六章 出る竜は打たれる(2/2)
城内の足音には、ジーヴに聞き耳をたててもらうことで予防線を張り、あたしは旅で見聞きし推測した事柄を兄に伝えていく。
黒竜の一族を滅ぼし、街を焼いた犯人がイゼルヌ教団の人間であること。
黒竜を死に至らしめた正体が毒性の気体であり、教団の裏で
教団は竜の排除に乗り出している懸念があること。
かいつまんで話すあいだ、ジーヴは腕を組んだままじっとしていた。兄は時おりうなずきながら、徐々に厳しい顔つきになっていく。
素晴らしい、と教師然として兄が評する。
「ほとんど正解だよ。よくそこまで予測できたね。大したものだな、アイシャは」
「ほとんどは俺の意見だぞ、エイミール」
「ジーヴは黙っててよ」
緊張感のない竜が余計な口を挟む。
兄は仕切り直すようにおほん、と咳払いして、
「彼らが成そうとしていること――それを知るには、もうひとつパズルのピースが要る」
兄の姿は、真理を得た求道者のように厳かで、どこか敬虔な雰囲気すら漂っていた。
すっ、と人差し指を立て、彼が静かに宣言する。
「僕は、新大陸を発見した」
その抑えた声は、監獄にひどく反響した。
あたしは兄の言う意味が分からず、いや、言葉の意味は分かっても、言葉が説明するところに理解が追いつかず、ただただ沈黙する。ジーヴも瞬きさえ忘れたように、兄を凝視している。
この世界の一番大きな常識。
一つの世界には、一つの大陸。世界イコール大陸、という図式。
つまり、兄は。
それが間違いだと、言っているのだ。
「……嘘。だって、大陸はひとつだって、学校でも習った」
にわかには信じがたい話に、あたしはやっとそう返す。兄は目を細めて微笑した。
「うん、誰もがそう信じているはずだよ。僕も実際、この目で見るまでは信じられなかった。他に大陸があるってことは、世界がもうひとつあるのと同じことだからね。でも、誰か海洋をくまなく巡って確かめた人がいたわけじゃない。知られていなかっただけで、大陸はずっと前から、厳然とそこにあったんだよ。直近の航海で、僕はこの足で新大陸に立った」
兄は恍惚にほど近い、うっとりとした遠い目になっている。おそらく彼の脳裏には、到達したという新大陸の情景が浮いているのだろう。
「短期間だったけど、僕らは大陸の調査をした。植物も生物も、見たことのない種ばかりだったよ。あんな興奮は味わったことがない。そして驚くべきことに」
その大陸には、人間も竜もいなかったんだ、と兄は続けた。
ひゅっと喉が鳴る。ジーヴも息を飲むのが分かる。
竜の可飛行領域よりも遠い新大陸。当然といえば当然だが、人も竜もいない世界なんて想像ができない。ジーヴも同じらしく、顔を盛大にしかめている。
「僕はすぐに調査結果をレポートにまとめて、王都に送った。こんな世紀の大発見はまたとない。どうもその時に、王の側近のイゼルヌ教団員の目に入ったらしくてね。――そもそも教団の人間が王室に取り入ったのは、王立組織であるアカデミー相手に、采配を振るう必要があったためだと僕は睨んでいる。彼らは麻酔や毒ガスの研究をアカデミーの人間にさせていた。科学者たちには、外科手術とか鼠とかの害獣に使用するものだと嘯いてね。もともと彼らの目的は竜だったわけだけど。そしてある目的のために、その大陸を利用しようと決めたんだ」
「利用って、どんな風に」
嫌悪感で胃がむかむかしていたけれど、尋ねないわけにいかなかった。
聞くも忌まわしい、神の名を借りる教団の計画が、兄の口から語られる。
