第9話 思考感染
「そんなもの食べて……体、壊さないの?」
「なんで?」
質問の意味がわからないようだった。
衛生観念というものが、まだ子供ということもあるだろうが、欠如しているらしい。
「つまり、病気になったりしないかってことだけど」
病気と聞いて、みな怯えたような表情を浮かべた。
「病気は怖いよ」
「私のお姉ちゃんも、風邪で死んじゃった」
「俺の弟も」
あまりにも栄養が足りていないので、ちょっとした風邪でも死んでしまうらしい。
もっとも、それは乙種でもあまり事情は変わらない。
初級学校に入るまでに、子供のうち四人に一人は病気で死ぬのが常識である。
だが、ここでの死亡率はもっと高そうだ。
「ドブネズミは食べると病気になるかもしれないから、気をつけたほうがいいよ」
そう言うと、いたたまれない気分になって等は先を急いだ。
丙種地区がここまで貧しいとは、想象を超えていたのだ。
ふと道端に、痩せこけた老人が倒れているのを見てぎょっとした。
仰向けになったままで、ほとんど裸に近い。
肋骨が肌に浮き上がり、頭髪はほとんど残っていない。
周囲には蝿が何匹もたかっていたが、それを追い払う気力すらないようだ。
あるいは、すでに死んでいるのではないかとしばし呆然としていたが、老人は軽く咳き込んだ。まだ、生きているようだ。
「あの……」
「なんだ……」
老人はひどく大儀そうにかすれた声を漏らした。
「俺に……近寄るな……病気がうつる……」
「でも、こんなひどい状態でみんな放っておくなんて……」
かすかに目を開けて、老人がしばしの間、こちらを見た。
「ずいぶんと小奇麗な格好してるな……乙種かね」
「ええ」
「なんでこんなところにきた……ここはお前みたいな人間のくるところじゃないぞ……」
さすがに丙種地区にやってきた事情を説明するのははばかられた。
「でもおじいさんにも人権はあります……こんなふうに放置するなんて反人権的な……」
「はっ」
老人が面白い冗談でも聞いた、というふうに笑った。
「人権、人権か! おめでたいな、乙種様は! そんなものを本気で信じているのかっ」
「だって、当たり前のことじゃないですか」
「絶対人権委員会の言っていることを鵜呑みにするわけだ、俺を見ても」
危険だ。明らかにこの老人は反人権思想に染まっているとしか思えない。
このままでは思想感染することもありえた。
反人権主義者と長期間、接触していると、彼らの言動に影響されてしまい、しだいに反人権的な思考をするようにする。
それが思想感染だ。
「思想感染する、と思っているな、お前は」
この老人は心でも読めるのだろうかと怖くなった。
「お前みたいな小僧は、すっかりセンノウされているというわけか」
センノウという言葉は聞いたこともない。
「だが、俺は絶対人権委員会なんてものが出来る前からの、この国の、日本の姿を知っている……いまじゃ大亜細亜連邦に占領されちまったが……」
「占領じゃない。解放です」
「つくづくおめでたいな。でも、お前みたいに昔を知らないほうがある意味じゃあ……幸せなのかもな……」
老人の目から涙が溢れた。
「昔は……この国はこんなじゃなかった……よく見てみろ……ここはいわゆる『反人権主義者』のたまり場だ……こんなことになるなら、いっそシュクセイされるまで、あいつらと戦っていればよかったのに……それもできない半端者がこういうところに押し込められる……」
「シュクセイってなんですか?」
「つまり殺されるってことだよ……自称人権主義者に立ち向かったものたちは、銃殺されたりもっとひどい殺され方をしたんだ……」
ありえない。
絶対人権委員会は、殺人はもっとも恐ろしい人権侵害だと言っている。
その彼らが人を殺すはずがない。
人が人権を奪われ魍魎にされるのも、絶対人権委員会の慈悲のあらわれなのだ。
たとえ人権は奪っても殺したりはせず、あくまで命を尊重するのが絶対人権委員会なのである。
「もういい。いくら言っても無駄だ……俺ももうすぐ死ぬ……病気がうつるかもしれないからお前は……早くこんなところを出て……」
老人が激しく咳き込んだ途端、口から鮮血が溢れた。泡のようなものが混じった血だ。
怖くなって、等は駆け出した。
やはりこんなところに、くるべきではなかったのかもしれない。
いずれ餓死か病死しそうな子供たちに、いままさに死を迎えようとしている、反人権主義者の住処。
ふいに、仮想画面が目の前に展開した。
地図が表示されている。
『とりあえず、ようこそ。丙種地区へ』
光の声だ。
『これから私の家まで、この地図を辿ってやってきて。あなたの携帯電脳の情報は古すぎてここだと役にたたないから』
光の指示に従ったほうが良さそうだ。
『たぶん丙種地区の実態は、あなたにとって刺激的だったんじゃないかしら。でもこれから、この国の真実を知れば、あなたはもっと衝撃をうけるでしょうね。どんな反応するか、ちょっと愉しみよ』
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