砂糖が溶けるまでの時間
夕方の空はちょっと曇っていて、ざわついた街を少しだけぼかしてくれている。 曇り空は嫌いではないけれど、雨が降らないかだけが心配だ。
私はいつものように、駅前の喫茶店に入った。 すぐに「いらっしゃいませ」と元気な声が出迎えてくれる。指を一本立てて、一人だということを伝える。
案内されたのは窓際の席だった。
ふかふかのソファーに腰を下ろしてほっと一息。ここからなら、外の様子がとてもよく見える。
私は、水を持ってきた店員さんに、ホットコーヒーを注文した。
今日は、彼と会う日だ。
待ち合わせの時間までは、あと十分くらい。
気がつけば、外はもう随分と薄暗くなっていた。店に入る時にはまだ明るかったのに、本当に夕方から夜までなんてあっという間だ。待ち合わせの場所は駅前だから、暗くて彼を見つけられない、なんてことがなさそうで、それは一安心。
さっき注文したコーヒーと、彼と、先に来るのはどっちかしら。
そんなことを思いながら、私は窓の外、待ち合わせの場所を眺めた。
彼とは付き合ってもうすぐ二年になる。
これまであまり長続きしない恋ばかりだった私にしては珍しく上手にやってこれたと思う。
ワガママな私と、年下のくせに大人っぽい彼。趣味も良く合うし、話をしていても楽しい。
幸せか不幸せかと聞かれれば、きっと私は幸せなんだろう。
それでもふとした瞬間、不安になるときもあるのだ。
コーヒーを待ちながらしばらく外を眺めていると、彼がやってくるのが見えた。時計を見ると約束の時間の五分前。
ほどなくコーヒーが運ばれてくる。
今日は彼の勝ち、と私は心の中でつぶやく。
といっても彼は律儀だから遅刻することなんてめったにない。来る時間は決まって五分前だ。
彼はいつだって時間通りに来るし、
私はいつだって待ち合わせに遅刻する。
彼は優しいから何も言わないけど、本当はどう思っているのかしら。
以前、待ち合わせに少しだけ早くつき過ぎた日に、私はちょうど今と同じように、この喫茶店で彼が来るのを待った。
それ以来、こうしてわざと遅刻するのが、なんとなく習慣になってしまっている。
私はコーヒーを飲むのが遅い。
猫舌だし、とびきり甘党な私は、本当はちょっとだけコーヒーが苦手だ。
それでも彼との待ち合わせの時には、必ずコーヒーを飲むことにしている。
たっぷりの砂糖とミルク。
それらが渦を巻きながら溶けていく様子を見ていると、なんだか私も一緒に溶けて、そのまま引き込まれてしまいそうになる。
お店に流れていたラジオが、待ち合わせの時間が来たことを告げる。
けれど淹れたてのコーヒーはまだ湯気が立っていて、すぐには飲めそうにない。
チラッと湯気の向こうに透かしてみた彼は、さっきまでと同じように私を待ってくれている。
以前一度だけ、彼が遅刻した日。 今と同じように私はここで彼を待った。
待ち合わせの時間を過ぎても来ない彼に、私はとても不安を感じたのを覚えている。
結局十分くらい遅れて走ってきた彼は、私がまだ来ていないのをみると、ホッとしたような顔をしていたのだけれど……。
彼も、私を待っている間、そんな風に不安を感じたりするのだろうか。
待ち合わせの時間になった。
コーヒーはすっかり冷めていて、もう飲んでも大丈夫そうだ。
私は、少しだけ砂糖を足してみる。
冷めてしまったコーヒーには、砂糖はなかなか溶けてくれない。
私はコーヒーをかき混ぜながら、ゆっくりと飲み始めた。
カップのコーヒーが半分になる頃には、辺りはすっかり真っ暗になっている。
わざと遅刻するなんて、自分でもバカなことをしていると思う。
きっと私は、彼がいつまでも待っててくれることが嬉しくて、こうしているのだ。意味の無いことだなんてのは分かっている。
こんな風にしか、彼の愛情を確かめられないなんて本当にバカだわ……。
彼はさっきから、腕時計をチラチラ見ている。何度も携帯電話を確認して、そのたびに首をかしげている。それでも彼から確認のメールや電話が来たことは、今まで一度も無い。
信頼されてるような気がして嬉しいことだけれど、そろそろ行ってあげなくちゃ可哀想かしら。
私は半分くらい残っているコーヒーを一気に飲み干した。
カップの底には、やっぱり砂糖が溶け残っていたけれど、それでも良いのだ。と思った。
私は彼のことが好き。
けれど彼のことを好きって気持ちだって、
こうして、全部飲み干してしまうまでは隠れていて見えない。
私は、お会計を済ませて店を出ると、彼の元へと急いだ。
遅れてゴメンねって言ったら、きっと彼はホッとした顔をしながら笑って許してくれるから。
砂糖が溶けるまでの時間 水上下波 @minakami_kanami
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