「彼らはね、この大陸のすべての竜を、新大陸に移し替えてしまおうと画策したんだ。麻酔や毒ガスで竜を眠らせたり弱らせたりして、こっそり最新鋭の蒸気船で移送する。当の竜には無断でだよ。当初は毒ガスですべての竜の命を奪おうと考えていて、これは大変だと気づいたのか、さすがに良心が咎めたのか分からないけど、どっちにしろ馬鹿げてるとしか言いようがない。国王陛下には、竜の合意を得た穏便な移住だとか何とか言っているようだ」
水面下で進んでいた陰謀。
それが、彼らが作ろうとする世界。新しい秩序を手に入れた世界。
全貌を知ったジーヴは、憤然と肩を怒らせる。
「そのような身勝手な話、我らは聞いていないぞ」
だからたちが悪いんだ、と兄は顎を引く。
「彼らは言っていたよ。竜だって人間のいない広々とした新大陸の方が、伸び伸び羽を伸ばして過ごせるだろう、って」
「たわけたことを勝手に抜かすな、と言ってやりたいな。人間が何を考えようと勝手だが、竜は他者から考えを押しつけられるのを嫌う。人間がいない場所の方が好ましいかどうか、それを決められるのは竜のみだ。それに第一、人がいない場所では、酒も飲めんではないか」
「あんたは結局そこが大事か……」
ジーヴの度を越した飲みっぷりを思い返して、あたしはこそっと突っ込みを入れる。
兄の話で、イゼルヌ教団の常軌を逸した狙いは明らかになった。でもまだぴんと来ないことがある。彼らの目的と、あたしたちの街が焼き払われたこと、それに黒竜の部族が滅ぼされたことは、どう関係しているのだろう。
「教団の奴らはどうして、街を焼いたり黒竜の里に毒ガスを撒いたりしたの」
尋ねると、兄の双眸に暗鬱な翳りが生じた。
「それはね、口封じと、手違いのためだよ」
「……どういうこと?」
「まず、僕たちの街についてだけど、あそこにはアカデミーの会員がたくさんいただろう。僕と一緒に航海に出た学者も何人もいたし、彼らには家族もいた。街には王立図書館もあった。教団の人間にとっては、新大陸の存在は是が非でも独占したい秘匿事項だった、それは分かるね。彼らには、街の人々にどれだけその事実が広まっているのか分からなかったし、資料もどの程度存在するのかも分からなかった。新大陸の存在を知っているか、なんて訊いて回るわけにもいかない。だから、都合が悪いことを知っている可能性がある人間を、街ごと、本ごと燃やしてしまおうと考えたんだ」
兄の顔が、見たこともない形に歪む。
「そして彼らは準備段階で、近くに黒竜が棲む里があることを知ったんだろうね。運の悪いことに、その一帯は窪地になっていた。実用試験として、気体を撒くにはお
兄はそこで、もう耐えきれないというように、震える手で顔を覆う。あたしはようやく、彼が背負ってきたものの重さに気づいた。
「僕のせいなんだ……全部……。僕が、もうひとつ大陸があることに気づかなければ、新大陸なんて発見しなければ……こんなことには…………」
「兄さん」
だらりとぶら下がったままの、兄の片手を取る。手は血の気を失って、指先まで冷えきっていた。あたしの小さい右手だけでは、彼の掌を包み込むことはできないけれど、熱で温めてあげることくらいは、できると思った。
「兄さんのせいじゃないよ。兄さんがした発見は本当にすごいこと。悪いのは悪用しようとした奴ら。悪いのは、全部イゼルヌ教団の人間」
「そうだぞ、エイミール。お前の功績は、人類史に残る偉業だろう。決然と胸を張るがよい。糾弾されるべきは、イゼルヌ教団の人間だ」
兄は顔を上げた。そして、あたしとジーヴの顔を眺め回した。目の縁ぎりぎりまで溜まっていた涙を袖口で拭うと、しゃんと胸を張って、凛と表情を引き締める。
