Hello! How are You?




「Hello! How are you?」


 自分の部屋。ベッドの上に置きっぱなしになっていたウサギのぬいぐるみが突然喋りだしたとき、わたしはついに頭がおかしくなってしまったのかと思った。あまりに寂しすぎて、幻聴まで聴くようになってしまったのかと。

「Hello! how are you?」

 聞こえなかったと思ったのか、ウサギがもう一度同じ言葉を繰り返す。それは無垢な女の子が歌を歌っているような、綺麗に透き通った声だった。

 あまりにも予想外の出来事にあうと、人というのは何も考えられなくなるらしい。わたしは気がついたら、バカ正直にぬいぐるみに返事をしていた。

「あ、あいむ、ふぁいん……?」

 本当のことを言うと、全然ファインなんかじゃなかったけれど、お決まりのそれ以外に返事を知らなかったから。

「realy?」

「り、りありー……」

 それにしてもなぜ英語なんだろう。幻聴が外国の言葉で話しかけてくるなんて、聞いたことがない。もちろん日本語の幻聴だって聞いたことも無いけれど。

 わたしのしどろもどろな回答に、ウサギはクスリと笑ったみたいだった。

「焦りすぎだね。もしかして英語は苦手なのかい?」

「……えっ?」

「あれ? 通じてないのかな? 君は日本人だろう?」

「そうだけど……」

「ああ、良かった。ちゃんと通じてるみたいだね。だったら日本語の方が良いよね?」

「……ええ、そうして」

 わたしがうなずくと、ウサギはまた笑った。今度はさっきまでとは違って、優しい響きだ。おかげで、わたしもちょっとだけ落ち着くことができた。

「ていうか、なんで英語だったの?」

「ぼくはアメリカ生まれだからね。ほら、背中のタグを見てごらんよ」

 ウサギは得意気に言う。

 改めてその姿をみてみれば、確かにそのウサギはアメリカのホームドラマで女の子がでも持っていそうな、そんな姿をしていた。

 このウサギのぬいぐるみは、いつ手に入れたものだっただろうか。考えてみたけれど思い出せない。

「ん? ……ぼく? あなた男の子なの? それにその話し方……」

 声は可愛らしい女の子なのに、大人の男の人みたいなその口調に、妙に違和感を憶えた。

 ウサギはいかにもアメリカ風なため息をついた。

「おやおや。ぼくはぬいぐるみだよ? ぬいぐるみに性別があると思うのかい?」

「ああ、そう……」

 少しイラっとした。

 そんなわたしの気持ちなど気にもしていないように、ウサギは変わらず明るい。

「なんにせよだ。改めて初めからやり直そうか」

「えっ?」

「やあ、こんにちわ。お元気ですか?」

 それはさっきも聞いた質問。わたしの返事も同じだ。

「……元気よ」

「本当に?」

「しつこいわね。ホントよ」

「なら、どうして泣いていたんだい?」

 ドキリとした。さっきまで泣いていたのは本当だったから。誰も居ない部屋だけれど、ウサギだけはその姿を見ていた。

 わたしは涙の跡を隠すために、目を擦った。

「……泣いてなんかないわよ」

 そう言うと、ウサギの方がわたしよりももっと泣きそうな表情を浮かべた、ような気がした。

 でもそれは、ただわたしがそうあって欲しいと思っていただけなのかもしれない。だってぬいぐるみは動かない。もっとも、それを言うなら喋ることだって十分おかしいんだけど。

「何か嫌なことでもあったんじゃないのかい?」

「……ないわよ」

 嘘だ。

 嫌なことなんて、本当は数えきれないくらいあった。

 慣れきってしまってなんの面白味もない仕事のこととか、めんどくさい同僚とのうわべだけの付き合いとか。就職を気に上京してきて、それ以来疎遠になっている地元の親友のこととか。

 周りはどんどん先に進んでいってるのに、自分だけがその場で足踏みをしているみたいな。取り残されてしまうんじゃないかという、そんなやり場のない不安。

 要するにたぶん、一言でまとめてしまえば、わたしは寂しいのだ。

 だからこそ、こんな風に幻想に向かって話をするはめになっているんだろう。

 でもね、だからって。いくらぬいぐるみ相手にだって、そんなこと、言葉にするわけにはいかないじゃない?


