗みや強盗などの反人権的行為も日常茶飯事である。

 乙種地区なら間違いなく通報をうけた人権保護官たちがやってくるところだが、丙種地区はほとんど見捨てられているようだ。

 ここでは情報と力がすべてである。

 実のところ、丙種地区の住む光の身を今でも等は案じていた。

 おそらくこんな豪勢なものを食べている光は、丙種の人々から羨望と嫉妬の眼差しで見られているはずである。

 彼らが襲ってこないのは警備用の自律機が警戒しているからに過ぎない。

「ところで……光。ここにいたら、いろいろと危なくないか?」

「ああ、丙種の人たちがってこと?」

 さすがに光も自分が置かれた状況を理解しているようだ。

「わかってるならいいけど……」

「もちろん用心はしているわよ。人間て、主に二つの原因で行動を判断すること、知っている?」

「二つの原因?」

「小説を書くのなら人間を理解してないと駄目よ。人間を動かす原因はつきつめれば単純。欲求と恐怖よ」

 光が剣呑に目を細めた。

「等、あなたが最初にここにきたのは欲求のせい。あなたは私が何者か、そしてこの世界の真実がどんなものか、いわば知的欲求にかられてここにきた。あ、あとつけくわえれば、憧れの素敵な女の子の家にきたかったってのもあるか」

 光がくすくすと笑った。

 不思議と彼女が言うと、嫌味がない。

「まあ、だいたいそうだけど……」

「でも、そのあなたのなかには恐怖もあったはず。私はあなたにとって得体のしれない存在だったし、しかも丙種地区に住んでいる。だけど、最終的には恐怖よりも欲求が勝ったから、あなたは今、私とこうして話をしているわけ」

 その通りだ。

「でも、丙種の人たちは等とは逆に、私への恐怖のほうが強い。まあ、それはそうよね。私が恐怖を植えつけたから」

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