「ありがとう、二人とも――。僕は教団を、どうにかして止めたいんだ。大司教は国王からの、竜と人間の生活圏分割の令の発布を求めている。今頃、陛下に発令を進言しているかもしれない。陛下から命が下されれば、個人の力ではどうにもできなくなる。……国王は教団の凶行をきっとご存じない。でも、僕一人が喚き散らしたところで、大司教に一蹴されるだけだ」
兄があたしと、ジーヴを交互に見据える。教団員の人間の道を外れた所業によって、腕と視力をそれぞれ失った、あたしたちを。
「今、君たちがここにいるのもきっとある種の運命だ。二人もいれば、凶行の証拠に十分なる。陛下は騙されているだけで、聡明な方だ。きっと分かってくれる。危険な目に遭うかもしれないけど、力を貸してくれないかな? 竜と人間が共存する、この世界を守るために」
「王に直訴するのか」
ジーヴの問いかけに、兄が深くうなずく。
雄々しき黒竜の生き残りは、よく言えば勇ましく、悪く言えば猛悪に笑い、上下の顎に生え揃う鋭利な牙をぎらつかせる。
「くくく……それでこそ、右目から光を失った甲斐があるというものだな。同胞に仇なさんとするものに、目に物を見せてくれようぞ」
地獄の底から響きわたるような、恐ろしい低音だった。小説の登場人物なら、どう見ても敵役だ。
かと思えばジーヴはこちらに向き直り、高いところからあたしの鼻を指で指す。
「王にはお前が話すのだぞ、小娘。竜である俺の話は、色眼鏡で見られる可能性がある。そもそも、人の王といえども、俺には人間相手にへりくだることができん。お前が、説得するのだ」
兄も、揺るぎない視線をまっすぐあたしに向けている。
急に、
「そ……んな大役、あたしにできるのか?」
「何を怖じ気づいている。お前にはこの俺がついているのだぞ。心配無用だ」
ジーヴがすべてを包み込むほどの力強い笑いを浮かべたので、あたしは目を丸くして彼を見返すほかなかった。
あららー、と兄がほほえましいものを見る保護者の顔で、笑う。
国王陛下に謁見を願いたい、という兄の申し出は、存外にあっさりと聞き入れられた。
「馬鹿にされているんだ。僕が何を言おうと陛下は聞く耳を持たないって。きっと望みを絶たれて、膝をつく僕の姿でも見たいんだろう。性根の腐った男だよ、大司教は」
両脇に付き従うあたしたちに囁く声は、彼にしては珍しく、穏やかならざる空気をはらんでいる。
あたしの頭の中では、口にすべき事柄がぐるぐると渦巻いている。しかしなかなか形にならない。ええい、ままよ、と崖から飛び降りるつもりで心構えをした。単に捨て鉢ともいう。
衛兵の格好をしたあたしとジーヴは、兄とともにふかふかの絨毯の上を進み、そのまま大理石の大広間へと至る。
王の間だ。
内心で息を飲んだ。こんなに広い室内は見たことがない。横幅も高さも奥行きも途方もなく、竜型のジーヴだって悠々と羽ばたけるだろう。石壁には等間隔に蝋燭の炎がゆらめき、壁伝いに弓を携えた近衛兵とイゼルヌ騎士団員がずらりと並ぶ。王の間近に、こんなにイゼルヌ教団の人間がいることに舌を巻く。
絨毯は玉座の直前まで伸び、数段の
そして、国王のすぐ前に、跪いている男。
あたしたちが近づいていくと、深紅の長衣を纏った男はのっそりと体を起こし、兄の姿を認めて冷笑を浮かべる。かっとして衝動的に飛びかかりそうになるのを、理性を呼び起こしてなんとか抑える。
この男が、イゼルヌ教団の大司教。すべての元凶。