 だからわたしは精一杯の虚勢で、誤魔化しを口にする。

「……いろいろあるのよ。大人には」

「その色々が聞きたいのさ」

「そんなの、ぬいぐるみに話したってしょうがないじゃない」

 しつこさに苛立つわたしとは反対に、ウサギは飄々と涼しい顔だ。もちろんそれはただの例えだけど。

「それって、本当は聞いて欲しいってことなんじゃないのかい? なら、誰か別な人に話してみるといいんじゃないかな」

「まさか。……わたしみたいな平凡なだけの人間の愚痴、喜んで聞く人なんていないわ」

「そんなことは無いと思うけどね」

「どうせ誰にも伝わらないなら、言葉なんて無くなっちゃえばいいのよ」

「そんな寂しいこと言わないで欲しいな。口を開かなければ分からないことだって、たくさんあるとぼくは思うんだ」

「わたしはそんなこと期待したりしない! 誰かにも、自分にだって!」


 ……あれ? おかしいな。

気付けばわたしは、不安や不満をウサギにぶつけてしまっている。あんなに、誰にも話さないって決めていたはずなのに。

 一度自覚してしまうともう止まらない。今まで溜め込んでいた感情が、次から次に唇からこぼれていく。

 涙がにじんで、視界が歪む。その涙の膜のむこうで、ウサギはやっぱり静かに笑っていた。


ふと目線を向けると、わたしの目の前で、わたし自身がにこやかに微笑んでいる。今やわたしはウサギのぬいぐるみの姿で、それを見つめているのだった。

「ちょ、ちょっと。何これ」

 そう言おうとしたのだけれど、言葉は声にならない。ぬいぐるみの口は縫いとめられているから開かない。わたしの姿をしたその人が、こちらを振り向いた。

「ぬいぐるみは話したりしない。伝わらない言葉なら、そんなもの必要ないだろ?」

「ちょっと、待ってよ」

「きみは随分生きづらいみたいだからね。ぼくが代わりに生きてあげるよ。きみは今日からぬいぐるみだ」

「待ってってば! そんなのは嫌よ」

「おや、なにか言いたいことがあるのかな? じゃあ、ちゃんと言葉にしなくちゃね。思ってるだけじゃ伝わらない」

「そんなの……そんなの、言いたいことなんて山ほどあるのよ! 本当は聞いて欲しいに決まってるわ!」

わたしは必死に叫び声を上げる。誰かに届くことを祈って、必死で。



 そして我に返ると、いつのまにかわたしは、子供みたいに大泣きしながら、ウサギのぬいぐるみを抱き締めていた。

「……痛いよ」

 と遠慮がちに言われて、慌てて腕を離す。ウサギが、軽く息をついた。

「からかったのね」

「綿が飛び出るかと思ったよ」

 言葉は非難しているみたいだけど、その口調は柔らかい。

 だからなのかな、

「……ありがとう」

 素直にそう言うことができた。ドロドロと、心の底に溜まっていた濁った感情が、さっきの涙で洗い流されてしまったみたい。

「ははっ、お役に立てたなら嬉しいよ。誰かに話しながら、泣いてみるだけで、ずいぶん心が軽くなるんじゃないかな」

「そうね」

 今なら迷わずそう言える。

「だからさ、言葉が無ければ良いなんて、もう言わないよね?」

「……そうね」

 わたしは力強くうなずいた。

「良かった。もし言葉がなくなってしまったら、ぼくはただのぬいぐるみのままだからね」

 わたしは笑う。ウサギも笑った。

「あなたと話せて良かったわ」

「ぼくもさ。……でも、夢の時間はもう終わり。これからは、人間相手に話せるようにならないとね」

「そんな人いるのかしら」

 ウサギは秘密の隠し事をする子供みたいに、楽しげに声をひそめた。

「もちろん。よく考えてみて、いるはずだよ?」

「うーん……」

「ぼくはどうやって君の部屋にきたのかな? 思い出してごらん」

 それが、ウサギの最後の言葉だった。



 気がつくと、電話の着信音が鳴り響いていた。携帯を手に取ると、そこには懐かしい名前。

「ひさしぶり! 元気だった?」

 透き通るようなソプラノで子供みたいだといつもからかわれていた、彼女の懐かしい声。わたしは密かにその声が好きだった。そんなことを思い出して、思わず口許がほころんだ。

「元気よ。そっちこそ元気? 地元を出て以来だから、一年ぶりくらい?」

「そうそう。懐かしいよね! ……ずっと連絡できなくて、ごめんね?」

「ううん、それはお互い様。それより、急にどうしたの?」

 そう訪ねると、彼女はちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。

「ん……なにしてるかなーって思って。寂しがってんじゃないかなって心配になってね」

 思わずわたしは笑ってしまった。

「……なんで笑うのよー」

 彼女が電話の向こうで不満そうに頬を膨らませている様子まで、はっきりと思い浮かべることができた。

「ねえ、わたしが上京するときにあんたがくれた、あのウサギのぬいぐるみさぁ……」

「ん? なに、急に」

「ううん。やっぱりなんでもない」

 恥ずかしくなって、やっぱり誤魔化した。でも部屋で一人で泣いていた、さっきまでのわたしとは違う。

「わたしさ、」

 代わりに言う。

「今度英会話でも習ってみよっかなって思うんだ」

「なにそれ、急に」

「英語で挨拶とかできたらカッコいいでしょ?」

「えー、そうかなぁ。 Hello! How are You? みたいな?」

「そうそう。 I'm fine. thank you! みたいなね」

 きっと伝わるってそう信じて、わたしは心の中でもう一度、Thank you とつぶやいた。


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