意外に体は小さく、顔には深い皺が刻まれているけれど、その鋭い眼光がそれらを侮りの要素だと意識させない。むしろ顔面に走る筋が、全体の雰囲気を厳めしくするのに役立っている。
兄が深々と腰を落とし、国王に向かって
「わしに話があると聞いたが」
「はっ。国王陛下、ならびにイゼルヌ教団司教――」
「司教ではない、大司教だと言っただろう」
「――大司教。この度はお目通りをお許しいただき、心より感謝申し上げます。しかしながら、お話ししたき事柄があるのは僕ではありません。こちらの者たちです」
何、と怪訝な声を出したのは大司教だ。
あたしとジーヴが衛兵の兜を脱ぎはらう。引きつり笑いを収めた大司教が目を剥いた。
「その者たちは――」
「エイミールと申したか。いかようなことであるか、説明せよ」
国王に動じた様子はない。知的な藍色の瞳が、じっとあたしたち三人を注視している。
「陛下を欺くような真似をし、申し訳もございません。然るべき刑罰も甘んじて受ける所存でおります。しかしながら、どうか、それは僕らの話をお聞きになってからにしていただきたいのです」
「申してみよ」
「ご慈悲に感謝いたします。――彼女と僕は兄妹です。僕らの生まれ故郷は、焼き討ちに遭って無くなりました。もう一人の彼は見てのとおり竜ですが、焼き討ちと同じ夜、人間の襲撃に遭い、同族の竜たちを亡くしました。イゼルヌ騎士団の手によって。すべてはそこにいる、司教の指示です」
こめかみに青筋をたてた大司教が、
「私は大司教だ! それにそんな事実はない!」
「これを見ても、まだそのようなことを仰いますか?」
あたしはきっと大司教を睨みつけ、衛兵服の左の袖口部分を思いっきり引っ張った。王と大司教がはっとするのが分かる。
牢獄での話し合いの後、あたしは服に細工をしていた。自分の服から制服に移し替えていた裁縫道具で、左腕の肩口をすっぱり切り離し、糸で粗く縫い直しておいたのだ。少し力を加えれば、簡単にほどけてしまうように。
左袖がへたりと床に落ちる。布がすっかり無くなった左腕部分、そこにあるべきものは無かった。ただ虚無が、ぽっかりと口を開けている。
演出の効果はあったようだ。王は食い入るほどに、大司教は苦々しげに、あたしの欠けたところをまじまじと見つめている。
「街が襲撃を受けた夜、あたしは片腕を無くしました。甲冑姿の集団に家を焼かれ、崩れてきた二階の家財に腕を潰され、最後は自分で腕を切り落としたのです。街のすべては灰となり、生き残ったのはあたしたち兄妹だけでした。その甲冑に紋章がついているのを、あたしははっきりと見ました」
すっと右腕を上げる。まっすぐに、しっかりと、大司教の胸に輝く羽ペンの紋章を指し示す。
「羽ペンの紋章でした。イゼルヌ教団の紋章でした!」
「小娘め、口から出任せを……ッ」
「出任せを言っているのはどちらでしょうか? 竜の彼も、撒かれた毒ガスにより、右目の視力を失っています。目が白濁しているのがお分かりでしょう。その毒ガスは、イゼルヌ教団がアカデミーの科学者に作らせたものです。こちらの彼は、竜と人間のあいだで生活圏分離の同意があった、などというのは嘘っぱちだと申しております。陛下。イゼルヌ教団は――そこにいる司教は、身勝手な目的のためにアカデミーを利用し、陛下までも欺いたのです!」
「私は……大司教だ……!」
ぜえぜえと喘ぎながら、大司教は睨みを利かせる。近衛兵が、騎士団員が、ざわざわとさざめいている。
国王は一息おいてから、糾弾される大司教を冷たい目で見下ろした。
「大司教……今の話、まことなのか。釈明できるか」
悪事の張本人は、肩を落として項垂れているかに見えたが一転、体を震わせ、ふふふふと胃の底からせり上がってくるような気味の悪い笑い方をした。気でも狂ったかとぎょっとする。
がばりと上げた男の顔には、正気とは思えない色の壮絶な笑みが貼りついていた。目の光が既に狂気に染まっている。壊れた胡桃割り人形みたいに、顎ががくがく動いていた。悪夢に出てきそうだ。
「陛下! 私には分かりました、分かりましたぞ! この者は、そこの竜にたぶらかされているのです。それで虚飾にまみれた
姑息な濡れ衣を着せられたジーヴが、怒気を周囲に散らして激昂する。
「貴様……何をぬけぬけと……!」
「おお、なんと恐ろしい姿だ! ここで討たねば甚大な被害が生じよう、騎士たちよ! 弓を構えよ!」
「待て、大司教、騎士団! 勝手な振る舞いは許さぬ!」
「お忘れですかな、陛下! 有事には、我が騎士団員は、国王の命令より私の指示を優先する、という取り決めを交わしたことを!」
「くっ……、近衛兵! 騎士たちを止めよ!」
国王の指示により、近衛兵と騎士団の戦闘が始まる。場が騒然となり、そこかしこで憤激の叫びがあがり、何もかももみくちゃになった。
争乱のさなか、騎士団員がジーヴを狙い、矢を向けてくる。
「弓など蹴散らしてくれる……ッ」
ジーヴの髪がぶわりと逆立つ。この広間なら、竜型に変じても翼を動かし暴れ回ることができる。あたしは流れ弾を警戒して兄の楯になりながら、ジーヴの竜化を待った。
幾度も旅の窮地を救ってきた、本来の姿のジーヴの力。
一陣の
ジーヴが驚愕に目を見開いている。彼の表情に浮かんだことのない、焦りがそこにある。彼を見るあたしも兄も、きっと気持ちは同じだった。混乱していた。どうして、そんなことが。信じられない。
竜型に、なれないのだ。
ジーヴががくりと膝を折る。見開いた目で、自身の掌に視線を落とした。
「なんだ、なぜだ、これは……」
気高い竜には、堂々たる空の王には、あってはいけない体勢だった。交戦のさなか、呆然と唸るジーヴを前に、大司教が哄笑を響かせる。
「竜よ、もしかして城下にて蜂蜜紅茶を飲んだのではないか? 実はな、商人に手を回して、娘と竜の二人組を見つけたら薬剤入りの紅茶を飲ませよ、と申し渡してあったのだ。それがこの薬剤よ」
大司教は懐から、小さなガラス瓶に詰められた、無色透明な液体を取り出だす。なんてことだ。あの商人に、教団の息がかかっていたなんて。あたしは絶句する。
大司教は、それが伝説上の聖剣だとでもいうように、恭しく頭上へと掲げた。
「せっかくだから教えてやろう。これはな、ドクトカゲの毒から精製した、竜を強制的に人型にする薬なのだ。まだ試験段階だったが、ちょうどよい実験台になってくれたな。くっくっく、感謝するぞ! この薬で我々の計画は完璧になる。我らは竜を眠らせ、この薬で人の姿に変じさせ、新大陸へ移送する! この世界は人間を頂点とする、新しい秩序を手に入れる! さあ、人を騙くらかす竜には、この世から退場してもらおう!」
「貴……様……、どこまで卑怯を貫けば気が済むッ」
ジーヴが床に手を着いたまま、大音声を張る。肌がびりびりするほどの尋常ではない覇気だ。あたしは思わず腕で顔を覆った。
この混乱をどうすれば諌められるのか、あたしは分からなかった。ジーヴが竜になれない今、彼には頼れない。それどころか、あたしが、彼を守らないといけない。どうすればいい。どうすれば。
「うわあああああッ」
頓狂な奇声を発しながら、体を血まみれにした騎士が、大司教の真ん前へ躍り込んだ。ジーヴの覇気にやられたのか、完全に取り乱している。どこかから近衛兵の放った矢が脚に刺さるが、気にする気配がない。
騎士は無我夢中の
竜の皮膚は金属さえ通さないが、もしも、剥き出しの眼球に当たったら。
そしてその矢はあやまたず、深々と突きたった。
彼の前に躍り出た、あたしの首元に。
誰かが息を飲む。あたしの体は衝撃で弾かれ、どうっと床に倒れ伏した。いっときの静穏が、巨大な布をばさっと被せるように、広間全体に降りる。音が止む。皆がこちらを見るのを感じる。
ジーヴが茫然自失の様子で、矢に貫かれたあたしを抱き起こした。慌てて兄も駆け寄ってくる。
逞しい腕が、首の下にあるのが分かる。ジーヴは眉間に皺を寄せているが、眉尻は元気なく垂れ下がっている。それが悲しみのためだとか、そこまで
「……どうして庇ったりした」
静かな問いに、薄く笑って答える。
「ジーヴも、狙われたのがあたしだったら、あたしと同じことをしただろ……?」
「……だとしても、お前が死んで何になる、馬鹿者」
「馬鹿じゃない……人間だ」
「お前……」
いつかのジーヴの台詞をなぞると、ジーヴの表情はいっそう複雑に歪んだ。
ゆっくりと瞑目して、あたしは口の端を引き上げる。不敵な笑みに見えているといいな、と考えながら。
* * * *
旅を共にしてきた人間の小娘は、俺の非常食は、契約相手という建前の友人は、死んだ。
森で、草原で、街で、都市で、溌剌と跳ね回っていた
俺は思うようにならない体に気合いを込め、なんとか立ち上がった。大司教も王も、青ざめた顔をして棒立ちになっている。俺は王に体を向ける。
「人の王よ。もう、いいではないか。娘の命ひとつ費やして……これでも竜たる俺とこの娘が、友人として心を通わせていた証明にはならないか。まだ俺が、娘に虚言を吹きこんでいたと信ずる根拠があるか」
王は沈んだ顔で、ううむと呻く。
「そなたの言うとおりだ。そなたらの言い分を信じよう。――わしも愚かであった。正当な理由なく、竜を除け者にしようとするなど……同意を得たという言葉を、軽率に信じたのは愚の骨頂と言わざるを得まいな」
王は厳しい目を、魂が抜けてしまったように硬直している大司教に向ける。
「大司教よ、お主の司教権は剥奪させてもらう。お主はもはや大司教でも司教でもない、ただの破戒僧だ。お主の話はもう信じぬ。取り交わした約束もすべて破棄する。竜よ、この先も
その言葉はとても丁寧だった。俺はうなずき返す。
胸にわだかまりがあるが、これで一件落着ということになるのだろうか。思わぬ代償に、俺の心境は今一つ晴れない。取り返しのつかないことを振り返っても仕方ないが、こうなる他になかったのか、という思いが拭えない。
「国王陛下。今のお言葉、まことでございますね」
どこかから凛々しい女の声がした。出どころを探して、俺も、王も、元大司教も、手を休めた兵や騎士たちも、皆きょろきょろと辺りを見渡す。
エイミールが、
そして全員が、否、小娘の兄以外が唖然と眺めるなか、すっくと娘の遺体が起き上がり、王の前で深々と礼をする。
王は目を丸くしている。しばらく反応できそうにない。それは俺も同じだ。
「お前……なぜ生きて……」
動きだした死体に声をかけると、小娘はこちらを振り向き、にやっと笑った。その生き生きした様は、死人などではあり得なかった。
「あんたのその顔が見たかったんだ」
言いながら、胸に刺さったはずの矢を造作なく引き抜く。そういえば服はちっとも血に濡れていない。娘は胸元から、一部が破損した首飾りを引き出した。
俺がかつて買い与えた、陽に映える珊瑚の首飾りを。
「両腕が使えた時は、あたしは弓使いだったんだ。弾道なら身に染みて分かってる。射たれる方は初めてだったけど」
「……お前、いつの間にそれを身につけていたんだ。しかし飾りの一部で受け止めるとは、なんという無茶な……」
小娘の言を信ずるに、首飾りの一番大きい金属片部分で、矢を食い止めたということらしい。それも計算して。呆れるほかない。
娘の体を引き渡すとき、エイミールがどことなく妙な顔つきだったのは、
「無茶はお互い様だろ」
小娘が俺の額を指差す。返す言葉もなかった。
* * * *
大司教の突然の失墜により、恐慌状態に陥ったイゼルヌ騎士団は、近衛兵によってほぼ抵抗もなくお縄頂戴と相なった。
ジーヴがあたしを馬鹿にするために購った首飾り。あたしはそれを、鉄道に乗る前くらいからずっと首に下げていた。食堂車で首飾りをつけたらどうだ、と言われた時には、実は服の下にぶら下げていたのである。理由は明確なものではない。捕まったあたしをジーヴが取り返しに来た後、彼から貰ったものがなんとなくお守りになる気がした、それだけだ。
ジーヴには大口を叩いたけれど、実際首飾りで弓矢を防げるかどうかは、一か八かの賭けだった。ただ、あれで大怪我をしたり、本当に命を失ったりしたとしても、あたしには後悔はなかっただろうと思う。とにかくこれで、ジーヴには一杯も二杯も三杯も食わせたし、鼻も目も耳も明かしたことになるのではないか。竜のあの目を真ん丸にした表情、そうそう見られるものではない。こっちは自惚れではないはずだ。
騎士団員たちが引ったてられていくのを、国王はじっと眺めている。
あたしたちは(ジーヴを除いて)、玉座の前にひれ伏した。やむを得なかったとはいえ、大陸を統べる王族中の王族の御前に、嘘偽りを並び立てたのだ。お咎めなしとはいかないだろう。
兄が真摯な言葉を紡いでいく。
「国王陛下。陛下を欺いたこと、心より御詫び申し上げます。僕らは如何ような裁きに処せられるのでしょうか」
王は予想に反し、目元を笑ませて
「断じてそのようなことはせぬ。そなたらは、わしの誤った選択を、命を賭して正してくれたのだ。こちらから感謝したいくらいだ。欺いたのは……元大司教よ、お主の方だ」
破戒僧に身を落とした男は、ぎりりと歯を食いしばりながら、血走った眼で国王を睨めつけている。その体は縄でぐるぐる巻きにされ、二人がかりで暴れないよう押さえつけられていた。
「お主はわしを騙した。そしてそれ以上に、人の街一つを焼き、竜の部族一つを滅ぼす命令を下した罪、重罰に値するぞ。極刑か、終身刑かを決めるのは司法に委ねるがな。……連れてゆけ、近衛兵。最後に言いたいことはあるか」
「竜に騙されるな!」
この期に及んで、重罪人と断じられるであろう男は、じたばたと喚き始めた。呆れ果てた近衛兵が両脇をがっしり固め、広間の出入り口へと移動させていく。
竜は性悪だ、奴らとは根本的に分かり合えないのだ、竜に気をつけよ、と喚き散らす姿は、もはや気狂いの域だった。
ふと、ジーヴの巨躯が近くにないことに気づく。遮蔽物がないだだっ広い広間では、視線を左右に振るだけで探し物が見つけられる。ジーヴはなぜか、連れていかれる極悪人の前へ先回りし、仁王立ちしていた。
そちらへ駆けていくと、そんなに竜が憎いのか、とジーヴが静かな語調で問うのが聞こえた。
化け物め、との憎々しい唸りにも、ジーヴは鼻を鳴らすだけで平然としている。
「素直に答えた方が身のためだぞ。その化け物に首を絞められたくなければな。人の法では竜は裁けぬ、俺は何をしでかすか分からぬぞ」
飄々と軽く言っているが、早い話が脅しである。
「貴様……ッ」
「そう睨むな。事情があるのなら、情状酌量の余地もあるかもしれんぞ。当代の人の王はなかなかに寛容と見える。まあこの状況で、その昔竜に危害を加えられた、などという法螺を吹くのなら話は別だがな」
「事情ならあるさ……私には、娘がいた」
ぼそっと吐き捨てられた暗い呟きに、さすがのジーヴも沈黙する。男の唇がわななき、その振動は全身に伝播して、体全体がぶるぶると震えだす。
男が抱いている感情。それは怒りだった。
「大切な、一人娘だった。娘は、竜に殺されたも同然なのだ。――娘はある時どこかの街中で、竜の男と知り合った。やがてその竜と
皆、押し黙っていた。一息に語り終えた男の、荒い息づかいだけが耳に届く。
あたしは何も言えなかった。胸に生じたのは同情や憐憫などではなく、どこまでも身勝手な男への、軽蔑や侮蔑、嫌悪の情感だった。
「お前の娘が竜にたぶらかされた、というのは真実なのか。それを確かめたか? お前の思い込みではないのか」
ジーヴの口調はどこまでも凪いでいる。そして、青い隻眼に映るのは、何もかもを見はるかす静謐だった。
あたしははっとした。かつてジーヴは、竜と人間が愛し合った例がある、と言っていた。それは今、目の前の男の口から語られた、二人のことではないのか。道ならぬ愛を育んだ彼らを、ジーヴは知っていたのではないか。あたしはずいぶんと高いところにある、ジーヴの横顔を見つめる。
悲劇を知る者だからこその、あの、超然とした視線。
自分が悲劇を引き起こしたとは露ほども思っていない男は、顔をいっそうしかめ、鼻で笑う。
「確かめる必要もなかろう。卑しい存在である竜が、人間を籠絡する方法など、薄っぺらい甘言を用いる以外にあるまい?」
「……どこまで自分勝手なんだ、あんたは! どうして娘さんと大切な相手の仲を引き裂くようなことをした。彼女と竜は、心から想い合っていたんじゃないのか。あたしには分かる、竜は卑しい存在なんかじゃないって! あんたくらい地位がある人間がなぜ、三人が一緒に暮らす場所を用意するくらいのことができなかったんだ! 娘さんが身を投げたのはあんたのせいだって、どうして分からない!」
あたしはずいと元大司教に詰め寄った。いつしか隣に立っていた兄が、ぐっとあたしの肩を掴む。
あたしは泣いていた。どういう涙なのか自分でも分からない。ただ、理不尽だと感じた。気が昂りすぎ、嗚咽さえ漏れてくる。
兄とは反対側の肩に、ジーヴの大きな掌がぽんと置かれる。
「過ぎたことだ、小娘。お前が気に病むことはない」
「――分かってるよ……」
「まあ、存分に感情を表に出すのも時にはよかろう。……さて、元大司教よ、お前にもうひとつ問おう。考えを改める気にはなったか。それとも、まだ竜のいない世界を望むか」
じろりと音がするほどの、ぎょろついた目がジーヴを見据える。改心の意思など、毛ほどもないのが一目瞭然だ。
「愚問だな。竜とともに生きるくらいなら、死んだ方がましよ」
「ふむ。お前は、気に入らぬ者を排除すれば、望む世界になると、まだ思っているのだな?」
「当然だ」
黒竜の元族長はそこで、なぜだかにたりと不敵に微笑した。そして、じっと沈黙を保っていた近衛兵たちへと、軽快に話しかける。
「この男を裁判にかけるのも一興だが、俺にひとつ提案がある。きっと楽しめると思うぞ」
そう言うジーヴは少し、いやかなり、悪い顔をしている。
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